不味いコーヒーと社長のつぶやき
「なぁ、金払って仕事教えてやるって、おかしくないか?」
斜め前の空いていた席に腰をおろし、コーヒーをすする社長がつぶやいた。その日は雨、時間を持て余しているらしい。顔を上げると、社長と目が合う。考えるふりをしながら目をそらし、心の中で答えた。
『お言葉ですが、わたしはまだ、一個も教えていただいておりません』
地元のクリエイティブ関連の会社に入社して3ヶ月ほど経っていた。この間、わたしに与えられたのは、電話応対とコーヒーを入れること、そして掃除の3つだけだった。
そもそもコピーライター志望だ。採用された理由が、応募者の中で一番元気だったからと聞いた時には、そうか元気も才能なのだと受け止めた。給料の額を見た時には驚愕の安さだったが、修行のつもりでがんばろうと思った。
だが、来る日も来る日も、電話、コーヒー、掃除。とにかく汚いオフィスだった。白い壁に爽やかな青色をした作り付けの収納と、落ち着いたブルーグレーのカーペット。いかにもおしゃれな空間。にもかかわらず、ありとあらゆるモノがありとあらゆるところに山積みにされている。こびりついた泥と得体の知れないネバネバ。出社初日に、好きなよーにしていいからきれいにしてと告げられた。まともなほうき1本さえないのにである。
収納の扉を開けると、整理整頓できる仕様になっている。つまるところ、出しっぱなし、やりっぱなしなのだ。これ何年分? 戸惑いつつ、分ける、捨てる、仕舞うの日々を送った。
朝、営業部の人たちが出掛けると、あとは社員なのかそうでないのか、クセの強そうな人たちが出入りする。コーヒーを出す。わたしに話しかける人はいない。
「おかしいなぁ。旨いコーヒー豆を買っているはずなんだけどなー」
ある日、また、社長がつぶやいた。聞き捨てならない台詞である。毎朝、二の腕がたくましくなるほどの重いコーヒーポットを持ち上げ続け、もう一方のポットいっぱいにコーヒーを入れている。誰か来るたびに、温め直して出していた。そうしろと言われたから。
コーヒーが不味いのは、わたしのせい?
いよいよ負けん気に、火がついた。
なにがなんでもおいしいコーヒーを出してやろう。
その頃、唯一の憩いだったランチタイム。通っていた喫茶店のマスターは気さくな人で、すぐに打ち解けた。社長のつぶやきを話し、弟子入りを志願する。その日から、ランチタイムの最後にコーヒーの入れ方を習った。
さて、おいしいコーヒーの入れ方を知ったからには、ひとりずつ、好みの味を探る。熱いとか薄いとか濃いとか、みな文句は言うのでわかりやすい。そして、その人のための一杯を、その都度入れて差し上げよう。
「あれ!?」
「旨いな」
「どうした?」
「変えた?」
おいしいコーヒーが、みんなの顔と心を緩めていった。
「えーっと、名前、なんだったっけ?」から会話が始まる。
聞けば、わたしが入社する以前、何人もの新人がすぐに辞めてしまったので、もう関わらないでおこうと思っていたという。ひどい。でも、不味いコーヒーを飲み続けてくれてありがとう。
自分が変われば、まわりも変わる。
おいしいコーヒーの入れ方を習って良かった。
わたしってえらい! そう思った。
だが待て、事の発端は社長のつぶやきだったのだ。
頭の中に、ある疑惑が浮かんできた。よもや、あれも何かの暗示だったのだろうか。社長の苦肉の策だったのかもしれない。
「なぁ、金払って仕事教えてやるって、おかしくないか?」
考えろ。もしかしたら、自分から取りに来いということ?
与えられる、教えてもらうのを待っていては、はじまらないということ?
思いきって、目の前の営業部員に声をかけた。
「わたしにも、何かやらせてくださいっ!」
「ちょうど良かった。これやって」と、渡されたのはイラストマップを描く仕事だった。えーと、あの、イラストって……。結果、
「下手だなぁ」
ですよね。だが、それ以来、あちこちから声がかかるようになる。
営業についてこい。撮影についてこい。取材に行ってこい。終いには、ポスターに使う切り絵をつくれときた。
『切り絵とな……』
やってみせよう。やるしかない。ムムムッ。見かねたディレクターやデザイナーが、ああでもないこうでもないと口と手を出してくる。
そして、ついに社長室へ呼び出された。
そこには社長とディレクターがいた。ソファーに座るように言われ、ふと、ディレクターが原稿用紙を手にしていることに気づく。わたしが書いた原稿だった。胃が痛い。ドキドキが止まらない。
編集部への配属を告げられた。
翌日から、怒濤の日々が始まった。駆け出しとは言っていられない、山ほどの仕事が待っていた。けれど、今やオフィスはスッキリとしている。
「出しっぱなしにしない!」
社長に向かって号令をかけるほどに、わたしも変わっていった。
自分の道を切り開くのは、自分なのだ。
そのことを、少しだけ知った。
あれから長い年月がたち、今、わたしは専門学校で講師をしている。
学生たちはそれぞれ、自分の個性を信じ、自分の道を開いていく。
その力を、わたしは信じている。
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