『生理休暇のホントのところ――「休ませる義務」と「お給料の現実」』
私たちは日頃、さも「個人の事情などどこにもない、ただ優秀で役に立つ労働者」であるかのように振る舞って、平気な顔で社会を歩いている。しかし、月に一度、あるいは不定期に、容赦なく「おい、忘れるな。お前はただの、血の通った生身の人間だ」と突きつけてくる波がやってくる。
それが生理である。
下腹部を内側からぎゅうぎゅうと雑巾絞りにされるようなあの痛みや、頭の中に謎の霧が立ち込めるようなだるさを抱えながら、「いつも通りに笑顔で、完璧に仕事をこなせ」というのは、なかなかに無茶な注文だ。
そこで登場するのが「生理休暇」という、国が用意した一枚の薄いお札(おふだ)である。
「休ませる」のは、大家さんの絶対的なお約束
このお札の効力は絶大だ。労働基準法第68条という、いささか堅苦しい引き出しの奥にしまわれているこのルールは、こう言っている。
「本人が『お腹が痛くて、今日はとても仕事になりません』と手を挙げたら、雇っている側は、四の五の言わずに休ませなさい。そこに『忙しいから』だの『代わりの人がいないから』だのという言い訳を挟む余地は一ミリもないよ」
これは、東京のど真ん中の大企業だろうが、地方の片隅で身を寄せ合うようにして営まれている小さなクリニックだろうが、まったく同じように適用される。スタッフが一人しかいなかろうが、受付がパニックになろうが、お腹の嵐に襲われた人間を無理やり机の前に縛り付けておく権利は、この国の誰にも与えられていないのだ。
「休みたい」という声を、そのまま「どうぞ」と受け入れること。これは、雇用主にとって避けては通れない「絶対的な義務」である。
「お財布の紐」は、それぞれの事情のなかで
しかし、法律というのは実によくできていて、同時に実にドライでもある。
「休ませること」は義務づけた。だが、「その休んだ時間分の給料を払うかどうか」というデリケートな問題については、法律はすっと目をそらし、こう呟く。
「そこから先は、まあ、お互いの話し合いで決めておくれ。働いていない時間にお金を払う義務までは、こっちからは強制しないからさ」
いわゆる「ノーワーク・ノーペイ(働かざる者、得るべからず)」の原則というやつだ。
だから、生理休暇を「有給(休んでも給料が出る温かい仕組み)」にするか、「無給(休んでいいけれどその分は引かれるシビアな仕組み)」にするかは、その組織の取り決め、つまり就業規則の胸三寸に委ねられている。
無給だからといって、その制度が「偽物」だというわけではない。少なくとも、「休んでもクビにはならないし、怒られる筋合いもない」という安心感だけは、法律がガッチリと保証してくれているのだ。
まとめとして
結局のところ、生理休暇とは「人間が肉体を持っていることを、社会がしぶしぶ認めた証拠」のようなものかもしれない。
有給か無給かというお財布の事情は横に置いておくとしても、「どうしても動けない日には、堂々と布団に潜り込んでいいのだ」という逃げ道が法律という名のコンクリートで舗装されていること。
そのこと自体が、日々を不器用に生き抜く私たちにとって、ささやかな救いなのである。
