【裁量労働制は、本当に日本を豊かにするのか②】なぜ産業革命は、賃金の安い国ではなく高い国で起きたのか?
直感に反する歴史的事実

前回の記事で、裁量労働制の拡大が「国際競争力の強化」を掲げながら、実態としては人件費の圧縮に帰着する構造を指摘した。
では、人件費を下げることは、本当に国際競争力を高めるのか。
この問いに、経済史が非常に明確な答えを出している。しかもその答えは、多くの人の直感に反するものだ。
人件費が高い国でこそ、イノベーションは起きる。
これを実証的に示したのが、オックスフォード大学の経済史家ロバート・アレン(Robert C. Allen)である。
アレンの高賃金経済仮説

アレンの主著 The British Industrial Revolution in Global Perspective(Cambridge University Press, 2009)は、「なぜ産業革命はイギリスで起きたのか」という古典的な問いに、まったく新しい角度から回答を提示した。
従来の説明は、議会制民主主義や所有権の保護といった制度、プロテスタントの勤勉さという文化、啓蒙思想に基づく科学的知識などに着目していた。アレンはこれらを否定はしないものの、決定的な要因は別のところにあると論じた。
「要素価格」——つまり、労働力とエネルギーの相対的な値段だ。
ロンドン12グラム、北京2グラム

アレンとその共著者たちは、各国の賃金を「1日あたりの銀のグラム数」という共通単位に換算して比較した。18世紀には銀が東西を問わず共通の交換媒体として機能していたから、これが事実上の「為替レート」になる。
この比較から浮かび上がった数字は衝撃的だ。
18世紀のロンドンの建設労働者は、1日あたり約9〜12グラムの銀を稼いでいた。
一方、同じ時代の北京の労働者は、1日あたり約1〜2グラムの銀しか稼げなかった。
ロンドンの賃金は北京の約6倍だった。
アダム・スミスは『国富論』(1776年)で「労働の実質価格はヨーロッパのほうがアジアより高い」と述べていたが、アレンの研究はこれを精密なデータで裏付けた。
ただし、ヨーロッパ全体が高賃金だったわけではない。ミラノやライプツィヒの銀賃金は北京や京都とさほど変わらなかった。突出して高かったのは、ロンドンとアムステルダムを中心とする北西ヨーロッパだけである。
高い人件費が機械を呼んだ
そして産業革命は、賃金の安い北京ではなく、高いロンドンで起きた。
なぜか。
人件費が高すぎたからこそ、企業は「人間の代わりに機械を使ったほうが安い」と判断した。
ジェニー紡績機を例に取ろう。この機械は一人の操作者で複数の糸を同時に紡げる装置だが、開発と導入にはコストがかかる。アレンの計算によれば、当時のイギリスの賃金水準では、機械に投資して人を減らしたほうが採算が合った。
しかし、同じ機械をフランスの賃金水準で計算すると、採算が合わない。インドや中国ではなおさらだ。
同じ技術的可能性があっても、人を使い続けたほうが安い環境では、わざわざ機械を導入する経済的合理性がなかった。
蒸気機関も同じ構造だ。ニューコメンの蒸気機関は大量の石炭を消費する非効率な装置だったが、イギリスでは石炭が地質的条件に恵まれて非常に安かった。だから採算が合った。その後ジェームズ・ワットが効率を改善した改良型を開発したが、これも「高い人件費を安い石炭のエネルギーで代替する」という経済的圧力があったからこそ、開発投資が正当化されたのだ。
「高い人件費×安いエネルギー」の公式

アレンの分析をまとめると、産業革命の条件はこう表現できる。
「高い人件費 × 安いエネルギー」 → 技術革新の誘発
イギリスは、ヨーロッパで最も賃金が高い国の一つであり、同時に石炭が世界で最も安い国だった。この組み合わせが、人間の労働を機械に置き換えるインセンティブを生み出した。
逆に言えば、この組み合わせが欠けている国では、産業革命は起きなかった。
中国とインドの悲劇——技術の種が発芽しなかった

ここでアレンが明示的に指摘しているのが、18世紀の中国とインドの状況だ。
両国には優れた職人技術があった。中国の絹織物技術は世界最高水準であり、科学的知識も相当な水準にあった。インドにも高度な繊維技術と冶金技術が存在した。
技術の種はあった。しかし、発芽する圧力がなかった。
人件費が安すぎたために、わざわざ機械に投資する経済的理由がなかったのだ。職人を大量に安く雇えるなら、コストのかかる機械を導入するより、人を使い続けたほうが合理的だ。
こうして、技術的にはイギリスに劣らなかった中国とインドが産業革命を逃し、19世紀以降のいわゆる「大分岐(Great Divergence)」が生じた。国際競争力の分岐を決めたのは、「労働者をどれだけ安く使えるか」ではなく、「人件費の高さがどれだけ技術投資を強制したか」だった。
ヒックスの誘発的イノベーション理論

アレンの議論を理論的に支えるのが、経済学者ジョン・ヒックスが The Theory of Wages(1932)で提唱した「誘発的イノベーション(induced innovation)」の理論だ。
ヒックスの主張はシンプルだが強力である。
生産要素の相対価格が変化すると、高くなった要素を節約する方向にイノベーションが誘発される。
労働力が高くなれば、労働を節約する技術(機械化、自動化)が開発される。エネルギーが高くなれば、省エネ技術が開発される。イノベーションは天才のひらめきから降ってくるのではなく、経済的な圧力によって方向づけられる。
アレンは、このヒックスの理論を18世紀イギリスの実証データで裏付けた。イギリスの高い賃金が、まさに「労働を節約する方向」にイノベーションを誘発した。産業革命とは、ヒックスの理論の壮大な実証例だったのだ。
現代日本への直接的な示唆

ここまでの議論を、現代日本に翻訳してみよう。
裁量労働制の拡大は、みなし労働時間制を通じて実質的な人件費を下げる。
ヒックスの理論に従えば、人件費が下がれば、それを節約する技術への投資動機が消える。

具体的に言えば、AIやロボティクスへの投資は、「人を使い続けるより安くつく」場合に初めて経済的合理性を持つ。人件費を下げてしまえば、「まだ人を使ったほうが安い」という判断が合理的になり、技術投資が先送りされる。
裁量労働制の拡大は、企業のAI投資へのインセンティブを構造的に削ぐ政策なのだ。
ここで見落としてはならない逆説がある。

労働基準法は、一般に「企業の足かせ」だと見なされている。人件費を押し上げ、経営の自由度を制約する規制だと。しかしアレンの研究が示しているのは、その足かせこそが企業を技術革新に駆り立てていた力だったということだ。
人件費が高いという「痛み」があるからこそ、企業はそこから逃れるためにAIや自動化に投資する。その痛みを取り除いてしまえば、投資の動機も消える。企業にとって人件費の圧力は、短期的にはコストだが、長期的にはイノベーションのエンジンなのだ。
つまり、企業を本当に強くするのは、制約を外すことではなく、むしろ適切な圧力をかけ続けることかもしれない。
これは皮肉な構造だ。「国際競争力を高めたい」という動機から出発して、「人件費を下げよう」という手段を選び、その結果「国際競争力が下がる」という帰結に至る。目的と手段が自己矛盾している。
18世紀と現代の対比表

最後に、18世紀と現代の構造的な対比を示しておきたい。
18世紀:
ロンドンの労働者:1日約12グラムの銀
北京の労働者:1日約2グラムの銀
比率:約6対1
安いエネルギー:石炭
結果:産業革命はロンドン側で起きた
現代:
アメリカのAIエンジニア:年収3,000〜5,000万円
日本のAIエンジニア:年収558〜1,200万円
比率:約3〜5対1
安いAI基盤:アメリカ国内にOpenAI、Google、Anthropic等が集中
結果:AI革命はアメリカ側で起きている
構造が驚くほど重なっている。
そして18世紀に産業革命を逃した国がどうなったかは、歴史がすでに答えを出している。

次回は、「貧困は、知能を何ポイント下げるか?」というテーマで、ムッライナタンとカーネマンの認知科学的研究を取り上げる。人件費の問題は、企業の投資判断だけでなく、労働者の脳そのものに影響を与えていることが明らかになる。
動画で解説
記事では書ききれなかった議論の展開や、各分野の知見がどう繋がっていくかを、動画の中で体感していただけます。
この記事は、「幸福と国富の統一理論——MMT×BI×AIの好循環」をテーマに、AI時代の労働政策と国際競争力を多角的に検証するシリーズの第2回です。
参考文献:
Robert C. Allen, The British Industrial Revolution in Global Perspective, Cambridge University Press, 2009
Robert C. Allen, Jean-Pascal Bassino, Debin Ma, Christine Moll-Murata, Jan Luiten van Zanden, "Wages, Prices, and Living Standards in China, 1738-1925: in comparison with Europe, Japan, and India", Economic History Review, 2011
Robert C. Allen, "The Great Divergence in European Wages and Prices from the Middle Ages to the First World War", Explorations in Economic History, 2001
John R. Hicks, The Theory of Wages, Macmillan, 1932
