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ショートストーリーズ⑧

ショートストーリーズ①の続きです。

個人的にこれまで書いた作品の中で
書き手としてではなく、読み手として最も好きな作品です。


営業部の吉川が退職して一ヶ月が過ぎた。
目配せができる男は、
新天地でもきっと活躍しているのだろう。

桜が舞い散るコンビニ裏でアオハルを
盗み聞きしたのが、つい昨日のことのようだ。

俺は、吉川のように今の場所を飛び出す勇気はない。
年齢か、能力か、人望か──
いや、単に踏み出す勇気がないだけだろう。

一寸先は闇、ではないが、未知の世界に
飛び込むには少し年齢を重ねすぎたらしい。

そう自嘲しながら帰路を歩く。
アパートの近くにある小さな公園。
公園というにはあまりにも狭いが、
都会の公園なんてこんなものだ。

ふと視線を感じてそちらを見ると、
ベンチに若い女性が佇んでいた。
こちらを見ている……ような気がした。

"そんなわけないか"

そう思い、周囲を見回す。
誰もいない。

再び公園の方へ目を向けると、
その女性はもう目の前に立っていた。

「うわっ!」

不意の接近に思わず声が出る。

「おじさん、一人?」

おじ…さん……。
よく見ると若い。
俺より一回り、いや一回り半は下か。
そうか、俺は“おじさん”なのか。
その一言に途轍もないダメージを受け、
しょんぼりしながら答える。

「そうだけど、なに?」

彼女はにっこり笑って言った。

「財布落としたの。電車代貸して」

彼女は満面の笑みで右手を出している。

あぁ、こういうのなんて言うんだっけ──。
言葉が出てこないまま、半ば諦めて聞き返す。

「どこまでの電車代?」

「横浜まで!260円!」

満面の笑みのまま即答された。
こういう時はもっと高額なんじゃないのか……
いや、塵も積もればか。
そう思いながら、財布から千円札を取り出して渡す。

「え、これじゃ三回乗れちゃうよ」

彼女は困ったように受け取らない。

「あいにく小銭がないんだ。
 返さなくていいから、受け取って」

やりとりが少し面倒になってきた。
しかし、彼女のこの反応は少し新鮮だ。

「分かった。
 でも、ちゃんと返すよ」

真剣な顔でそう言うと、また笑顔に戻り、
駅の方へ小走りに向かっていく。
そして一度振り返り、

「絶対返すから!」

と大きな声で手を振った。
俺は小さく手を振り返し、苦笑いを浮かべた。

家に帰り、シャワーを浴びて、
ビール……違う、発泡酒を煽る。

「あ、そうだ。“寸借詐欺”だ!」

先ほど思い出せなかった言葉を突然思い出し、思わず声が出る。
それがなんだか可笑しくて、一人で笑った。

よく考えれば、職場以外であんな年下の女性に声を掛けられ、
笑顔を向けられることなんてない。
夜のお店ならあるかもしれないが、それならもっと高額になる。
千円であの笑顔を見られたなら、安いものだ——そう思うことにした。

——翌日。
俺は同じ帰路を歩いていた。
すると、後ろから

「おじさん!」

と声がする。
俺は心の中で “俺じゃない” と必死に否定する。
だが、袖を掴まれた瞬間、その抵抗はあっさり崩れた。

「やっぱり!」

振り返ると、昨日の彼女だった。
昨日より少し明るい時間に見る彼女は、
思っていた以上に若く見える。

「いや……おじさんじゃねぇし」

せめてもの意地で言い返す。
彼女は一瞬きょとんとしたあと、
すぐにクスクスと笑い出した。
その声はまるで鈴が鳴るようで、なんとも言えず癒される。

「ごめんね。そんなに傷ついてた?」

笑いを堪えながら、彼女はそう言った。
そして、彼女はカバンから千円札を取り出し、
俺に差し出してきた。

「返しに来たの」

笑顔でそう言う。
“まじめな子だな……”
昨夜「詐欺」呼ばわりした自分を少しだけ恥ずかしくなった。

「別に返さなくていいって言ったのに。
 わざわざありがとうな」

真剣な眼差しで差し出されたものを
突っぱねるのも失礼だと思い、素直に受け取る。

「おじさん……あ、ごめん。
 お兄さん、これから帰宅?」

その言い直しが、心臓に刺さる。
若い子に気を使わせてどうするんだよ……。
情けなさが込み上げてきて、
少し泣きたくなりながら答える。

「そうだよ」

しょんぼり返すと、
彼女はぱっと表情を明るくした。

「じゃあさ、あたしとごはん食べにいこ」

思いもよらない提案に、頭の中が真っ白になる。
いや、待て。
そんなことしたら職質まっしぐらだし、よしんばそれはなくても、
他人から見たら“パパ活”とか思われるじゃないか……。

自己防衛本能なのか、俺の脳は仕事中以上の猛回転を始めていた。
硬直する俺の手を取り、彼女は強引に駅の方へと引っ張っていった。

——駅前の居酒屋。
なぜだろう、俺の目の前にはうら若き女性が一人。
ビールを煽っている。
そして向かいに座るのは俺一人。

突然陥った謎のシチュエーションに困惑しつつ、
平静を装って口を開く。

「酒が飲める年齢なんだ」

そう言いながら、冷えたビールを口にする。
ビールがこれほど苦く感じるのはいつ以来だろう。

「え、そんな若く見えてた?
 あたし、26歳だよ」

一回り離れてるやんけ……。
心の中で再びダメージを負いながら、

「そうなんだ。もっと若いのかと思ってた」

と返す。
同時に、頭の中ではいくつもの“オチ”が浮かんでは消える。
美人局的なアレか?
このあとボッタクリ店に連れていかれるのか?
ツボとか売られるのか?
内心ソワソワとはまさにこのことだ。

そんな俺の心を見透かしたように、彼女は口を開いた。

「何も騙そうとか思ってないよ、オニイサン。
 オニイサン、ちゃんとしてる人だったから嬉しくって。
 もっとお話してみたかったの」

そう言って笑顔を見せる。

「ちゃんとしている?」

疑問を投げかけると、彼女は頷いた。

「そうそう。
 昨日ホントに困ってて、駅で同じようにお願いしたんだけど、
 みんな“ならウチに来ない?”とか“家まで送ろうか”とか、
 下心MAXなんだよね」

プリプリと怒るように話す彼女。

「それは……
 野郎にしか声を掛けなかったからなのでは……?」

素直に辿り着いた答えを口にすると、
彼女はニヤッと狡い笑顔を見せ、

「そうだねぇ」

とだけ答えた。

なんだろう……これは何かの罠にハマったのか。
俺はザワザワとする心を静める様にビールを煽った。


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