穂高岳の切手 中川与一 『天の夕顔』
1972年(昭和47年)8月10日に発行された第2次国立公園シリーズの「中部山岳国立公園」の10円切手です。
デザインは中部山岳国立公園の穂高岳を描いており、紫色のトーンが特徴です。
北アルプスの山々を抱く中部山岳国立公園。その世界には、単なる景勝地では終わらない、日本近代文学の舞台としての顔がある。険しい岩峰、深い谷、霧に閉ざされた高原、夏でも冷たい梓川の流れ――そうした風景は、多くの作家たちに「俗世から切り離された別天地」を想像させた。
その代表的な作品のひとつが、天の夕顔 である。
1938年(昭和13年)に発表されたこの小説は、戦前日本を代表する恋愛文学のひとつとして知られる。作者は 中川与一。のちに海外でも高く評価され、特に アルベール・カミュ が賞賛したことで知られている。
物語は、主人公の「私」が、かつて愛した女性・夕顔との思い出を回想する形で進む。避暑地の高原、山奥の静かな集落、澄んだ空気。そこで出会った女性との淡くも強烈な恋愛は、やがて戦争と時代の流れの中で失われていく。
『天の夕顔』の魅力は、筋立てそのもの以上に、「山の空気」を文章化したところにあるだろう。
霧に包まれた針葉樹林。
静まり返った山村。
文明から遠く離れた高地の冷気。
作中に明示される地名は飛騨山地北部寄りとされるが、読者がそこに思い浮かべる風景は、しばしば上高地や穂高岳を含む「北アルプス世界」そのものだ。中部山岳国立公園という巨大な山岳空間のイメージと、『天の夕顔』の持つ幻想性は、自然に重なり合う。
この「山」が日本文学に特別な位置を占めることについて、正宗白鳥 は随筆「登山趣味」で興味深いことを書いている。
「日本は四面海に囲まれていながら、海洋の文学が乏しい。海上生活を描いた傑すぐれた文章が無い。しかし、山岳に関する文章は、明治以後にも可成り現れているようである。」
確かに、日本は海洋国家でありながら、西洋文学のような壮大な海洋叙事詩はあまり育たなかった。一方で山岳文学は独特に発達した。
氷壁、孤高の人、そして『天の夕顔』。日本の山は、単なる自然ではなく、「孤独」「逃避」「修行」「死」「憧憬」を映し出す場所として描かれてきた。
特に北アルプスは、近代日本人にとって特別な意味を持っていた。
明治以後、「日本アルプス」という呼称が広まり、上高地や穂高岳には、登山家だけでなく、文士、画家、学生、知識人たちが集まり始める。そこは単なる観光地ではなく、「近代人が現実から逃れ、自己を見つめ直す場所」だった。
『天の夕顔』の主人公が籠もる山の世界も、まさにそうした北アルプス幻想の延長線上にある。
中部山岳国立公園の山々を見ていると、ときどき不思議な感覚になる。
あの険しい岩峰や深い谷は、人を拒むようにも見えるのに、同時に人を惹きつけてもいる。海が「外の世界へ開く場所」だとすれば、日本の山は「自分の内側へ降りていく場所」なのかもしれない。
だからこそ日本では、海よりも先に、山が文学になったのだろう。
