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支えているのは、どっちだろう

以前、見守りと監視のことを、
パノプティコンを手がかりに考えてみました。

私には、あの記事を書いたあと、もうひとり
どうしても気になる哲学者がいました。

ヘーゲルです。

彼の『精神現象学』の中に、「主人と奴隷の弁証法」という有名な話があります。難しそうな名前ですが、ざっくり言うと、「一見弱そうに見える側のほうが、実は成長していく」という、ちょっとした逆転の物語。

それを知ってから、病棟で患者さんと向き合うときの自分の立ち位置が、少し違って見えるようになりました。


主人と奴隷、本当に強いのはどっち?

ヘーゲルの話は、こんなふうに始まります。

ある日、ふたりの人間が出会います。
どちらも「自分が正しい」「自分が上だ」と思っていて、相手に認められたい。そこで、どちらが優れているのかをかけて、命がけの戦いを始めてしまいます。

やがて、一方は死が怖くなり、
もう一方に屈服します。

屈服したほうは「奴隷」、
勝ったほうは「主人」になる。

ここだけ聞くと、主人の勝ちだし、
強いのは主人のように見えます。

主人は命がけの戦いに勝ち、
自由な立場を手に入れました。

奴隷は命が惜しくて生き延びることを選び、
主人に仕える側になりました。
食べ物や住む場所は主人から与えられ、
奴隷はひたすら働いて、
その見返りを受け取るだけです。

でもヘーゲルは、ここで
「本当に成長していくのは奴隷のほうだ」と言うんです。

主人は自分では何も作らず、
ただ奴隷の労働の成果を受け取って生きていく。

一方で奴隷は、毎日手を動かして、木や石や金属を相手に道具や家やさまざまなものを作っていく。

世界に触れ、工夫し、失敗し、またやり直して自分の手で現実を変えていくんです。

気づけば、世界を理解し、世界を作り変える力を身につけているのは主人ではなく奴隷のほう。

「一見弱く見える側のほうが、実は深く変化していく」というのが、この物語のいちばんおもしろいところだと私は思っています。


悪い癖で、つい自分を重ねてしまいます。

「奴隷」という言葉は強すぎるけれど、少しだけ自分たちに重ねてみたい。もちろん、患者さんを「奴隷」だなんて思っているわけではありません。あくまで、関係の "かたち" を考えるための例え話として、ここから先をよんでいただけると嬉しいです。

薬剤師である私は、患者さんの薬を管理する。
処方内容を確認して、飲み合わせを考えて、量を調整して、減らせそうな薬を探す。配薬や服薬の状況をチェックして、声をかけながら「飲み忘れがないか」を確認する。

やっていることだけを見れば、
「与える側」「整える側」「支える側」です。
ちょっとヘーゲル風に言えば、主人の位置に立っているように見えなくもない。

一方で患者さんは、
こちらから見れば「される側」です。

薬を飲むよう言われ、
リハビリに誘われ、
食事の指導を受ける。

状態によっては、転倒予防のために行動を制限され、「ナースコールを押してから動いてくださいね」と何度も言われる。

だけど、考えてみれば
実際に「変化」を引き受けているのは
いつも患者さんのほう。

ベッドから起き上がるのも、
トイレまで歩いてみるのも、
飲みにくい薬を一包一包、頑張って飲みきるのも、医療者側からの誘導があったとはいえ、全部患者さん自身の身体と心がやっていることです。

私の「この薬を減らしましょうか」という提案だけでは、誰も元気にはなりません。

その提案を受けて、ふらつきが減った身体で
もう一歩前に踏み出してくれるのは患者さん。

実際に「変わっている」のは、
ベッドサイドにいるその人の身体と心のほうです。

そう思うと、一番大きく世界と格闘しているのは、一見すると「管理される側」にいる患者さんなんだなと思います。


依存しているのは、どっちだろう

主人と奴隷の話には、
もうひとつ大事なポイントがあります。

主人は奴隷がいないと生きていけない
ということです。
自分では作らず、考えず、手を動かさず、
すべてを奴隷の労働に頼っている。
つまり、一見自由そうに見える主人こそ、実は奴隷に深く依存している存在だとヘーゲルは言います。

自省を込めて見直してみると、
私たち医療者も同じじゃないかと思うんです。

患者さんが来なければ、
病院薬剤師の仕事は存在しません。

回復期リハ病棟が成り立つのも、
「もう一度歩きたい」「家に帰りたい」と
願ってくれる人たちがいるからです。

患者さんは、私の「管理」がなくても、
どこかでどうにか生きていくかもしれない。
けれど私は、患者さん抜きには
薬剤師としての「役割」も「存在意義」も保てない。

支えているのは私だと思いがちだけど、
実際は、患者さんの存在そのものに私が支えられている。

カルテを開くとき、
私は職能を発揮できるチャンスをもらっている。

カンファレンスで意見を求められるとき、
私の知識が誰かの役に立つ場を与えられている。

「この薬のおかげで、足が軽くなったよ」と笑ってくれるとき、私は「この仕事を続けていていいんだ」という根拠と希望を分けてもらっている。

支える/支えられる
教える/教わる
管理する/される

その境界線は、思ったよりもずっとあいまいで、
不安定なものなのかもしれません。


パノプティコンの記事では、「見守りと監視の違い」を考えながら、最後に「いってらっしゃいと送り出す人でありたい」と書きました。

今回、ヘーゲルの主人と奴隷を重ねてみてあらためて思うのは、私は主人になりたいわけじゃないということです。

患者さんの変化を自分の手柄みたいに感じてしまうとき、「治してあげた」と心のどこかで思ってしまいそうなとき、ヘーゲルのこの物語を思い出すようにしたい。

変わったのはその人自身で、私はたまたま、その変化のそばに立ち会わせてもらっただけかもしれない。

支えているつもりで、実は支えられている。
教えているつもりで、実は一番教わっているのは自分。

そうやって考えてみると、
「薬剤師として患者さんを支える」
という言葉の中身が、少しだけ違って見えます。

支えているのは、どっちだろう——。

この問いを、答えを決めずに持ち続けること。
それが、多分いちばん私を「主人」から遠ざけてくれるのかなと思っています。


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