ぐいぐい猫のメンタル日記2 苦いコーヒーの底の砂糖〜メンタル不調は合格証だと思う〜
今年のゴールデンウィークは、言葉ほど「ゴールデン」でもない日の並びのせいか、ほんの一瞬で終わってしまったのでちょっとがっかりでした。
それでも1月から4月までの間に溜まった疲れを振りほどいてリラックス三昧できる休日が普段の週よりも多いのは嬉しいことでした。いつも私の週末はnoteの記事を書いて終わりますが、このときばかりは記事を書き終えた後にも自由時間が残ってくれました。
で、何をしたかというと、この記事の執筆に取り掛かったという実につまらない展開でした。他にすることはないのかと呆れるばかりですが、もともと文章を書くことは好きなので、まあ良しとしましょう。肩がこるのが困った点ですが。
ともあれ、今年も3分の1をどうにか泳ぎ切ることができました。これは素晴らしい偉業です。毎日ご飯を食べて寝て起きて、生きてきたのです。これでもう今年の最優秀人間賞の受賞は間違いありません。残りの3分の2の期間は全部有給休暇にしてもらいたい気分です。

さて、前回の『ぐい猫』では「大丈夫は大丈夫じゃない」という話をしました。先に自白しておくと、私の記事の結論は突き詰めるとどれもこれと同じで、「自分の本当の気持ちに正直に生きよう」という話です。私自身が「自分の気持ち」を無視しすぎてしまってきたためにメンタルを病んでしまったと反省しているのです。その同じテーマをいくつもの異なる切り口から変奏しているだけです。
なーんだ、それならいくつも記事を書く必要なんてないんじゃない?と思うかもしれません。しかし、「自分の心の奥底」というものは自分で思っているよりも汲み取るのが難しいものなのです。それは容易に外部の広告に呑み込まれ、教育により高圧洗浄され、常識によって上書きされる弱々しいものです。そして容易に虚栄心に負け、嫉妬に座席を明け渡し、処世術に感化されます。臆病ですぐ隠れてしまう「自分の気持ち」を探すのに私自身、毎日悪戦苦闘しています。
何より、多かれ少なかれ人は誰か他の人の気持ちや都合を「自分の気持ち」と混同して理解しています。自分で選んだ、と思っていても実は、誰か他の人に選ばされた、あるいは元から社会に制限されていたということは往々にしてあります。
「自分の本心」を探り当てようと思ったら、焦らずゆっくり丁寧に、心に絡みついた社会の蔓を引きはがしていく必要があるのです。ですから、私はさまざまな場面を取り上げて「本心」のありかを探究しているのです。

他の人や社会に選ばされたってどういうことかって?今回は、その辺りの話をしていきたいと思います。
まず、人は最初からこの社会での生き方をインストールされているわけではありません。生まれた後で社会からどう生きるかを教えられます。
ニワトリの卵は食べても良いが、コオロギは食べるべきでないこと。虹の色は日本においては7色であること。7日単位で社会生活を組み立てるべきであること。働いて金銭を稼ぐことで生活が成立すること等…、これらはすべて私たちの本能には刻まれていません。後天的に教え込まれたことです。(私たちは何が食べ物かということすら生まれつき知っているわけではないのです!)
近代教育は、従順で勤勉な働き手を養成するために設計されました。時計が指し示す時刻に従って行動するよう躾けられ、上から言われたことを忠実にこなす訓練を積み、列を乱さず行進できるよう身体の動かし方を矯正されるのです。現代においても教育機関は、自由な探検家や破天荒な発明家を養成する場所ではありません。勇気と知恵の使い道に制約をかけるのが教育です。荒地の魔女を骨抜きにする魔法や、ポルコ・ロッソに愛国債券を買わせようとする銀行員を生み出すのが教育です。学校教育は、ハウルやポルコ・ロッソを育成し得ないのです。
そして私たちは、私たち同様に調教されてきた周囲の大人たちから、「良い学校に進学すること」や「良い企業に就職すること」や「良い家庭を築くこと」を幼い頃から教え込まれて育ちます。それらが「目指すべき正しい道」なのだと教わって。

そんな大人たちが作り上げた「誰もが羨み手にしたいと望むブランド」「説明不要の絶対的価値を備えるブランド」があらゆる社会分野に存在します。洋服、バッグ、腕時計、宝飾品、学校、勤務先、保有している資格、職業、自家用車、行きつけの飲食店、クレジットカードの色、最寄駅、住んでいる場所の地名…。私たちはいつも鼻先にそれらをぶら下げられて暮らしています。手の届かないランクのものから、手の届くランクのものまで。「馬鹿にはされないランクのもの」というのも立派なブランドです。私たちは無難にそれらのどれかに浸って「満足」して暮らしているのです。
もしちょっとばかり他の人とは違う個性を出そうと思い立ったとしても、先回りしてさまざまな「おすすめ」や「ライフハック」や「絶対やめた方が良いこと8選」や「一流だけが知っている心理テクニック4選」といった情報がなだれ込んできて、あなたの意思と行動を揺さぶります。それらは自分が自ら「発見した」のか、それとも「発見するよう仕向けられた」のか…、「真実はいつもひとつ!」と言い切る名探偵の意見をぜひ伺いたいところです。

それらの誘いに惑わされず真の愛の名の下に選び約束を交わすのが結婚かもしれません。しかしすぐまた、生まれた子供にどのブランドの服を着せるか、どのメーカーのベビーカーを使うかに始まって、どの幼稚園を選ぶか、どの小学校に通わせるか、どの習い事をさせるか、以下延々とマウント合戦が繰り返されます。
職場では、明らかにあなたよりも事態の本質が見えていないのに口が達者だったり上司のウケが良かったり実績の見せ方が上手い人たちばかりが評価され昇進していきます。結局のところ社会においては、あなたの持ち味なんか全然求められていないのだと思い知らされるのです。
そうしてうんざりしながらも、自分は本当はどうして欲しかったのか、本当はどうなって欲しかったのかなど、いちいち考える暇もなく応急処置だけでいつも多忙な毎日を乗り切っているうちに、いつの間にか自分の本心が見えなくなり、「またうるさく言われるのは面倒だ」「自分が我慢すれば丸く収まる」と自己犠牲することが癖になってしまうのです。

気がつけば、あなたはどの役職まで出世できたかで比較される年齢になり、退職金であなたの価値が総決算され、年金額があなたの尊厳の全てになります。うちには相続で揉めるほどの財産なんかないよと笑っていたあなたを逆に嘲笑うかのように、葬儀やお墓にも「グレード」が存在することを人生の終盤に知ることになるでしょう。私たちはお金やブランドや格付けや世間体からは一生逃れられないのです。
この社会においては、私たちの本心やら気持ちやらなんて、実際どうでも良いのです。そんなものを差し挟むよりも通例や論理で物事を決めた方が波風立たず高評価を得やすく納得をしてもらいやすく円滑に話が進むのです。そして余計な説明を省けるもの、それが「ブランド」です。社会自体がそういう論理に基づいて設計され運営されているのです。あなたの個人的な気持ちだけを「特別扱い」する余地なんて元から無いのです。世の中、非常にシンプルです。あなたの方が社会に適合し、懐具合に応じて松竹梅のメニューの中から選択するだけです。
さあ、あなたは社会から常に押し寄せる大量の情報や圧力を一切無視して純粋な「自分の気持ち」を見定めて生き抜くことができるでしょうか?あなたがこれまで選択してきたことはこれらの情報の洪水に影響を受けずにいられたでしょうか?…と、こんな風に問い詰めるのは少し意地が悪かったかもしれませんね。失礼しました。

自分の本心というのは、上に書いたすべてを丁寧に引き剥がして捨て去った後に残るものです。ですが私たちは大抵の場合、いちいち本心を確認せずに与えられた松竹梅から選んで良しとしています。省力化のためです。キャッチコピー、口コミの星の数、人気ランキング、偏差値、SNSのバズり…挙げればキリがありません。選んでいるのではなく、選ばされてしまうのも無理はありません。何もしなくても「おすすめ」の山に埋もれるような環境に生きているのですから。
苦しいですね。本当に苦しいです。現代社会で生きるということは、それだけで自分の気持ちを押し殺すことを意味するとすら言えます。今ならポルコ・ロッソが豚の姿になった理由がわかります。本当の自分のままで生きようと思ったら、私たちも「自分は人間ではない」と一線を引かなければならないのかもしれません。私だったら「猫」を名乗りますが、それはともかく人間社会とは何ともまあ奇妙なものです。そんな奇妙な社会に違和感を覚えてしまったのなら、あなたの感受性は宮崎駿なみに鋭く豊かな証拠でしょう。その感覚を大事にすることで自分の本心のありかを見定めることができるはずです。

もちろん、日常のすべてについて本心を逐一探って決断を下していては、それこそキリがなく生活もままならないでしょう。省力化は合理的ではあります。しかし、だからといって自分の本心を蔑ろにして良いわけではありません。例えば、上司に嫌なことを言われた時、「相手の方が目上だから」と無理に我慢していませんか?「目上に従え」というルールはひとつの秩序には違いありませんが、後天的に教え込まれたルールである以上は、本心がそれを受け入れているとは限りません。無視され傷つけられた本心は、理不尽を忘れません。「目上に従うべき」という世間のルールと自分自身の本心を混同していると、自分が負っているダメージにも気がつけずに傷を深めてしまうことになります。いうまでもなく、それは幸せに暮らすのにプラスにはなりません。
このように、自分の本心を探り当てることは難しく、にもかかわらず重要なことです。私たちが生まれてきたのは、誰か他の人の価値観や意向に従うためではありません。たとえそれが親の望みであったとしても、いえ、それどころか前世の自分の意向だったとしても、前々前世の自分が誰かと交わした約束であったとしても、です。私たちが生まれてきたのは、他の誰でもない自分自身が心から望むことをして自分を満たすためです。

おそらくメンタルを病んだ私たちは、もう十分我慢し、世間や誰か他の人の価値観に従ってきたとも言えるでしょう。本当はもう十分なのです。十分やったのです。十分すぎて、やや行き過ぎなくらいになったから病んでしまったのです。メンタル疾患は合格証なのです。ですから、これからは自分の本心を大事にして自分を満たすことを第一に生きていく番なのです。
いくら苦いコーヒーでも、カップの底には溶けきれなかった甘い砂糖が溜まっています。ようやくコーヒーの底の甘い砂糖に辿り着くときなのです。人によっては甘いコーヒーは嫌かも知れませんね。私は好きですけど。
まあ、疲れすぎないようにゆっくりやっていきましょう。人生は長いのですから。

最後に自分の本心に気がつくためのちょっとした方法を記しておきます。それは「1日の終わりにその日にあったことと、そのとき感じた自分の気持ちをひと言で構わないので書き記すこと」です。「今日○○があった。××と感じた」だけでOKです。何行もびっしりと書く必要もありませんし、すべてを漏らさず書く必要もありません。嫌なことでも嬉しかったことでも、本当にひと言だけで大丈夫ですので、毎日続けるのが大事です。
自分の気持ちを書き出すことで、自分の頭と心の空き容量を確保することができます。そうすると頭も働き自分の気持ちを整理しやすくなります。感情の処理の流れがスムーズになると、嫌なことがあってもどんどん排出されて残らなくなります。感情の滞留がなくなり濁りが取れた心は、南の島のエメラルドブルーの海のように、奥底まで見通せる透明度を取り戻していくことでしょう。毎日、ひと言。それだけです。騙されたと思って試してみてくださいね。焦らなくても、少しずつでも、必ず自分の本心を見つけることはできます。

なんて話を書いていたら、南の島に行きたくなってきました。ポルコ・ロッソがねぐらにしている島みたいな場所で暮らしてみたいです。ああ、これも私の本心のひとつですね。
そんなわけで、今回の『ぐい猫日記』はここまでです。いかがだったでしょうか?コメント欄で感想を教えてください。また、皆さんが行ってみたい場所も教えてくださいね。
ちなみに、一点だけ補足をしておきますが、本文中では「人の選択はメディアに影響される」という前提に立って話を進めました。こういう学術研究は確かに存在するのですが、同時に「人は自分の好みや価値観に沿うメッセージしかメディアから受け取らない」というまるで正反対の学術研究も存在します。一体どっちなんだ、と困惑させられますが、人間とはかくも矛盾に満ちた不可思議で一筋縄では行かない難解な存在なのです。なので、決して「自分は操られるしかない」とか「自分には選択の余地なく暗い未来しかないのだ」とか思わないでください。もしかしたら今は「操られている」ようにしか思えないかもしれませんが、それ以外の生き方は可能なのは間違いありません。とにかく焦らずゆっくりやっていきましょう。
それでは次回もぜひ楽しみにしていてください!

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