霧尾ファンクラブ 最終回を見た探究
今回は「正常化」に視点を合わせた時の探究に発見があったので記録する。
霧尾くんのシーンで「歴史・記号」での「正常化」が自分の中でも起きる。外部性が高いと考えていたが、内部でも起きる。(過去に固着し、否定する。不幸「虚無」↑「関わり」装置↓)リセットのための「死」。
「歴史・記号」の「正常化」(不幸「虚無」↑「関わり」装置↓)を間接的な「人」の「正常化」(幸福「一体化」↑「関わり」装置↓)によって「関わり」装置は無くなり、二分化される前の絶対矛盾的自己同一へと強制的に戻された。絶対無であるが、人間は収束「有滅」を得た者であるため、自然に「共同体」の「正常化」(幸福「一体化」↑「関わり」装置↑)となる。これは実在の回帰であると考える。あとは、共同性と行動視点が必要である。また、共同体の収束「有滅」から「関わり」装置が発現。
ここで疑問なのが自然に「共同体」の「正常化」となるとは?どこが自然な「共同体」の「正常化」での指摘となったのか?
まとめて
「楽しんじゃいけない事は無い」という「共同体」の「正常化」を間接的に伝えるには?
確率が低いが、自己での「歴史・記号」の「否定」から間接的な「人」の「正常化」に伴い、「否定の否定」に繋がり、「共同体」の「正常化」へと繋がると考える。間接的な「人」の「正常化」とは、相手が「閃き」を促す方法であまり使ってほしく無い方法だと思いました。赤の他人では無く、ある程度の共同性があるならば、この方法もアリかもしれないですね。面白くて良いアニメだったと思います。
少し余談として、
不幸「虚無」から構成された「関わり」装置を断ち切る副産物も見られた。
実在的呪いの断ち切り→実在的感謝
