かげろうの君と #23 エピローグ 後編
エピローグ 後編
「家庭を顧みることの無い、愚かな夫だった。あんなことになって、私はかけがえのない大切なものを失ったことに気づいたんだ。私は妻を幸せにしてやれなかった」
いや、そこまで想ってもらって、きっと彼女は幸せだったに違いない。
だが、ここで自分がそれを言うのは野暮というものだ。
「……奥様に会いたいですか?」
自嘲気味な笑みを浮かべる老医師。
「私は老い先短い身だ。焦らなくても、もうすぐ会えるさ。その時は直ぐに成仏して、彼女の魂を探し出そうと思っている」
院長の言葉に拓海がクスッと笑う。
「何だね?」
「いや……。俺たちの話、とても医師とエンジニアの会話とは思えませんね」
拓海の言葉に院長がムッとする。
「何言ってるんだ。見たものしか信じないのが我々科学に携わる者ならば、これは理にかなっていると言えるのではないかね?」
そう言うと、院長は口角を上げた。いつもの、不敵な医師としての顔。
「確かに……その通りですね」
頭上で大きな音がして、二人は空を見上げた。
大型旅客機が銀色の腹を見せながら、低空を通り過ぎて行く。
八王子の直ぐ北にある、米軍横田基地に着陸するチャーター便だろう。
「……君の恋人は、時代に翻弄されて哀しい亡くなり方をした娘だ。君との幸せな思い出を胸に成仏できたんだから、いつまでも忘れないことだ」
院長がそっと欄干に手を乗せる。
「君の中で、あの娘が安らかな存在になっていることが本当の意味での成仏なんだからな」
拓海は院長の言葉に深く頷くと、目を閉じた。
大丈夫。忘れることなんてできるわけがない。
「先生! 急がないと本当に時間が!」
突然降ってきた大声の方に目を向けると、痺れを切らした運転手が、脇道から手を振りながら叫んでいる。
「全く。今日の会合に一体、何の意味があるというんだ」
院長は悪態をつくと、拓海に会釈して車に戻って行った。
その背中に、拓海は深く頭を下げ続ける。
やがて、車が見えなくなると、拓海は欄干に手を置いて軽く息をついた。
普通の女の子だった。可愛くて、感激屋で涙もろくて、お洒落にもすごく興味があって。
もう、声を掛けてくる幸子の霊はいない。
そして、橋のたもとにあった、あの荘厳なチャペルも、彼女がいなくなってから数カ月後に、まるで後を追うように取り壊されてしまった。
これで良かったのだと思う。
それでも……
やっぱり会いたいよ、さっちゃん。もう一度、一目だけでもいいから……。
視界がぼやける。いつまでもこんなことではいけない、と思い、唇をギュッと噛み締めると、足元の透明板を見つめた。
じゃあ、またね。さっちゃん。
拓海はポロシャツの袖口で涙を拭うと、振り切るように踵を返した。
「きゃっ」
ドンッ
勢いよく振り返ったので、通りすがりの人とぶつかってしまった。
「あ、ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
道端に倒れ込んだ女性を助け起こそうとして。
「……さっちゃん」
目を疑う。いや、幻覚などではない。見間違えるわけもない。
そこにいたのは、紛れもなく、最愛の女性。
「え?」
驚いたように拓海を見つめ返す女性。
拓海は呆然と彼女を見つめていたが、ふと、我に返ると、軽く首を振った。
「あ、いや……。大切な人に、あまりにも似ていたもので……。ごめんなさい、気持ち悪いですよね」
女性は拓海の手を取ると、立ち上がった。
見れば見るほど、本人に間違いないように思える。だが、例え彼女が本当に生まれ変わりであったとしても、拓海が愛した幸子ではない。
でも……。
良かった。
彼女の魂は救われたのだ。言い表せない感動に、再び涙が溢れてくる。
ならば、今度こそは彼女に、幸せな人生を送って欲しい。
だが……、どうやらそれは、自分の役割ではないようだ。
彼女の左手の薬指に光る指輪。
「……どうも、すみませんでした」
拓海は涙を拭うと彼女に向かって頭を下げ、断ち切るようにその場を立ち去ろうとしたのだが。
「あっ、あの!」
背後から呼び止められる。
「……はい?」
彼女は七分丈の白いスキニーパンツの太腿部分をキュッと握ってもじもじとしていたが、やがて、すっと拓海を見据えた。
「あっ、あたし、速水沙希っていいます! 周りからはさっちゃんって呼ばれてて……だから、あなたに呼ばれて、びっくりしちゃいました」
髪を掻き上げながら、照れたように話す彼女。
てっきり文句を言われるかと思っていたので、その言葉に驚く。
「大切な人って、そのお花の人ですか……?」
欄干に立て掛けた仏花を見ながら、彼女が聞いてくる。
首を傾げる仕草は、ありし日の幸子のまま。
胸が詰まる。
「……ええ。今日は……彼女の命日なんです」
そう。自分が心から愛したのは、あくまでも幽霊だった幸子。目の前にいるのは、見た目は同じでも赤の他人だ。
「あっ、えっと、ごめんなさい。立ち入ったこと聞いちゃって……」
沙希と名乗った彼女は慌てたように、両手を小さく振ると、恥ずかしそうに目を逸らした。
「実はあたし、前にこの橋であなたを見かけてから、すごく気になっちゃって……。何となく、今日なら、ここであなたに会える気がしたんです」
驚いて彼女を見る。
……いや、駄目だ。勘違いしてはいけない。
「……あなたは、ご結婚されてるんですよね?」
声を抑えながら尋ねる。
これは、余計な想いを断ち切るための確認。
拓海の問いに彼女はキョトンとすると、あっ、と声を上げた。
「えっ? あ、この指輪ですか? ちっ、違います! その、あたし、昔から男の人が大の苦手で、お付き合いとかしたことも無くって! だからこれは、無闇に声掛けられないようにって。なのに、何故かあなたのことは………、あのーぅ?」
彼女がオロオロと戸惑う。またも、ボロボロと涙を流し始めた拓海に。
俺は……、本当にバカだ。
幸子は生まれ変わってから、ずっと自分のことを探してくれていたのだ。
恐らく、前世での誓いを脳裏に組み込んで、自分以外の男を誰も寄せつけることなく。
それなのに、俺がこんなことでどうするんだ。
拓海は目を瞑ると、すうっと息を吸った。
「俺は、織田拓海といいます。……よかったら、少しお話ししませんか? この近くに、お気に入りのカフェがあるんです」
沙希はホッとした様子で小首を傾げると、柔らかく微笑んだ。
「喜んで、拓海さん。ぜひ、聞かせてください。あたしに似ていたという、大切な人のことを」
拓海も微笑み返すと、静かに頷いた。
「……沙希さんは、もしかしてブルーマウンテンがお好きですか?」
「ええっ!? 何で分かるんですか?」
驚いた様子で口元に手を当てる彼女に、拓海の顔が綻ぶ。
「では、ご馳走させてください」
「あっ、いや、でもブルーマウンテン高いしっ」
「大丈夫。そこのお店は良心的で安いし、お近づきの印にぜひ」
「あ、ありがとうございます」
彼女はお礼を言うと、拓海を見上げた。
「えっと、それから……あたしのことはさっちゃん、って呼んでくれますか?」
沙希が胸元に手を当て、軽く目を瞑る。
「さっき、あなたにそう呼ばれた時、なんだか、とても幸せな気持ちになれたので……」
目を見開く拓海に気づき、彼女は我に返った様子で慌てた。
「あっ、会ったばかりなのに、変ですよねっ。あた、あたしったら」
「分かりました、さっちゃん」
間髪入れずに呼んでみせると、沙希は真っ赤になって俯いた。
「じゃあ、俺のことは拓海でいいですよ。会ったばかりだけど、その方が、しっくりくるので」
悪戯っぽくお願いすると、彼女は拳を握り締め、きゅっと目を瞑った。
「わ、分かりました。……た、た、拓海」
成仏した彼女の魂が時空を飛び越えたのか、それともやはり、あの日の出来事はタイムスリップだったのか。それは分からない。
だが、今となってはもう些細なことだ。
二人の再会を祝福するかのように、燦々と照りつける八月の太陽。
また、ここから始めよう。君と俺の、物語を。
この奇跡に感謝して。
そして、今度こそは君と、幸せと希望に満ち溢れた軌跡を紡ぐと、心に誓って。
〈終〉
プロローグ かげろうの君と #01 プロローグ|京
