東條英機 歴史の証言/渡部昇一

『東條英機 歴史の証言/渡部昇一』読了
本書は近代日本の関連本の中でも衝撃的で記憶に残る一冊です。東京裁判での東條英機の口述を元に、著者の渡部氏が昭和史を俯瞰しながら解説してます。日本を巡る情勢、開戦に至った経緯等が詳細に書かれています。読む価値があります。
日本が平和を望み外交交渉を重ねているのに、米国は聞く気もなく、一切譲歩せず、度重なる挑発によって、日本は日々追い詰められていく過程が手に取るように分かります。「話し合いで解決すればいい」と声高らかに主張する人が居ますが、当時日本は話し合いで本当に解決出来たのか考えさせられました。
東條英機の主張の核心は「日本は侵略戦争をやったのではない。自存自衛のためだった」ということである。東條英機の主張が正しかったことを東京裁判の法源であったマッカーサー自身が、裁判終結後に、アメリカ上院の軍事外交合同委員会で認めた。日本はナチス・ドイツでは無かったのである。この事実は全ての日本人が知るべきであり、世界中の人に知らせたい。P4-5
東條英機ほど戦後の日本で憎まれた人は居ないと言ってもよいのではないか。「自殺し損ねるとは東條は何という奴だ。本当に自殺する気があるならピストルをこめかみに当てて撃てばよいのだ。腹に撃つ奴があるか」と。でも実は、事実は少し違うようである。東條英機は心臓に撃つつもりで近所の医師に、その点に印をつけてもらっていたという。そしてアメリカ兵がやってきたのを見た時に撃った。そのピストルは軍人であった義理の息子が少し前に自決したものだったという。ところが東條の心臓は普通の人より少しずれていたのだそうだ。では何故こめかみに撃たなかったのかと言えば、死後、必ず写真に撮られて世界の新聞に出るに違いないと考え、顔を壊したくなかったのだという。P10
東條が中央政界に進出した経緯だが、当時、日本政府が一番恐れたのは、下級将校が勝手に兵隊を動かして、軍の統制が取れなくなることだった。兵隊を動かすのは下級将校ですから、その連中が上官を殺すというのが一番怖い。では誰が本当に陸軍を抑えて、規律を守らせることができるのかと見渡したところ、東條が一番らしいということになった。だから東條自身が政治的な野心があった訳でも何でもなく、彼は上官として下を抑えて軍紀を守らせる力があり、それが認められて政治と関わりを持つことになったということです。天皇陛下の信頼が厚かったのもそこで、陛下が一番嫌ったのが二・二六事件のような反乱が起こることでした。東條がいれば反乱軍が動く可能性もないというので、非常に信頼をおいていました。そして東條も、本当に天皇に忠義な人でした。これは万人が認めるところです。P32-33
カミソリ東條と言われていましたが、東條の頭の良さは全ての人が認めるところでした。その頭のよさと大政治家としてのよさは別として、どんなことでもきちんとメモして、しかも整理してあるので、全てにおいて掌を指すが如くであったので、部下は絶対いい加減なことができなかったといいます。
それを嫌ったのが石原莞爾です。この人は本当に天才的な人、東條とは正反対の頭の使い方をする秀才で、両方とも天才に近い才能ではあるけれど、頭の使い方が違うので、二人は仲が悪かった。石原が余りに勝手なことを言うので、東條が政治の中心になると、石原莞爾は遠ざけられました。
東京裁判の時に石原莞爾は満州国をつくった張本人として当然召喚されてしかるべき立場でしたが、呼び出すと連合国としても具合が悪かったこともあり、また石原莞爾の病気が重かった事情もあって、彼の故郷の酒田市に設営された臨時法廷で証人喚問を受けるにとどまりました。
その席で「貴方は東條とは意見が合わなかったそうではないか」という趣旨の質問を受けた時、「自分には一貫した主義主張がある。しかし東條にはそれが無い。それでは対立のしようが無いではないか」と答えたと言われています。P33-34
東京裁判では、昭和12年の支那事変勃発の1ヵ月前に東條が打った電報が問題にされた。検察官は、東條が「対ソ作戦準備に関し」と打電したと指摘したが、実際は「対ソの作戦に関し」である。これでは軍事上、全然意味が違ものになる。それから「南京を攻撃し」と打電したとあるが、これも実際は「南京政府に一撃を加え」である。全く話が違う。検察は日本が早くから南京攻撃を企てていたとしたかったのでしょうが、これはこじつけが過ぎる。東條も、そこを突いています。P39
当時ソ連は第二次五か年計画を終了し、短期間に満州及び蒙古周辺に二十個師団を動員する体制を整えたと言われた。しかもその主力は機械化部隊及び毒ガス部隊であって、日本軍はそれを非常に恐れていた。満州に駐留していた日本軍は、満州事変のときでたったの一個師団です。機械化されたソ連の二十個しだん及び毒ガス部隊などと対抗できるものではありませんから、東條が関東軍参謀長として非常に心配して作戦準備の意見を述べていたのは当然のことだった。P39
北清事変。これは清の義和団の乱において、北京にいた各国の居留民が、乱に参加した清国兵に囲まれて皆殺しにされかかった事件です。各国が救助に軍を出しましたが、その中心となって北京を解放したのは日本でした。そのときロシアも大軍を派遣しましたが、乱の鎮定にろくに役に立たなかったにも関わらず、その大軍は平定後も満州の地に居座って、引揚の約束に中々応じませんでした。そればかりかどんどん兵力を増やして、事実上、満州はロシア領同然となりました。
日本は抗議したが聞き入れられない。それで、満州は仕方ないにしても、朝鮮までは出てきてくれるなと頼んだのです。しかしロシアはそれも無視して北朝鮮の港に軍港をつくり、北朝鮮の鉱山発掘権や森林伐採権を握り、さらに日本の壱岐・対馬と目と鼻の先の鎮海湾に軍港を建造するなどという話まで出てくる始末です。これが積み重なって日露戦争が勃発した訳です。
その時点で満州は、事実上、完全なロシア領になっていました。それを証明するのは、当時の清朝の役人が満州に行くときは、ロシアの官史の許可を必要としたことです。
日露戦争で、日本は満州からロシア軍を追い払い、清国に返してあげました。そしてロシアが持っていた南満州鉄道の権利や、遼東半島の租借権なども譲り受けます。このあたりは誠に日本は紳士的でした。P40-41
日露戦争以後、満州は平穏な状態でした。満州はよく治まっていましたから、膨大な数の支那人が満州に流れ込んでいました。それまでは満州は「封禁の地」と言われて、漢民族、モンゴル人、朝鮮民族などの周辺異民族の移住・進入は許されませんでしたが、そうした状況も、宥和的方向へと変わっていたのです。しかし、それを一変させたのが1917年に勃発したロシア革命でした。ソ連が成立し、共産党政権となり、さらにコミンテルンもできると、その勢力はシナ大陸と満州に入り込み、支那民族の民族意識を煽って半日運動を使嗾する事態になりました。その反日運動はどんどんと激しさを増し、シナ大陸における情勢は非常に不穏なものになっていきました。住んでいる日本人が、しばしば生命をおびやかされるような事が起こってくるのは、全てロシア革命以後の状況だったということを忘れてはいけません。P41
支那人は日本の店からは物を買わない、日本人の子弟は危なくて学校に行けない、あるいは日本人に土地を売った支那人は死刑になるなどといった、信じられないような妨害が、頻繁に行われるようになっていました。そして1928年4月に済南事件が起きます。日本軍が北伐を再開した蒋介石の動きを受け、済南の在留邦人を守る防衛準備を整えていたのですが、その防御を解いたところ、日本人に対する虐殺がおこりました。またその前年に起きた南京事件では、コミンテルンのボロジンの指揮を受けた中国国民革命軍が南京の外人居住地区である租界を襲いました。そのとき、揚子江にいたイギリスやアメリカの軍艦は砲撃しましたが、当時の若槻礼次郎内閣の幣原喜重郎外相は徹底的な平和主義者で中国不干渉を唱え、砲撃を禁じていたので、日本の軍艦は砲撃もできず、何ら攻撃を加えませんでした。そのため日本の領事館は徹底的に荒らされ、婦女子たちは辱めを受け、そうした事態をみすみす見過ごしていました。P42-43
奉天総領事をしていた吉田茂は、交渉というものは武力を背景にしないと意味がないと言っています。今からすると、日本の中央政府が行った支那人に対する甘やかし政策は逆効果で、毅然とした態度こそが平和を維持する道であることを意識すべきでした。P45
1937年の盧溝橋事件。交渉で一度話がつきます。しかし、すぐ破られる。また話をつける。また破られるという繰り返しが、何回もありました。そのうちに盧溝橋事件から約三週間後の通州事件で在留邦人が200人以上も殺されました。日本は当初から、とにかく事変が拡大しないよう、抑えよう、抑えようとしていたのに、挑発、挑発と重ねていったのはシナの側だったのです。日本を悪者にするために開かれた東京裁判も、支那事変の開戦責任については日本に問うことができなかったのです。P46
陸海軍大臣現役武官制度という悪しき制度。内閣が陸軍の意に沿わない場合、大臣を推挙しなければ内閣は成立できません。あるいは総辞職に追い込まれます。米内内閣の場合が正にそれで、陸軍の意に沿わなかったために倒閣の止む無きに至りました。
これは流石にまずいとなり、1913年6月13日の勅命によって、陸海軍省管制を公布し、大臣・次官の任命資格から「現役」という制度を取り除いたのです。現役でなくてもいいとなれば、予備役の大将・中将は沢山いますから、軍部の反対があっても首相は組閣に困ることはありません。
ところが、この規定を元に戻し「現役制」を復活させたのが二・二六事件直後の1936年5月で、広田弘毅内閣においてでした。戦後東京裁判において広田が文官としてただ一人死刑となったのは、このことも要因の一つとされています。P49-50
統帥権の問題。1930年のロンドン会議において、海軍の補助艦の保有比率を米10、英10、日7という条件を呑みました。常識で考えれば、無制限に建艦競争が続けば、日本は到底米英に敵いません。多少の不利はのんでも、軍縮条約を結ぶ方がいいと考えるのはもっともでした。ところが、これに加藤寛治、末次信正といった当時の軍令部の人達が、強硬に反対しました。海軍としては先のワシントン会議においても、主要艦の保有比率を米英日で五・五・三と決められていたこともあり、腹に据えかねたというところでしょうか、ここで持ち出した理屈が「統帥権の干犯」というもので、これが日本のその後の進路に、深刻なる影響をもたらすことになります。
明治憲法の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」つづいて「天皇ハ諸軍備ヲ整備セシメル」とあり、条約に反対する軍令部は、この条文を盾にとり、軍備の整備に関して、内閣が勝手に外国と取り決めを結ぶのは、統帥権干犯である、天皇の権利を侵すものであると主張しました。P51-52
当時の総理大臣は浜口雄幸です。浜口は、それは一向に構わない。なぜなら、責任内閣制で、例えば外交は天皇が責任者であるといっても、実際は天皇が直接外国と交渉する訳ではない。外務大臣、あるいは大使を通じて交渉を進める。それを外務省の外交権干犯とは言わない。同じように、軍備についても内閣が定めた陸海軍の大臣が了承すれば、統帥権を犯すことにはならないと答えます。議会もそれで納得しました。
しかし「統帥権干犯」などという論法があると聞いた連中が騒ぎ始めます。そして浜口首相は東京駅駅頭において拳銃で撃たれ、間もなく亡くなりました。そんなこともあり、いつの間にか「統帥権干犯」に反対すると、命を狙われる空気が醸し出されるようになり、誰も公には反対できなくなるという事態が出来しました。P52
統帥権干犯問題が起こったあとは、首相が最も重要な軍事作戦すら知らされないということが起こっていたのです。国務は統帥といつの間にか切り離されてしまっていました。その原因は、明治憲法の欠陥にあった。名目上、一切の責任は天皇となっていますが、それは飽くまで名目上であって、天皇が政務に関わることはありません。
では実際に誰が決定を下し責任を取るかのかというと、内閣であって、首相ではない。首相は閣議の議長であっても、最高権力者ではない。従って国務と統帥を束ねて重要な決定を下すべき人間がいない。統帥権は天皇にあり、内閣が統帥に口を出すべきではないという屁理屈を持ち出されても、これを論破できる根拠もなく、統帥部の独断専行を抑えるべき人も、実際上は誰もいないというところに、日本の最大の悲劇があったのです。P54
明治の頃は、明治維新を行い、憲法を作った当事者や元老たちが健在でしたから、政府が戦争指導の実権を握っていることに疑念を挟まれることなどなく、軍人は戦略に専心すれば良かったのです。しかし維新の元勲・元老は次から次へと亡くなります。元老の山縣有朋が亡くなったあとは、西園寺公望という公家の元老が一人で、軍を抑える力はありません。それが1930年のロンドン会議の後に統帥権干犯の問題が起きてからは、戦略の担当者は政略の担当者と全く同権、あるいはそれ以上と思い込むようになった。P54-55
第二次近衛内閣では、とにかく支那事変の終結を最優先とするということで、閣内は一致していました。そして支那事変を一番終結させたいと思っていたのは陸軍でした。
蒋介石は日本軍に勝って見せるという覚悟を決め、ドイツの軍事顧問を招き、上海地区の到るところにトーチカや側溝を構築しました。日本軍を戦争に引き込んで、そこで勝つという方針でした。日本を上海地区の戦争に撒き込み叩き潰すつもりでした。P57-58
世界中の目を引き付けるために、蒋介石軍は上海で爆撃を始めました。そして百貨店にまで爆弾を落としました。攻撃目標は日本租界でしたが、ホテルや民衆の娯楽施設への爆撃もありました。海軍特別陸戦部隊も応戦しますが、それだけでは持ちこたえられません。そこで日本軍は急遽陸軍の派遣を決定しました。
ところがこれは相手の思う壺でした。上海はトーチカと側溝で固められています。戦闘は8月に始まり、9月、10月になっても決着がつきません。
日本はこの危機を打開するために、11月5日、杭州湾にいきなり第十軍を上陸させ、敵の背後を突きます。「日軍百万杭州湾上陸」というビラをまいたりして敵を攪乱しました。突然背後に敵が現れ、挟み撃ちされる形となって、上海の蒋介石軍は総崩れになります。P60
日本陸軍は事変を一刻も早く終わらせたかった。ところが近衛首相を囲む共産主義者とそのシンパたちが、やめさせないようにと、しきりに工作をした訳です。事実南京入場を前にして、蒋介石軍との間でトラウトマン工作といった和平交渉もありましたが、結局は決裂します。P64
陸軍が戦いを止めたかったことは確かです。ところが止められなかった。そうしている内に、事変はズルズルと拡大します。やめられない理由は何と言っても、蒋介石側にはアメリカ、イギリス、それからソ連が惜しみなく援助をしているので、いくら負けても奥地に逃げるだけで、日本との交渉に応じなかったためです。P64
結局日本軍は、南京陥落一年後の1938年10月には、広東、武漢三鎮(漢口、武昌、漢陽)まで占領してしまいます。さらには海南島も占領します。上海事変の開始以来、1年3ヵ月で戦争は事実上そこで終わっています。蒋介石は重慶に逃げ込んで縮こまっているだけです。
本来は武漢三鎮あたりで戦争終結となるはずですが、蒋援ルートなどと言って、インドやビルマといったイギリス領を通じて、米英からの蒋介石軍に対する援助が絶え間なく続きます。ソ連もまた援助するということで、いつまで経っても解決の糸口が見いだせません。そのうちに日本はアメリカと戦争をするようになる訳ですが、陸軍は、まさか米英相手に新たな戦争をするとは、最初から全く想定していなかったのです。P65-66
米英の日本に対する経済圧力は、日本から見れば、原材料がない国が貿易で締め上げられることになります。日本としては、どうして生き延びるかという命題を突き付けられているのです。東京裁判では検事側は、日本が世界制覇を目指して共同謀議を働いたと主張しましたが、当時の日本ではそんな大それたこを考える力はありませんでした。日本はヒットラーのような世界征服計画を持ち続けていたという検事論告がありましたが、荒唐無稽であることは明らかです。P81
1941年7月になると、米国の在米日本資産凍結が始まります。それにイギリスの植民地を含めた日本資産凍結、日英通称公開条約破棄、蘭印日本資産凍結が続きます。もはや自由経済ではやっていけなくなり、配給制度が取り入れられていきます。P84
「八紘一宇」とは神武天皇が橿原宮に即位されたときに「八紘を掩ひて宇にせむこと」と言われたのに由来しています。八紘とは、八つの角、四方八方のことで、当時の日本において、一つの家のようにやっていこうではないかということです。神武天皇は九州から東上してきて、奈良の近くで即位されたのですが、周囲は全部土着の豪族たちです。それらを統一し、全部を一つの家として仲良くやっていこうという道徳的な意味です。東京裁判では、このこともまた、検事側が侵略思想だとしきりに言い募ったのですが、日本側の弁護団によって、これは道徳的な意味であって、侵略的な意味ではなかったと認められています。P86-87
「八紘一宇の精神」が非常に重要な意味を持った出来事があります。当時同盟関係だったドイツのヒットラーは、ユダヤ人を根こそぎにする計画を持っており、日本に対しても、ユダヤ人を迫害するよう、しばしば要請がありました。日本でもその対応について議論がありましたが、五相会議の席上、陸軍大臣が「日本には八紘一宇の精神がある。だからユダヤ人を迫害してはいけない」と強く主張しました。
八紘一宇とは、文字通り、他の民族も一つの家の人間のように扱うという意味でした。P87-88
「統帥権の独立」が幅を利かせるようになって以来、本来、国務の下にあるはずの統帥が、国務と対等の地位を求めるようになり、政府と統帥部を束ねる真の指導者が、日本には居なくなってしまいました。また陸軍と海軍の両方を束ねる人も存在しません。こうして日本は本当の戦争指導者不在のまま、戦争に突入してしまったわけです。支那事変が長期化し、英米との間でも緊張感が高まって総力戦の様相を呈するようになると、指導者不在の弊害が現れるようになります。
こうした弊害を少しでも減らし、各部署間の調整を図ろうとしたのが大本営政府連絡会議でした。その後、大本営政府懇談会、最高戦争指導会議と次々と名前が変わりますが、飽くまでもその本質は、文字通りの連絡会議ですから、誰にも決定権はありません。ですから日本は本当のリーダが居ないまま、大戦争をずっと続けていたわけです。P91-92
日清・日露戦争のときはそのようなことはなく、元老会議がありました。憲法のどこにも書いていない制度ですが、元老とは維新政府をつくり、明治憲法つくった連中です。元老たちは首相候補を天皇に推薦し、実質上、内閣を作った人たちでもありましたので、首相の権威は、充分軍にも浸透していました。山縣有朋や、西郷従道など軍の生みの親もいましたから、彼らの前で「統帥権干犯」などという屁理屈をこねくりまわしたら、恐らく一喝のもとに叩き潰されたことでしょう。P93
周仏海という蒋介石の中央宣伝部長だった人が言っているのですが「日本軍の間違いの一つは、とにかく戦争を止めよう、止めようとしていたことにあった」と。南京を落としたときに、そのまま追撃戦をしていたら支那軍は抗戦を続けることが出来無かったのではないかと。しかし実際には日本軍は南京で止まってしまい、追撃をしないので、支那軍は一時退却し、また攻撃してくる訳です。陸軍が一番戦争に反対していたのですが、致し方ないですが、日本が節度を守ることが中国側の過小評価を招きました。
日本が相手を慮ったり、道義的で、早期の戦争終結を目指して進撃を中止したりすると、日本の国力がないと思う訳です。支那人は必ずそのような考え方をします。日本の配慮を、弱さであると思うのです。今でもそれが残っています。P101
近代国家で原材料を持たないのは、奇しくも日独伊の三国です。当初は戦争までして取りに行こうとなどという発想はありません。何とか話をつけて、貿易ができるようにしようとしました。原材料を輸入するには、外資がないといけませんから、その前に日本の製品を売らせてもらわなければなりません。アメリカ、イギリスがこれだけ関税をかけたにも関わらず、それでも日本は八方手を尽くして、製品を売っていました。相手が買わないための関税障壁でしたが、日本は涙ぐましい対応をしていました。ところが、後になると、そもそも日本には一切物を売らないということになります。こうなると万事休すです。P105-107
南方問題は、今から思うと、なぜあのようなところまで日本が進出したのか疑問を持っても致し方ないところです。こうした事情を知らないと、単なる侵略という見方も出てきます。マッカーサーはアメリカ上院の軍事外交委員会で次のように証言しています。
日本は近代国家として持っているのは蚕だけだと言っています。絹産業だけだということです。他のものは何も持っていなかった。しかし必要なものは全て南方地域にあった。それなのに米国は日本に売らないことにした。日本はこのままいけば、1000万人~1200万人の失業者を生ずることになる。従って日本が戦争に入ったのは、主として国家安全のためであったと。P107
1940年、日本軍がハノイに進駐しました。北部仏印進駐と言われるもので、その目的は英米による蒋介石政府に対する援助ルートを断ち切ることにありました。蒋介石政府に限りない援助を続けられたのでは、日本としては支那事変を終結させることができません。
これと同じことを、アメリカも後で経験することになります。アメリカはベトナム戦争で、北ベトナムに勝てませんでした。なぜかというと、北ベトナムには地続きの中国と、ハイフォン湾に入港するソ連の船によって限りない援助物質が送られていたからです。
アメリカとしては、中国本土は無論のこと、ハイフォン湾にどんどん荷物を運びこむソ連船を爆撃する訳にはいきません。ベトナムには工場もなく、自力で武器もつくれないし、爆弾もつくれないにも関わらず、武器には全く不自由しなかったのは、そのためでそうすると攻めるほうは切りがありません。アメリカがベトナムから引き上げざるを得なかったのは、援助する国を叩けなかったからです。支那事変が正に同じであったことを、アメリカはベトナム戦争で思い知らされたということです。P123-124
支那事変の解決のために日本がなすべき事は、アメリカ・イギリスによる重慶政府の援助ルートを切ることであり、それと並んで日本の自給自足体制を確立するためには、南方、特にインドネシアを持ったオランダとの交渉を進めなければなりませんでした。その場合、南方の足掛かりが必要でした。北部仏印進駐のもう一つの目的がこれです。P124
北部仏印はいきなり進駐した訳ではなく、当時のベトナムはフランス領でしたから、日本はフランス政府と交渉の上で進駐したということです。交渉は松岡外相とアンリー駐日フランス大使との間で行われました。正式な外相交渉の上で認められたことでした。裁判では侵略のように扱われますが、これは違います。P126
仏印と支那との国境に居た日本のある大隊が国境不明のために越境した事件がおきました。(その後の軍法会議での調査の結果、越境していなかったことが判明しましたが)。これは国境偵察の為であり一弾も発射した訳ではありませんが、仏印側はこれを口実として細目協定に調印を拒んだのであります。P127
越境事件に続いて起きた日仏間の小衝突は、後のベトナム独立の刺激になります。それまでベトナムはフランスからの過酷な植民地政策を受けてきました。しかし、白人には一切手が出せないと思っていたところが、少数の日本軍によってフランス軍がいとも簡単にやられるのを見て、後にベトナム人が立ち上がる精神的な基礎になります。P130
日仏間における「不慮の出来事」、衝突事件については、東條は陸軍大臣として責任者を厳罰に処しています。
これは東條の特徴で、これが二・二六事件以来、麻痺状態にあった陸軍内の統制を立て直すのはこの人物しかないと、天皇をはじめ、近衛首相や、木戸幸一内大臣が見込んだ最大の理由です。「軍の統制には注意せよ」という天皇陛下の言葉を受けて、その点においては忠義の塊であった東條は厳格に実行したからです。P132
1940年11月30日、日本は汪兆銘の南京政府との間に、日華基本条約を締結します。支那の大都市があらかた占領されているので、早く手を打つのが当然であって山の中(重慶)にいて英米からの援助にのみ頼って、国民をほったらかしにしていた蒋介石は無責任といえます。もし汪兆銘政権がなければ、支那本土は全部日本の軍政下におかれることになります。国民をほったらかしにする蒋介石がいいのか、交渉の受け皿をつくる汪兆銘がいいのか、その選択の問題です。
汪兆銘は戦争末期に病死しましたが、汪兆銘夫人は後に中国で裁判にかかります。そのとき夫人は最後まで堂々と自説を述べています。日本軍に占領されて政府がなく、責任者は山の奥に逃げているときに、飽くまでも支那の民衆を守るためには政府が必要だったと主張して一歩も譲りませんでした。P134-135
そもそも支那事変がここまで尾を引いているのは、1938年1月16日に当時の近衛首相が「蒋介石政権を相手にせず」という声明を出したのが要因であって、その時点で解決しなかったのが、事変をここまで延ばしている訳です。近衛にそう発言させたのは、近衛のブレーントラストでした。
彼らはコミンテルンの指示を受けて、政権中枢に入り込み、支那大陸の戦争を出来るだけ長引かせ、解決させないように腐心していました。ソ連にしてみれば、日本を支那に張り付かせることによって心置きなくヨーロッパに集中できますし、それによって日本の国力が消耗すれば、再び満州に入り込みたいという思惑がありました。それに近衛は乗ってしまったということです。P135
支那事変を解決すれば、一部を除き全面撤退することは統帥部も反対はありませんでした。ただ撤兵といっても、敵の残党がいたりするので、後方の治安のためにも、多少は残しておかなければなりません。これはアメリカのイラク進駐に当てはめれば分かる話で、イラク進駐軍が、戦争が終わったからといって、すぐに引き上げられるかというと、そうはいきません。抵抗勢力があるうちは、アメリカ軍は引き上げることはできません。それと同じことです。P139-140
松岡外相の渡欧。松岡外相がドイツに行ってみると、独ソ間は緊張しきっており、とてもソ連を三国同盟に同調せしめるような雰囲気ではありません。そもそもドイツはソ連と不可侵条約を結んでいましたが、ヒットラーのほうは、そんなものは一つの策略であって、まじめに考えていたわけではありません。松岡は、全く見当違いだった訳です。
この後、ドイツからの帰りにスターリンと会い、ソ連との中立条約を締結しました。この条約が結局何の意味もなさなかったことは、終戦直後に、日本は骨身に沁みて思い知らされることになります。それも含めて、松岡がドイツに行ったことは、何の役にも立たなかった。見通しが全部甘かったのです。ヒットラーはソ連を油断するために不可侵条約を結んだだけなのに、間抜けにも、日本は本気と受け取っていました。P149
1945年2月、ヤルタ会談において、ソ連が日ソ中立条約が有効な期間中であるにも関わらず、我が国の領土を獲得する条件をもって対日戦に参加する約束を連合国側と取り付けた事実が、裁判で取り上げられています。
これは非常に大きな問題で、A国とB国が中立条約を結んでいるのに、第三国であるアメリカが、それを侵すようにそそのかした訳です。それだけでもアメリカ大統領ルーズベルトは大いなる戦争犯罪人です。
それから60年も経った2005年、ブッシュ大統領が、バルト三国を訪れた際に、この件で批判するような発言をしています。さらに中立条約有効期間中に日本を攻撃したソ連の行為についても、言を俟ちません。
二か国の中立状態を強引に破らせたルーズベルト、条約を破って領土侵略の目的で日本に突入したスターリン、いずれも東京裁判で責任追及された第一番の眼目に相当する犯罪行為を自分達がやったのでした。P151-152
日本の対米交渉における基本態度は、何が何でも平和を実現したいということでした。何と言っても支那事変の長期化は、大きな戦闘がなくても、莫大な国費の垂れ流しに繋がっています。アメリカもイラク戦争で何兆という膨大な軍事費が浪費されていますが、それと同じことです。しかも当時の日本はアメリカ、イギリスからは経済圧迫を受けて苦しんでいましたので、第二次近衛内閣の目的は、一にも二にもアメリカとの交渉を成立させて、支那事変を速やかに解決することにありました。アメリカが蒋介石を援助しなければ、すぐに終わります。そうした上でアメリカには日本との貿易を継続して、必要な物資を売ってもらいたいというのが日本の切なる願いでした。P155
その中で、アメリカから示されたのが4月18日の「日米了解案」なるものでした。この案を受け取った政府関係者は、一様に交渉の前途に明るさを感じます。三国同盟関係では、アメリカが欧州戦線に参戦した折にでも、日本は太平洋で事を起こさないといったものやら、また支那事変では、米大統領は蒋介石に対し日支交渉の席に着くよう勧告し、それに応じない場合はアメリカは蒋介石に対する援助を中止するという内容だった。
日本にとって、この提案は充分受け入れ可能と思えました。ところがこの日米交渉が、アメリカにとって戦争準備を進めるための時間稼ぎだったことを日本が知るのはずっと後のことです。P158
満州については、日本人の考え方が正しいという絶対的確認が日本人にはありました。満州とは満州族の土地で、支那人の土地ではない。その満州族が征服していた支那で、辛亥革命が起こりました。辛亥革命とは征服されていた支那民族による満州族王朝に対する独立運動です。独立運動によって追放された皇帝が、自分の郷里に戻って、自分の国を復興したのが満州国でした。それに日本が協力しました。
傀儡と言えば言えるのですが、それでも満州人も満足しているのですから、何ら問題はありません。総理大臣以下、大臣は全部満州人か清朝の人であり、日本人は全部次官以下です。それは行政能力が無いので、援助を必要としていたからです。P159
日本人は育てるのが好きですから、下級官僚を育てるのに力を貸しました。朝鮮半島も、僅か30年の日本統治の間に、終戦前には韓国人でも県知事級の人が何人も出ていましたし、軍人でも、将校になった人もいました。師団長級の将校までいたのですから、日本人は現地人の教育に熱心でした。満州は世界の中で最も輝いている地域の一つでした。発展のスピードは目を見張るものがありました。ですから当時の日本人は、満州国が悪いとは思っていません。悪いと思っていた日本人はコミンテルンの影響下にあった左翼インテリか共産主義者でした。P159-160
日本がアメリカの4月18日案に多少の修正を加えて提出したのが5月12日案でした。しかしアメリカはその後、4月18日案などは初めから存在しなかったかのような物言いをしています。日本とすれば4月18日案であればいくらでも妥協の余地があったのに。そして強硬そのものの6月21日案が出されます。日米交渉を通して一貫して言えることは、アメリカは一切譲歩ということをしていないということです。P165
フランス政府の了解の下に、日本はベトナム南部に進駐します。それも日本は一方的にするのではなくフランス政府と交渉した上での平和進駐でした。しかしアメリカは7月25日に日本資産を凍結しました。これに続いて翌26日には、イギリスとフィリピンが、27日にはオランダとニュージランドも日本資産を凍結します。資産のみならず資金まで凍結したので、貿易もできなくなります。P168
田中上奏文が東京裁判でも持ち出されましたが、そこでも偽造であることが証明されました。何故なら、田中上奏文には「山縣有朋の臨席を経て」という文言がありますが、山縣有朋は、その6年前の1922年に亡くなっているからです。田中義一は長州出身で山縣有朋も子分のようなものですから、こんな間違いをする訳がありません。偽造というにも、あまりに幼稚でお粗末な偽造文といえます。P169-170
この田中上奏文は、最近、コミンテルンが作ったことが証明されています。日本語の原文はありません。しかし日本の外務省が、これはインチキであると積極的な逆宣伝をした形跡がありません。そのためか、今でも中国の歴史教科書には田中上奏文が歴史的事実として記されています。P170
ルーズベルトは何が何でも日本と戦争に入ろうとしている訳です。それは何が何でもイギリスを助けてナチスを潰そうとしたのと同じ手なのです。イギリスに対するルーズベルトの援助も中立国の枠を外れていますし、蒋介石に対する援助も中立国の枠を外れています。
日本はそうしたことを知らずに、ルーズベルトをなんとかなだめようと努力し、松岡が交渉の障害になっているのなら、これを内閣から外そうということで、第二次近衛内閣は総辞職したわけです。日本はここまでして、内閣を更迭してまで、日米交渉の成立を望んでいたのです。P170-171
日本は1941年7月28日に南部仏印への進駐を開始した訳ですが、これはフランス政府との間で合意が成立した共同防衛議定書によるものです。当時のヴィシー政権と武力行使に拠らず話合いで合意に達し、平和裏に進駐しました。
ちなみに、アメリカの日本に対する石油全面禁止は、南部仏印によるものであったと、戦後、我々は教えられましたが、明かになっていることは、石油禁輸は進駐の前に決定していました。日本が進駐していなくても石油は止められていました。偶然日本の進駐のほうが早かっただけです。P179
日本の石油はアメリカとオランダからしか来ませんでしたが、アメリカが日本向けの輸出を禁止しましたので、残りはインドネシアしかありません。しかし、それも1941年になると止められてしまうのです。P186
英米は日本に対する数々の敵対行為をしてきました。ルーズベルトは重慶政府援助を明言するばかりか、多額の資金援助を表明します。さらに三国同盟排撃のためには、アメリカはそのための兵器廠になるとまで述べた。重慶政府にアメリカの飛行機を200機購入させる手続きをしています。これでは日本が如何に支那事変を早く解決したいと願っても、到底不可能でした。P189-190
当時のアメリカ、イギリス、オランダは戦備の増強を図っていました。アメリカは1941年5月までに330億ドル以上に渡る軍備拡張を行いました。アラスカと、太平洋における米国属領、フィリピン、グアムなどが含まれます。さらに51箇所の飛行場を建設します。これらは日本を目標とした爆撃準備及び軍備拡張でした。5月27日にはルーズベルト大統領が無制限非常事態を宣言しています。さらにその前年にはアメリカはアジアからの米国婦女子の引き揚げを勧告し、上海から引揚が始まりました。極東向けの旅券の発行を停止し、名古屋の領事館を閉鎖しました。いずれも戦争が迫っている兆候を示すもので、開戦の決意を示唆するものと受け取れます。P192-193
日本は生存上必要とされる物資の獲得ができなくなりました。英米蘭の妨害によるものです。1939年7月26日には日米通商航海条約の破棄勧告がなされました。1940年7月には屑鉄、石油の輸出が許可制に移行、つまり制限されました。飛行機用ガソリンも来なくなりました。P194
日本は石油の確保のために、蘭印との交渉に全力を尽くしましたが、オランダは次第に敵意を露わにしてきました。1941年5月上旬にはオランダ外相が、蘭印は挑戦に対してはいつでも応戦する用意があるという挑発的言辞を発しました。P197
フランスのヴィシー政権と日本との関係は概ね友好的でしたが、仏印進駐を巡る交渉の過程で、日本は同盟国であり、フランスを占領しているドイツ政府に斡旋を求めたことがありました。ところがドイツの外相はこれを拒絶します。三国同盟の盟友であるはずのドイツも、実は日本に敵対的なのです。ドイツには日本を利用するつもりしかなかったのです。こうした態度はこの後も一貫しており、まるで敵国と同じです。日仏間の交渉において、ドイツがフランスに圧力をかけて側面支援をしてくれるということはありませんでした。P202
完全に読み違えていた日本政府。独ソ開戦の風説は少し前からあり、ヒットラーと会見した大島駐独大使から「ドイツに開戦の意思あり」という電報が来ています。しかし松岡外相も、このような風聞は信じませんでしたし、モスクワの建川駐ソ大使も「開戦までは至ざるべし」と考えていました。日本は完全に読み違えました。開戦の10日前には、日ソ通通商協定が成立したばかりでした。独ソ開戦の報に接した日本は、びっくりすると同時に、寧ろ腹を立てたというのが、本当のところのようです。近衛首相も連絡会議の席上で、三国同盟があるのに事前に知らせもせず、ソ連に攻め込んだのは不信行為であるから、この際三国同盟を止めようではないかとまで発信しています。これほどまで、独ソ開戦に関する事前情報がありませんでした。P207-208
第三次近衛内閣はアメリカとの交渉を続けましたが、アメリカでは南部仏印進駐をもって、米英蘭に対する南進政策の一歩であると言い募るわけです。本当はそうではないことは知っていたのですが、そのように言い募り、日本には交渉をまとめる気はない、という難癖をつけて日米交渉の打ち切りを匂わせています。さらには資産の凍結も実行しました。P225
日本はアメリカの要求に対して、きちんと返答しています。仏印進駐は支那事変の解決のためのものであるから、事変が終結すれば撤退する。またフィリピンには手を出さない。南西太平洋の軍事的脅威などはもちろん無くする。その代わりイギリスもオランダも同じようにしてほしい。さらには日本は物資がなければ生きて行けないのだから協力してほしいと、このことだけを要求しているのです。要するに、アメリカと日本が正常なる国交関係に戻れるようにということを願った訳です。P225
日本からアメリカに仕掛けたことは何もない。そもそも両国関係をおかしくしたのは、排日移民法をはじめとして、全てはアメリカから出てきているのです。その後もアメリカは一歩も主張を譲らない。日本の仏印進出の原因が重慶政府に対する英米の援助にあるのだから、それを止めてもらえばということを言っているのに、援助が止む気配はありません。日本を仏印に進出せざるを得ないようにした原因を、自分のほうでは一切取り除くことをしていないのです。P226
近衛首相は膠着した事態を打開するために、野村駐米大使などを使って、日米首脳会談を申し入れました。その際、日本の姿勢として三国同盟は、ドイツと連携して軍事行動を起こすものではないこと、また日本の仏印駐留問題は支那事変が終結さえすれば、いくらでも引き上げるということ、国際通商の無差別問題にもいくらでも話に応じると伝えましたが、アメリカは強硬な態度を一歩の譲らず、事前に基本的合意なくして首脳会談に応ずることはできないという姿勢を崩しませんでした。P227
近代国家を支えるための物資が日本国内には殆ど何もないという厳たる事実があるのです。ですから石油があるうちでなければ、日本はいわゆる「弾発性」、つまり交渉力がなくなるのです。日本は連合艦隊が強いとは言っても、石油がなければ軍艦は動けません。零戦ができたといっても、飛べません。ノモンハンで千何百機のソ連機を落とした陸軍機も飛べません。戦車も走りません。何もできません。P229
石油が涸渇すれば戦争すらできなくなり、丸腰でアメリカと交渉しなければなりませんが、これでは足許を見られて交渉になりません。従って、石油の残量を見ながら、交渉妥結の最終期限を区切る必要が生じます。交渉がどうしても妥結しないときに備えて、10月下旬を目途に、自存自衛を全うするには戦争準備を完成するという方針が決められました。飽くまで外交交渉による解決を目指すのですが、どうしてもできない場合は開戦の決意もしなければならないということでした。P231
石油がなくなると戦争ができなくなる。戦争ができなくなると、どんな難問を押し付けられても「はい、はい」と言わなければならない。そういう訳で、必死になってインドネシアの宗主国であるオランダと交渉します。最初は商工大臣の小林一三が特派大使になりましたが埒があかないので、芳沢謙吉という特使が行くのです。それでもうまくいかず、交渉が決裂したという報が入ります。P232
外交では何も出来無いとなった場合、つまり交渉が決裂した場合に備えて軍を動かす部署に問題が移ることになります。石油が切れて軍の機能が失われる以前に和戦の決定をし、準備を終わらせなければなりません。また作戦上の時期的制約もあります。そうした場合、軍事作戦上、冬季の開戦は難しく、最良は11月上旬、12月初旬までは何とかできるということになります。それ以降は気候的に困難ですし、春以降になればシベリアのソ連軍の動きが心配になります。いろいろな意味で戦争するか、しないで屈服するかを12月上旬くらいまでに決めねばならないという具合に、選択肢が絞られてきます。P243
東京裁判においてA級戦犯は、1928年から一貫して対英米戦の共同謀議をおこなったとして裁かれました。しかし、明治以来、日本はイギリスやアメリカと戦争をすることなど、考えたことも無い訳で、実際に対米英の戦争を本気で考えたのは開戦の3、4ヵ月前、石油が止められてからだったのです。P251
東京裁判での東條英機の供述書を読むと、東條が総理大臣になった時には、もうどうすることもできない状況であったことが分かります。彼としては、その中でこれしかないという出来る限りのことをずっとやってきたということです。陸軍大臣に就任したところまでに、ほぼ流れは決まっていました。それなのに従容として自分の戦争責任を引き受け、弁解がましいことも言わず裁判は終わりました。それだけでなく、彼が言ったことが正しいということは、その後、アメリカも認めたのです。東條の主張は基本的に正しいと認められた史観となっています。日本人全員が知らなくてはならない歴史観です。P257
A級戦犯については、戦後に国会決議があり、もう戦犯はいないことになり、収監中の人達も全員釈放されたわけです。それは日本が勝手にやったことではなく、サンフランシスコ講和条約11項の条項に基づき、日本は関連国の事前の了解を取り、また国会決議をした決められたのです。死刑になった人達は、死亡しているために釈放できなかっただけで、名誉は回復されているのです。P257-258
日本は1941年9月6日の御前会議の決定後、豊田貞次郎外相、野村駐米大使を通じて交渉にあたったり、近衛首相とルーズベルト大統領との首脳会議を打診するなどいろいろ努力してきました。しかしアメリカは基本事項における了解なくして首脳会議には応じられないと言って来たのです。要するに四つの提案が解決しないうちは首脳会議もできないと言っているのですから、実現する訳がありません。アメリカには6月以降ずっと、譲歩の跡が見られません。日本は、生存上の急を要するし、時間が経てば経つほどじわじわと石油が減っていきます。アメリカはこうして自分に都合のよい原則論を押し通せば、黙っていても勝てる訳です。それで一歩も譲らない。そうすると、このままいくと戦わずしてアメリカは日本を征服することになります。P261-262
第三次近衛内閣は、対米交渉に全力を挙げましたが、アメリカには譲歩する気が全く見えず、何ら成果を挙げることもできず、その後、豊田外相と東條陸相の意見の相違もあり、内閣総辞職となりました。それが10月16日です。P263
9月6日の御前会議決定に基づく日本側提案に対して寄せられたアメリカ側の10月2日の回答は、一切の譲歩を廃し、原則論を押し通すものだった。
交渉で一番難しいのは支那からの撤兵問題でした。支那大陸からの撤兵問題は、日米交渉の始めから、日本は原則承認しており、しかも汪兆銘政権との日華基本条約によっても話が進められているのですが、アメリカの狙いは全く違いました。アメリカの要求は無条件撤兵であったのです。即時完全撤兵を要求しているのです。アメリカの圧力によって無条件に撤兵すれば、支那人はますます日本人を侮辱するようになる。汪兆銘政権関係者は粛清される怖れがある。共産党は徹底的に反日活動をして、支那との関係は益々悪くなるだろう。P273
また撤兵すれば、必ず第二、第三の支那事変を起こされるような事態になる。このようにして日本が威信を失うならば、満州にでも、朝鮮にも、どこまでも影響が及ぶ可能性がある。もし外務大臣がアメリカとの交渉に成功する確信があるならば考えてもいいが、戦争をするかしないかの決定は統帥に重大な関係があるから、総理に決定を任せる訳にはいかないと東條は述べたとのことことです。
この問題を今からみれば、よく分かる話で、アメリカはイラクから駐留軍を引き揚げたくてしょうがないのです。しかしそうする訳にはいかない。もし今完全に引き上げれば、せっかくアメリカの努力で行われた選挙で誕生した新しい政権が潰れることは確かです。これと同じです。P273
日本がしかるべき条件の下で撤兵する場合は、蒋介石と汪兆銘で話し合いがつく可能性はあったと思います。しかしアメリカが要求するような日本の無条件即時撤兵などということはできません。やれば必ず二度、三度と、支那事変が起こる可能性が生まれます。当時の状況では、撤兵は不可能であるというのが正論であったと思います。P274
東條陸相を悪者に仕立てた海軍と首相の狡猾さ。及川海相は外交が成功するかどうかは総理に一任しようではないかと言いました。これは海相がずるい。海軍がはっきりと「太平洋で戦争をする勇気はありません」と言えば終わりなのに。五相会議では戦争をやるかやらないかの判断を総理に任せてしまって、海軍は発言しないのです。本当は、出来無いなら出来無いと一番言わなければならない立場の人が、そのように逃げたのです。P274-275
当時、東條陸相がすごく強硬で、日本を戦争に引きずり込んだと言われるが、少し考えてみれば、陸軍大臣がアメリカとの戦争に引きずり込む訳はないのです。太平洋の向こうと陸軍は戦争できません。海軍がノーと言えば、できません。もちろん輸送船も海軍です。P275
近衛首相も不正直です。近衛首相は、どうしても戦争を避ける気があるなら「海軍はこう言っている」と言うべきでした。ともかく近衛首相は態度をはっきりさせていません。腹を決めて、海軍は戦争できないと言っている、陸軍はどうかと、はっきり言えば良かったのです。P275-276
ただ、ここで海軍の反対で戦争をしないことに決まったら、海軍関係者を皆殺しにするような第二の二・二六事件が起こるのではないかというのです。近衛はそれが怖かったのだと思います。戦争をしないでアメリカに降伏するとなると、どんな暴動が起きるか分からない。当時の日本では戦わずして敗北するなどということはできなかったと思います。二・二六事件の影響とはそれほど大きかったということです。P276
陸軍の武藤軍務局長や富田書記官庁は、この際海軍にはっきり言って貰おうではないかということで、海軍の岡軍務局長に話をしたところが、岡局長は相変わらず「海軍としては言えない。総理の決定に従う」というずるい態度に終始しました。P280
東條は、第三次近衛内閣は総辞職すべきだと意見を述べた。外部大臣と陸軍大臣の話し合い不一致がその理由ですが、近衛は内閣を放り出すのに慣れていて、また放り出したわけです。P281
第三次近衛内閣総辞職のあと、侍従長から東條に天皇陛下のお召があると伝えられました。近衛内閣の辞職に関して自分の意見を聞かれると思い、その心積もりで参内すると、総理大臣を命ぜられたという訳です。木戸幸一内大臣から、陛下の御意志として「9月6日の御前会議の決定に囚われる必要なし」とお聞きして、はじめて東條は首相を引き受けたということです。こうして東條首相が誕生します。一度戦争準備と決まっていたものを白紙還元することを条件に首相を受託した訳ですから、後世いわれるように、東條が好戦家で、日本をひたすら戦争に引きずり込もうとした訳ではないことは明らかです。ただ現役の陸軍大臣が総理大臣に就くというのは、戦争を決意したと受け取られても致し方なかったかもしれません。P285-286
9月6日の御前会議の決定を「白紙還元」して宜しいという御諚を戴いて、東條内閣は改めて、国の進むべき方針を協議することになります。そこでまず決定されたのが「対米交渉要領案」です。
その要領案には三案あり、第一案は、対米交渉貫徹。たとえ対米交渉がうまくいかなくても、戦争に訴えず我慢することです。これは結局戦わずしてアメリカに降伏し、日露戦争以来、日本が合法的に得ていた大陸の利権を全て捨てることを意味します。第二は、即刻交渉は打ち切って戦争をしようというものです。第三案は、交渉は継続するけれども、不成立の場合は戦争するというもので、誰が考えてもこの三つしかないのです。さらに戦争をするとすれば、12月初めしかありません。従ってそこまでは外交努力を継続し、交渉成立を見たときは、直ちに作戦行動を途中でも中止するということで話し合いがつきました。P300-301
全ては支那事変に始まったことでした。これを早く収束させたいということで、その時々の政府のとってきた施策の結果として、この日の事態がある訳です。その最終決断を支那事変の開始とは全く関係なかった東條がやろうとしている訳です。P301
東條が靖国神社に祀られているのはけしからんという意見がありますが、その根拠は戦争を始めた張本人ではないかということです。それがどれほど検討違いなのか。戦争のもとは飽くまで支那事変なのです。その後片付けが対米英戦に繋がった訳で、東條が組閣した時点で、選択肢は殆どなくなっていたのです。P301
実際の軍事状況から見て、12月上旬開戦となれば、当座の戦いには勝てるが、結局長期戦になるだろう。その場合の見通しは不明瞭だと永野修軍令部総長が述べています。これが、それまでの戦争と違うところです。明治の戦争は全部短期で、みな二年足らずでした。ところが支那事変は長期です。今度はさらに規模の大きな長期戦になる。そして数年後は分からないと言っているのです。
なぜ明治の戦争が短期間で終わったかと言えば、初めから日本がやる気で準備し、主体性があったからです。それに反して支那事変以来の戦争は、日本は常に受身の対応に迫られ、そうしているうち、ズルズルと長期の大戦争に引き込まれていったのです。P319
帝国陸軍はその当時、日本全国で51師団で、総兵力は70万ぐらいと考えられます。そのうち使えないものも沢山あるし、支那大陸では現に抗戦中です。満州でもソ連の動きに警戒を怠れません。ですから米英との戦争に活用できるのは11師団、約15万ぐらいということになります。敵の根拠地を占領し、海上交通の確保と相まって戦略上不敗の態勢を占めたいということだったのです。アメリカやイギリスに進攻する発想はありません。対ソ連は現状維持でいい。南方作戦が起きても、ソ連が動く可能性は少ない。ただ満州国及び支那において共産党による破壊工作、思想宣伝は注意しなければいけないということです。P320
1941年10月には、イギリス極東軍司令官のポッパム大将とアメリカのマグルーダ准将、マッカーサー将軍がマニラで会して、太平洋の問題について話し合っています。こちらこそ共同謀議をやっているのです。中心となったテーマは、ビルマ・ルートで蒋介石を援助するための、重慶軍とイギリス軍との共同作戦についてでした。またレートン英東亜艦隊司令官はシンガポールの軍港をアメリカの要求があり次第、アメリカ軍にも利用させると発表し、ポッパム極東司令官は豪州に向かいました。豪州のカーチン首相は、太平洋協同戦線交渉がアメリカ、イギリス、オランダ、ニュージランド、オーストラリアに完成したと発表しました。ここでも同盟ができています。かくして日本に対する軍事的、経済的連鎖の網は急速に拡大されています。P330
しかもアメリカ、イギリス、豪州その他の陸海軍においては大拡張が継続されていました。アメリカは昭和15年以降艦艇2831隻の建造計画を成立させ、968隻が建造中であると発表しました。日本はこれほどに作る機械もないし、材料・私財もなく、そんなに作ってもいませんでした。当時アメリカのノックス海軍長官は現時点で使える軍艦は346隻、建造中ないし契約済のもの345隻、使える補助艦艇は323隻、建造中、ないし契約済209席、いまある飛行機が4535機、製造中のものが5832機と発表します。
スチムソン陸軍長官は、航空士官候補生及び徴集兵を約三倍に増員すること、豪州のカーチン首相は45万の兵員の入営を発表しています。いつ戦争が起きてもおかしくない情勢です。P331
1941年11月17日、東條首相は国会において、施政方針演説を行いました。日米交渉は開始以来既に半年が経過し、両国の主張は明瞭で、残る問題は、太平洋の平和のためにどれだけお互いが譲り合えるかということに絞られていました。
日本政府の立場は日本の独立と日本の国家的体面を守ることを第一義とし、その第一に第三国が支那事変を邪魔しないでほしいというものです。第三者の介入が無ければ、本当に支那事変はすぐ終わったはずなのです。
次に日本に対する軍事的、経済的な圧迫を解除してほしいというものです。加えてアメリカでは海軍を物凄く増強しています。それから豪州、ニュージーランド、オランダ、イギリスもみなこの動きに加わっています。こうした動きを止めて平常に戻してほしいというのです。
第三に、欧州戦争の拡大が日本に及ばないようにということです。P340-341
支那事変が終わるというのは、蒋介石が和平の意思を示して、その条件を汪兆銘と話し合えばいいのです。汪兆銘と蒋介石は、支那事変の前からの同志であった時代もあれば敵であった時代もあります。彼ら同士で話をして、汪兆銘が首班になり、蒋介石が副大統領格、あるいはその逆になれば良かったのです。そして日本との条約を決め、日本軍は引き揚げる。ただし、すぐに引き上げる訳にはいかないので、多少の重要拠点に兵隊を暫くの間は駐留させてもらうという形にすればよかったのです。P341-342
満州は独立国ですですから、第三国がどうのこうのという筋合いはありません。満州については塘沽協定があります。蒋介石のころに満州国を独立国として待遇して条約を結んでいるくらいですから、満州とは争点になるはずありません。P342
日本との交渉が継続中であるにも関わらず、アメリカはますます日本包囲網を固めています。机の上で交渉しつつ、机の下では他の国と開戦の根回しを行っているような図式です。11月10日には、イギリスのチャーチル首相は、アメリカが日本と開戦した暁には、イギリスも1時間以内に戦争に入ると発言しています。ルーズベルトもその前日の演説で「自由維持のためには永久に戦わん」と述べています。「自由維持」という言葉は、アメリカはいつでも使います。それは「アメリカの気が向けば」という意味です。P345
天津在住のアメリカ人100人は11月に引き揚げました。これは明らかに日本を対象とする開戦前夜の感を与えました。実のところルーズベルトは9月の段階で日本爆撃にオーケーサインをしているのです。日本はこれを知りませんでしたが、アメリカ側でどんどんと戦争準備が進んでいる状況でした。P347
11月26日にハル・ノートが来ます。この覚書は米国の主張を固持するばかりでなく、それまでの話し合いで進めた点も全部白紙化したようなもので、日本にとっては受け入れることの出来無いものでした。
要点は四つで、一つは日本の陸海軍及び警察隊も含めて、満州を含む支那全域とインドシナからも無条件に撤兵せよというものです。
第二に、満州国は否認すること。そのころでは、満州国を承認している国がヨーロッパを含めて数十カ国になっているのに否認しろということです。そうすると、日本が立てた皇帝はどうなるのかということを聞いても、一切答えないのです。では満州は支那に編入されるのか、あるいは満州族が滅亡してもいいのか、などということも考慮に入れていない。
第三に南京国民政府を否認しろということです。南京政府は日本軍に応じて汪兆銘が命懸けで重慶を脱出して樹立した政権であり、その動機も日本にへつらうものではなく、日本占領下でも支那人民を代表する政府が必要であるとの愛国心によるものであったことは明らかです。これを否認しろというのです。
これはイラクに建てた政府をアメリカに否認しろというのと同じです。あるいはクウェート政府を否認しろというのと同じで、面子においても、信義の上でも、到底呑めないことです。もし日本がこの政府を否認すれば、日本に協力的であったか、或いは日本と考えが同じであったリーダーたちが、皆殺されることを意味します。
最後の要求が三国同盟の死文化ですが、これは実際、死文化しているのに、日本にとっては問題になりませんでした。P348-349
日米交渉が困難なことは分かっていましたが、日本政府としては、なお希望も捨てなかった訳です。日本の場合、選択肢は二つで、要求を全部蹴られた場合は戦争するより仕方がない。ただ石油の禁輸さえ緩和されれば譲歩してもいいということでした。その倍、もし売ってくれるのであれば、少なくとも、600万トンぐらい買いたいということです。P350
11月27日にハル・ノートの内容が明らかになり、これを受けて連絡会議が開かれました。この案の過酷なことは唖然たるもので、このアメリカの覚書は明らかに日本に対する最後通牒でした。日本が受諾することが出来無いことが分かっていて、これを押し付けてきています。しかもアメリカは、これを自分だけの意見ではなく、イギリスや他の関係諸国とも緊密に意思統一をした上で突き付けているのです。P352-353
もうアメリカが対日戦争を決意していることは明らかで、アメリカからいつ攻撃を仕掛けられてもおかしくないという内容でした。ですから日本は交渉継続は無理という判断になりました。この上は11月5日の御前会議の決定、すなわち交渉による打開が不可能となった場合は開戦するという決定による他ないとの結論になった訳です。P353
しかしこの決定は連絡会議だけでなく、御前会議をも経た上でのことにしようということで、12月1日に決められ、政府からは全閣僚が出席することになりました。事があまりに重大なので、閣僚が全員出席することになった訳です。P353
ハル・ノートが出された当時の事情。アメリカ政府は外交通信の解読に成功していて、日本が何を考えているのか全て分かっていた。11月20日の日本側提案は日本の最後通知であることをアメリカ国務省も知っていた。アメリカは1941年11月末には既にイギリスと共に戦争の決意をしていたばかりでなく、日本から先に手を出させることが外交的に有利だと考えていた。P356-357
ハル・ノートはハルが作ったものではなかった。当時財務省にいたハリー・ホワイトはコミンテルンのエージェントで、スターリンから「何が何でも日本を戦争に引き入れよ」という指令を受けていたのです。当時のソ連はドイツの怒涛の攻撃を受けて、もうモスクワ、レニングラードも危うしというところまで攻め込まれていた訳で、スターリンとしては、この上、日本に極東で動かれたら大変だ、とにかく日本とアメリカを戦争させてしまえということで、絶対に日本が呑めない案をつくり、それをルーズベルトに進言するようホワイトに命じたのです。P357-358
もうルーズベルトは日本と戦争したくてたまらない。でも一応は国務省のハルに交渉案を作らせました。でもハリー・ホワイトの文案をみて、こちらのほうがいいのではないかとなった。この案でいけば、日本は必ず戦争する。それで「これでやれ」とハルに命じた。ハルはそれを日本の駐米大使に手渡しただけです。これで日本はこれを最後通牒と受け取った。また、そう受け取るだろうということも向こうは知っていた。P358
天皇の開戦責任について、東條は特に力を入れて、東京裁判の検察側へ意見を申し立てています。まず首相の任命に関してですが、以前は元老から首相候補の推挙を受け、天皇が組閣を命じていましたが、元老が居なくなってしまった今では、内大臣の木戸幸一の進言によっている。天皇がこれらの推薦及び進言を斥け、自分の好きな者に組閣を命じられた例はない。つまり東條は、自分が首相になったのは天皇の責任ではないと言っているのです。P388-389
また統帥部の輔翼者の任命については、陸軍では三長官すなわち陸軍大臣、参謀総長、教育総監の意見に基づき、陸軍大臣の責任によって天皇の許可を得るのであり、これは海軍も同じである。天皇が申し出を拒否して、別の命令を下されたことは、明治、大正、昭和を通じて一度も無い。つまりこの点でも天皇の責任がないことをはっきりさせています。P389
それから国政についても、陛下独自で国政及び統帥に関する行動をなさったことはない。事実、内閣や総帥部が責任を持って下した最後決定に対しては、天皇陛下が拒否権を行使したことはありませんでした。天皇は時に、希望または注意を表明することはありますが、それは内大臣の進言によって行われました。しかもその希望や注意を受けた輔弼者、輔翼者も、自分の責任においてこれを検討し、その当否を定めたのです。そしてさらに天皇は、ご自身の希望・意見と違う進言を受けた場合でも、これを拒否されたことはありません。要するに、天皇は形式の上では全て賛成することになっていたということです。P389
天皇陛下がここで「ノー」と言ってくれれば、戦争は止まったのではないかと言う人がよくいます。これは東京裁判の検事側も言っています。天皇が戦争を終わらせた位だから、始めるのも止めることが出来たはずだと。でもそれは違います。それは日本の制度を知らない人の言うことです。終戦のときは鈴木貫太郎首相が自分の義務を放棄したのです。御前会議でも決定を下すのは首相以下の責任なのです。ところが意見が割れ、そのとき首相が決をとれば、終戦を決めることができたのに、鈴木首相はその後の混乱を恐れて、逃げてしまった。そして陛下のご裁可を仰いだのです。ですからそこで日本の内閣制度は終わったわけです。ここに至って初めて天皇は「ならば私が言おう」ということで意見を述べ、終戦が決まりました。開戦のときは日本の政府機構はノーマルに働いていたから、その手続きによって、天皇もノーマルに裁可なさった。しかし終戦のときは日本の政府機能はなくなった。その違いが分からないといけないのです。このあたりのことは、少し調べれば分かるはずですが、にも関わらず、天皇の戦争責任を言い立てる人が多いのはどうしたことかと思います。P390
軍事作戦行動に政府は関与していませんでした。開戦実施と準備は大本営陸海軍統帥部が行うのであって、政府はその中身には関係することができません。海軍のことについては、陸軍大臣も総理大臣も関与することができません。これは日本ならではの制度です。アメリカが「東條、東條」と言って、「ヒットラー、ヒットラー」と同列に扱いましたが、全然違うのです。国政と軍事作戦行動を統一するような機能をどこも持っていなかったことこそが、日本の問題でした。具体的な戦争の準備、作戦、その他に関し行政は関与できないし、責任も負えないのです。P393
宣戦布告の遅延問題。日本政府においては、攻撃前に通知を渡すことは、統一した意見でしたし、攻撃後もそれは野村大使によって、外相の指示通り正しく渡されたものだと確信しておりました。出先の人間が完全なる正確さを以て自分の仕事にあたるということに誰も疑いを持っていなかった。ところが後になってそうではなかったことを知り、日本政府としては極めて遺憾であったと東條は述べています。P400
これだけ問題になったのに、外務省はその後も、この遅延問題の調査を、正式には行わなかった。P400
そもそも真珠湾攻撃は奇襲ですから、通知時間が早すぎたら意味がありません。しかし、ともかく交渉断絶書が攻撃より少しでも早く渡されていれば、アメリカは「卑劣な奇襲」だと非難することが出来無いのです。もっとも外交論者に言わせると、ハル・ノート自体が最後通告だと解釈してアメリカは既に宣戦布告していたのだと解釈することも可能だそうですが。P401
アメリカは、真珠湾の攻撃をスニーク・アタックと呼び、それでアメリカ人たちの敵愾心を盛り上がります。これは当時在米日本大使館にいた人たちのミスで、全く彼らの責任です。実は「これから重要なメッセージがいくぞ」という事前通告を無視して、前夜、全員が同僚の送別会に出掛けていたというのが真相のようです。しかも電報を受ける当直を置くことすらしなかった。
翌朝のんびり出勤してきて至急電を見て、タイプを打っていたら攻撃の時間に間に合わなかったと言い訳をしていますが、先方に内容が伝わりさえすればいいのであって、タイプなど打たなくてもいいのです。手書きでも何でも渡せばよかったのですが、それもしていない。P401-402
東郷外相が野村大使に対し7日午後1時(ワシントン時間)を期し、直接御手交ありたし」と指令してあったにも関わらず、野村大使がハル長官に手渡したのが午後2時20分になってしまったのです。午後1時であれば、真珠湾攻撃の開始までまだ30分ありました。それをタイプに手間取り、一旦午後1時に取ってあったハル国務長官との面会のアポイントを1時間延ばして貰ったと言うのですから、言語道断です。P402
当時日本大使館にいた外交官たちは責任をとるどころか、外務省は全部隠したばかりか、当時の責任者はその後みな栄達し、勲一等を受章しています。これは許せない。P403-404
ちなみに開戦前夜、日本大使館で送別会をしてもらった当人は、翌日日曜日で、家族一緒にドライブに出かけ、車のラジオで開戦を聴いたといいます。これは外交官の人間としての質の問題です。戦前の日本は皆貧乏で、ヨーロッパの水準に比べて生活水準は低かった。しかし公使や大使として派遣される相手国は、まだ植民地が独立していない時代でしたから、殆どが一流国で生活水準が高かったのです。外務省の役人になると、そういう国々に行けた。そこでは日本にない高い生活水準が楽しめますから、戦前は外務省の役人には大金持ちの娘たちが喜んで嫁いで行ったものでした。アメリカに行った連中も、恐らく生活を楽しむことにウエイトがかかったのではないでしょうか。P404
日本が正式に宣戦布告した国は英米だけですが、戦後数えてみると日本は数十カ国から戦線布告されていました。日本は二か国を相手にするつもりだったのが、支那、オランダ、オーストラリアをはじめ、南米諸国にまで宣戦布告されていたのです。P408
日本の占領地行政については次のような方針でした。まず占領地については軍政を行う。これは致し方ないところです。次に政治状態の許す限り、歴史的経緯を考慮して、独立ないし自治を与え、なるべく早く軍政を撤廃する。そして大東亜共栄圏の趣旨に協調せしめ、状況の許す限り戦争に強力させるとあります。事実、フィリピンやビルマを戦争中に独立させ、インドネシアも独立させる予定でした。
それから占領地域の治安の回復、民生の安定、重要資源の急速取得を目指すとありますが、これはもちろん石油の確保を意味します。それから占領軍の現地統治については、民族的風俗、習慣を尊重し、宗教には口を出すなという注意を与えています。また現地に住んでいる第三国人には軍政に協力せしめ、これに応じなかったら退去させる。P411
日本は11月26日のハル・ノートを事実上の宣戦布告と受取り、11月29日には宣戦詔書の草案に着手しました。草案が確定し12月7日には天皇陛下に見せしました。その文案は天皇の特別の希望により二つの点で修正を施しています。その一つは「朕が志ナラムヤ(本来の意図であるわけがない)」という部分です。これを天皇の強い希望で加えられました。
もう一つは「行動の大義ヲ中外ニ宣揚センコトヲ期ス」とあったのを「帝国の光栄ヲ保全センコトヲ期ス」としたことです。これは日本のメンツは守るということです。皇道の大義を中外に宣揚するなどと大きな話で威張るのではなく、日本は辱められてへいこらする民族ではないという意味です。P419
ハル・ノートを突き付けられて戦争をしてこないのではないかという考えがアメリカ側にあったとすれば、有色人種は白人が脅せば結局は言うことを聞くという思い上りがあったとしか考えられません。ハル・ノートみたいなものを突き付けられたら、モナコやルクセンブルグのような小国でも銃を持って立ち上がるだろうという趣旨のことを、アメリカ人の歴史家であるアルバート・J・ノックも後に述べています。P419-420
白人同士の発想でいけば、ハル・ノートはまがいもなき宣戦布告です。宣戦布告でないなどというのは通用しません。それでも宣戦布告でないと言い張るとすれば、それは有色人種はどんな無理を言われても「はいはい」と聞くという傲慢な思い込みがあるということです。P420
戦時中の日本軍の俘虜虐待問題とは。バタン半島の事件は「バタン死の行進」と大袈裟に言いますが、一番悪いのは兵隊を置き去りにして逃げた米軍の総司令官マッカーサーです。俘虜たちはバタン半島のジャングルの中にいるわけです。放っておけば、みんな餓死して終わりです。そのため収容施設のあるマニラまで連れていかなければならなかった。ところが日本軍はトラックなど持っていませんから、歩かせた訳です。日本兵も一緒に付いて歩いた訳ですから、これが何故、意図的な虐待と言われなければならないのか、ということです。P432
その過程で衰弱したり、マラリアの人が途中で死んだことは事実ですし、アメリカ人は進軍のときはトラックで動きますから、俘虜たちが非常に辛く感じたであろうことは確かです。しかしこれは意図的な俘虜虐待と考えてはいけないと思います。日本軍も充分食糧がいき渡らない中、俘虜にゴボウを与えたのが、木の根っこを食べさせたと言われて死刑になった現地司令官もいました。ゴボウをオックス・テールと訳して(漢字で牛蒡は牛の字が入りますので、通訳が勘違いしたらしい)牛の尻尾食わせたとか、色々変な訳があります。味噌汁を与えては腐った豆を食わされたという抗議にもなります。豆腐には腐るという字が入っているので、毎日、豆の腐ったのを食わされたという訳です。しかし日本人としては、もののない時に豆腐の味噌汁は精一杯の御馳走だったと思います。これは単なる食習慣の違いでしょう。俘虜の食べ物が悪いといっても、日本軍の食べ物も同じように悪かったのですから、日本軍に虐待の意図はなかったのです。P433
陸軍が俘虜になることを戒めた理由。陸軍は俘虜の取扱いに関して、虐待や強制労働を課すべからずという命令を出していますし、労務規則についても、取り決めています。帝国軍人の心得を諭した戦陣訓も渡しています。陸軍は俘虜の取り扱いについてそこまで気をつかっていたのです。ここに出てくる戦陣訓ですが、この中には日本の軍人が俘虜になることを禁止している条項があります。何故かというと、支那人の俘虜になった日本人は、実に残虐な殺され方をしていることが分かったからです。ずっと時代が下がって支那事変でも、俘虜になった兵士は、後で発見すると、見るに見かねるほどの残虐な殺され方をしていました。そのために陸軍では戦陣訓で「俘虜になるな」ということを命令した訳です。P437-438
日本はジュネーブ会議の「俘虜取扱いに関する条約」を批准しませんでした。俘虜に対する観念が日本人は違うのです。俘虜になることは日本人にとっては恥だけれども、外国では恥ではないというズレがありました。逆にいうと外国兵は喜んで俘虜になりに来るのです。
その結果、シンガポール等でも日本軍より俘虜の数が多くなります。日本軍の何倍もの敵にぞろぞろと手を挙げて来られては、ただでさえ食料が足りないのに、面倒を見ようにもろくにみれないという事情もありました。
ジュネーブ条約を批准することは、俘虜になることを奨励するような誤解を日本の兵士に与えるかもしれないということで批准しませんでした。しかし「俘虜を虐待するな」という命令は何度も出しています。陸軍省は、批准はしなかったけれども俘虜の待遇はジュネーブ条約に準ずる措置と言っています。俘虜虐待という意思は、日本政府としては持っていませんでした。P440
泰緬(タイ・ビルマ)鉄道はビルマにいる日本軍への補給と、タイ・ビルマ両国の交易交通を目的として、参謀本部の命令で建設が決まりました。東條は陸軍大臣として同意し、同時に俘虜を使用することにも同意を与えました。
一帯は特別の不健康地ではなく、俘虜やその他の強健な人たちと同様に、日本の軍隊も労役に参加していましたから、本来、何ら問題とするには当たらない行為でした。ところが、戦後、日本軍の俘虜虐待として非難を集めることになります。しかし、それを残虐行為だと考えた本当の理由は、有色人種と一緒に肉体労働をさせられたということを、イギリス人が非常な屈辱に感じたからです。労役それ自体は、問題になりません。
俘虜を軍事作戦とは関係のない純粋な建設作業に使役するのは将校を除けば構わない訳です。ジュネーブ及びハーグ条約では、作戦に関係あるところでの使役を禁じていますが、泰緬鉄道は作戦上関係ありません。P448
ABCD包囲網の圧迫は強まるばかりで、そんな中自存自衛のための方策を探らない訳にはいきませんでした。とにかくインドネシア人が日本に石油を売りたくないのではなく、オランダが占領しているから売れないのです。タイも日本に米を売りたくないのではなく、イギリスの勢力下にあって、思う様に売る訳にはいかないのです。ですから「東亜の解放」ということが、日本の自存自衛のために、その目的となってきている訳です。P460-461
1943年11月5日-6日に東京で大東亜会議が開かれました。そこには非常に重要な人々が集まっています。タイのワンワイタヤコーン殿下、満州国の張景恵首相、南京政府の汪兆銘行政委員長、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モー首相、それからチャンドラ・ボーズが自由インド仮政府首班という肩書で出席しています。
インドネシアからは、民族代表者として名をはせていたスカルノ(独立後は初代大統領)とハッタ(独立後は初代副大統領)が来日します。しかし国がまだ独立していないのに、正式な参加ではありませんでした。P465-466
大東亜会議の時、正式メンバーとして出席できないスカルノとハッタを、天皇陛下は皇居に招きます。当時のインドネシア人は宗主国のオランダ人から酷く見下されていましたから、オランダの女王陛下に面会するなどということは、夢にも考えられないことでした。しかし、そのオランダ軍を簡単に破った強い日本の天皇陛下に会えるということで、両人は非常に緊張して参内しました。すると天皇のほうからつかつかと歩み寄られて二人と握手されたのです。それ以降、スカルノ、ハッタの両人は、徹底的な親日家になります。P466
戦前の世界における人種差別の実態。1919年パリ講和会議で日本は国際連盟の規約に人種の平等を盛り込むことを提案しましたが、これは葬りさられました。アメリカのウイルソン大統領が、このような重要なことは多数決ではなく、全会一致で決めるべきだといって、この案を潰したのです。自らは民族自決という立派なお題目を唱えておいて、自分の支配地では民族自決を許さないのです。P472
アメリカの太平洋艦隊司令官になったスプルーアンス提督の回顧録には、アメリカ海軍では、アジア人や黒人などの有色人種は厨房でしか使わなかったということが書かれています。要するに軍艦では料理しかさせないのです。大砲を撃ったり戦闘に参加すると出世して、部下が出来る可能性がありますが、白人が有色人種の部下につく訳にはいかないのでと、はっきり書いてあります。一方日本には、その頃朝鮮人の中将がいました。中将は師団長の格です。韓国大統領・朴正煕も日本軍の将校になっています。P477
東條内閣は1942年12月に、支那に対する新政策を打ち立てました。それを受け1943年1月9日、支那における帝国の特殊権利として持っていた一切の租界の還付及び治外法権の撤廃に関する日華協定を締結し、これを実行しました。また日本が持っていたアメリカやイギリスの財産は、全部南京政府、汪兆銘に移しました。さらには、日華基本条約に定めてあった一切の駐兵権も放棄して、日支事変終了後に日本の軍隊は駐兵権もなしに全面撤兵することを約束しました。また、対等な関係における主権及び領土の尊重も約束したわけです。
これについて、大東亜会議における中国代表の汪兆銘は「本年一月以来日本は中国に対し早くも租界を還付し、治外法権を撤廃し、ことに最近に居たり日華同盟条約をもって日華基本条約に代え同時に各種付属文書を一切廃棄されたのであります」と述べています。さらに「国父孫先生が提唱された大東亜主義は、ここに光を発見したのであります。孫文が日本に対して切望した中国を助け不平等条約を廃棄するということも実現されたのです」と続けています。
これを見ると、その後支那大陸の政権は、日本に対して言うことがなくなるので、大東亜会議のことを出されると嫌がるのは当然です。P486-487
日本はビルマには、1943年8月1日、独立を与えました。そして民族的に深い関係のあるマレー地方の一部を、ビルマに編入することにしました。行政長官バー・モー氏は「今日ようやくにして、ついに我々の力は1600万のビルマ人の力のみではなく、10億の東亜人の力である日が到来したのであります」と独立を喜んでいます。
次はフィリピンです。同じ年の10月14日、フィリピンは独立しました。日本はラウレル大統領の希望に応じて、フィリピンは日本の戦争に参加しないこと、軍隊は常設しないことに同意しました。このことからも、日本はフィリピンに対しても領土的野心は持っていなかったことは明らかです。P497
日本の戦争は、蘭印の石油があったからこそできたのです。石油基地をボルネオに置いていました。連合艦隊によるフィリピン沖の最後の大海戦も、全部ボルネオの石油を使っています。P499
東京裁判では、不思議なことにソ連が裁判官の一人になり、また検事を送ってきました。一方的に日ソ中立条約を破って攻め込み、これほど明々白々な平和と人道に反する罪を犯した国は他にないにも関わらずです。そればかりか、終戦を迎え日本軍が整然と降伏してからも、60万と言われる日本人を俘虜にして不法に拉致し、その内数万人を餓死及び凍死せしめた国が、裁判官と検事を送ってきたのです。ソ連のほうこそ裁かれなければならないのに、このことには黙過している訳ですから、東京裁判自体が茶番であることは明らかです。P521
日本はシベリア侵略はもちろん、それを意図したこともありません。ところがソ連は東亜侵略を虎視眈々と狙っていました。「日本は戦々恐々としてその防衛に腐心し続けてきました。満州国建国も満州が侵されないようにということであり、日本陸軍の作戦の本質はソ連に対する防衛であります」と東條は言っています。P521
日本軍がシベリアを越えて、モスクワに行こうなどという計画は、一切ない訳です。日本は、ソ連に対しては静謐保持の姿勢を貫き、常に細心の注意を払っていました。日ソ中立条約の締結を見たときは、これをきちり守ろうとしてきたのです。それなのに破って侵攻してきたのはソ連だった訳です。P522
事実を徹底的に知っている一人である東條が、日本にとっては非常な惨害を受ける結果となった戦争を、何故起こさなければいけなかったのか。結論から言えば、それは連合国側の挑発に原因し、我が国に関する限りにおいては、自衛戦として回避することができなかったものであったとしています。P530
当時の方針は、侵略でも搾取でもありませんでした。適法に選ばれたその時々の内閣はそれぞれ憲法及び法律に定められた手続きに従って、これを処理してきましたが、次から次へと英米から邪魔された冷厳なる事情があり、国家自衛のために戦わざるを得なかった。日本は常に受け身で対応していたのですが、ついにハル・ノートを突き付けられて日本は運命を賭して戦って負けたのです。この戦争の責任は、敗戦の責任と明確に区別しなければいけません。東條は最後の最後まで、この戦争は自衛戦であり、現在承認せられている国際法には違反せぬ戦争であったと主張しています。いまだかつて、日本が戦争をしたことそれ自体を国際犯罪として勝者から訴えられたり、個々の官史が個人的に国際法上の犯罪者、あるいは条約の違反者として糾弾されるなどということは、到底考えられることではないと、東京裁判を真っ向から否定しているのです。
ただし敗戦の責任については、当時の総理大臣だった自分の責任であり、この意味における責任は、これを受諾するのみならず、真心より進んでこれを負うことを希望すると述べています。P532
なぜ筆者が東條英機の東京裁判における宣誓口述に基く昭和史を述べてみようと思ったのか。東條が「この戦争は自衛戦である」と主張して止まなかったことです。それはこの宣誓口述に見る限り、日本が一歩一歩そこに追い詰められていった過程が分かります。日本が喜んで戦争を始めたという形跡はどこにもありません。むしろ日本のアメリカに対する交渉は「お願い、お願い、お願い」という姿勢でした。P533
戦争前になると、日本には物資が何もなくなりました。我々は子供のおもちゃまでも、ブリキ製のものはみな供出したものです。子供のブリキのおもちゃまで供出して侵略戦争しようなどという国があろうはずがありません。P533
日本がこの戦争に突入したのは、日本が本当に物質的に首を絞められていて、このままだらだらと交渉を続けられると日本の陸海軍は確実に活動不能となります。石油も何もない訳ですから、産業も全滅することになります。そうした事情から止むに止まれず戦争に突入したのであって、全くの自存自衛のためだったと主張していることです。P534
マッカーサーも後になって「日本の言い分は正しかった」と言っています。これは「東條の言い分が100%正しい」と言っているのと同じことです。事実、米国上院外交軍事合同委員会におけるマッカーサーの言葉には、魔法の働きがあります。
「新しい歴史教科書をつくる会」が編集した歴史教科書(扶桑社)が採用されるのではないかということで、杉並区議会において、保守的な傾向を持つ山田区長に対する質問が行われました。議員から「区長、貴方はこの間の戦争を聖なる戦争だと思っているのか、侵略戦争だと思わないのか」という趣旨の質問がありました。それに対して、山田区長は「この前の戦争が侵略戦争ではなく自衛の戦争であったということは敵の大将のマッカーサーがちゃんと言っている」と述べ、マッカーサーの発言を原文で暗唱したのです。そうするとわいわい騒いでいた議場が突如シーンとなり、それで終わりました。これは魔法の言葉です。ですから、日本の全ての人にこの文言を知って貰いたいのです。P536-537
