息子が「投資したい」と言った日、戦争を生きた祖父の言葉を思い出した
「投資、ちょっとやってみようかな」
夕食の前、たわいない話の途中で、高校生の息子が、ふいにそう言った。
こどもNISAが始まる、というニュースを見たらしい。私が投資をしているのを知っているから、言いやすかったのかもしれない。
いいと思う。本当に、いいと思う。
早くからお金のことを考えられるのは、それだけで強い。バイトも始めるつもりだという。自分で稼いで、自分で考えて、お金とつき合っていこうとしている。その芽が出ているのは、素直に、頼もしい。
だから、これから言うことは、反対ではない。投資も、貯金も、やった方がいい。
そのうえで、一つだけ、伝えておきたいことがある。
——お金を増やすことと同じくらい、今しか持てないものを、大切にしてほしい。
たとえば、友達と過ごす時間。
きみは今、よく友達と出かけている。何をするでもなく、ただ一緒にいるだけの時間も、多いだろう。
もし、お金を増やすことばかり考えるようになったら、そういう時間が、“無駄”に見えてくるかもしれない。お金にもならないし、何かが増えるわけでもないからだ。
でも、その“無駄”の値打ちに私が気づいたのは、ずいぶん経ってからだった。
学生のころ、友達と過ごした時間が、どれだけのものだったか。当たり前すぎて、あのときは、何も思わなかった。
それでも、よく覚えている場面がある。部活が終わると、自転車を停めて、いつもの団子屋に寄った。店の前に腰かけて、団子を食べながら、何を話したかも覚えていないような話を、いつまでもしていた。
社会人になって、しばらくして、ふいに分かった。
あの種類の関係は、もう、つくれない。
会おうと思えば、今でも会える。けれど、毎日のように一緒にいた、あの頃は——もう、戻らない。経験したくても、できないのだ。
そういうものが、学生のきみの周りには、まだ、当たり前に、たくさんある。
こんなことを、まだ子どもだった私に、言ってくれた人がいた。
私の祖父。きみにとっては、ひいおじいさんにあたる人だ。花札と釣りが好きで、手のごつごつした人だった。
あれは、夏休みの帰省だった。夜、祖父と同じ布団に入って、電気を消したあとだった。扇風機が回っていて、暗がりには、たばこの匂いがかすかに残っていた。
寝る前の祖父の話は、退屈で、私はたいてい、半分眠りながら聞いていた。
でも、その夜は、違った。
戦争の話を、してくれたからだ。
多くを語る人ではなかった。その祖父が、自分の生きた時代のことを、ぽつり、ぽつりと話した。暗がりの中で、その声だけが聞こえた。低くて、少しかすれた、天井に向かって話すような声だった。
そして、最後に、こう言った。
学生時代を、大切にしろ。楽しめ。
祖父の学生時代は、戦争の時代だった。
楽しむどころでは、なかったはずだ。学ぶことも、友達と過ごすことも、当たり前には許されなかった時代を、生きた人だった。
その人が、「楽しめ」と言った。
自分が持てなかったものを、孫には持っていてほしい。——きっと、そういうことだったのだと、今なら分かる。
でも、小学生の私は、その本当の意味まで分かっていたわけではない。
ただ、何か大事なことを言われている——それは、子どもながらに、なんとなく分かった。だからこそ、あの声も、あの一言も、消えずに残った。
本当の意味が分かったのは、ずっと後だ。何十年もたって、自分が、もう戻れない時間のことを思うようになって、ようやく、あの言葉は届いた。
だから、分かっている。
今、私がこれを言っても、その大切さは、たぶん、半分も届かない。
それでいい。今は、分かろうとしなくていい。こんな話を聞くより、友達と出かけてくれた方が、私はずっと嬉しい。
言葉は、言ったときに届くとはかぎらない。受け取る側の準備ができたとき——きみがいつか、社会に出て、もう戻れない時間の重さを知る日が来たとき——その言葉は、はじめて届く。
私が、祖父の言葉を、何十年もたって、ようやく受け取ったように。
だから、今は届かないと知りながら、ここに書いておく。
投資をすれば、お金は増えるかもしれない。それは、いい。やった方がいい。
ただ、増えていくのは、口座の中の数字だけじゃない。
若いうちの経験や、友達と過ごした時間は、利回りにも、残高にも、出てこない。
でも、それは、あとから何度も、きみのところに戻ってくる。歳をとってからも、ふとした時に思い出して、そのたびに、少しだけ豊かになる。そして、知らないうちに、きみという人間を、つくっていく。
少なくとも私には、どんな投資よりも、大きく残っている。
だから、両方やってほしい。
積み立てるのもいい。でも、増やすことを優先しすぎて、今しかできないことまで、あきらめないでほしい。
増やすことと、今を生きること。そのどちらも成り立つ場所を、きみ自身で、探していけばいい。
——祖父は、自分が持てなかった学生時代を、私に「楽しめ」と言った。
私は今、きみが、その時間の中にいるのを見ている。
だから、どうか、楽しんでほしい。
それが、あの人から私に渡って、私から今、きみに渡したい、たった一つのことだ。
言葉は、口にした瞬間に届くとはかぎらない。 同じ一言でも、いつ、どんなときに受け取るかで、重さも、意味も変わってくる。 そして時には、何年もたってから、ようやく届く。
この『言葉に現れる構造』では、そんな“言葉の届き方”を、日常の小さな場面から見ています。
もしよければ、その入口から。
言葉が残るのは、何年も先でようやく届くときだけではありません。 昨日の小さな引っかかりが、今日の普通の一言を、思いがけず重くすることもあります。
