かげろうの君と #17 第五話 八月②
第五話 八月②
空は快晴で、あちこちから蝉の鳴き声が聞こえてくる。身体が無いので分からなかったが、季節は真夏のようだ。
「暑いわね。この感覚、とても懐かしいわ」
手のひらで太陽の光を遮りながら呟く幸子は、何となく嬉しそうに見える。
「あ、さっちゃん。まずは駅に行きたいな」
「分かったわ。例の拓海の内緒話ね」
拓海のリクエストに、幸子が楽しそうに笑う。
「あら、幸さっちゃん。おはよう。今日も暑いわねぇ」
角を曲がったところで、幸子の知り合いらしきおばさんに呼び止められた。
「おはようございます、おばさま。本当に」
気まずそうに作り笑顔を浮かべる幸子。
「そうそう、聞いた? そう言えば三丁目の昭子ちゃん、今度結婚するそうよ」
「ええ、伺っておりますわ」
「幸ちゃんも良い人いたらいいけどねぇー。せっかくの別嬪さんなんだし」
「いえいえ、あたしはそんな……。じゃああたし、これから仕事がありますので」
仕事を口実にその場を切り上げる彼女。
「知り合い?」
「近所の噂好きのおばさんよ。あることないこと言いふらされるから苦手なの」
「なるほど。いつの時代にもいるよね、そういう人」
「ほんと、嫌になっちゃう」
幸子はプクッと膨れると歩き出したが、再び立ち止まった。
「どうしたの?」
彼女は道端に落ちていたA5判くらいの紙を拾い上げると、直ぐに折りたたんで手提げ鞄に仕舞った。
「それ、何?」
「……ただのゴミよ。誰か知らないけど、こんなところに捨てて、困っちゃうわ」
「ふーん?」
しっかり者の彼女に改めて感心する。
幽霊の時は何も出来ない状況だっただけに、生きている彼女に改めて惚れ直す。
それにしても。
「想像していたのとは全く違う街並みだね。まるで映画のセットに迷い込んだみたいだ」
「ふふ。それを言うならあたしだって」
「確かに」
今なら理解できる。初めて街を案内した時の彼女の驚き様が。道はアスファルト舗装されておらず、歩道もなく、所狭しと木造家屋が立ち並ぶ。
「もうすぐ駅前よ、拓海」
目の前が開けて現れたのは、拓海の時代からは想像すらつかない、こぢんまりとした駅舎。
「どう? あたしが驚いた理由、分かったでしょう?」
「うん。面影すら残っていないね。で、ここは北口? 南口?」
「北口よ」
「そっか。となるとこっちだね。この道を真っ直ぐ行ってくれるかな?」
「分かったわ。今度は一体、どんなさぷらいずが待っているのかしら?」
幸子が拓海との暮らしで身につけた現代語を口にして、くすくすと笑う。
「この時代は英語を口にしたらダメなんでしょ?」
周りをキョロキョロと見回しながら、拓海が幸子を諌める。
「大丈夫よ。憲兵はそもそも英語なんて分からないし、父は海軍で戦死して金鵄勲章をもらっているから、家族のあたしには手を出せないの」
そう言って、寂しそうに笑う幸子。
彼女のことだ。そんな特権など、要らなかったのだろう。ただ、父親の無事だけを祈り、その帰りを待ち続けていたに違いない。
「お父さんはきっと、さっちゃんが一人になっても困らないよう、最後まで頑張って勲章を取ったんだね」
驚いた表情で幸子が拓海を見る。
何か変なことを言ったのだろうか?
「……そうね。そうなのかもしれないわ」
寂しそうに微笑む彼女。
「拓海はやっぱり素敵な人ね。この時代にそんな考え方を出来る人なんていなかったわ」
個人の感情が軽んじられ、国体護持が何よりも優先された全体主義の世の中。たった一人の肉親の戦死の報に、声を上げて泣くことすら出来なかったであろうことは想像に難くなかった。
「そんなことないよ。口に出すことが出来なかっただけで、人の想いはずっと昔から変わらないと思う。大切な人を想う気持ちは。お父さんは絶対にさっちゃんを大切にしていたと思う」
もちろん俺も、と言い掛けて口を噤む。
「……うん」
幸子はこちらの気持ちを察してくれたようで、急に照れ臭くなってきた拓海は、幸子の前に立ち、先を促した。
「あ、あったあった。目印の魚屋さん」
わざとらしく指差す拓海に幸子が首を傾げる。
「ここが、拓海が連れて来たかったところ?」
「あ、いや、目印にしてただけ。この魚屋さんは戦前からここにあるって聞いたから。このお店は向こうでお昼にも通ったでしょ?」
「え? そうなの? 気づかなかったわ」
「あー、ちゃんと教えれば良かった。ごめんね」
「ううん。その、ずっと拓海のこと見てたから」
沈黙。
「やだっ、あたしったら」
二人して真っ赤になり、俯く。側から見たら幸子の一人芝居。人目が無いのが幸いだった。
「あ、えっと、次はそこの角を左に曲がって」
「ああ、うん……。ところで、どこに向かっているの?」
「えっと、まあ、もういいか。田島食堂っていうところなんだけど」
彼女が目を丸くする。
「それって……父の友人がやっている食堂よ」
「ええっ!? 知り合いのお店!?」
今度は拓海が驚く番だった。
「昔、海軍で一緒のフネに乗っていたみたい。店主のおじさまは戦争が始まる前に身体を壊して退役したって」
「なんだ。そんなことなら、最初からさっちゃんに言っておけば良かった」
ガックリと肩を落とす拓海に、幸子が口元に手を当てて笑う。
「仕方ないわ、拓海のさぷらいずなんだから。それで、そのお店がどうしたの? どこにでもある外食券食堂よ?」
「外食券食堂?」
「自炊をしない工場で働く人や、行商の人たちのための食堂よ。国から交付された外食券を持っていないと食べられないわ」
食糧難の時代だからこその配給統制は昔に聞いたことがある。もっとも狙いはそこじゃない。
「そうなんだ。……実はネットで調べたんだけどさ、そこの食堂、戦時中にこっそり隠れて、常連客にコーヒー、それもブルーマウンテンを出していたんだって」
「えっ? ブルーマウンテン?」
幸子の目が大きく開かれる。
「それで向こうの昼間に、駅からの位置関係を調べていたのね」
納得した様子で拓海を見つめる幸子。
「そういうこと。ま、区画がガラリと変わっているようだったから、当時から残っている魚屋さんと銀行を目印にしたんだけど、さっちゃんが知ってたなら、最初に相談すれば良かった」
頭を掻く素振りをすると、幸子は小さく首を振った。
「ううん。あたしは拓海の気持ちが嬉しいの」
胸に手を当て、目を瞑る彼女。拓海の想いを噛み締めるように。
幸子の知っている場所となれば話は早かった。そこから5分ほどで食堂に辿り着く。
既に朝食時を外れているので、他の客も居そうにない。
幸子は引手に手を掛けると、拓海と頷き合ってから、ガラッと食堂の引き戸を開けた。
「……おはようございます。田島のおじさま」
テーブルに座って新聞を読んでいた男が顔を上げる。思った通り他に客はいなかった。
「あれ? さっちゃんじゃないか。どうしたんだい、こんな時間に。会社は?」
「……今日はちょっと、体調が優れなくて」
しおらしく目を伏せる幸子。
「ふむ。じゃあすいとんでも食べていくかい? さっちゃんは特別だ」
にこやかに応じる店主。
「あ……その……おじさま。すいとんじゃなくて……」
ご禁制のコーヒーだけに、いざとなると、その名を口にすることがなかなか出来ないようだ。
幸子に向かって頑張れ、と念じる。
「ぶ……ブ、ブルーマウンテン、ありますか?」
やっとのことでその名を口にすると、店主の動きが止まった。
「……ここにはご禁制の珈琲なんて、置いてないよ。見ての通り、しがない外食券食堂だ」
先ほどとは打って変わって、冷たい声。それはそうだろう、警戒されて当然だ。
「そうですか……。ごめんなさい」
しょんぼりとする幸子。
って、ここで諦めちゃダメだ、さっちゃん!
ここからどうやって説得をしようか、拓海が焦っていると、店主の田島は軽くため息をつき、立ち上がって通りを覗いてから、そっと引き戸を閉めて鍵を掛けた。
「ちょっとこっちに来なさい」
店の奥は居間になっていて、幸子は躊躇いながらも、促されるままに靴を脱いで上がった。
そしてちゃぶ台の前に正座する。
「誰から聞いた? 珈琲のこと」
「あ、その、父の知り合いの方から」
咄嗟に取り繕う。
「となると、生き残っている知り合いなら村瀬さんか。仕方ないな」
口では憤慨しているが、その表情は何処と無く楽しげだ。
田島は居間の棚をガサゴソと漁ると、大きめの行李を引き出し、蓋を開けた。
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