日本史物語2 後醍醐天皇と南北朝時代~楠木正成・新田義貞・足利尊氏

 鎌倉幕府の末期から、1358年に足利尊氏が死去するまでをまとめたものです。いや、何てややっこしいんでしょう、そして人間の権力欲ってのは何て凄いんでしょう。ホントに権力闘争というのは”複雑系”?の極みですな。淡白な?小生など、塵(ちり)みたいな存在であることがよ~くわかりました。間違っているところもあるかもしれませんが、よろしかったらご覧下さい。

 
 1311年、鎌倉幕府の執権北条貞時が死去し、9歳の高時が得宗家をひきついだ。しかし、14歳で第14代執権に就任した高時は、「頗(すこぶ)る亡気の体にて、将軍家の執権も叶(かない)がたけり」(『保暦間記』と評された人物で、日々、田楽・相撲・闘犬などにあけくれた(この頃の鎌倉には4~5000匹の犬がいたという)ため、実際の政治は内管領の長崎円喜と高時の舅、安達時顕によって運営された。やがて円喜の子、長崎高資がやはり内管領として大きな力を握り、賄賂政治を行うようになる。

 そのような中、1326年、高時は突然病にかかり出家してしまう。弟の泰家は当然自分が執権になれるものと期待していたが、高資の後押しで北条一門の北条(金沢)貞顕が15代執権に就任したため、怒った泰家は出家してしまうが、その泰家が貞顕を誅殺を計画しているという噂が流れたため、もともと小心だった貞顕は一・二度評定会議に出ただけでこれも出家し、わずか一ヶ月で執権をやめてしまう。
 その後はやはり北条一門の北条(赤橋)守時(第16代、最後の執権)がついだが、彼はまったくのかざりものにすぎず(実権は高時や長崎高資が握る)、1330年には執権辞任を申し出るものの、それすら認められない有り様であった。尚、守時の妹、登子は足利高氏(後、尊氏)の正室で、室町幕府第二代将軍・足利義詮の母である。

          北条高時像(鎌倉 宝戒寺所蔵)

 田楽や闘犬にあけくれる得宗、泥沼のような人事抗争、賄賂政治の蔓延、ともはや政権は完全に末期症状を呈し、所領を得宗や御内人に次々と奪われた御家人の不満も強まった。

 同じ頃、京の朝廷でも、後深草天皇以来の持明院統と亀山天皇以来の大覚寺統の二派に分かれ、皇位をめぐっての権力闘争がくりひろげられていた。この対立は、1307年に幕府が両統が交代即位する、「両統迭立」の議を正式に申し入れたことと、1317年の、「文保の和談」により一応の解決をみるが、争いの火種はその後も残ることとなった。

 1318年、大覚寺統の尊治親王が持明院統の花園天皇の後を受けて即位した。これが、後醍醐天皇である。この時、本来なら持明院統から出るはずの皇太子には後醍醐の兄、後二条天皇の遺児である邦良親王が立てられた。

      『絹本著色後醍醐天皇御像』(清浄光寺蔵)

 制度や儀式などの有職故実に詳しく、また宋学(儒学の一派)にも通じ、その大義名分論(君主と臣下の分別をわきまえ、上下の身分秩序や礼節を重んじる考え方)に大きな影響を受けていた後醍醐は、北畠親房や日野資朝らの有力貴族を登用して、政権を朝廷の手に取り戻し、天皇による親政を構想、同時に、紛糾していた皇位継承問題も一気に片づけようとした。

 1324年、後醍醐の意を受けて、日野資朝らが最初の倒幕計画をたてた。しかし、この計画は事前にもれ、資朝は佐渡に流されることになった[正中の変]。後醍醐はこれに懲りず、有力な寺院に働きかけたりして、さらに大規模な倒幕計画をたてたが、1331年になってこの計画も漏れ、5月に、倒幕をめざす一派は次々とつかまった[元弘の変]。 

 山城国笠置山に立てこもった後醍醐も9月にとらえられ、翌1332年3月、隠岐へ流された。後醍醐が流された後は、持明院統の量仁親王(1326年の邦良親王の死去後、皇太子の地位についていた)が即位した。これが光厳天皇である。この光厳天皇の即位によって、これで一件落着と幕府の首脳部や持明院統の人々は誰しもが思った。しかし、実はそれは新たなる動乱の序曲にすぎなかった。

 後醍醐天皇の行在所だったと言われる島前・西ノ島の「黒木御所」跡

 1332年末、その前年に河内国赤坂城で挙兵した(赤坂城の戦い)が敗れ、1年以上にわたって行方不明になっていた楠木正成が突然河内国千早城で挙兵し赤坂城を奪回、千早城を拠点に六波羅の大軍を相手にゲリラ戦を展開(千早城の戦い)し、ついに河内・和泉を勢力圏におさめた。これに刺激された後醍醐の息子、護良親王が吉野で、赤松円心が播磨で蜂起するなど、後醍醐側の動きがきわめて活発になった。
 このような状況を見た後醍醐は1333年2月、ひそかに隠岐を脱出、伯耆国の豪族、名和長年を頼った。山陰・山陽道の武士たちが次々と後醍醐のもとにはせ参じ、3月にはついに播磨の赤松円心が京に進入した。しかし、六波羅方の必死の抵抗で、円心は京をおとすことはできなかった。

            皇居外苑の楠木正成像

     赤坂城の戦い(大楠公一代絵巻、楠妣庵観音寺蔵)

         千早城合戦図(湊川神社蔵 歌川芳員画)

 状況がやや膠着状態に入ったと思われる頃、事態は以外な展開を見せる。幕府の命を受け、伯耆国船上山にいる後醍醐をうつため鎌倉から派遣された足利高氏が、1333年4月29日、丹波国篠村で、北条氏に反旗をひるがえしたのである。そして、5月8日、高氏は京を攻め、ついに六波羅探題を攻め落とした。同じ日、関東では上野国で新田義貞が倒幕の兵をあげ、18日、洲崎(現在の鎌倉市寺分1丁目付近)で幕府側先鋒隊の得宗守時軍を破った(足利高氏と姻戚関係にあり、幕府内での立場が悪くなっていた得宗守時はこの日自害)後、21日に大挙して鎌倉になだれこんだ。22日、高時をはじめ北条氏一門や御内人は次々と自害、鎌倉幕府はここに滅亡した。

                船上山

          絹本着色伝足利尊氏(浄土寺蔵)

             分倍河原古戦場碑

東京都府中市分梅町2丁目にある。「分倍河原」は”ぶばいがわら”と読む。新田義貞は、多摩川の河川敷、分倍河原で北条泰家率いる鎌倉幕府軍を敗走させ(分倍河原の戦い)、その勢いのまま鎌倉に侵入、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ。

         分倍河原駅前(東京府中市)の新田義貞像

分倍河原駅は京王電鉄京王線とJR東日本南武線の共同使用駅

 六波羅滅亡後、ただちに京に帰還した後醍醐は、帰還の途中、光厳天皇の廃位を宣言した。1334年正月、元号は建武と改められ、後醍醐天皇による親政=建武の新政が開始されることになった。建武の新政の政治機構は、中央に記録所・雑所決断所・恩賞方・武者所などを置き、地方に鎌倉将軍府・陸奥将軍府・国司・守護などを置くというものであったが、基本的には鎌倉幕府のそれを踏襲したものであった。

 しかし、この新しい政治は約2年であえなく崩壊してしまう。短命の最も大きな理由は、後醍醐が公家中心の政治に走りすぎたということにつきる。鎌倉幕府を倒したのは武士たちの力によるところ大であった。しかし、その武士たちに対する恩賞は、公家や寺社に比べるとあまりにも少なく、武士たちは大きな不満をいだいた。必然、彼らの目は、源氏の血をひき、鎌倉幕府を倒すきっかけをつくった足利尊氏(高氏から改名)に注がれることになる。

 後醍醐にとって最も賢明な道は、尊氏を征夷大将軍として新政権内部に取りこみ、武士たちを統率させることであったろう。しかし、後醍醐は征夷大将軍の座をのぞむ尊氏にその地位を与えず(最初は尊氏と対立する護良親王に与えたがその後は空位)、また「個別安堵法」を出したりして、さらに武士たちの反感をかうことになった。若狭国太良庄の百姓たちが、領家である東寺に、得宗時代より年貢負担が重くなった不満を訴えるなど、百姓たちも、新しい政治に失望していた。この頃京都の鴨川の河原にあらわれた「此比都ニハヤル物夜討強盗謀綸旨」に始まる有名な立て看板は新政権を皮肉ったものとしてあまりにも有名である。

    太良荘百姓等申状并連署起請文(京都府立総合資料館蔵)

太良荘の59名の百姓は、1334年(建武元)8月21日に地頭代脇袋頼国と地下代官順生房の排斥を神仏に誓い、この文書を作成して連署した。            

 さて、新政崩壊のきっかけとなったのは、1335年7月におこった「中先代の乱」であった。これは北条高時の子、時行が信濃で蜂起、相模守として実質的に鎌倉将軍府を仕切っていた足利直義の軍を破り、鎌倉を陥れたものであった。直属の軍を持たなかった後醍醐は、尊氏に出陣を求め、途中で直義と合流した尊氏はまたたく間に鎌倉を奪還した。乱後、後醍醐は尊氏にただちに帰京を求めたが、後醍醐の仕打ちに強い不満を持っていた尊氏は、直義の強い反対もあって、鎌倉に腰をすえることになった。

 1335年11月、直義は新田義貞をうつための兵を徴募し、尊氏も後醍醐に義貞誅罰を上奏した。これに対して、後醍醐は義貞の軍を東下させ、と同時に尊氏・直義の官を剥奪した。新政権発足以来くすぶり続けてきた後醍醐と尊氏の微妙な関係は、ここに公然たる敵対関係に入ったのである。
 義貞は、直義の軍を撃破し、鎌倉へ向かって進撃を続けたが、箱根竹の下の戦いで尊氏に破れ、尊氏はそのまま義貞を追って西上した。しかし、1336年1月27日に行われた京都市中での戦いで義貞に敗れ、丹波を経て、九州に逃れることになった。逃れる途中、尊氏は後醍醐と対立する持明院統の光厳上皇から新田義貞誅伐の院宣を獲得、さらに九州では有力武士たちに、味方をすれば、元弘・建武の間に後醍醐によって没収された所領を回復することを約束した。

 九州で一息ついた尊氏は、1336年4月、博多から海路(直義は陸路)、兵力を大きく増やしながら東上を開始した。そして、5月、摂津湊川で新田義貞・楠木正成連合軍を破った(湊川の戦い)。この戦いで正成は戦死し、義貞は京へ逃れた。6月14日、尊氏は光厳上皇と豊仁親王を擁して京都へ入り、8月15日、豊仁親王が光明天皇として即位した。

       湊川神社(1902年 楠木正成を主祭神とする)

 尊氏の講和・京都帰還の申し入れを受けた後醍醐は、10月10日、逃れていた比叡山から帰京し、同月12日には三種の神器が光明に渡された。同じ日に後醍醐には太上天皇の称号がおくられ、11月12日には後醍醐の皇子成良親王が皇太子にたてられた。また尊氏は11月7日に建武式目を制定し、今後の政治の基本方針を示した(室町幕府の実質的な成立)。

 しかし、後醍醐は12月21日、突然、京から吉野に逃走する。そして、直義に強要されて光明に渡した三種の神器は偽物で、真の神器はわが手にあると主張、足利尊氏討伐を全国に呼びかけた。これが南北朝対立の始まりである。しかし、後醍醐の南朝方は各地で蜂起したものの、1338年5月には北畠顕家が和泉摂津で戦死、同年7月には新田義貞が越前藤島の戦いで矢にあたって自害、1339年1月には楠正行が四条畷の戦いで戦死するなど、非勢はいかんともしがたかった。また後醍醐自身も1339年8月15日に死去する。そのような中、1338年8月11日、尊氏は念願の征夷大将軍に就任、武家の棟梁としての地歩を固めた。と同時に、尊氏は、弟の直義に全国の政務を統括する権限を与えた。

      燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地(福井市新田塚町)

 さて、足利尊氏の権力が確立し、北朝が南朝を圧倒する形勢でありながら、ここで北朝は南朝を一気に押しつぶすことができなかった。実は南北朝の合体は三代将軍義満の時代、1392年まで待たねばならないのである。その理由はひとえに足利一門の内紛、特に直義と尊氏の執事高帥直の対立にあった。

    高帥直と思われる騎馬武者像(従来は足利尊氏とされてきた) 

京都国立博物館蔵


 帥直と帥泰の高兄弟は、「将軍も左兵衛(直義のこと)も執事兄弟なくては誰か天下の乱を鎮むる者有べき」といわれたほどの実力者で、前述の南朝方の有力三武将を倒したのはすべて高兄弟であったのである。しかし、真面目で几帳面、何よりも秩序を重んじる直義は、豪放磊落で天皇や上皇ですら罵倒する高兄弟が気に入らなかった。 
 直義と帥直の対立は、尊氏が帥直側についたことから、最初は帥直側が優勢で、1348年8月には、危険を感じた直義は尊氏邸へ逃げ込んだ。直義の執事引き渡しを要求する高兄弟に対して、尊氏は強くでることができず、結局、執事二名は越前へ流され、直義は政務担当からはずされることになった(かわりに尊氏の息子義詮が政務担当に)。しかし、この時、尊氏の落胤で、直義の養子となっていた直冬は西国へ逃れ、九州を拠点に尊氏を脅かすようになった。

 尊氏が直冬追討のため出撃準備を整えている最中の1350年10月、直義は突然京から奈良へ走った。南朝方とひそかに連絡をとり、起死回生の挙兵を企てたのである。翌年1月直義は京都を陥れ、さらに播磨で尊氏軍と戦い、これを破って、高兄弟に重傷を負わせた。尊氏は高兄弟を出家させるという条件で直義に和平を申し入れ、直義は再び政務担当として復活することになった。尚、高兄弟は京への帰還途中、かつて直義の執事を努めていた上杉・畠山勢によって一族とともに惨殺された。

 やっと平和が訪れたかに見えた。しかし、もう一波乱おきる。1351年7月、直義が、尊氏との間の気まずさから、義詮との不和という理由で突然政務辞退を申し入れたのである。そして、直義は、7月に一門と共に京を出、支持者の多い北陸道を経て、8月には鎌倉へ入る。北朝の天皇や上皇、そして比叡山までもが直義を支持する中、尊氏は、一時的・形式的に南朝に降伏、南朝方の後村上天皇から直義追討の倫旨を得た上で、11月、鎌倉へ向けて出発、翌年1月に直義を降伏させた。直義はその月のうちに死去したが、一説によれば尊氏によって毒殺されたという。

  源頼朝か足利直義かで論争のある、神護寺三像の一つ、伝源頼朝像

 以上のような、尊氏と直義にまつわる一連の騒動を「観応の擾乱」と呼び、結局尊氏の勝利に終わった。しかし、この後も直冬が西国で反尊氏の動きをやめず、また、尊氏の一時的降伏で勢いを得た南朝が、北畠親房の指揮のもと、四度にもわたって京へ進入するなど、小さな争乱はこの後も続いた。尊氏は1358年に死去するが、彼の存命中に完全な平和が訪れることはなかったのである。

 さて、長い間続いた南北朝動乱も1392年に三代将軍義満が南北朝の合体を実現したことからやっとおさまることになる。義満は1378年、京の室町に壮麗な館をかまえ、ここで政治を行ったことから足利氏の政権を室町幕府と呼ぶが、室町幕府は三代にしてやっと安定期をむかえることになるのである。

            足利義満像(鹿苑寺蔵)

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