記号に殺された男、陽光のモンテカルロ| ショートショート
深い意味は──ない。
人生にも、この話にも。
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陽光が、容赦なく海を照らしていた。
モナコの空は、絵の具をこぼしたように濃く、どこにも影を許さなかった。
ベティはテラス席に腰を下ろし、カフェの傘越しに、港へと続く坂道を見下ろしていた。
空気の匂いは潮とオイルと香水。
それだけで「何かが始まりそう」と錯覚させるのが、この街の手口だ。
向かいに座る男は、シャツの襟を無駄に開けていた。太めのブレスレットが良く似合う。
レモン色のグラスを片手に彼は唐突に言った。
「ベティ、ぼくたちは皆、比喩の檻に閉じ込められているんだ」
──あ、来た。とベティは心の中で思った。
「たとえば、君のそのサングラス。それは、世界を遮断するための壁でもあり、君自身を映す鏡でもある」
「はぁ」
「ぼくはね、壁なんて壊したい。だから、ポルシェを買ったんだ」
「へぇ」
「ポルシェは器じゃない。魂だよ」
彼の哲学は彼岸の彼方にあった。
テーブルの上には、ニーチェの『善悪の彼岸』。
表紙の角には砂がついている。
ベティはカーディガンを脱いで、風に預けた。
「本と車って、どんな関係?」
「速度さ。思想は、停まると腐る」
彼はレモンスカッシュを飲み干すと、
サングラスをかけ、胸を張った。
「行こう。──善悪の彼岸へ」
そして、通りへと駆け出した。
その瞬間、坂を下ってきた赤いポルシェのオープンカーが、まるで神の脚注のように彼をはね上げた。音は、あっけなく、軽かった。
観光客の悲鳴。
ナプキンが舞い、海風がワインの香りを攫う。
ベティは、ゆっくりと立ち上がった。
テーブルの上では、ニーチェの本が風にめくられている。
「……またひとり、記号に殺されたわね」
ポルシェの赤が、太陽を映して眩しかった。
ベティはサングラスをかけ、グラスの残りを一口飲み干した。
「オープンカーとオープンテラス、オープンで韻を踏んでるわ」
海辺の午後。
眩しすぎる光のせいで、誰も正しい影を持てなくなる。
☀️
そして、今日、全ての真相が明らかに。
