寝たきり高齢者の「eGFR 90」を信じてはいけない。薬剤師が『シスタチンC』を欲する本当の理由
この記事で取り上げている症例は、複数の症例を掛け合わせており、個人が特定されないように配慮しています。
今回は、「腎機能の評価は少し苦手だな」と感じている
若手の医療職(特に薬剤師)に向けて書いています。
▶第1章:その夜、患者は「子供が見える」と叫んだ
【この章で言いたいこと】
数字は正常だった。でも患者はおかしかった。
クレアチニンを信じたことで起きた、ある夜の出来事。
後輩から相談が来たのは、処方が始まった翌日だった。
「先輩、今飲んでいる薬の副作用ではないと思うんですけど…
でも、やっぱり副作用でしょうか?」
状況を聞くと、昨夜から患者の様子がおかしいという。
「あそこに子供がいる。」
突然そう言い出したかと思えば、「キャー」と叫ぶ。
80代の男性が、である。
脳出血後遺症で寝たきりの患者だった。
帯状疱疹を発症し、
バラシクロビルが処方されて二日が経っていた。
私はすぐにピンときた。
「腎機能、確認した?」
「しました」と後輩は言った。
クレアチニンから、個別eGFRまで計算していた。
計算方法も、得られた結果も問題なかった。
でも、私は嫌な予感がした。
この患者は明らかに痩せていた。
脳出血後の寝たきりで、筋肉はほとんど残っていないはず。
クレアチニン値は0.45mg/dL。eGFRは90程度。
数字だけ見れば、腎機能は正常。
でも、この患者の腎臓は、本当に『90』の仕事をしているのか。
私は後輩と一緒に主治医に報告した。
主治医は精神症状を抑える薬を上乗せしようとしていた。
「待ってください。
バラシクロビルの過量投与による脳症の可能性があります。
まずバラシクロビルを中止して様子を見てもらえませんか。
あわせてシスタチンCの測定もお願いできますか?」
バラシクロビルは中止になった。
二日後、患者の精神状態は回復した。
後輩は間違えたわけじゃない。
個別eGFRまで計算していた。それは正しい手順だ。
問題は、計算に使った「クレアチニン」という数字が、
この患者の腎機能を正確に反映していなかったこと。
では、なぜクレアチニンは嘘をつくのか。
▶ 第2章:なぜ数字は嘘をつくのか—筋肉と「燃えカス」の話
【この章で言いたいこと】
クレアチニンが筋肉の代謝産物である以上、
筋肉が少ない患者では腎機能を過大評価してしまう。
これは計算式の問題ではなく、指標そのものの限界だ。
クレアチニンとは何か。
一言で言えば、筋肉が動いたときに出る「燃えカス」だ。
筋肉はエネルギーを使って収縮する。
そのとき、クレアチンリン酸という物質が分解され、
最終的にクレアチニンになる。
クレアチニンは体にとって不要な老廃物なので、
腎臓でろ過されて尿として排泄される。
だから、血液中のクレアチニン濃度を測れば、
腎臓がどれだけ老廃物を処理できているかがわかる
——というのが、クレアチニンを腎機能の指標として使う理由だ。
理屈としては、正しい。
でも、前提が崩れると、この理屈は成立しなくなる。
前提というのは、「燃えカスが一定量出ている」ということだ。
工場(筋肉)が動いていれば、ゴミ(クレアチニン)が出る。
ゴミの量を見れば、ゴミ処理場(腎臓)の処理能力がわかる。
でも、工場が止まっていたら?
ゴミがそもそも出ない。
ゴミ処理場がどれだけ老朽化していても、
処理するゴミがないから、血液中のゴミ濃度は低いまま。
これを「ゴミ処理場の性能が良い」と読んでしまうのが、
寝たきり高齢者のクレアチニン評価の最大の罠だ。

バラシクロビルの症例に戻ろう。
80代、脳出血後遺症、寝たきり。
この患者の筋肉量は、
同年代の平均よりはるかに少なかったはずだ。
工場はほとんど止まっていた。
だからゴミが出なかった。
だからクレアチニンが低かった。
だからeGFRが高く出た。
腎臓が元気だったわけではない。
筋肉が動いていなかっただけだ。
後輩が計算した個別eGFRは、手順として正しかった。
でも、計算式がどれだけ精巧でも、
入力する数字が実態を反映していなければ、
答えも実際には使えないものになってしまう。
ゴミの量を正しく測れない状況で、
ゴミ処理場の性能を正確に評価することはできない。
では、どうすればよかったのか。
ひとつは、クレアチニン値を
「そのまま信じない」という姿勢を持つことだ。
数字を見る前に、患者を見る。
寝たきり?
筋肉が落ちている?
体格は?
そういった情報と数字を照らし合わせて、
「この数字は信頼できるか」を判断する。
もうひとつは、クレアチニンに頼らない別の指標を使うことだ。
それが、シスタチンCだ。
▶ 第3章:「0.6を入れれば安全」は本当か—ラウンドアップ法の限界
【この章で言いたいこと】
ラウンドアップ法は「過大評価を防ぐ」道具であって、
「正確に評価する」道具ではない。
安全策のつもりが、別のリスクを生む場合がある。
「クレアチニンが低いなら、0.6を入れて計算すればいい」
そう教わった人は多いと思う。
ラウンドアップ法
——血清クレアチニン値が0.6mg/dL未満のとき、
0.6mg/dLを代入して腎機能を推算する方法だ。
筋肉量が少ない患者でクレアチニンが過度に低くなっているとき、腎機能の過大評価を防ぐための補正として、
臨床現場で長く使われてきた。
確かに、何もしないよりはいい。
でも、「0.6を入れれば安全」という理解で止まっていると、
肝心なものを見落とすことがある。
ラウンドアップ法は、腎機能を「低めに見積もる」方向に働く。
それが安全策になる場面は確かにある。
腎機能を実態より高く見積もってしまうより、
低く見積もって減量した方が、副作用リスクは下がる
——そういう考え方だ。
でも、低く見積もりすぎると、今度は別の問題が起きる。
過少投与だ。
腎臓病薬物療法の第一人者である平田純生先生は、
こう指摘している。
強制栄養をしていない症例にラウンドアップ法を使うと、
腎機能を過小評価しすぎてしまうことがある。
「安全性は高くなるが、有効性を担保することはできない」
抗菌薬が効かない。
抗てんかん薬が効かない。
痛みが取れない。
感染が治らない。
それも、患者を傷つけることになる。
だって、そもそも『治療するために薬を投与している』んだから。
「減らせば安全」ではない。
「正確に評価して、必要な量を届ける」
——それが、投与設計の本来の姿だと思う。

バラシクロビルの話に戻ると、問題は逆だった。
ラウンドアップどころか、
クレアチニン0.45という値をそのまま使って
eGFRを計算したことで、
腎機能が実態より大幅に高く評価されてしまった。
その結果、通常量のバラシクロビルが処方された。
バラシクロビルは腎排泄型の薬だ。
腎機能が低下した患者に通常量を投与すると、
薬が体内に蓄積していく。
蓄積した薬が神経系に影響し、
精神症状や意識障害を引き起こす
——これがバラシクロビル脳症と呼ばれる状態だ。
「あそこに子供がいる」と叫んだあの夜は、
薬が蓄積していく過程だった。
ラウンドアップ法を使っていれば、
もう少しマシだったかもしれない。
でも、それでも「正確な腎機能」はわからないままだ。
ラウンドアップはその場しのぎの安全策であって、答えではない。
では、一体何が『正解』に近いのか。
▶ 第4章:筋肉に騙されない指標——シスタチンCとは何か
【この章で言いたいこと】
シスタチンCはクレアチニンの弱点を補う指標だ。
ただし万能ではない。
「何が得意で、何が苦手か」を知った上で使うことが大事。
シスタチンCは、
クレアチニンとはまったく異なる仕組みで産生される。
クレアチニンが「筋肉の燃えカス」であるのに対し、
シスタチンCは全身のほぼすべての細胞から、
筋肉量に関係なく一定の割合で産生される低分子タンパク質だ。
筋肉が多くても少なくても、産生量はほぼ変わらない。
寝たきりでも、アスリートでも、同じように作られ続ける。
そして、クレアチニンと同じように腎糸球体でろ過され、
腎機能が低下すると血中濃度が上昇する。
つまり、「工場の規模に関係なく、一定量のゴミが出続ける」。 だから、ゴミ処理場(腎臓)の本当の処理能力を、
より正確に反映できる。
もうひとつ、シスタチンCには重要な特徴がある。
クレアチニンには「ブラインド領域」と呼ばれる問題がある。
腎機能がおよそ半分程度まで低下しないと、
クレアチニン値に明確な異常が現れにくい——という特性だ。
つまり、腎機能がじわじわ落ちていても、
クレアチニンは長い間「正常範囲」にとどまり続ける。
一方、シスタチンCは腎機能が約2割低下した段階から検査値が上昇し始めるとされている。
クレアチニンが「正常」を示している段階でも、
シスタチンCはすでに変化を捉えている可能性がある。
バラシクロビルの症例で言えば、
eGFR 90という数字が出ていた段階で、
シスタチンCを測っていれば
——おそらく、違う数字が出ていたはずだ。

シスタチンCなら見つけることができるかもしれない。
ただし、シスタチンCも万能ではない。
ステロイド使用中や甲状腺機能亢進症では、
腎機能とは関係なくシスタチンCが上昇することが知られている。
また、すでにクレアチニンが明らかに高値で
中等度以上の腎機能低下が確認されている患者では、
シスタチンCを追加測定する意義は相対的に小さくなる。
シスタチンCが最も力を発揮するのは、
クレアチニンでは読みにくい「グレーゾーン」
——つまり、数字は正常なのに患者が怪しい、あの領域だ。
では、シスタチンCを測ればすべて解決するのか。
そう簡単ではない。
薬剤師には、採血のオーダー権限がない。
「測りたい」と思っても、医師に依頼するしかない。
しかも、保険上の制約もある。
「シスタチンCって何?」と言われて、
測定されずに終わった経験が、私にも何度もある。
私は今、腎臓病薬物療法認定薬剤師として、
毎日多くの腎機能低下患者の処方設計に向き合っている。
でも、専門的な資格や知識を持っていることと、
それを実際の臨床現場で使い、医師に依頼を通すことは、
まったく別の話だ。
「いつ依頼するか」
「どう伝えれば通るか」
「測れなかったときにどう動くか」
——その具体的な判断基準と、言葉の作り方を別の記事に書いた。
▶ おわりに
あの夜、患者が「子供がいる」と叫んだとき、
病棟は混乱していた。
看護師は対応に追われ、
主治医は興奮を抑える薬を探していた。
誰も、バラシクロビルを疑っていなかった。
数字が正常だったから。
でも、数字は嘘をついていた。
筋肉がなかったから、燃えカスが出なかっただけ。
ゴミ処理場は、老朽化していた。
その「嘘」に気づけたのは、
数字だけを見ていなかったからだと思っている。
痩せた体格。寝たきりの生活。脳出血後の廃用。
そういった患者の全体像と、
クレアチニン0.45という数字を照らし合わせたとき
——「この数字はおかしい」という直感が働いた。
数字は大切だ。
でも、数字を正しく読むためには、
数字の外にあるものを見る必要がある。
患者の活動度。体格。筋肉量。処方されている薬。
そういったものを総合して、
「この数字は信頼できるか」を問い続けること。
それが、薬剤師としての腎機能評価の、
本当の始まりだと思っている。
シスタチンCは、
その問いに答えを出す手助けをしてくれる道具だ。
腎機能の評価が苦手でも、難しく考えなくていい。
「この数字、信じていいのかな」と立ち止まれる医療者が、
一人でも増えること。
数字が正常でも、筋肉がないかもしれないと疑えること。
それだけで、確実に患者の安全は積み上がっていく。
数字の前に、人を見る。
明日、処方箋を手に取ったとき、
そう思ってくれる人が一人でもいてくれたら、私は嬉しい。
【現場で戦う薬剤師・医療従事者の皆さんへ】
「シスタチンCの必要性はわかった。でも、現場でどうやって医師に測定を依頼すればいいの?」——その具体的な判断基準と、私が実際に使っている【医師を動かす疑義照会の言葉】を、別の記事にまとめました。
現場で失敗を繰り返しながら習得した、「思考プロセス」を公開しています。気になった方は、実務の武器として手に取ってみてください。
※本記事は個人の経験と見解に基づくものです。実際の臨床判断は、各施設の状況や患者さんの個別の状態を踏まえて行ってください。
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