火遊びウサギは笑わない 11
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深夜の部屋は、天井の白い光が壁を照らし、時計の秒針が静かに刻む。ソファに三角座りをし、スマホを耳に当てた手は、涙と鼻水で少し手が滑る。
安優香の声が、電話の向こうからしめやかに伝う。彼女の部屋からは、規則的にライターの金属音やタバコの煙を吐くふぅという息が漏れ、あの立体駐車場の薄暗い光景が頭に浮かぶ。私の嗚咽がようやく落ち着いた頃、彼女が口を開いた。
「自分語りしていい?」
安優香の声は低く、どこか遠い記憶を辿っているかの声色だ。
私の「うん」という小さな返事を合図に、彼女は語り始めた。
「私ね、失敗して今があるんだよ」
安優香の言葉が、深夜の静寂に乗っている。
今の声には重力があった。
「本当はね、二十四歳で京大の修士課程を卒業してから就職する予定だったの。内定ももらっていて、電力会社に行くはずだった。秋の内定式も出席したよ。だけど、妊娠してた。ウケるでしょ? 初めてできた彼氏との間に子どもができてね。彼は子どもがほしい人だったから、即座にプロポーズされて、まるでシンデレラコースよ」
安優香はどこか自嘲の口調で話している。
京大卒の才媛が妊娠で人生が狂った?
過去の記憶にある彼女の軽薄な笑顔と「学歴の呪い」という言葉が奇妙なほどマッチして、私の喉が嫉妬でキッと締まり、言葉を挟む余地がない。
「でも、二十六歳になって、保育園も見つかって、働こうと思っても、第二新卒で子持ちは雇ってもらえない。『まだお母さんがお子さんのそばに居てあげなきゃ』『京大の修士課程ですか』って、丁寧な言葉で面接を追い出されたりね。お祈りメールだらけ。コロナ禍があったじゃん。旦那はリモートで家にいても、私やちび太のことは無視。なんなら外出して帰宅しない。よそに女をつくってた」
彼女の声が震えた気がした。電話の向こうで、タバコの煙を吐く音が聞こえる。安優香の痛みや怒りに同情してしまい、目頭が熱くなる。
「それで、ちび太が小学校に上がる前、義両親に横取りされちゃったのよ。拉致された」
「えっ、拉致?」
「そう、幼稚園から旦那がちび太を拉致しててね。
私が知らない間に、旦那がちび太と一緒に義実家へ住民票を移していてさ。離婚調停が始まった」
「そんなこと……許されるんですか」
「許されるんだよ、別居ってことにしたら法に触れてないじゃん。
『ちび太を返して!』って義実家に訴えたら、警察に通報されちゃった」
「えっ」
「調停じゃ『安優香さんみたいな働けない人に子どもは育てられない』って、どういう理屈よ。旦那が浮気して、私のちび太を盗むって。『安優香さんは京大を出て、まだ若いんだから人生やり直しなさい』なんの指図? やってらんないよ。私がどんな悪いことをしたの?」
「それは安優香さんも合コンに行って、不倫するから」
「ちょっと、主婦、舐めてる?
子どもが居たら、時間的に、物理的に、母親が遊べる時間なんてないよ。
ネットにある、こたつライターが書いたニセモノ体験談を信じ過ぎてるんじゃないの」
安優香の声には、怒りで剣が立っている。彼女の言葉がどうしてか、私の心の傷を抉るようだ。
「ですが、安優香さんに過失がないなら慰謝料と親権がもらえますよね?」
「うん、もらえたよ。慰謝料は100万円程度かな。
だけどね、ちび太は監護権を握った旦那が掻っ攫っていったわ」
「どういうことですか?」
「子どもはね、親権じゃなく監護権を持った方が育てるの。だから、義理の親は私に親権があるから、ちび太に掛かるお金を無心してくるの。うち、実家が病院経営してんの」
彼女の人生、こんなに重かったの? フードコートでのあの軽さは、全部仮面だったの? 私の指がスマホを握りしめ、目に涙の膜が張る。
「でさ、二年前から変わったの。ちび太が手元に居ない人生なんて人生じゃない。
もう、何も要らないって」
安優香の声が静かになった。電話の向こうで、窓の外を吹く風の音がかすかに聞こえる。
「でもさ、最近思うんだよね。居場所って、見つけるもんじゃない。誰かがくれるもんでもない。作るしかないって。私、瑠璃ちゃんと喋ると、ちょっとだけ息がしやすくなるんだよ。だから、もうちょっとあんたと話してたいって思ってんの。……それだけ」
安優香の声は優しいものになり、どこか脆かった。私の目から、また涙がこぼれた。
彼女のこの本音、なんで私に? あの無神経な女が、こんなこと思うなんて。
「うん」
私の声は鼻水で詰まった。壁のカレンダーが、涙でぼやけて見える。
「なんかさ、私ばっか話してるけど。瑠璃ちゃんはどうしたいの? 本当は、どう生きたいの? 聞かせてよ、ちゃんとさ」
安優香の言葉が、私の心の奥に灯をともすようだった。どう生きたい? そんなこと、考えたこともなかった。
東京での商社生活、翔太の裏切り、母の期待、父の病気。全部、誰かのラベルで生きてきた。私の「空っぽ」は、どこから来たの? 安優香の質問が鳩尾へ当たり、答えられない自分が情けない。
部屋の窓の外、深夜の街は静まり返り、遠くの車のライトがカーテンの隙間を照らす。涙が頬を伝い、スマホを握る手に滲む。
安優香の声が、唯一の救いのように耳に残った。私の人生、ちゃんと私のものにできる? 彼女の「居場所を作る」って言葉が頭の中を反芻し、呼吸が浅くなっていく。苦しい。
