映画『ひとつのバガテル』~ル・シネマ 渋谷宮下 清原惟特集「七つの合図、夢のなかで」~
映画『ひとつのバガテル』(清原惟監督、2015年。以下、本作)は、「わからない」。
しかしその「わからない」は、映画的欠陥でもないし、映画的作為でもない。「わからない」は、ただ「わからない」として、ある。
団地でピアノのある部屋を間借りして暮らしているあき。ある時、一通の差出人不明の手紙を受け取る。手紙に示された場所を探し団地を歩くが、それは存在しない番地だった。部屋に残された音の記憶をたよりに、あきは自分の音楽をみつけようとする。音楽の調べを辿りながら、世界や記憶の断片を拾い集めるように紡いだ、後の作品への予感と新鮮な驚きにあふれる、武蔵野美術大学映像学科卒業制作。
映画『すべての夜を思いだす』(2022年)もそうだが、清原監督にとって「団地」とは、「"記憶の断片"の集合体」なのかもしれない。
「団地」というのは奇妙なもので、同じ構造の棟がいくつも並び、棟の中にある部屋たちも、同じ間取りであるはずなのに、自身の部屋と隣の部屋はまるで違う。キッチンや風呂・トイレの位置や構造も同じはずなのに、隣の家に入れば、それはもう「わからない」(離れた棟に行くと、自分の住んでいる棟と同じなのに、異物のように感じる)。
団地にある「わからない」部屋は各々、過去からの住人たちの「記憶」が刻まれていて、その「記憶」は他人にはやっぱり「わからない」。
本作で重要なのは、主人公のあきが別の住人の部屋を「間借り」しているということで、家主である住人も「昔から住んでいる人ではない」ことだ。
部屋各々の「記憶」も一貫性はなく、それは「断章」として散らばっているに過ぎない。
本作だけでなく清原作品自体、自身の「記憶」は自身だけで出来ているわけではないことを示唆する。
それはつまり、自身の「記憶」もバガテルの一つでしかなく、部屋各々や団地内の公園や広場、職場などの「記憶」のバガテルを(意識・無意識関係なく)『拾い集め』て「自分」というものが構成されている、ということでもある。
まとまりのない「記憶」のバガテルを『拾い集め』た結果、自身の「記憶」なのに、自身のことが「わからない」状態に陥る。
だから、部屋にあるピアノがあきのものかどうかも「わからない」。
自分のことなのに自分が説明できずもどかしい気持ちになるのは、自分の「記憶」は自分のものだと思い込んでいるからで、他人だけでなく部屋や土地からの「記憶」のバガテルも『拾い集め』ているのだから、むしろ説明できないのが自然なのかもしれない。
私たち自身の「記憶」も『拾い集め』たバガテルを無秩序に蓄えているだけであり、「わからない」は、ただ「わからない」として、ある。
そのことを本作は描いているのではないか。
メモ
映画『ひとつのバガテル』(清原惟特集「七つの合図、夢のなかで」)
2025年1月18日。@ル・シネマ 渋谷宮下
