実家本箱断捨離の記(別冊)| 持ち帰った太陽
新卒で入ったデザイン制作会社で、溜まりに溜まったモノを大々的に処分することになった。
「これを捨てるのは忍びないから、お前が持って帰れ」
そう言われて、持ち帰ったものがある。
師匠と思う人たちが「捨てるに忍びない」と言うのだから、「捨ててはいけない」としっかりインプットされた。
持ち帰ったのは、昭和に発行された雑誌『月刊 太陽』だった。
とはいえ、それは三十冊ほどあった。わたしにとっては重いだけだった。
早速、本箱に並べた。
並べただけだった。
実家本箱の断捨離で、『月刊 太陽』と久しぶりに再会した。
「どうする?」と問われ、すかさず「持ち帰る」と返事をしていた。条件反射のようなものだ。
そんなだから、自宅に持ち帰ったものの、行き先を決めかねたまま、玄関に放置していた。
三日ほどたって、ようやく『月刊 太陽』の山の前に座った。どうにかしないと、という消極的な理由からだ。あてもなく一冊ずつ手に取り、山を崩しながら、発行年ごとに小さな山に分けていく。
1968年から1978年まで、数はバラバラ。いちばん高くなったのは1970年。一方で1974年は一冊もない。分けているうちに、なにかがひっかかり始めた。まだ正体不明。
1970年を平らに並べてみた。
……………これは…………。
二の句が出てこない。
世界の人形。ハワイと南太平洋。吉野と高野山。世界の飛行機。金と銀。沖縄。スペイン。
圧倒的だった。
写真もデザインも、特集のチョイスも。
ようやく頭が働き出して、浮かんだのはひとつだけ。
なんでもっと、ちゃんと聞いておかなかったのか。
師匠たちはもういない。
師匠たちが「捨てるに忍びない」と言った正体は何だったのか。
こうなったら、『月刊 太陽』の山に聞くしかない。
1970年といえば『世界の国からこんにちは』。大阪万博が開催された年だ。子供心に、あの歌はよく覚えている。世界を見たい、未来を見たい、遠くへ行きたい。そんな空気が、日本中に溢れていたという。
「web太陽」の公式サイトに飛んでみた。そこには、1963年6月発行の創刊号に掲載された「創刊のことば」が掲げられていた。
——全国の家庭のみなさん!
もっともありふれたところに、もっとも独創的な泉を掘ろうとする「太陽」を見守り、そだて、はげましてください。日本民衆の未来のために、日本文化の健全さを立証するために。——
(平凡社『月刊 太陽』創刊号「創刊のことば」より抜粋)
熱い。
ちょっと、くらくらする。
そういえば、この表紙のない号は?
その特集は「石川啄木と北海道」だった。どんな表紙だったのだろう。切り取って、手元に残しておきたい表紙だったということか。こんな写真を撮りたいと思ったのかもしれない。こんなデザインをしたいと思ったのかもしれない。
1974年発行の号が一冊もないのはなぜか?
積み重ねると、1975年以降のものはほんの数ミリだけれどサイズが小さい。思い当たるのは、1973年10月の第一次オイルショック。紙が高騰した。『月刊 太陽』も、その煽りを受けて紙取りの節約を余儀なくされたのかもしれない。師匠たちも苦労したのかもしれない。
ああ、かもしれないばっかりだ。
手がかりを求めて、ぱらぱらとページをめくる。
あっ。手が止まった。
これは? こっちは? 次々とページをひっくり返す。
探すつもりが、確かめる作業に変わっていた。
——そういうことか。
今度は、いつの間にか笑っていた。
『月刊 太陽』の中には、わたしの好きなものが溢れていた。美しいレイアウトに、惚れ惚れする。目の付け所、ものの見方、掘り下げ方まで含めて、思い当たる節が数々ある。
本箱に並べただけと思っていたけれど、すっかり忘れていただけらしい。たぶん見ていた。それどころか、わたしの中の基準の一部は、ここで培われたのかもしれない。あっけないくらい、ストンと腑に落ちた。
だとしたら、あのセリフ。『月刊 太陽』を、わたしの手元に渡してくれた師匠たち、かっこよすぎるではないか。
『月刊 太陽』は、忘れていたけれど、わたしの中に残っていた。
すごいものをすごいと受け取れる。それは、嬉しいことだ。
本箱を片づけていたはずが、こちらが掘り起こされていた。
三十冊の『太陽』を、よっこらしょと持ち上げる。
重いことに変わりはないけれど、
すぐ引っ張り出せるよう、うちに来た誰の目にも触れやすい本棚に並べた。
本棚はギチギチになった。
※見出し画像は、1970年発行の号と、各一冊残っていた1968年・1969年発行の号を並べています。
※師匠たちのことは、以前こんな記事も書いています。
「不味いコーヒーと社長のつぶやき」
いいなと思ったら応援しよう!
今日も読んでくださって、ありがとうございます🐾