かげろうの君と #22 エピローグ 前編
エピローグ 前編
あれから一年以上が経過した。
今日は幸子の、成仏してから二度目の命日。
八王子空襲があったのは1945年8月2日。
午前0時45分から約2時間に渡って、米軍のB29戦略爆撃機約180機が来襲し、約1,600トンの焼夷弾(約67万個)を投下した。
それは3月10日の東京大空襲(1,665トン)に匹敵する密度だったという。
死者445名、負傷者2,000名以上。焼失した家屋は14,000戸。八王子市街の約80%が焼土と化し、壊滅的な被害を受けたが、大本営は「損害は軽微」と発表した。
時代が違うとはいえ、その言葉の軽さを知った時、憤慨はしばらく収まることがなかった。
犠牲者の中には、拓海にとって何よりも大切な人が含まれていたというのに。
終戦の8月15日まであと2週間というところで、彼女は若くして未来を断たれたのだ。
大和田橋には、弾痕が認められるだけでも合計17発の焼夷弾が直撃したが、多くの人々が橋の下に逃げ込んで難を逃れたという。
だが幸子はこの橋の上で亡くなった。逃げ遅れたのだろうか? 今となっては理由も分からない。
彼女を失って、初めて身近に感じた戦争の記憶。
大和田橋の歩道には、焼夷弾が直撃した痕が2箇所、透明板で覆われて保存されており、15箇所は色タイルで直撃箇所が示されている。
毎日通っていた場所なのに、幸子が空襲で亡くなるまで、そんなことすら知らなかった。
彼女がその若い命を散らしたのは、出会った場所からして、恐らくこの透明板のところ。
拓海はその場にしゃがみこむと、そっと透明板の表面を撫でた。
頑張ったね……、さっちゃん。
歩行者の邪魔になるので、お供えの仏花は橋の欄干に立て掛けると、そっと合掌した。
去年の命日は成仏から日が浅かったこともあり、ただずっと泣いていた。
思い浮かべるのは、彼女の天真爛漫な笑顔。
涙こそ出ないが、まだズキンと胸が痛む。この心が癒される日など、果たして来るのだろうか。
「そうか、成仏できたか」
その声に振り向くと、あの院長が立っていた。
「車の中から君の姿が見えたんでね」
橋の脇道を見ると、黒塗りのレクサスLSが停められていて、運転手が焦った様子でチラチラと腕時計を見ている。
拓海はスクっと立ち上がると、深々と頭を下げた。
「その節は大変お世話になりました。長いことご挨拶にもご報告にも伺わず、とんだ失礼を」
「そんなものはいい。治療する度に患者にお礼に来られたら、こっちはたまったものじゃない」
院長は欄干に手を掛けると、空を見上げた。照りつける、真夏の太陽。
「今日、君がいるということは、やはり彼女はここで空襲に遭って亡くなったんだな」
「知ってたんですか?」
「いつも車の中から見かけていたからな。あのモンペ姿は戦時中の装いだから、戦災で亡くなったことは容易に想像がついた」
国道を通り過ぎてゆく車に負けじと、蝉たちが鳴いている。
「それがいつの間にかいなくなったと思ったら、今風の服を着て君と一緒に病院に現れたんだから、さすがに驚いたよ」
院長が笑う。拓海もまた、口元に笑みを浮かべた。今となっては、とても懐かしい一幕。
「ひとつ、聞いていいですか?」
「何だね?」
ずっと気になっていたこと。
「俺、彼女が成仏したら、彼女との記憶は無くなるものだと思っていました。過去に遡って成仏出来たなら、俺たちの出会いだって起こり得なかったはずですし」
そう。記憶だけではない。彼女の服も、そしてセルフィーも、消えることなく、いまだに家に残っている。
「過去へ遡るなど、あり得んよ。相対性理論は未来へ行ける可能性は示したが、過去への逆行は物理法則的に無理だ。君たちの時間はしっかりと前に進んでいた」
「え?」
前と言っていることが違う。それに……。
タイムスリップでないとしたら、あれは一体何だったというのか?
院長が振り返って拓海を見る。
「今さらネタばらしをすると、君と彼女が遡った過去は、君の夢だ」
予想外の答えに拓海が固まる。
「それって……、どういう」
「あの呪文で、彼女が君の身体の中に入り込み、君の脳と彼女の思念に残っていた記憶がシンクロして、二人で同じ夢を見たのさ。過去に戻ったのではなく、彼女は君の夢に入り込んで記憶を再生し、自分の願いを叶えたんだ」
唖然とする。あれは、二人の強い願いが映し出した幻想だったというのか?
「でもっ……あの時、俺はこの腕で確かに彼女を抱きしめたんです!」
そうだ。あのキスは、あの温もりは、あの熱は、決して夢なんかじゃなかった。
「君も一度くらいは見たことあるだろう。高いところから落ちて、身体に衝撃を感じる夢を」
院長の説明にハッとする。
「レム睡眠、ようは浅い眠りのときは脳が活発で、触覚が夢と同期化する。よくある現象だ」
拓海は肩を落とした。院長の話で、あの日の全ての出来事に説明がついてしまうことに。
「じゃあ……、成仏した彼女がもし、生まれ変われたとしても、これからってことですか」
彼女が成仏により生まれ変わりを期待しているであろうことは、言葉の端々から感じ取っていた。決してそれを口にすることは無かったが。
だが、もし生まれ変われたとしても、今からであれば、自分たちが出会って再び恋をすることなど、できないだろう。
その事実に落胆する。万に一つの可能性だったとはいえ、彼女の切実だった願いを思えば。
「それは分からんよ。幽霊は残留思念の塊のようなものだから物理法則には逆らえないが、成仏出来たその後のことは私にも分からん。もしかしたら時空を越えられるかもしれんが」
ぶっきらぼうな物言いの中に光る、彼なりの優しさ。
「そういえば院長先生、以前に霊を成仏させたことがあったと、仰っていましたよね」
「ああ。それが何か?」
「あれって、奥様の霊だったんじゃないですか?」
拓海の言葉に固まる強面の医師。
「……参った。よく気づいたな」
院長が苦笑する。
「あの方法が夢だと分かっている先生なら、夢を共有したい人しか成仏させられないですからね」
してやったり、と拓海が返す。院長は橋の下をゆっくりと流れる川面に視線を落とした。
「……妻が重たい病気に罹ってね。非常に難しい手術を迫られた。成功確率は数パーセント、そんなオペを他人に任せて後悔したくは無かった。妻も私に執刀されることを望んでいた」
拓海が驚いて院長を見る。
「先生は内科じゃなかったんですか?」
「私は外科医だよ。外科医は内科診療も出来る」
彼はそう答えると、ふうっと息をついた。
「結果はご想像の通りだ。手術は成功しなかった」
これまで自信満々で、傲慢にすら見えていた大病院の院長の、意外な心の闇。
「……苦悩したよ。やはり他の人に任せるべきだったんじゃないか、とね。そんな時に、妻が幽霊になって私の前に現れたんだ」
院長の話に引き込まれる。順序こそ違うが、自分と同じ境遇に身を置いていたことに。
「妻は私に言った。助からないことは元より覚悟していた。たった一つの未練は、最後に私に手料理を作ってあげたかった、と。病気になってからは入院続きで家のことが何も出来ず、それだけが心残りだったと」
今なら拓海にも分かる。ただ、相手のことだけを思う気持ち。
「自分が幽霊として私に憑いていると、手術のことをずっと引きずることになる。それは本意じゃない。だからあの日に戻って、私に手料理を作って、そして成仏をしたい、と」
当時に思いを馳せているのか、優しい眼差し。
「それから、私は必死になって色々と調べた。古い寺社仏閣、片っ端から回って神主や僧侶、見掛けた幽霊に、成仏する方法を聞きまわった。そしてあの方法に辿り着いたんだ」
多忙な身のはずなのに、それは途轍もない労力だったであろう。そこにあるのは、見返りなどは求めない、真実の愛だ。
「妻は手術の前日に戻って、すごく喜んで料理していたよ。私の好きなものばかり、自分が死んでも、私が暫く食べ続けられるようにと、沢山作ってタッパに入れて、冷凍庫にぎっしりと詰め込んで。そんなもの、私の夢を借りてのことだから、現実には残せないのにな」
強面の医師の頬を伝う、ひと筋の涙。
プロローグ かげろうの君と #01 プロローグ|京
