悪は悪だと呼べなくなること
人が最も恐れなければならないのは何か。
悪が正義の顔をして、闊歩している怖さより、悪は悪だと呼べなくなることじゃないかな。
ただの不安じゃない。
『仕組』を一度見てしまった人間の恐怖。
なぜこの怖さは、こんなに深く残るのか。
推測だけで、検証はしてないけど。
この怖さの素顔って、悪そのものより正義を被っている。
ただの悪なら近づかなければいいし、距離を取ればいい。
でも正義の顔をした悪は、優しく善意の言葉を使い、被害者を装う。
「みんなのため」と言い、そして叩く理由を正当化する。
会社でも、地域でも、SNSでも同じ。
「あの人がいると場の空気が悪くなる」
「みんなのために、あの人は無視した方がいい」
そう言われて、
排除は正義の仕事に姿を変える。
これに巻き込まれると、何が悪で誰が守られるべきかが、ぐちゃぐちゃになる。
今も止まっていないという事実は、終わった出来事じゃない。今でも悪は闊歩している。大人になって、子どもの親であるママ友の間でも。会社で役職がついても。
過去の出来事や傷じゃなく、現在進行形の暴力は社会的に許されている顔で続いている。
人の心にずっと逃げ場のない違和感と警報音みたいに残る。
自分もいつか、あそこに放り込まれるかもしれないという現実感が身に染みついている。
事実は簡単に歪められ、正しさは武器になる。誰かを守った人が先に切られ、見ていただけの人も標的になる。
怖さには自分へ、他人事じゃないという実感が含まれている。
想像上の恐怖じゃなく、経験を通して獲得してしまった恐怖。
世界が一番壊れるのは、悪が勝つことじゃなくて、悪を悪だと呼ぶ声が徐々に消えていくことだから。
正義の名の下で、誰も何も言わなくなるから。
わたしが感じているこの怖さは、臆病さでも、被害妄想でも、思い込みでもない。
人が人と共生している以上、起こり得ること。
世間の歪みを自分の感覚で見抜いてしまった恐怖。知らなければ、もう少し楽だったことも沢山ある。
でも。その怖さを感じられる人は、まだ正義が何かを心に持っているのではないか。
一つだけ事実として言えるのは、悪が正義の顔をしていると見分けられてしまった側だ。
クリスマス前になると読みたくなるのが、
ヴィクトール・フランクル『夜と霧』

『夜と霧』で描かれている本当の崩壊って、アウシュビッツの恐怖。単にガス室や飢餓、暴力や死だけじゃない。
もっと深いところにある、残虐行為が業務になり、殺すことが命令になること。
服従が善になり、疑問を持つことが悪になる。価値の反転が起きる。
悪が悪として存在したのではなく、悪が正義の顔をして制度化されたことが、フランクルが見た地獄の実態。
ナチスは国家や秩序、民族の浄化のためという正義の言葉を使った。
今も同じように、みんなのため、被害者を守るため、正義の告発という言葉で叩かれる。
言葉だけが更新されて、しかし仕組は同じ。
悪が正しさを名乗っている。
アウシュビッツを動かしていたのは一部の狂った怪物だけじゃない。
事務員、看守、役人、通報する市民。
多くは「命令だから仕方なかった」
「逆らえなかった」と言っていた。
でもそれって、思考を止めた人間が大量に生まれた場面でもあった。
フランクルが一番恐れていたのは、体が壊れたり、心が削られることよりも
「これはおかしい」と思う感覚が消えることだった。
疑問が消えたとき、人はもう自分が悪を行っていることすら感じなくなる。感覚がとち狂う。
アウシュビッツはある日突然、狂気が降ってきたんじゃない。少しずつ少しずつ
「まあ仕方ない」「私が何か言っても変わらない」「自分が巻き込まれたくない」
小さな沈黙の積み重ねの先にできた地獄よ。
どうだよ、SNSも同じだろうよ。
歴史からも体験からも学ばない人。
怒りというより、もっと深い、失望と絶望に近い感情だよ。
人は本来、歴史から学んで他人の痛みを側で感じて、自分の失敗から得る。
少しずつ同じ過ちをしない存在になれるはずなのに、現実はそうならないことの方が多い。
しかも怖いのは、忘れているのではなく、
知っていながら、なぞるように繰り返している。
『夜と霧』がこれほど読み継がれているのに、群衆はまた正義の側に立ったつもりで叩き、思考停止は空気の名で正当化される。
告発はまた快楽と承認欲求にすり替わる。
形だけ変えて、中身はほとんど同じまま。
わたしが今感じている怖さは、
「ああ、人は本当に変わらないんだ」
こんなにも多くの犠牲の上に、再び同じことをするんだ。人へ絶望に近いもの。
もし希望を置くなら、人は集団としては学ばない。
でも個人としては学ぶ人がいる。
胸にある虚しさは、人を見限った冷たさじゃないね。それでもまだ、人という存在に期待してしまっている学ばなさ。
