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⑧ 安曇族と恵比寿

宮地嶽神社の掛軸

自分のご先祖探しは、どこまでも仮定の話だが、戦国筑紫家の家臣の佐藤太兵衛から数世代が、肥後の北部で江戸期を暮らし、西南の役を機に
戦国筑紫家発祥の地としての筑紫村に戻って来た。

それがうちの高祖父忠助であるとし、それでそれ以上は確かめようも無いし、遡れもしないし、止まっている状態だった。

「我こそは戦国筑紫家の家臣の末裔!みんな集まれ!」そんな企画を打って座談会でもやることができれば、話は別だが。

祖母がいた頃は、まだ曽祖父が使っていたキセルや三つに分かれる印籠、刀鍔(のようなもの)等、曽祖父世代の物があったが、祖母が亡くなり、両親が亡くなる中で、処分したりして消えていった。

狭い実家に残る物で、先祖探しの手掛かりになりそうな、古い品といえば、あの恵比寿さんの石像ぐらいだろう。

それでも、何か他に、もうひとつだけでも手掛かりになる物はないのかと、父が家の備品を収納していた天袋を探っていると「宮地嶽神社の掛軸」が出てきたのだ。

触るとボロボロと千切れていく程に劣化していたので、Amazonで表装の部材を取り寄せ、素人なりにそれ以上崩れないようにした。

宮地嶽神社(福岡県福津市)

これまで家族の誰からも聞いたこともないし、おそらく誰も行ったことはないと思う。

ネットで調べてみると、宮地嶽神社は商売の神様のようなことが書かれていた。

うちは祖父が左官をやっていたが、商売ではない。

母方が商売していたので、母の実家にあったものを、母が持ち帰り父が整理していたのかと思い、母方の従兄弟2人にこの掛軸の写真を見せて尋ねたが「いや、うちには無かったよ」とのこと。

更にこの「宮地嶽神社」に「筑紫」などのキーワードを加え、ネット検索していると、いつも「ひもろぎ逍遥」(綾杉るなさん)というブログが上がってきた。

そこには「安曇族」「筑紫君磐井」など言葉が出てくる。

その当時、自分の先祖探しは「近世」の方を向いていて、できれば江戸期の

「推定のご先祖,佐藤太兵衛」と
「実際の高祖父、佐藤忠助」

その間の数世代を探し出せないものかと思っていたので

「安曇族」や「筑紫君磐井」など、いきなり「古代」に飛んでもうちのご先祖に繋がることはないだろうなと考えていた。

それでもせっかく出てきた古い掛軸。恵比寿さんの件と並行して宮地嶽神社のことも調べてみることにした。

恵比寿という神様に関してはネットで調べても、書籍に当たっても、なかなか腑に落ちる説には出会わないでいた。

そんな中「えびす信仰事典」という本を見つけた。

その事典の中で、鈴鹿千代乃さんが書いている項に、西田長男(神道学者)の説として、

「えびすという言葉が、日本で最初に使われたのは対馬の和多都美神社にある『磯良恵比須』であろう。 また安曇族の祖神についても色々と言われているが、この安曇磯良を安曇族の祖神とするのが1番自然であろう」

といった内容ことが書かれていた。

ここで一気に「古代」にまで遡って、うちに残された「恵比寿の石像」と天袋から出てきたボロボロの「宮地嶽神社の掛軸」が繋がったのだ。

「ひもろぎ逍遥」の綾杉さんの情報と鈴鹿さんが「えびす信仰事典」で提示された西田説が

それらあなたの家に残されものは「安曇族」にまつわるものですよ、と教えてくれたのである。

「安曇族」

これもまた、今まで全く耳にしたことのない存在だった。

ここでいきなりではあるが
本投稿のテーマでもある
「恵比寿さん単体の石像の謎」の結論を先に述べる。

商売をしていない我が家に昔からあった恵比寿さんの石像は、安曇族の先祖神としてのエビス像なのである。

もともとの神道が、自分達の一族の先祖を「祖霊」として祀り、崇拝すものであったとするならば、これでいいと思う。

これが結論

そのことは恐らく祖父までは分かっていたのだろうが、祖母や当時中学生だった父、幼かった叔母達には、きちんと伝えられずにきたのだろう。

父の上にお姉さんがいたのだが、先の戦争で亡くなってしまった。

うちはそれまで神道式の葬儀だったが、祖父の時から仏式になったので、恵比寿像の意味を知らない祖母は、「おこじんさま」として台所に祀り、毎日仏壇と一緒に御御供とお水を替えていたのだろう。

父も仏式に変えて、それまで家に祀ってあった「宮地嶽三柱大神(みはしらおおかみ)」の掛軸、その謂れは分からないが、捨てるわけにもいかず、何度か家移りをしても、保管して取っていたのだろう。(父へ、残してくれていてありがとうね)

※タイトル写真の掛軸、
中央が神功皇后、
両脇が安曇族の
勝頼(左、三叉槍を持つ)、勝村(右、弓を持つ)兄弟

江戸時代の先祖探しから、古代へ行くとは、思いもしなかったが、この話がこの先も互いに補強し合うように繋がっていく。

一本の線のように

この後、今後の投稿の予告編を兼ねて、

投稿No.とタイトル、そしてその概略と論拠となる、出典を示しておきたい。

⑨ 安曇族(阿曇族)と恵比寿(恵比須、戎)が繋がった

この⑧の投稿の補強をする。
鈴鹿千代乃さんの本に安曇族の一団が恵比寿さんを広めて回った話が出てくる。

出典 「神道民俗芸能の源流」 鈴鹿千代乃 国書刊行会(平成4年)

⑩ 筑紫舞

「筑紫舞」 この舞の存在も安曇族と恵比寿が繋がるまでは全く知らず、ネット検索でヒットしても、関連のないものとして調べることはなかった。

しかしこの筑紫舞の存在を知ったことで、うちの祖父が「筑紫神社で原田の若い衆に踊りを教えていた」との伝聞も、宮地嶽神社の掛軸も、②の回で先に上げた青柳種信の説も繋がるのである。

出典 「よみがえる九州王朝〜幻の筑紫舞〜」 古田武彦 ミネルヴァ書房(14‘)

⑪ 安曇族はフェニキア人(Phoenicia)?  

これもまさか自分の先祖探しが海外にまで及ぶとは思いもしなかったが『「安曇族は紀元前400〜500年頃に来たフェニキア人だ」と真鍋大覚が書いているよ』と人から聞いたので、真鍋さんの本は取り寄せたのだが、それには触れずに先に、フェニキアの事を調べた。するとこれも安曇族や筑紫と繋がりがあるように思えてきた。

がしかし、当の真鍋さんの本には「安曇族はフェニキア人」とは書いておらず「安曇族はヒッタイトだ」と書かれていた。

それでも自分は先にフェニキア人に当たって良かったのだ思えた。 

出典 「儺の國の星」 真鍋大覚 那珂川町(昭和57年)/
同上タイトルの(拾遺)(昭和60年)

他、フェニキアに関連する書籍等

⑫ご先祖が残したレイライン、貝紫、松、三叉槍、そして菅原道真公

うちの古代のご先祖が安曇族だとして、その中心が宮地嶽神社で、その事を大切に思って、うちの高祖父と曽祖父親子が、西南戦争の後に肥後南関を後にして(あくまでも推測だが)、わざわざこの筑紫まで戻って来たという事は、高祖父らが筑紫村に選んだ場所には、何らかの意味があるのではないか?

古代の人はレイラインを地上に引いたらしいけど…

そんなことを想いながら、適当に手近にあった100円ショップの冊子になった日本地図、

それに丁度、対馬を含む九州北部のページがあったので、
宮地嶽神社と、筑紫村の高祖父達が住居に選んだ場所を定規で線を引いて結んでみた。

すると、

宮地嶽神社ー太宰府天満宮ー我が家➖そしてその延長線上に高良山(久留米市)が綺麗に並んだのだ。

太宰府天満宮は菅原道真公。
うちの高祖父のお嫁さんが梅野家で、道真公の後に管家から梅野姓が出ているようだが。
安曇族と道真公には何か関係があるのか? 菅原氏の先祖は土師氏とのことだが。

そして高良山、ここも同じ県下だが、これまでうちの家族の間で話題に上った記憶はないし,行ったこともなかった。

意味ありげなレイラインだったので、100円ショップのものではなく、国土地理院の地図でと取り寄せて線を引いてみたが、100円ショップの地図と同じであった。

また高祖父、曽祖父親子が選んだ筑紫村のその場所は不思議と対馬の安曇族関連の神社や博多湾や玄海灘に浮かぶ複島を結んでもいる(たまたまなのかもしれないが)

高良山は「ひもろぎ逍遥」の綾杉るなさんが、安曇磯良がいたところだと説明されていて、高良山の神秘書の解説本をお出しになるらしい。

また丁度,今月末頃より,
綾杉さんが執筆された上記、真鍋大覚先生の解説本がAmazonで販売されるとのことです。

綾杉るなさんの言説が無ければ、おそらく自分のルーツが安曇族であるとの答えには辿り着けていないと思う。

本稿、上記タイトルの写真は宮地嶽神社の前の海岸から撮った写真です。





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