足りないものが見えない家
豊かさってなんだろうと考えるきっかけになったのは、親友のレオ氏が限界集落に引っ越してからだった。
レオ氏の新居は、山の奥にあるポツンと一軒家。縁側を開けると、広い庭の先に山の中腹が見えるが、民家はどこにもない。
その山も、レオ氏がオーナーになった。
10年以上、ずっとずっと夢見て、追いかけて、お金を貯めて叶えた限界集落での暮らし。
先駆者のyoutuberに直接話を窺い、助言や励ましてもらいながら辿り着いた。
家は約五十坪。庭はその四倍。
平屋に屋根裏部屋がついており、玄関を入ると八畳ほどの土間に食卓テーブルが置いてある。
元の家主が家を手放したのは去年だという。掃除は行き届き、丁寧に暮らしていた気配がそこかしこに残っていた。
驚いたのは、この家に引っ越しても、足りないものが何ひとつ浮かんでこないことだった。
生活に必要なものが、既にすべて揃っている。それも新品で、封が切られていないものまである。まるで元の家主の暮らしを、そのまま引き継ぐような贅沢な始まりだった。
ほんとうに贅沢だと思った。
張り替えられた障子は光を含んだ白で、桐のタンスの白さとやわらかく響き合っている。
縁側に出れば、木製のロッキングチェアーがひとつ、外を向いて置かれていて、
「ゆっくりしな」とでも言うようにそこにあった。
寝室は十二畳。ベッド以外、何もない。
隣の四畳ほどの部屋には、掃除機が三台あった。いや、四台だったかもしれない。
こたつ、ストーブ、扇風機が、きちんと整理されて置かれている。
台所のコンロには吹きこぼれた跡ひとつなく、一枚板でできたテーブルと、同じ材で作られた水屋は、ひと目で良いものだと分かった。
外の倉庫には、バーベキューセット、精米機、ケルヒャーの高圧洗浄機と草刈機があり、真新しい道具の一部には、まだ包装が残っていた。
倉庫の横には、脚が太いアンティークなベンチと、ニワトリ小屋と言いたいが、木目が美しく、縁はニスが塗られ、欄間の彫刻があしらわれたニワトリ御殿がある。
古民家というのが憚られる、豪華な品々は私やレオ氏が見るから目が輝くのかもしれない。
他の人からすると、
「邪魔くさい。まだ新しいし、セカンドストリートで売っちゃえ」
「こんなのゴミじゃん」と捨てられてしまう気がする。
足りないものは何か、辺りを見渡しても浮かんで来ない。精々、コンビニが遠くて不便とか、
鉄道などの公共交通機関がないこと。
隣家までがとにかく遠い。
倉庫の片隅から、百七歳の方の免許証が出てきた。優しそうなお顔の方だった。名前から元の家主だと分かる。
家を仲介した役場の話によると、人が亡くなる前にお家を手放したらしい。
家主やご家族がどんな想いで障子を張り替え、畳や家具、床を拭き、玄関から出たのか想像すると、言葉にするのがためらわれた。
足りないものを探していたのは、私の方だった。
