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日本史物語4 実朝暗殺から承久の乱へ

 1199年、1月13日、源頼朝が死去した。前年の暮、相模川橋の落成供養の帰途、落馬したのがその原因といわれる。頼朝の後、征夷大将軍の地位についたのは長子頼家であった。しかし、彼はわがままで非常に身勝手なところがあったため、御家人たちの信頼をはなはだ欠いた。そのため、側近の老臣たちは、頼家の母、北条政子とはかって、頼家が直接政治にかかわることを禁じ、大江広元、北条時政、比企能員(頼家の妻の父)、梶原景時、和田義盛ら13人の元老や御家人代表らが合議で政治を行うようになった。
 
 おもしろくない頼家は、お気に入りの5人でなければ、自分に目通りできないと定めたり、彼ら5人がどんな乱暴狼藉を働いても手向かってはならないなどという無茶な命令を出す始末だった。頼家にとって不幸だったのは、1200年末に、頼朝の信頼あつく、頼家のために後事を託されていた梶原景時が北条時政を中心とする御家人グループの陰謀によって追放され、翌年殺されたことだった。景時は、北条氏が中心となって背後でこっそり進められていた頼家の弟千幡[実朝]擁立運動をいち早くかぎつけ、阻止に動いたことがその原因だったと思われる。その後頼家は現実を忘れるかのように、蹴鞠・狩・花見・紅葉狩りなどに熱中した。

                源頼家

 1203年の7月半ば過ぎに病気にかかった頼家は、8月末、一時重体に陥る。そして、ついに9月7日には病気を理由に征夷大将軍の地位を奪われてしまう。関東28カ国を一幡(頼家の長男)に、関西38カ国を千幡(後の実朝)に譲ることが発表されたのである。背後に北条氏の策謀があったことは言うまでもない。比企能員は、病床の頼家を訪ね、北条氏征伐のはかりごとをめぐらしたが、逆に北条邸で殺され、比企氏一族は屋敷に火をつけ一幡とともに滅亡した。頼家自身も伊豆の修善寺に幽閉され、翌年入浴中に暗殺された。

 頼家の後をついたのが弟実朝であった。しかし、政治の実権を握ったのは執権北条時政であった。ところが、時政は後妻牧の方の意向を受け、牧の方の娘婿である平賀朝雅を実朝にかえて征夷大将軍の地位につけようとしたため、娘の北条政子と息子の北条義時によって伊豆へ追放される。この後執権の地位を引き継いだ北条義時は、1213年、侍所別当であった和田義盛を滅ぼし、侍所と政所の別当を兼ね、その権力をゆるぎないものとした。

                源実朝

 実朝は将軍となった翌年、京の名門貴族坊門信清の娘と結婚した。彼は都にあこがれ、和歌に親しみ、しばしば歌会を開いた。新古今和歌集に耽溺し、自選和歌集『金槐和歌集』も編纂した。「ゆく河の流れは絶えずして~」で始まる『方丈記』で有名な鴨長明とも交流があり鎌倉で会っている。蹴鞠も好んだ。南宋にわたろうとして、巨大な船を作らせたが、海に浮かばず失敗もした。

 このような”文人将軍”実朝だが、官位だけは驚くべきスピードで昇進し、1218年12月には右大臣の地位についた。おそらく、時代が平和であるならば、実朝のような人物は名君として尊ばれたであろう。しかし、乱世をおさめてゆく指導者としてはあまりにも不適であった。

 1219年、1月19日、鶴岡八幡宮で実朝の右大臣就任拝賀の式典行われた。夜はふけていたが、雪が60センチも降り積もり、周囲がほんのり明るい中、参拝が終わって石段をおりてくる実朝に、石段のそばの銀杏の木のかげにかくれていた頼家の遺児公暁(頼家の次男)が斬りつけた。実朝は絶命、公暁もすぐ三浦義村によって殺され、源氏の正当は三代、わずか27年で絶えてしまうのである。実朝の暗殺については、裏で糸を引いていた人物がいるとされ、北条義時説、三浦義村説の両説があるが、通説は北条義時説である。

           鶴岡八幡宮の石段と大銀杏

       2010年3月に強風のため倒れた大銀杏

        成長する若芽(左は移設された幹の部分)

 4代将軍には、京の九条家(藤原北家は鎌倉期に入って近衛家と九条家に分かれる。さらに近衛家から鷹司家が、九条家から一条家・二条家がが分立。この五家から摂政・関白が任じられるように。この五家を五摂家と呼ぶ)から、頼朝の妹のひ孫にあたる三寅がむかえられ、頼経と名のった。しかし、頼経に実権はまったくなかった。

 さて、この頃、京では、後鳥羽上皇による院政が続いていた。後鳥羽上皇は実に多芸多才な人物で、和歌・蹴鞠・囲碁・双六・武芸百般に通じていた。しかし、性格はきわめて移り気な上に遊び人でもあった。彼は、参詣だと称して、熊野三山へ遊女や白拍子をつれてしばしば遊びにいき、行く先々でドンチャンさわぎをして人々の顰蹙(ひんしゅく)をかったという。

                後鳥羽上皇


 後鳥羽上皇は始めは院の主導下に京と鎌倉の公武融和体制を夢見ていたが、やがて幕府(つまりは北条氏)の力の増大と共に、それが不可能であることに気づき始めた。そのきっかけとなったのは荘園の問題であった。

 実はこの頃、院は摂関家にかわって最大の荘園所有者になっていたが、その荘園の荘官が地頭に任ぜられるケースが増えてきていたのである。
 もともと荘園を寄進して荘官となっていた開発領主たちは、より安全で有利な条件で幕府から保護されることになり、用済みとなった院への年貢滞納がめだち始めたのはある意味で当然のなりゆきであった。

 このような状況に危機感をいだいた後鳥羽上皇はしだいに反幕的な考え方にとらわれるようになり、来るべき戦いを予想して、これまで院を警護していた北面の武士の他に西面の武士をおくようになった。義兄弟でもあった実朝の暗殺は後鳥羽上皇の気持ちをさらに逆なでした。

 実朝が暗殺された後、幕府は後継将軍に上皇の皇子の就任を要請したが、上皇はこれを拒否、逆に上皇は寵姫の所領になっている荘園の地頭の罷免を要求したが、幕府はこれを拒否、院と幕府の関係はぬきさしならぬものとなった。

 1221年(承久3)、後鳥羽上皇は義時追討の院宣を全国に発した。北面の武士・西面の武士の他機内・西国の武士あわせて1700余騎がただちに集まり、挙兵2日で京を制圧した。気を良くした上皇は三浦義村ら東国の武士たちにも院に従うよう使者を送った。
 幕府に大きな動揺が走った時、65歳の尼将軍北条政子が登場、御家人たちの前で涙ながらの名演説を行った。これに感激した御家人たちは、一致団結して幕府への忠誠を誓った。70歳を超えた老政治家大江広元の意見で、幕府方は短期決戦の方針をとり、義時の子泰時とその弟時房を先頭に三手に分かれて大挙西上、『吾妻鏡』によればその数は19万騎に達したともいう。戦いは1ヶ月あまりでケリがつき、京都は幕府方に占領された。

※北条政子の名演説

皆、心を一にして奉(うけたまわ)るべし。これ最期の詞(ことば)なり。

故右大将軍(こ・うだいしょうぐん)、朝敵(ちょうてき)を征罰(せいばつ)し、関東を草創してより、このかた、官位と云ひ俸禄と云ひ、その恩すでに山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝の志浅からんや。
しかるに今 逆臣の讒(ざん)によって、非義(ひぎ)の綸旨(りんじ)を下さる。名を惜しむの族(やから)は、早く秀康(ひでやす)、胤義(たねよし)らを討ち取り三代将軍の遺跡(ゆいせき)を全(まっと)うすべし。
ただし、院中に参ぜんと欲する者は、只今申し切るべし。
                          「吾妻鏡」より
 

 後鳥羽上皇は義時追討の院宣をただちに取り消し、すべてを家臣たちのせいにしようとした。それどころか、敗軍の将藤原秀康や三浦胤義らが最後の一戦をと上皇のところへはせ参じると、「武士どもならここからいずれへなりとも落ちて行け」との冷たいお言葉。さすがの武士たちも、「大臆病の君に語らわれてバカな死にざまをすることよ」と大声でののしったが後のまつり。結局、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐にそれぞれ流され、仲恭天皇は廃された。この事件が承久の乱である。

                隠岐

 承久の乱で朝廷方についた貴族や武士たちの所領3千カ所はすべて没収され、戦功のあった東国の御家人たちがその地の地頭に任命された。これが新補地頭である。そして京には六波羅探題がおかれ、朝廷の監視や京内外の警備に目が光らせることになった。このようにして、幕府は京の朝廷を完全に制圧し、皇位の継承は幕府の意のままに決定されるようになったのである。

    石井進氏の名著『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論社

私は中学生の頃、父が買った石井進氏のこの本をこっそり?読んで感銘を受けた。特に、実朝暗殺の場面の記述などは、まるでその場に居あわせたかのようである。ボロボロになったので、退職後、新品同様の古本をもう一冊買ってしまった。


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