【業裏】 なぜ日本の派遣業は規制緩和後にここまで拡大したのか
1999年の原則自由化がもたらした製造業派遣解禁と、非正規雇用拡大の構造
(1)はじめに——「雇用の調整弁」という便利な言葉
「雇用の調整弁」という言葉がある。景気が良ければ増やし、悪くなれば絞る、そういう存在として派遣労働者を位置づける表現だ。
聞こえはいい。企業が生き延び、正社員の雇用を守るために、非正規が弾力を担う。まるで社会全体の安定装置であるかのような響きだ。しかし「調整弁」とはつまり、必要なときだけ開き、用が済めば閉じるということである。閉じられた側の人間の話は、この言葉には含まれていない。
日本の派遣業は、1986年の労働者派遣法施行から現在に至るまで、法改正のたびに規制が緩和され、市場は際限なく拡大してきた。非正規雇用者比率は、1984年の15.3%から2019年には38.3%へと、ほぼ四半世紀で2.5倍に膨らんでいる。
この構造はいかにして生まれたのか。吾輩は、その歴史を丁寧に辿ることが、現在を理解する唯一の道だと考える。

(2)禁断の扉が開くまで——1985年、中曽根内閣と派遣法の誕生
戦後日本において、労働者派遣は長らく「禁じ手」だった。第三者が雇用関係に介入し、労働者を「供給」するという行為は、旧職業安定法44条が禁止する「労働者供給事業」に当たるとされてきた。その背景には、戦前の「口入れ屋」と呼ばれる中間業者が労働者を搾取した歴史への反省がある。
しかし1970年代から、日本ではすでに「業務請負」という名目で、事実上の人材派遣が横行していた。法の抜け穴を利用したグレーゾーンである。これを適法化し、制御可能な形に整えることを目的として、1985年(昭和60年)6月、中曽根康弘内閣のもとで「労働者派遣法」(正式名称:労働者派遣事業の適切な運営の確保及び派遣労働者の保護等に関する法律)が成立した。翌1986年10月に施行され、日本の人材派遣業の歴史が正式に幕を開ける。
ただし、この時点での対象業務は、ソフトウェア開発、秘書、通訳・翻訳など、専門性が高く、労働者の立場が比較的強い13業種に限定されていた。いわゆる「ポジティブリスト方式」——許可されたものだけが合法という、穏健な出発点だった。
この立法を後押しした背景として、当時の行政改革の流れを指摘する必要がある。いわゆる「土光臨調」(第二次臨時行政調査会)が1982年に最終答申を出し、「小さな政府」と規制緩和の方向性を打ち出していた。労働市場の規制緩和も、その流れの中にあった。
(3)バブルとデフレの間で——規制緩和の加速と「雇用ポートフォリオ」の登場
1986年の施行後、バブル景気の恩恵を受けて派遣市場は順調に拡大した。1990年代初頭にバブルが崩壊すると、日本経済は構造的な低成長期に入る。企業は、固定費の塊となった正社員の雇用を維持しながら、人件費を圧縮する方法を模索し始めた。
この時期に決定的な役割を果たしたのが、1995年5月に日本経営者団体連盟(日経連)が発表した『新時代の「日本的経営」——挑戦すべき方向とその具体策』だ。この報告書は、雇用の在り方を「長期蓄積能力活用型」「高度専門能力活用型」「雇用柔軟型」の3グループに分ける「雇用ポートフォリオ」という考え方を提唱した。
「雇用柔軟型」とは、パート、アルバイト、派遣社員など非正規雇用の総称である。報告書自体は、人件費削減を直接的な目的として記述したわけではなかった。しかし連合(日本労働組合総連合会)は公表わずか2日後の見解で、この雇用ポートフォリオ論が正規雇用を非正規に置き換える論理的な根拠として機能すると批判した——そしてその懸念は、その後の歴史が証明することになる。
1996年(橋本内閣)には、研究開発や広告デザイン、アナウンサーなど10業種が追加され、派遣対象は合計26業種に拡大された。規制緩和の歩みは着実に続いていた。
(4)1999年——禁断の「原則自由化」
そして決定的な転機が、1999年(小渕恵三内閣)に訪れる。
この年の改正で、派遣対象業務は「ポジティブリスト方式」から「ネガティブリスト方式」へと根本的に転換した。すなわち、禁止される業務だけを列挙し、それ以外はすべて派遣可能とする「原則自由化」である。
この改正を支持した政党は、日本共産党を除くほぼ全ての会派だった。与党はもちろん、当時野党だった民主党も賛成票を投じている。規制緩和は、1990年代末の日本においてほぼ超党派的な「常識」だったのだ。
禁止業務として残ったのは、建設、港湾運送、警備、弁護士などの士業、そして——ここが重要だが——「物の製造業務」だった。当時の製造業は、労働組合の力が比較的強く、単純労働者の派遣解禁には強い抵抗があった。しかしこの「最後の砦」は、5年後に陥落することになる。
1999年の原則自由化後、人材派遣業者は急増し始める。事務系、営業系、販売系などあらゆる職種で派遣が普及し、「とりあえず派遣で」という企業の人材調達パターンが定着していった。
(5)2004年——製造業解禁という「最後の扉」
小泉純一郎内閣のもと、構造改革路線が最高潮に達した2004年(平成16年)3月、製造業務への労働者派遣がついに解禁された。「物の製造業務」という最後の禁止業種が撤廃されたのである。
この改正により、派遣労働者の裾野は決定的に広がった。製造ラインへの派遣が合法化されたことで、これまで「偽装請負」という違法状態でグレーゾーンにいた工場労働者が、名目上は合法化された派遣という形に移行していく。製造業派遣の労働者数は、2000年の約33万人から2008年には約140万人へと、8年で4倍超に急増した。
この改正に関しては、竹中平蔵元大臣の関与を強調する論調が世間に広まっているが、実際には製造業派遣を直接所管したのは厚生労働大臣であり、竹中氏は当時、経済財政政策担当大臣として間接的に構造改革路線を推進した立場だった。一方で1999年の原則自由化の最大の転換は小渕内閣下で行われており、「派遣=小泉・竹中の産物」というイメージは歴史的に正確とは言えない——ただし小泉内閣が製造業解禁という最大の質的転換を行ったことも事実であり、どの内閣も累積的な責任を負っていると見るのが適切だろう。
なお製造業派遣の当初の上限は派遣期間1年だったが、2007年には3年に延長される。この延長が後に「2009年問題」——3年の契約満了が一斉に到来するタイミングに派遣切りが集中する——の伏線となった。

(6)就職氷河期という地盤——供給側の構造
派遣業の拡大を論じるとき、法改正という「需要側の制度」だけを見ていては不十分だ。そこに流れ込んでくる労働者の「供給側の構造」もまた、この問題の根幹にある。
1993年以降、大学新卒者の就職率は急速に悪化した。バブル期に乱採用した企業が、崩壊後に新卒採用を激減させたからだ。1990年に2.77倍あった大卒求人倍率は、2000年には0.99倍にまで落ち込んだ。これがいわゆる「就職氷河期」である。
この時期に学卒年齢にあった世代——現在の40代後半から50代前半——の多くは、「正社員として就職できなかった」のではなく、「正社員の採用枠がそもそも存在しなかった」という現実に直面した。やむなく非正規雇用でキャリアをスタートした若者は、いったん非正規に入ると正規への転換機会が極めて少ないという日本の雇用慣行の壁に阻まれた。
非正規で積んだ職歴は、当時の日本の採用市場ではなかなか「経験」として評価されなかった。こうして就職氷河期世代の少なからぬ人々が、派遣という形態に固定化されていく。若年層(15〜34歳)の非正規社員は、1990年の183万人(同世代の10.4%)から2001年には417万人(21.2%)へと、10年余りで2倍以上に増えた。
(7)2008年、日比谷の冬——「調整弁」が閉じられた日
2008年9月15日、リーマン・ブラザーズが経営破綻した。世界を駆け抜けた金融危機の余波は、日本の製造業を直撃した。自動車、電機を中心とした大企業が、相次いで製造業派遣の契約を打ち切った。「派遣切り」という言葉が、新聞の一面を連日飾った。
厚生労働省は、2009年2月までに製造業を中心に15万5000人が失職すると公表した(実数はさらに多かったと考えられている)。さらに製造派遣・請負会社の業界団体の試算では、最大40万人が失業するという数字も出された。
より問題を深刻にしたのは、多くの製造業派遣労働者が、派遣会社や雇用企業の「寮」で生活していたことだ。派遣契約が打ち切られると同時に、住む場所も失うという事態が各地で発生した。2008年12月31日から2009年1月5日にかけて、東京・日比谷公園に開設された「年越し派遣村」には、仕事と住居を同時に失った数百人が集まり、越年した。
「調整弁」が閉じられたとき、中に入っていた人間はどこへ行けばよいのか——その問いが、社会に突きつけられた瞬間だった。
2009年には自民党が衆院選で歴史的大敗を喫し、民主党へと政権が交代した。派遣問題は、政権を揺るがす争点となっていた。
(8)規制強化と「同一労働同一賃金」——処方箋は効いたか
年越し派遣村の衝撃を受けて、2012年以降の派遣法改正は規制緩和から規制強化へと舵を切った。日雇い派遣(30日以内の短期派遣)が原則禁止となり、派遣労働者への雇用安定措置や均等待遇への努力義務が課された。
2015年の改正では、派遣期間の通算3年という上限が設けられ、企業が同一の派遣社員を事実上永続的に使い続けることを制限する仕組みが導入された。さらに2020年には、「同一労働同一賃金」の原則が法的に求められるようになった。
これらの規制強化は、一定の効果をもたらした。しかしその効果は、複雑な現実によって相殺される面もある。3年ルールは、派遣社員を正規に登用する動機にもなるが、同時に3年ごとに別の派遣社員と交代させるという運用を生み出す。同一労働同一賃金は、格差を是正する理念だが、「正規の待遇が非正規水準に引き下げられる」という逆の圧力を生む可能性も否定できない。
2024年6月時点での派遣労働者数は約191万人であり、人材派遣業の市場規模は2023年度には約9兆2800億円に達している。リーマンショック前の約7兆8000億円のピークをも上回る水準だ。制度的な制御は強まったかもしれないが、派遣という雇用形態そのものが社会インフラとして定着したという現実は揺らいでいない。
(9)おわりに——構造としての非正規化
吾輩が本稿を通じて浮かび上がらせたかったのは、派遣業の拡大が単一の悪役によって引き起こされたわけではない、という事実だ。
中曽根行革が扉を開き、日経連の「雇用ポートフォリオ」が企業に思想的な根拠を与え、超党派で成立した1999年の原則自由化が市場の扉を大きく開け放ち、小泉政権下の製造業解禁が最後の砦を破った。そこに就職氷河期という人口学的な条件が重なり、大量の若者が非正規雇用に流れ込む土台が整った。
どこか一点を「原因」に特定することは難しい。むしろこれは、日本社会がバブル崩壊以降の長い低成長のなかで、「柔軟性」と「効率性」の名のもとに、雇用のリスクを企業から個人へと段階的に移転してきた、その集積である。
企業は「調整弁」を手に入れた。失われた20年を生き延びた。しかし調整弁として機能した側の人々の多くは、正規雇用への道を閉じられたまま、年齢を重ねていった。就職氷河期世代の問題が「政策的失敗」として認識されるようになったのは、その世代が40代、50代になってからのことだ——対策が間に合ったかどうかは、なお問い続けられなければならない問いである。
人間を「調整弁」と呼ぶとき、その弁の内側にいる人間の声を聞こうとしているかどうか——それが問われているのだ、とつくづく思う。

【出典・参考資料】
1. 日本の人事部「労働者派遣法とは——改正内容のポイントや歴史」(https://jinjibu.jp/)
2. リクルートスタッフィング「労働者派遣法①わかりやすく解説『派遣法』の歴史【前編1986〜2004】」(https://www.r-staffing.co.jp/)
3. リクルートスタッフィング「労働者派遣法②わかりやすく解説『派遣法』の歴史【後編2008〜2020】」(https://www.r-staffing.co.jp/)
4. 内閣府「第2章第3節 労働の質の向上に向けて」(令和4年度年次経済財政報告、https://www5.cao.go.jp/)
5. 総務省統計局「統計Today No.97 最近の正規・非正規雇用の特徴」(https://www.stat.go.jp/)
6. 佐野社労士事務所「非正規労働者はなぜ増加したの?」(http://www.sharoushi-sano.jp/)
7. 阿部正浩「非正規社員の構造変化とその政策対応」(NIRA、2008年)
8. 厚生労働省「平成25年版 労働経済の分析 第3節 構造変化と非正規雇用」
9. リクルートワークス研究所「日経連『新時代の「日本的経営」』非正規雇用増加の契機説を検証する」(Works誌191号)
10. 経済産業研究所(RIETI)「『新時代の日本的経営』の何が新しかったのか?」(https://www.rieti.go.jp/)
11. 今野晴貴「『派遣村』から10年 その背景と、現在も続く問題への対処法を考える」(Yahoo!ニュース、2018年)
12. 年越し派遣村 - Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/年越し派遣村)
13. 派遣切り - Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/派遣切り)
14. 厚生労働省「労働者派遣事業報告書の集計結果」(各年度)
15. 矢野経済研究所「2023年度の人材派遣市場規模推計」
16. 山田コンサルティンググループ「人材派遣業界——市場規模・事業所数の推移と法改正」(https://www.ycg-advisory.jp/)
17. イミダス「空港整備特別会計」(https://imidas.jp/)— 参照のみ(比較目的)
18. 近藤絢子『就職氷河期世代——データで読み解く所得・家族形成・格差』(中公新書、2024年)
#派遣法 #非正規雇用 #就職氷河期 #日本の雇用問題 #労働政策
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