ぐいぐい猫のメンタル日記3 世の中と折り合いをつける前にするべきこと!!
最近、愛猫たちがよく甘えてきてくれています。2匹とも朝も夜もじゃれてきて私の体に頭を擦り付けたり、シッポを巻きつけてくれたり、ゴロニャンと転がってお腹を見せてくれたり、トイレについてきて不意にウォッシュレットの作動ボタンを押して驚かせてくれます。人間の年齢に換算すると、だいたい10代後半の高校生くらいの子たちです。落ち着きが出てくると共に、まだ子供らしい純真さと真っ直ぐさ、そして甘えん坊な部分も残っているあたりは、人間の若者のようでもあります。若猫たちに日々癒される暮らしを手にできたのは、私の人生における最良の選択のひとつと言えるでしょう。今の自分の選択の積み重ねが未来を作っていくのだと、強く思います。
さて、そんな私は風邪をひいてしまい、とても具合の悪い1週間を過ごす羽目になりました。ずっと頭が重くて、声が出にくくて、鼻水が出てグッタリしていました。それなのに出社してお仕事をしたのですから、私はなんと仕事熱心なのでしょうか。度を越した仕事中毒とすら言えます。1日でも、いえ、半日でも休むべきでした…。後悔しています。こちらは誤った選択でした。
ちょっと大袈裟に書きましたが、反省しているのは本当です。今回は自分自身の健康を第一にできませんでした。健康を犠牲にしてでも成し遂げなければならない仕事などこの世にはありません。
風邪ごときと思うかもしれませんが、風邪ごとき、ではないんですよね、本当は。風邪って辛いものなんだから、働かずに休むべきです。「たかが風邪ごときで」と人が言う時、本当に軽んじているのは「風邪」ではなく「患者の健康」です。「人が健やかに生きる権利」です。目の前の人が辛そうにしていても平然と労働を要求するって、人の心を失っています。体調が悪い人に対して、体調管理の失敗を責め立てる「仕事のできる人たち」の「愛に裏打ちされた厳しくも温かい言葉」は、きっとこれまで数えきれない日本の働き手たちに労働の美しさと素晴らしさを気づかせてきたのでしょう。崇高な労働義務を果たす喜びは何にも勝るものであり、健康回復を言い訳に休むのは会社から給与を詐取するのと同義であり完全に間違っている、と。

ちょっとした風邪でも大事を取るべきか、あるいはちょっとした風邪くらいなら仕事を優先させるべきなのか、つまりは健やかに生きる権利と労働義務を果たすことのどちらを選ぶのかはこの国では常に議論の的でした。どちらを選ぶにせよその選択のひとつひとつがその人の未来を作っていきます。毎回同じ選択をしなければならないとも限りません。おそらく多くの人の場合、ふたつの選択肢の間のどこかが平均値として落ち着くことでしょう。感覚的にはふたつの選択肢の間の、より「労働義務優先」寄りのどこかに。
前回の記事で私は、自分の本心に従って生きることが大事だと書きました。しかし実際には社会の中で生きるには、この「休みたいけど休めない」というような無数の葛藤に決着をつけていかなくてはなりません。それなのに、こんなちっぽけな葛藤に勝利することにすら苦労している私が、もっと困難な局面で自分の本心を貫くことなどできるのでしょうか?
ああ、そうなのです、いつだって私たちの現実的な課題は「自分の本心と社会的圧力との折り合いの付け方」です。何を優先させ、何を犠牲にするか。その選択の連続が人生です。私たちはどのように両者の折り合いを付ければ良いのでしょうか?そんなこと、本当にできるのでしょうか?

現代の日本は一応、民主制の資本主義国家です。ですから日本国で生きるなら、民主政治や資本主義の原理に従うことを要求されます。でも、この国は曲がりなりにも自由主義・民主主義国なのですから、私たちが何を考えようと、何を発言しようと、何をしようと、どこへ行こうと、それは自由です。私たちの発信や行動には誰も制約をかけてはならず、制約するとしてもごく最低限でなければなりません。少なくとも法的には。
どこの国にも、法律よりも深い層に「世間の掟」という人々を縛るルールが存在します。例えばアメリカには人種差別を禁じる法律があるのに、現実には悲しいことに人種差別はなくなっていません。法律成立以前から存在してきた慣習や信念が強固に残っているのです。儒教の影響の強い東アジアでは、法的には平等なはずの老人と青年に序列を作ります。他にも、親の職業を継ぐのは自然な人生のあり方の一つであり続けているケースもあります。近代国家は、特に西欧諸国を中心に、この古めかしくて時代遅れな旧弊からどれだけ自由になれたかを競ってきました。でも現実は、21世紀になったにも関わらず、いまだに20世紀か19世紀かそれよりもっと以前の残滓がいたるところに息づいています。
日本でも例えば法律上は、有給休暇は労働者が好きな日を指定でき、理由を伝える必要もありませんが、実際のところは好きな日を指定するどころか有給休暇の消化にすら苦労し、有給取得に際しては理由も求められます。あたかも主君に絶対に従わなければならない家臣のようです。民主化以前から温存されてきた古いルールが、有給休暇を100%取得しようとする私たちをためらわせるのです。

働き始めると、私たちはこのような時代錯誤としか思えない現実を目にします。法律上は会社は1日8時間、週40時間を超えて労働をさせることはできないはずなのに、実際には残業させ放題だったり。それどころか、同僚の目を気にして定時で帰るのに気が引ける自分に驚くことさえあります。私たちはなぜか法律よりも周囲の人の目を気にしてしまうのです。
考えてみれば、私たちは法律よりもその強力な不文律の方に詳しく、そちらの方に触れないように気を使います。法律に詳しいのは専門家と決まっていますが、その不文律は言われなくても皆が知っていて当然とされます。文化の中にしっかりと根付き、呼吸するように当たり前に身体に覚え込まされているのです。だから私たちはいかに法律に触れていなくても、不文律の方に反する行為には即座に反応し非難の声が殺到するのです。それでは、もし法律に違反しているのに、不文律には敵っているとしたら?
ここで一旦、整理してみましょう。法律で形成されるのが社会、不文律で回っているのが世間です。法律が制御するのは近代社会です。世間とは、その近代社会が成立する以前から存在してきた伝統ルールが紡ぐ世界です。挨拶の仕方、礼儀作法、婚約のしきたり、家制度における序列、男尊女卑、友人との付き合い方、主人と家来の関係、古い商慣習、信仰上の決まり、迷信、ご近所関係…。私たちが残業せずに定時で帰るのを躊躇するのは、職場の掟に背いたと認定されるのを恐れているためです。
しばしばそれらの古い伝統を持つルールは地域によっても異なりますが、近代社会における法は国内では一律に適用されます。そして自由主義の民主国家において法律は、前近代的なしきたりにとらわれず、すべて人権という観点を基本に組み立てられています(という建前になっています)。ですから、年齢、性別、出身地や家柄に関わらず私たちは法のもとに平等であり、権利を行使するのに伝統も慣習も序列も関係ありません。
私たちは非常に厄介なことに、社会と世間の2つの世界を同時に生きているのです。正反対の2極と捉えても良いかもしれません。一方には残業のない世界、もう一方には残業は当然の世界ですから、なんとも極端なのでしょうか。私たちは相反する規律を持つ二重世界を生きているのです。

さて、その難解な二重世界の中で私たちは本心をどこに見出せば良いのでしょうか?
身も蓋もありませんが、その答えは人それぞれです。近代の法律を忠実に守る立場を好む人もいれば、伝統的な世間の不文律を好む人もいます。時と場合に応じて使い分ける人もいますし、中間の人もいます。そして、何にもとらわれずに奔放に振る舞う人もいます。
ああ、見えてきましたね。そう、私たちは社会と世間の間のどこか、またはどちらでもないどこかに居場所を見つけるのです。時には誰かを不愉快にさせてしまいながら、時にはもっと自分を大事にすれば良かったと悔いながら、時には今回はうまくいったと喜びながら、少しずつ自分にとって居心地の良いバランスを見つけるのです。そのプロセスは人によっては短くて済むかもしれませんが、他の人にとっては長くかかる場合もあるでしょう。この世界には自分の本心が収まりよく居られるバランスポイントなど存在しないのではないかと暗い気持ちになりながら。

それではまず最初にこう考えてはいかがでしょうか?「厳格に法律または世間の不文律を重視する人もいれば、どちらにも無頓着な人もいるのだから、私たちも自由に好きなバランスを追求して良いのだ」と。厳格な人に合わせなければいけないわけでもなければ、正解のバランスがあるわけでもありません。この世界には無数の人がいて、それぞれ居心地の良いバランスが異なり、その無数の異なるバランスが折り重なってこの世界が形成されているのです。私たちも自分のバランスを求めて良いのです。
次に少し角度を変えます。私はここまで近代法や世間の掟を非常に強固で動かし難いものとして描いてきましたが、しかし実際にはやや様相が異なることを白状します。近代法の中には、実は近代以前の世間の掟を単に明文化しただけのものも混じっていますし、人権概念を基礎としながらも世間の掟に最大限配慮したものもあります。
LGBTの権利についてなどはその最たる例でしょう。現代の人権感覚からすれば、LGBTの権利を制限するというのは正当化できません。それでもLGBTに結婚の権利が認められていないのは、この分野ではまだ世間の掟が強固に残っているためでしょう。近代が産んだ法律とて世間の掟を制圧したわけではないのです。もちろん、逆に消滅した掟もあります。現代においては、さすがに妾を持つことはもうどうやっても正当化できないでしょう。古い慣習が消滅したのです。世間の掟も盤石ではありません。

法律も世間のルールも、どちらも必ずしも対極のものというわけではなく混じり合っている部分もありますし、変化していくものでもあるのです。そう、あらゆるものは曖昧で、流動的なのです。借金を返さなければならないのは、返さなければいけないというルールがあるからです。江戸時代には借金が帳消しになる法令が発動されたりもしました。1年分のツケも年を越せば取り立てられずに済みました。そして驚くべきことに、通貨97文(中央に穴が空いた通貨だった)を縄に通してひと連なりにすれば、それを100文として扱うことが認められていました(だから、朝早起きして97文を縄に通す作業をすれば3文得をする、というわけです)。現代では97円を100円として認める人はいません。経済分野における算数のルールまで違ったのです。今とはルールが異なる社会は存在し得るのです。ルールが絶対的な存在に思えるのは、私たち自身がそう思いこんでいるからに過ぎません。
今、私たちを苦しめている社会的なルールや慣習や圧力があるとしても、それは絶対的で不変のものではありません。いかつい顔をして威圧感たっぷりでも、実際には矛盾を抱えどっちつかずの曖昧なもので、しかも時代に流されます。所詮はその程度のものなのです。私たちが地球に生まれて死ぬまではあっという間の一瞬に過ぎません。しかし社会のあり方だって、燃える炎の一瞬の姿を写した程度のものです。次の瞬間には炎の姿は違った形になっています。

この世界が流動的なものならば、私たちが少しばかり自分の本心を出してみても社会をぶち壊すこともなければ世間を騒がすような事態も発生することなどなく、ほとんどの場合は大して目立たないはずです。ですが、私たちが今よりほんの一歩ずつだけ自分の本心に近い方向へ移動するだけで、世の中全体はすっかり住み心地の良い場所に変化するものです。その証拠に、全有権者のたった17%の票を獲得しただけで自民党・安倍晋三氏は選挙で「圧勝」しました。たった17%で国政が変わるのですから、私たちが持っている1票のパワーが分かろうというものです。そう、私たちは一歩移動するだけで世の中を変え得るほどの力が本来は備わっているのです。
これが私たちが置かれている世界です。思ったよりも希望に満ちていると思いませんか?私たちは世間に知られることなくひっそりと自分の居場所に近づくことも、あるいは世の中を大きく変えることもできてしまうのです。
ここまで私たちが見てきたのは、こういうことでした。「社会や世間のルールを個人の自由よりも重視する人もいれば、個人の自由を重視する人もいて、その中間の人もいる。だから、私たちは自分にとって心地よいバランスを見つけて良い。そして世の中は、人権を起点にした法律が形成してきた社会と、古い伝統を持つ掟が形成してきた世間の二重構造になっている。しかし法律も掟も、絶対のものでも不変のものでもなく曖昧で流動的なものだ。だから私たちが本心に従うことでより良い形に変えることのできるものだ」。つまり、私たちが自分自身の本心に従うことは善なのです。
私たちが好きな食べ物を食べて、好きな服を着て、好きなゲームをして、好きな生き物を飼って、自分に合う仕事を探して、必要な時に休暇を取って、学びたいものを学んで、気の合う友人を選んで…、それら全てが良いことなのです。メンタルが不調の時はどうしてもそうは思えないということを私は知っています。ですが、自分が好きなものを選択することはあなたにとっても、世の中にとっても良いことなのです。

それでは、この世知辛く冷たい世の中と、自分の気持ちの折り合いをつけるには、何から始めれば良いでしょうか?
まずは好きなものを食べることから始めるのはいかがでしょう。メンタルが消耗しきっている時にはそれすら罪悪感に苛まれますが、自分にとって好きなことをすることは自分の心に栄養を与える素晴らしい行為です。自分が自分のままで良いと認め受け入れる行為です。1日に一つで構いませんので好きなものを食べるというのはとても簡単であり、またご褒美として優れています。
もちろん、他にも1日1回は好きな楽曲を聴くというものでも良いでしょうし、好きなゲームをする、でも構いません。1日1回、好きな何かをしてください。それが第一歩です。そこから徐々に色々な場面で自分の本心を満たす選択を増やしていくのです。その選択が蓄積されていくことで、未来はもっと幸せな形に変化していくのです。ちょうど私が子猫を飼い始めるという選択をしたことで、今の幸福な毎日を手にしたように。

幸福な未来は我慢の先にではなく、今この瞬間に自分の心を満たすことの先にこそ存在します。いつか、ではなく今、幸福を積み重ねていくのです。自分にとって最も重要で最も心を満たせる選択は何でしょうか?私にとっての「猫」に相当するのは、あなたにとっては何でしょうか?
世の中との折り合いをつけるにしても、自分にとって最重要なものが何かを知らなければ折り合いのつけようがありません。それを探るためにも、自分が好きなものに触れる機会を増やしましょう。もしかしたら好きに違いないと思い込んでいるだけで、本当は別の何かを求めていたかもしれません。先ほど書いたように、人生は一瞬です。我慢している暇などありません。好きなものを見つけて、それを大事にするだけであっという間に終わってしまうのです。世の中からの干渉に気を取られている時間はないのです。
ということで、今回はここまでです。ぜひ感想をお待ちしています。次回も楽しみにしていてくださいね。

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