琥珀
「世界の構造を知りたくて、勉強していたのね」
真帆は眼鏡を外し、ごしごしと目を擦る。
2月の終わり。今年はじめての春コートをするりと脱ぎ捨て、バーカウンターのスツールに掛けた。
「ああ。俺はそれをずっと追いかけてた」
鳴海はソファからゆっくりと立ち上がり、カウンターの中に立つ。
「真帆。今日は飲むか」
「あったかくて、風邪に効きそうなのを、お願い」
「花粉症に効くほうが良さそうだけどな。湯を沸かすから待ってろ」
部屋の隅のバーカウンターが、真帆のお気に入りだ。
未開封のままのパーラメントの箱に気づき、真帆は手を伸ばす。
「鳴海、これ吸ってたんだ」
「ああ。今は吸わないけどな」
「吸わないのに置いてるって、なんの修行してるのよ」
煙草を前に我慢し続ける鳴海を想像し、真帆は笑った。
「それなら私もここで今、修行中よ。鳴海がパーラメント持ってるなんて、似合いすぎる」
誘惑には負けないわ、と真帆はそれを彼の方へ押しのけた。
鳴海はかすかに笑った。タンブラーに砂糖を入れ、熱湯で溶かしていく。
「自分が世界の仕組みを学んでたなんて、思ってなかった」
メジャーカップでダークラムを注ぎ、男は続ける。
「男は世界を掌握したいものなんだろうな」
熱湯でタンブラーを満たし、バターを浮かべ、彼は訊いた。
「ホット・バタード・ラム。シナモンいるかい」
真帆はシナモンスティックを受け取り、バターを溶く。
ラムの独特の香りが広がった。ひとくち飲み、バターの混ざらぬ脂味にうっとりと目を閉じる。
◇◇◇◇◇◇
「それで真帆。あの続き、書いてるのか」
冷たい声というナイフを頸動脈に突きつけられた。瞬間、体の芯が脈打ち、快感が背筋を駆け抜けた。
「書きたいんだ。だけど今はまだ言葉にするには早いみたい」
鳴海はふっと笑うと、グラスに更に熱湯を注いだ。ラムの香りに鼻腔を塞がれ、同時に言葉に耳を塞がれる。
「ならば書かずにいられなくなるまで、何も書くな」
何も書くな。
ソレはたちまち瞼を塞ぐモノとなったが、真帆は粒を落とさぬよう堪えた。
落とせば、雫とともに痛みが逃げる。
この体をくり返し駆け抜ける。
まだ柔らかい真帆のピンと張った弦を、鳴海の言葉が柔らかく触れ、ほんの少し強くひっかく。
真帆は言葉を紡ぐことを忘れ、自身の弦の震えと鳴き声に意識を明け渡した。
男の声が真帆の耳から注がれる。紡がれる言葉は真帆というひとりの女を絡め取る。
「真帆、その時に感じたのはどんな感情か、言葉にして」
真帆はカクテルを飲みながら、ふるえる心に潜っていく。
「鳴海に叱られたいと思ったよ。以前のように厳しくしてほしいって」
真帆は必死で涙を堰き止めていた。こぼしてしまえば、声を出せなくなりそうだから。
書きたい。書かせて。
鳴海に研磨されたいのか。
――鳴海に砕かれたいのか。
真帆の手に、タンブラーが渡される。
蒸気が香りと湿度を運ぶ。
「奥へ逃げるな。戻れなくなる。よく観察して」
彼の差し出す手から眼鏡を受け取る。
それは、合図。
©極夜
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