映画『国宝』で取り上げられる歌舞伎作品
いまだ映画『国宝』の感想がまとまらないのは、たぶん吉沢亮と横浜流星と田中泯が歌舞伎役者を圧倒的な説得力で演じてくれたからだろう。
前回の感想はこちら↓。
彼らは歌舞伎の演目を踊ったり演じたりするだけでなく、歌舞伎の女方である役を演じるという二重構造を見事に演じた(渡辺謙さんも連獅子を踊ったけど映画では男役の立ち位置に近かった……『曾根崎心中』のお初を演じるはずだったという設定ではあるけど)。
しかも女方は原作『国宝』で「女形というのは男が女を真似るのではなく、男がいったん女に化けて、その女をも脱ぎ去ったあとに残る形」と解説されている。彼らは女方の多重構造を表現した上で素地の役をも演じて説得力を持たせなければならない……しかも「国宝」レベルとか、死を覚悟した上で一世一代の舞台を演じなければいけないとか、いちいちハードルが高いところを立派にこなしたので、歌舞伎鑑賞歴が10年になる私も、魅入られてしまった。
原作ではいろいろな歌舞伎の演目が出て来るが、映画版では作品を絞り込んでいて、それがまた映像的にも物語の筋にも意味を持っていたことが、よかったと思う。自分の気がついた範囲で、以下コメント。
連獅子
渡辺謙さん演じる花井半二郞(後の白虎)が御曹司であるところの横浜流星さん演じる花井半弥と踊る。
獅子が仔獅子を谷底に落として上ってくるのを見届ける、スパルタな親心と仔獅子のひたむきに親を慕う心のドラマを描く舞踊劇。本チャンは特に「毛振り」と呼ばれるダイナミックな場面が見どころ。
映画『国宝』では、半二郎が息子の半弥(横浜流星さん演じる俊介)に試練を課すために、自身が重傷を負った時に、半弥でなく部屋子の東一郎(吉沢亮さん演じる喜久雄)を代役に指名する。
これも、半弥が奮起して谷底から上ってくることを期待した師匠としての厳しさからだったが、半弥は代役を見事にこなした東一郎を見てひるみ、歌舞伎から離れてしまう
2.曾根崎心中
半二郞の代役として舞台に上った東一郎が見事にお初を演じてデビューを飾る演目。
遊女のお初が友人にはめられた手代の徳兵衛と心中する覚悟を決めた場面で、お初の足元に隠れた徳兵衛がお初の足に自らの首を寄せることで心中に同意する演技が見どころ。
半二郞曰く、お初は死ななければならない覚悟と恋人と死ねる歓喜が入り混じるという演技。役を生きて死ぬ難しさに直面した東一郎だったが、全身全霊をかけて演じきる。半弥の心を折るほどに。
歌舞伎から逃げた半弥だったが、小野川万菊(田中泯さん)の援助もあって、その後は歌舞伎界に復帰する。
だが、半弥は……(以下、自粛)。東一郎が自ら徳兵衛を買って出た舞台でお初を演じた半弥の決死の舞台がすさまじい。
3.鷺娘
小野川万菊が舞う鷺娘を、東一郎は「化け物」と言い、半弥は「けど、美しい化け物や」と表現した。
原作とは違う演目だが、人外のものである鷺の精の妖しさ美しさ、恋に身を焦がす娘に仮託した一途さ、叶わぬ思いへの懊悩、女方のエッセンスを表していて存在感が凄かった。
そして楽屋で東一郎を手招きした瞬間で、東一郎を「歌舞伎で一番の役者に上り詰めること」の過程である地獄に引きずり込む化け物としての存在感を示した。
だから、最終章で東一郎(最終的に白虎を襲名)が鷺娘を踊ることも、映像的には必然。父親が殺される一瞬に命の煌めきを感じてしまった喜久雄が、栄光と挫折を繰り返す有為転変の果てに見た煌めきの境地である「国宝」が踊る舞台、60代に達したであろう白虎が若い頃のように美しく輝く舞台が「鷺娘」で終わるのが素晴らしい。
藤娘と道成寺
女方がひとりで踊るのが基本だけど、複数で踊ることがある。『藤娘』は襲名披露興行で八代目尾上菊五郎・六代目尾上菊之助・坂東玉三郎による三人藤娘が先月かけられたばかり。シネマ歌舞伎では玉三郎・勘九郎・七之助・梅枝(現・時蔵)・児太郎が踊る「京鹿子娘五人道成寺」という作品もある。
これらは先輩格の踊り手から後輩格の踊り手に芸を継承する作品でもあれば、複数の踊り手が芸を競う作品でもある。
映画『国宝』では東一郎と半弥の競演の機会でもある。が、それだけではない。道成寺は特に、恋する男に執着して白蛇に変化した娘の妄執を踊る作品で、女方としての東一郎と半弥が果てしない芸道に執着することを運命付けられた作品でもある。
