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【創作大賞2026お仕事小説部門応募作】かなめ、DXしちゃいます。- 第1話「辞令は突然に。」


あらすじ
 化粧品を開発している化学メーカー・桜華化学株式会社の研究開発部に勤める松尾かなめ、30歳。合成ポリマーの開発に情熱を燃やす毎日だったが、ある朝突然、DX推進課への異動を命じられる。
 DXとはなにか。デジタルトランスフォーメーション。変革。かなめにとって、それは「なんかよくわからない横文字」だった。辞令一枚で研究室を去ることになったかなめは、謎の部署・DX推進課の扉を開ける。そこには、やる気が微妙な中年男性、テレワーク命のオタク、チャラい後輩、そして「元営業」という謎の肩書きを持つ課長が待ち受けていた。


 その日、松尾かなめは、フラスコの中身とにらめっこしていた。

 合成ポリマー。粘度調整。配合比。実験ノートにびっしりと書き込まれた数字の羅列。これが、かなめの世界だった。正確には、これが、かなめの「全宇宙」だった。

 「松尾さん、ちょっといい?」

 木村部長が研究室の入り口に立っていた。なんだろう。かなめはフラスコから目を離さずに返事をした。

 「はーい、なんですか」

 「……フラスコは逃げないから、こっちを向いて」

 しかたなく顔を上げると、木村部長の表情が妙だった。困っている、というよりは、申し訳なさそうな、でも少しほっとしているような、複雑な顔。

 「部長、その顔、なんですか」

 「どんな顔だ」

 「知らせたいけど知らせたくない、でもちょっとほっとしてる、みたいな顔です。私、なにかやらかしちゃいましたか」

 木村部長は腕を組んだ。そしてため息をひとつ。

 「異動だ」

 かなめはフラスコを置いた。


 辞令書を渡されたのは、それから十分後のことだった。

DX推進課 松尾かなめ

 シンプルな五文字。なのに、かなめにはまったく意味がわからなかった。

 「DX推進課って、なんですか」

 「デジタルトランスフォーメーション推進課だ」

 「それって、なんですか」

 木村部長は天井を仰いだ。「俺に聞かれても困る」

 「困ると言われても、聞く人が他にいないんですけど」

 「理系の人材が必要だから、らしい」

 「……それだけですか。私の五年間、それだけですか」

 「ごめん」

 部長が素直に謝るから、かなめはそれ以上責める気がなくなった。部長も被害者なのかもしれない。とばっちりはいつも現場にくる。どこの世界も同じだ。

 かなめは辞令書をもう一度見た。来月一日付。あと三週間。フラスコとポリマーと実験ノートの世界から、「デジタルトランスフォーメーション」とやらの世界へ。三週間で。

 まあ、なんとかなるか。たぶん。

 かなめは基本的に楽観主義者だった。ピンチのときほど、なぜか気持ちが上を向く。我ながら便利な性格だと思う。


 三週間は、あっという間に過ぎた。

 引き継ぎ。後任への説明。実験データの整理。かなめが五年かけて積み上げてきたものを、三週間で次の人に渡す。研究者にとって、これほど切ない作業はない。でも、文句を言っても辞令は覆らない。

 そして、四月一日。

 かなめは、DX推進課の扉の前に立っていた。

 プレートには「DX推進課」と書いてある。シンプルすぎて逆に怖い。

 よし。

 深呼吸ひとつ。かなめは勢いよくドアを開けた。


 DX推進課は、思っていたより狭かった。

 デスクが五つ。窓際に観葉植物が一鉢。元気がなさそうだ。ホワイトボードには「DX推進ロードマップ(第三版)」と書かれた紙が貼ってあったが、ロードマップの内容は遠くてよく見えなかった。第三版、ということは第一版と第二版があった、ということだ。

 嫌な予感しかしない。

 デスクには二人いた。

 一人目。四十代後半くらいの男性。スーツがなんとなく力なくシワになっている。コーヒーを飲みながら画面をぼんやりと見ている。こちらには気づいていない。研究開発部にはいないタイプの人だ、とかなめは思った。

 二人目。二十代後半くらいの男性。すこし茶色がかった髪。デスクの上においてあるのはMacBookとプロテインのボトル。プロテインのボトルに、職場で会う人がいる世界線があるとは思わなかった。

 「あ、来た来た!」

 声がしたほうを振り向くと、奥のデスクから大柄な男性が立ち上がってこちらへ歩いてくるところだった。五十代手前くらい。でも動きが妙に軽い。そして笑顔が妙に明るい。

 「松尾かなめさん? 俺、権藤。権藤守。DX推進課の課長ね。よろしく!」

 「はじめまして。松尾かなめです。よろしくお願いします」

 「いやー、待ってたよ。理系の人材、うちには全然いなくてさ。助かるわー。プログラミングとかできる?」

 「Pythonは少し」

 「おっ、最高じゃん。それで十分だよ。うちに必要なのはそういう人材!」

 Pythonが「少し」どころではないことを、かなめはあえて言わなかった。でも心の中でツッコんだ。Pythonがあればなんでもできると思ってる人、かなり多い。

 「あそこでぼーっとしてるのが松川さん。うちのベテランね」

 コーヒーの男性がのそっと立ち上がった。

 「松川です。よろしく」

 「よろしくお願いします。松尾です」

 「DX、難しいよー」

 開口一番にそれを言うか、とかなめは思った。でも顔には出さなかった。

 「あと、プロテインがそこにいる早乙女くん。入社三年目。君の二個下ね」

 プロテインの男性が立ち上がり、軽く手を振った。

 「早乙女です。巧って呼んでください。タクミ、です。よろしくっす」

 「よろしくお願いします。松尾です」

 「松尾さん、研究職だったんすか。理系ってすごいっすよね。俺、文系なんで、数字とか全然わからなくて」

 「そうなんですか」

 「でも、ノリは誰にも負けないんで。なんかあれば言ってください」

 *ノリ、か。*ノリが仕事の役に立つかどうかは未知数だが、明るい職場は嫌いじゃない。

 「で、もう一人が毛利さんなんだけど」と権藤課長が空席を見た。「今日は……在宅だな。最近ずっと在宅だな、毛利さん」

 「毎日ですか」

 「週五日のうち、五日、在宅」

 「それ、毎日では」

 「まあ、Teams上にはいるから」

 Teams上にはいる、という言葉の重量感を、かなめはなんとなく受け取った。

 そのとき、かなめのPCにTeamsの通知が届いた。

毛利:松尾さん、よろしく。在宅の毛利です。DXって結局なんなのか、三年いてもまだよくわかってないけど、よろしくお願いします。あとうちの観葉植物、もう少し水あげてください。

 かなめは思わず笑った。

 この部署、なんか好きかもしれない。


 昼休み、かなめは一人で食堂に行った。

 トレーを持ちながら、今日の出来事を整理する。権藤課長、元営業、やたら明るい。松川さん、開口一番「DX難しい」。早乙女くん、ノリだけは誰にも負けない。毛利さん、Teams上にいる、観葉植物を心配している。

 それから、ホワイトボードの「DX推進ロードマップ(第三版)」。

 第三版。つまり三回作り直した。三年で、三版。なのにロードマップはまだホワイトボードに貼ってある。

 DXって、難しいんだな。

 かなめはサバ味噌定食の魚をつついた。

 研究開発部にいたころ、かなめは自分でPythonのツールをいくつか作った。実験データの解析ツール。材料特性の予測モデル。ベイズ最適化を使った実験計画支援。我ながらよくできていた。

 でも、誰も使わなかった。

 「便利そうだけど難しそうで」「使い方がわからなくて」「いつものやり方のほうが早くて」。

 かなめは最初、ツールの精度を上げることで解決しようとした。でも違った。問題は精度じゃなかった。問題は、使う人のことを考えていなかった、ということだった。ツールを作ることに夢中で、使う人の気持ちを置いてきぼりにしていた。

 もしかして、DXって、そういう話じゃないのかな。

 ツールを入れることじゃなくて、人に使ってもらうこと。技術の問題じゃなくて、人の問題。

 かなめは研究者だから、それくらいはわかる。どんなに優れた分析手法でも、使う人が使わなければ、ただのデータだ。

 サバ味噌を食べながら、かなめは少しだけ不安になった。そして少しだけ、燃えた。


 午後、かなめは自分のデスクで、DX推進課のこれまでの資料を読み込んだ。

 第一版ロードマップ。第二版ロードマップ。第三版ロードマップ。

 読めば読むほど、頭に疑問符が増えた。

 ロードマップには、目標が書いてあった。「全社デジタル化率80%達成」「業務効率化30%改善」「AI活用推進」。立派だ。でも、それをどうやって達成するかが、どこにも書いていない。

 「早乙女くん」

 「っす」

 「このロードマップの、達成状況ってどうなってますか」

 早乙女くんはプロテインのボトルに手を伸ばしながら答えた。「……正直、あんまり進んでないっす」

 「第一版が出たのいつですか」

 「三年前っす」

 三年。三年で三版。達成はあんまり進んでいない。

 なるほど。

 かなめはロードマップをデスクに置いた。

 これ、ツールを作る前に、やることがある気がする。

 そう思ったとき、隣の松川さんがおもむろに口を開いた。

 「松尾さんさ、DXって、なんだと思う?」

 いきなりの哲学的な質問。かなめは少し考えてから答えた。

 「まだ三時間しかいないんで、わからないんですけど」

 「まあそうだよね」

 「でも、人に使ってもらえないと意味ない、とは思います」

 松川さんは「ふーん」と言って、またコーヒーを飲んだ。賛成なのか反対なのかわからない返事だった。

 そのとき、Teamsの通知音が鳴った。

毛利:松尾さんの言ってること、たぶん正しいと思います。三年いてわかったのはそれくらいです。あと観葉植物よろしくお願いします。

 かなめは笑いをかみ殺した。

 毛利さん、ちゃんと仕事してる。 リアルタイムで会話を見ている。在宅勤務の鑑だ。


 帰り道、かなめはスマホで「デジタルトランスフォーメーション」と検索した。

 難しい言葉で難しいことがたくさん書いてあった。でも一行だけ、刺さる文章があった。

 「技術を活用して、人々の生活をより良くすること」

 なんだ、それなら私にもわかる。

 化学だってそうだ。どんなに精緻な分析も、最後は「人の役に立つかどうか」だ。DXも、たぶん、同じだ。

 ロードマップを三回作り直して、まだ達成できていない部署。松川さんの力ない「DX難しいよー」。毛利さんの「三年いてもよくわかってない」。

 でも、だからこそ。

 かなめは改札を通りながら、心の中でそう呟いた。

私、DXしちゃいます。

 電車に乗り込んで、窓の外の夜景を見ながら、かなめはそっと笑った。

 研究室のフラスコは、もうかなめを待っていない。でも、DX推進課の観葉植物は、水を待っている。

 明日、水やっとこう。

 まずは、そこから。


第2話へつづく


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