お母さんの声で怒鳴る私を、誰が許せるだろう 〜安優香〜
火遊びウサギは笑わない 12
お母さんみたいになりたくないのに、
怒鳴るとお母さんの声になる。
自分を許したいけど、
どうすればいいか分からない夜の記録。
安優香の問いかけに、私は何も言えない。
言わないんじゃなく、頭は白紙で、自分の目的や信念はなんだろうと心細くなった。
私の声が嗚咽で震えるたび、部屋の空気が重く沈む。テーブルの上には、飲みかけの水のグラスが置き去りにされ、氷が溶けて小さな水滴がガラスに滲む。安優香の言葉が途切れると、電話の向こうの静寂が深い海の底のように広がる。
部屋の隅に積まれた洗濯物の山が、ぼんやりとした影を落とし、テレビの消えた画面が黒く光を反射する。
「あのね。今の私には自分が見えてないです。
ううん、今まで見てなかった。自分の周囲を見渡して、人のことばかり見ていたんですね。
だから比較ばかり。もうイヤ」
スマホの向こうから微笑が聞こえ
「そうかもね。瑠璃ちゃんだけじゃないよ、私も。
だから、『私はこうしたい』っていうのは、人より見劣りがしないって、そこなんだろうね」
「うん、ほどほどでもいいし、自分がいいならいいのに。ダメな自分を認められなくて、羽を広げて空振りしてた。あっ、支離滅裂ですね」
やっと私も笑えた。
「傷ついてばかりだから、新しい傷がついてもよそから見たら目立たないのにね」
「ほんとね」
初めて安優香と共鳴した。それが心地よいと感じ、自分が求めているのは等身大の自分で居て良いという許可を外部に「うん」と言ってほしかったんだと気づいた。
「安優香さん、強がっているけど、脆い?」
「当たり前じゃない。人間だよ」
また笑い合う。
「等身大の自分を許すって、難しいよね。
私、流産したけど……平気だったわけじゃないよ。消えたいと思った。
死にたいじゃないの、消えたい」
「でも、中絶する気でしたよね?」
「本心からそう思わないよ。本当は産みたかった。
私、男から本気にされてないんじゃないかと思って、産みたいと言えなくなった。
『絶対産んでくれ』と言ってほしい願いを込めて、“絶対”なんて言ってるけど、自信がない。
幸せになるには、愛されたいも妊娠するも整合性があるのに、アンチノミーなのに、どうしてパラドックスになっちゃうのか。やっぱ、生き方を間違ってるのかも」
安優香の声が、急に萎んだ気がした。
「間違ってるって、誰が決めたんだろうね」
私が呟くと、安優香は笑わなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、彼女がぽつりと言った。
「……私の母親」
目の前に光線が走った。そうだ、私もだ。
自分の人生がどこか狂った気がした最初の場所は、いつだって「母親の目」だった。
「私ね、子ども産んだ時、真っ先に思ったの。
『こんなに小さい命を、どうやって壊さずに育てるの?』って。
だって、私、壊される側だったからさ。
『ちゃんとしてれば大丈夫』って育てられて、ちゃんとしないとダメな子になるって思わされて。
ちゃんとしてる時だけ、頭撫でられてさ」
私は息を呑んだ。私と同じだ。
「褒められる条件」がいつも先にあって、その中に閉じ込められて育った。
テーブルの上のティッシュの空箱が、私の空っぽな心を映すように、くしゃっと潰れて、もう何も出てこない。
「何が一番怖いってさ」
安優香の声が、かすかに震えていた。
「子どもに怒鳴ったあと、母親と同じ口調になってるのに気づいた時。
私、あの人の声を体のどこかに保存してたんだって思った」
私もだ。
大きな声で責める母の口調を、私の中の正しさとして、ずっと捨てられなかった。愛されるために必要な要件として刷り込まれていた。
「お母さんのこと、好きじゃなかったんだね」
思わずそう言った私に、安優香は鼻で笑った。
「ううん、好きよ。めちゃくちゃ好き。
だから、どうしても嫌えなくて。
許したくないのに泣いたの、自分でも意味がわかんなくてさ。
そういうの、もう混乱して闇堕ちする」
「捨てられたほうが楽だよね」
私の言葉に、安優香がはっとしたように息を止めた。
その沈黙が答えだった。
彼女の沈黙が続く中、部屋の空気がさらに重くなり、エアコンのモーター音が低く響く。
私も母がいなくなったら、自分が壊れると思っていた。
けれど、壊れるのが怖いんじゃない。壊れるほどの何かがまだ自分に残ってることが、怖い。
窓の外で遠くの車のエンジン音が低く唸り、夜の静けさを一瞬だけ貫通する。
「瑠璃ちゃん、私、ウサギみたい」
「ウサギ?どういう意味ですか?」
「ウサギは基本、子育ては放任主義なんだって。
それは仔ウサギの成長には理に適っていて……。
母ウサギが仔ウサギに手をかけるようになると、巣が汚れやすくなるんだって。
それに反応した仔ウサギが、母親を求めて動き回るようになって、やがて体力を消耗して死ぬらしいよ」
「放任主義で仔ウサギが育つのか……」
「まあ、そういうことだよ」
キツくスマホを握りしめ、画面の光が涙で滲んだ目を青白く照らす。
私たちは笑えないウサギのようだ。
笑わないのは、笑う余裕なんかない。空っぽを知られないよう、隠すのに必死で生きてきた。
