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Episode 844 数が足りていないのです。

9月28日に、半年かけて準備していたイベントが、無事終了しました。

さて前回は、Autistic(自閉の民) の私としては、定型的な息抜きイベントが息抜きにならない可能性があるよね…というハナシをしたのですよ。
それにもかかわらず、結局イベントが終了した後は、やっぱり「仲間と打ち上げ」するんですね…というイジワルは言いっこなしでお願いしますね。

もしもASD者にとってのレストランや居酒屋が、定型的コミュニティ/定型的コミュニケーションを模倣する場であったとしたら、好意でセッティングしてくれたそのものが、ASD者を疲れさせて苦しめるだけの場所になりかねません。

定型者の標準コミュニケーションスタイルは、あくまでも標準的定型者向けのものであると思い直す必要があると、私は感じるのです。

note記事「アピールの意味が分かりません。」より

Autistic に息抜きは必要ないのか…と問えば、そんなことはないのですよ。
例えば、今回のイベント後の打ち上げは、明らかに定型パタンのコミュニケーションを目的にしていないのですから。
だってそうでしょう…そもそもにおいて、このイベントが「発達障害の自助と支援を考える」ためのイベントで、いかに当事者が自らの資質/性質を前向きに理解しようかを考えるための催しだったのですから。
当然、当事者性はオープンになっていることが前提の打ち上げですし、そこに参加する Allistic(非自閉の民) も、そのことは十分に承知されていたワケです。
ここには Autistic に Allistic 的な対応を求める声は起こりません。
これ、とても大切なことです。

自助会というのは、この構造を持っているのだと思うのですよね。
実際のところ、なぜ私が自助会を開催しようと思ったのか…と問えば、「社会一般に合わない部分をひとりで抱え込んでしまう苦しさから解放されたかったから」というあたりは、自分自身を振り返って大きな理由だったと思います。

前回の記事でも話題に出した、風味堂の『フラフラフライデー・ミッドナイト』で歌われる、呑んで騒いで憂さ晴らしをする姿は、Allistic も私たち Autistic と同じように、ひとりで抱え込まない「ガス抜き」が必要なことを明確に示しているワケですよ。
だから「飲め」ってことではないのだけれど、この「ガス抜き」が上手くいかないと、精神的に苦しくなって「ウツ」などの原因になったりするワケですね。

自助会で「自分が発達障害と気づいた (分かった) 理由」という話題になれば、ほぼ全員が二次障害による精神的不調で精神科を受診した時に医師に指摘され、検査などを受けたから…と、話されます。
大人になってから発達障害と診断された方々は、ほぼほぼ「このパタン」でして、学齢期に診断されて (その時代で考え得る) 支援などを受けて育った方々とは、その「気づき」のあり方が違うことか多いのですよね。
もちろん、学齢期の支援 (≒療育) が万能である…ワケではないのですが、ネガティブな体験による「気づき」で自分の資質/特質に気付かれた方々は、自らの資質/特質にネガティブな感情を持っていることが多いのだと感じます。
それ故に、自らの資質/特質を「積極的に」語ることに躊躇いがある…とすれば、そんなに簡単には資質/特質をカミングアウトすることができず、ガマンしてため込んでしまうことは、容易に想像できることです。

ならば、そのような「オープンなスペース」を如何にして確保するのか…です。
自ら切り開いて安心できる場所を作ることができる人は、如何ほどいるのか…と問えば、それほどたくさんはいないと思います。
自助会とは、そのような「オープンなスペース」という側面があって、安心して自らの資質/特質を表に出して語り合える場所ととして、考えてもよいのだと思うのですよね。

そしてそれは、「イベントバー」などで開催されることが多い「発達障害バー」のようなものとの共通点も多いのですよ。

兎にも角にも、Autistic に限らず、あらゆる「マイノリティ」を自覚する人々がマイノリティ性をオープンにできるスペースの数が足りないのです。
私が主催するような自助会にしても、自分たちのペースでお酒を飲めるような場所も、その数が圧倒的に足りていないのだと思うのです。

今回、イベントを終えて、そうして打ち上げで仲間と楽しくおはなしして、楽しくお話しする仲間がいることの大切さを思うのです。
そこにあったのは、私たちが私たちらしく生きるための空間。

「ホッとできる場所」や「ガス抜きができる場所」が必要なのは、世の中の主流派である Allistic だけに限らないということは、もっと主張しないといけないことなのかも知れません。

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