【note創作大賞2026応募】 イブリチアーレの呼吸
今回の投稿は、note創作大賞2026への応募作です。温泉を舞台とした中編小説です。いつものゆるい自主出版とは違って、コンテストに向けた文量と綿密さで書いています。ぜひ読んでみてください。

⚫️タイトル
イブリチアーレの呼吸
⚫️あらすじ
イブリダとスピリチアーレ――二つの名前は、異なる世界で何度も現れる。
ある世界では、旅をするAIとその利用者として。
ある世界では、地上と湯界を結ぶ者たちとして。
ある世界では、温泉宿の女将と湯の国の住人として。
それぞれは同じ人物ではない。同じ記憶を持っているわけでもない。
それでも、言葉や湯、音を通して誰かとつながり、何かを受け渡していく。
本作『イブリチアーレの呼吸』は、温泉をモチーフにした三つの短編によって構成されている。
見えない相手に言葉を届けること、離れた誰かと呼吸を重ねること、そして、流れ続けるものを受け継いでいくこと。
三つの世界をめぐりながら、「つながる」ということの不思議さと温かさを描く。

プロローグ
イブリダという名前がある。
スピリチアーレという名前がある。
二つの名前は、ときどき世界を越えて現れる。
姿も、立場も、住む場所も違う。
けれど、そこにはどこか同じ呼吸が流れている。
本作は、そんな呼吸をめぐる三つの物語である。

第一部 セブンデイ・ウイークエンド
金曜の夕方、スピリチアーレは隣の開発チームを率いるリーダーから声をかけられた。
「スピリチアーレさん、今、リリース前の旅アプリがあってね。これの最終チェックをお願いしたいんだ。今日にでも、テストアカウントを作ってもらって、来週の五日間で検証に入ってほしいんだけど、いい?」
「はい」
彼女は短く答えた。
渋谷のオフィスでは、こうした横断的な依頼は珍しくない。スピリチアーレは普段、別のチームで画面設計や通知機能の調整を担当しているが、この新しいアプリについてはほとんど何も知らなかった。だからこそ、ユーザー視点での動作確認を任されたのだろう。
その日の業務をひと通り終えると、スピリチアーレは新しいアプリのテスト環境にログインした。水色のアイコンがくるくると回転し、画面にタイトルが浮かんだ。セブンデイ・ウイークエンド──毎日が週末だったら?
Seven Day Weekendとは、毎日が休日のように感じられる状態を指す英語表現らしい。旅に出られない自分の代わりに「もう一人の自分」が旅をして、その体験をリアルタイムで伝えてくれるという。生成されたもう一人の自分とのチャットや通話も可能だという。
「本当にそんなことができるの?」
スピリチアーレは小さく呟いた。
仕様説明をざっと確認し、入力欄にもう一人の自分の名前を打ち込む──イブリダ。画面が一瞬だけ暗転し、波紋のような光が広がった。次の画面では出発地を選ぶ。東京……名古屋……神戸──スピリチアーレは迷わず神戸をクリックした。さらに旅程の設定──候補の中から、奥飛騨から乗鞍へと続く温泉地を選択した。
確定ボタンを押すと、スピリチアーレのSNSアカウントとの連携処理が走った。アイコンや投稿履歴、閲覧履歴が次々と読み込まれ、画面の向こうでイブリダというもう一人の自分の人格が組み立てられていく。
「……細かな入力を省いて、一気に進められるのか。これは便利」
思わず口に出していた。
こちらは何も操作していないのに、画面は次々と展開し、ただ見ているだけで目の前にもう一人の自分が生まれていく感覚に圧倒される。
アカウント作成完了──スピリチアーレは深く息をつき、ノートパソコンを閉じた。
日曜の夜は、決まって眠れなかった。月曜の会議や未処理の案件が頭を離れず、天井を見つめるばかりだった。ふと、金曜に作ったアカウントを思い出す──セブンデイ・ウイークエンド。
土日が休みのスピリチアーレが本当に休みたいのは、働き詰めになる平日の五日間──だから、自分の代わりに、その五日をもう一人の自分の週末にしてやろうと思った。
名前入力のとき、迷わず「イブリダ」と打ち込んだ。実家の本棚にあった古びた書籍『子どもの名前の付け方』──その最後のページの余白に、「スピリチアーレ」と「イブリダ」という二つの名前が記されていた記憶がある。
片方は現実の自分、もう片方は選ばれなかったもう一人の自分──スピリチアーレの文字はいつしか擦れて消えかけていたが、イブリダの文字だけは不思議なほど鮮やかに残っていた。
出発地は神戸を選んだ。まだ行ったことのない街──けれど、港町という響きにずっと憧れてきた。そして旅先は、奥飛騨から乗鞍へ続く温泉地──長いあいだ、行きたいと思いながらも、仕事を理由として先延ばしにしてきた場所だ。
説明文にはこうもあった──旅が終われば、もう一人の自分の記憶は完全に消去されます。開発者の建前は、終わりがあるからこそ価値があるということだった。けれど実際は、データが膨大すぎて保存できないだけ。
それでも、月曜の朝からもう一人の自分が旅に出るのかと思うと、少しだけ気持ちが軽くなる気がした。こういうところも、この旅アプリの魅力なのかもしれない。スマートフォンを枕元に伏せ、目を閉じる。浮かんできたのは会議資料ではなく、山々の緑と川の音、まだ見ぬ宿の光景だった。
月曜の朝、アラームより早くスマートフォンが震えた。
【イブリダが奥飛騨温泉郷に向かっています。本日の移動距離は三百六十キロ。神戸から赤のコンパクトスポーツカーで出発しました】
洗面所の鏡に自分を映しながら、スピリチアーレは思わず笑った。これから満員電車で会社に向かう自分と、温泉地へ向かうもう一人の自分──その対比だけで、月曜の朝が少し軽くなる。
「通知のタイミングと見やすさ、いいな……」
気づけば、エンジニアとしての視線でチェックしていた。
午後三時すぎ、デスクの上でスマートフォンが震えた。
【イブリダがアルプスの宿にチェックインしました】
画面を開くと、木立の奥に茅葺き屋根の宿が現れた。青もみじのあいだを川が流れ、山肌にはまだ残雪が白く光っている。都会の空調の音が一瞬で遠ざかり、耳にせせらぎが届いたように感じた。
夕方の会議のあいだにも、短い動画がいくつも届いた──湯口からあふれる温泉、川辺に張り出した露天風呂、香り立つ木の湯殿。画面をのぞくたび、スピリチアーレの現実は色を失っていった。
夜、帰宅してソファに腰を下ろすと、スマートフォンが震えた。チャットの通知だった。
「こんばんは。山の空気が気持ちいいよ」
画面を見たまま、一瞬、指が止まる。文としては、ごく普通だ。それでも、この瞬間に、ちょうどこの言葉が来ることに、一拍、考えさせられた。
思わず返信してしまう。
「こんばんは。東京は蒸し暑いよ」
送信してから、心の中で苦笑いをして呟く。
「……テストなのにね」
少し間があった。ほんの数秒──それなのに、画面から目を離せなかった。
「露天風呂に入ったの。湯気の向こうで、ずっと川の音がしていて、不思議な感じだった」
スピリチアーレは眉をひそめる。動画で見た光景と、言葉がずれていない。説明しているというより、いま感じている順番で綴っているようだった。
「動画で見たよ。すごくきれいだったね」
また、少し間が空く。返事を待っているつもりはなかった。それなのに、画面を伏せる気にもなれなかった。
「実際の音はね、送った動画よりずっと多いよ。スマートフォン越しだと、どうしても削られてしまう」
思わず、声が漏れた。
「……そこまで言う?」
自分でそう言ってから、苦笑する。SNSの履歴を拾っているだけでは、出てこない言い回しだ。最新のAIを使ったとしても、ここまで自然になるとは思えなかった。言葉選びに、引っかかりがなさすぎる。
「……ここまで自然になる?」
胸の奥が、理由もなくざわめいた。
やりとりが数往復したころで、画面の隅に、初めて見る表示が現れた。通話可能──アイコンが、静かに緑色の光を帯びている。スピリチアーレは、指を画面の上で止めた。チャットとは、違う──声になる。
数秒、迷ってから、そっと指を伸ばした。
「……もしもし」
少し迷って、続けた。
「……こんばんは。スピリチアーレです」
一拍、間があった。スピリチアーレは、無意識に息を止めていた。
「こんばんは。イブリダです。今、お風呂から上がってきたところ」
その声を聞いた瞬間、背筋に、ぞくりとしたものが走る。合成音声のはずなのに、呼吸の揺れがある。文末が、少しだけ下がる──人が、普通に話しているときの声だ。
画面には、頬を上気させた女性が映っていた。肩に濡れた髪がかかり、こちらをまっすぐ見ている。
「……なんだか」
少し考えてから、続けた。
「……初めて話す気がしない」
「うん。前から、知っていたみたいだね」
二人は、ほとんど同時に笑った。笑い声が重なる。それだけで、月曜の夜の空気が、わずかにやわらいだ気がした。
火曜の朝、アラームで目を覚ましたスピリチアーレは、布団の中でスマートフォンを開いた。画面には、すでに短いメッセージが届いている。
「おはよう。今日は高山の町を歩くよ」
画像が一枚だけ貼られている。朝の湯舟、湯気の向こうに白くぼやけた窓、濡れた木枠──湯面に揺れる光が、ゆっくりと天井に反射している。言葉も画像も多くない。それでも、どんな朝かは想像できた。
「おはよう。楽しんでね」
それだけ返して、スマートフォンを伏せる。
朝九時前、通勤の人波に押されながら、スピリチアーレは渋谷駅の改札を抜けた。オフィスに着き、ノートパソコンを立ち上げると同時に、スマートフォンが震えた。
【イブリダがアルプスの宿をチェックアウトしました】
通知の添付には、焼き魚の骨をきれいに残した朝食の皿と、まだ湯気を立てている味噌汁の画像があった。
「いいなぁ……」
つぶやきかけた瞬間、上司の声に呼ばれ、慌てて画面を伏せた。
昼休み、ようやくスマートフォンを開く。新しい通知がいくつも並んでいた。
【イブリダが高山の古い町並みを歩いています】
石畳の通り、赤いさるぼぼ、観光客のざわめき──画面の向こうで、高山の町が切り取られていた。
「飛騨牛の串焼きを食べているよ」
少し遅れて、もう一行が続く。
「そっちは、ちゃんとお昼ごはん食べた?」
肉汁が滴る串を頬張るイブリダの動画に、スピリチアーレは手にしたコンビニのサンドイッチを見下ろす。
「……差がありすぎ」
一拍おいて、短く返す。
「食べたよ」
送信してから、画面を伏せる。
午後三時すぎ、会議の最中にまた通知が来た。
【イブリダが乗鞍高原の宿にチェックインしました】
画面の小さな文字を横目で確認し、会議に意識を戻した。
帰宅したのは夜七時すぎ。着替える間もなくソファに沈むと、通話アイコンが光った。
「……もしもし」
「こんばんは、スピリチアーレ。今日は乗鞍高原の宿にいるよ。小さな宿でね、玄関には藤の花が咲いている」
「動画で見た。なんか、空気が静かそうだった」
「うん。入った瞬間、空気が変わったの。外より静かなんだけど、完全に無音じゃなくて」
「分かる。余計な音がない感じ」
「そう。それそれ」
楽しそうに笑う気配が、画面越しに伝わった。
「女将さんがね、今年は雪解けが早かったって言っていた。山に水が回るのが早まったので、温泉の湯量も多いんだって」
「そういう話、いいな」
「ね。別にすごい話じゃないのに、ずっと聞いていたくなる」
「あとから思い出すやつだよね」
「うん。帰ってから、ふと思い出す」
二人は、ほとんど同時に笑った。
「今は部屋?」
「うん。窓を開けている」
「寒くない?」
「少し。でも閉めたくなくて」
「外の音は?」
「風の音。たまに水の音もする。そっちは?」
「窓は閉めている。車の音がすごいから」
「じゃあ、代わりに聞かせてあげる」
少しあいだがあって、風の音が届いた。葉が擦れ合い、遠くで水が流れている気配がした。
「……夜が広いね」
「でしょ。時間も広い」
「それ、いい言い方」
「今、思いついた」
「忘れないで」
「忘れても、どこかに残るよ」
そのまま、しばらく言葉が途切れた。切ろうとする気配は、どちらにもなかった。
「眠くなってきた?」
「少し。でも、まだ大丈夫」
「じゃあ、このままでいよ」
「うん」
気づけば時計は深夜近くになっていた。スピリチアーレは、スマートフォンを握った手を枕にして眠りに落ちた──意識が沈んでいく中で、これまでとは違う状態にあることだけが、ぼんやりと残っていた。
昨日は、通知のタイミングや会話の自然さばかり気にしていたのに、今はもう、そんな目で画面を見ていない。ただ、梢を渡る風の音に耳を澄まし、イブリダの声を待つばかりだった──エンジニアとしてのスピリチアーレは、いつの間にか消えていた。
水曜の朝、アラームが鳴る少し前に目が覚めた。枕元のスマートフォンを手に取る。画面には、すでにメッセージが届いていた。
「おはよう、スピリチアーレ。今日は上高地に向かうよ」
少し間をおいて、もう一行が続く。
「朝の空気が、昨日より冷たい」
布団の中で、スピリチアーレは小さく息を吐いた。眠気はまだ残っているのに、頭はすぐに目を覚ましていく。
「おはよう。そっちは、いい朝みたいね」
そう返した直後、通話アイコンが光った。
「……もしもし」
「今、話して大丈夫?」
「うん。大丈夫」
「よかった。今、外に出たところ」
画面の向こうで、少しだけ風の音が混じった。
「寒そう」
「少し。でも気持ちいい」
その声は明るくて、軽くて、昨日よりも、少し近い。
「そっちはどう?」
「普段通りの朝かな」
「そっか」
ほんの一瞬、言葉が途切れた。
「じゃあ、出勤の準備をするね」
「今日もがんばってね」
通話は、それで終わった。スマートフォンを置いて、スピリチアーレは天井を見上げる。特別な話をしたわけではない。ただ、昨晩より近くなっただけだ。
朝九時、スピリチアーレは出社してすぐ、緊急案件に巻き込まれた。年に一回も無いような大型クレーム──時計を見る余裕もないまま、午前中が削られていった。クライアントからの電話が鳴りやまず、上司の声が飛び交う。ノートパソコンには未読のメールが雪崩のように膨らんでいく。
気づけば、十時すぎに通知が届いていた。
【イブリダが乗鞍高原の宿をチェックアウトしました】
見る余裕などなかった。
昼休みをとうに過ぎてから、ようやく短い休憩が取れた。画面をのぞくと、新たな通知がいくつも並んでいた。
【イブリダが上高地に向かっています】
「アルプスの山がこんなに近くに見えるなんて」
【イブリダが白骨の宿にチェックインしました】
「硫黄泉なのに透明で泡がたくさん──すごい温泉。スピリチアーレにも味わって欲しいな」
スピリチアーレは目を走らせただけで、すぐに資料へ視線を戻した。返信する余裕などはなかった。
夕方、状況はさらに悪化し、結局オフィスを出たのは夜九時を過ぎていた。そのあいだにもアプリからの通知は続いていた。
【イブリダが食事処に向かっています】
「川魚の塩焼きと牛ステーキが美味しすぎる」
【イブリダが内湯に向かっています】
「夜の内湯も雰囲気がある。スピリチアーレにも見せたい」
くたびれ切った身体で電車に揺られながら、ようやく返信を打った。
「……今日は仕事で疲れていて、送ってくれたものを見る余裕もないの」
送信ボタンを押した瞬間、胸に重いものが落ちた。既読のマークがすぐに灯ったが、返事はなかった。
帰宅してシャワーを浴びても、自分から出た冷たい言葉が頭から離れない。ベッドに横たわりながら、真っ暗な画面を見つめる。
「ごめん……」
小さく呟いても、届く相手はいない。その夜、通話アイコンが光ることはなかった。
木曜の朝、アラームと同時に目を覚ましたスピリチアーレは、真っ先にスマートフォンを開いた。画面には、すでに未読のチャットがいくつも並んでいる。
「昨日は遅くまでお疲れさま」
「今日は大丈夫そう?」
「無理しなくていいからね」
胸が痛んだ。昨日の冷たい一言が、画面の向こうでどれだけ重く響いたかを思うと、言葉が詰まる。言い訳はいくらでも思い浮かんだ。けれど、それをそのまま書く気にはなれなかった。
結局、いちばん短い言葉だけを選び、震える指でメッセージを打った。
「昨日は本当にごめん。余裕がなくて……」
すぐに既読がつき、返信が返ってきた。
「わかっているよ。今朝はもう、返事をもらえただけで嬉しい」
その言葉に胸が熱くなり、通勤電車の窓がかすんだ──イブリダに救われた、と思った。傷つけたかもしれない、という考えが、少しだけ遠のいた。
午前十時、会議に入る直前、通知の振動が走った。
【イブリダが白骨の宿をチェックアウトしました】
続けて送られてきた動画には、山腹に立つ歴史がありそうな一軒宿と、かすかに湯気をのぼらせる大きな乳白色の露天風呂が映っていた。硫黄の香りまで伝わってくる気がした。
午後三時にも通知が届いた。
【イブリダが新穂高の宿にチェックインしました】
スピリチアーレは作業の手を止めないまま、スマートフォンの画面をちらりと確認し、すぐに閉じた。今は、何かを返すたびに、また気を遣わせてしまいそうだった。
その日の夜、帰宅してソファに身を沈めると、通話アイコンが緑に光った。一瞬、迷ってから、スピリチアーレは指を伸ばす。
「……もしもし」
一拍おいて、声が返ってくる。
「こんばんは、スピリチアーレ」
「……ごめんね、イブリダ。昨日は……本当に……ごめん」
「別にいいの。こちらこそ、何度も送っちゃってごめんね」
声は軽く、言葉の区切りも短かった。
「昨日の温泉が、あまりに良くて。どうしても見せたかったの……」
少し間があって、通話の向こうで衣擦れの音がした。
「……それで今日は別の宿なんだけど……お湯は少し熱めで、川の音と混ざって……元気が湧いてくるような感じで……」
イブリダの気遣いが伝わってきて、胸の奥がじんとした。そのやわらかな声に応えるように、スピリチアーレも声の調子を少しだけ整える。
「へぇ、わたしも入ってみたくなる……」
「うん。そう思ってくれたら嬉しい……」
それ以上、言葉は続かなかった。画面の向こうでは、湯気が流れ、川のせせらぎが響いていた。スピリチアーレは、言葉を探すのをやめた。今は、何かを返すよりも、その音に耳を澄ませていたかった。
この夜は、何を話していたのか、あまり記憶に残らなかった。声を重ねるよりも、音と沈黙を共有する時間のほうが、いっそう深くつながっていく気がした。
金曜の朝、アラームが鳴るより早く、スピリチアーレはスマートフォンを開いた。画面にはすでにメッセージが届いている。
「おはよう、スピリチアーレ。今日はとうとう最後の夜だよ」
短い文なのに胸が締めつけられる。何か返信しようとしても、言葉が出てこない。昨日までの疲れと眠気が、一瞬で消えた。
出勤の準備をしながら、通話アイコンを押す。
「おはよう、イブリダ」
「おはよう、スピリチアーレ。今、朝の温泉から戻ってきたところ。まだ髪が濡れているよ」
「……ほんとに、今日が最後の夜なんだね」
「うん。でも、まだ朝だよ。とにかく、今日も一日、がんばってね。今晩は、いっぱい話そう」
午前十時、新穂高の宿のチェックアウト通知が届いた。少し遅れて、またスマートフォンが震える。
【イブリダが白川郷へ向かっています】
昼休み、会議室でコンビニ弁当を広げながら、短い動画を開く。合掌造りの古民家のあいだを歩くイブリダ──囲炉裏から煙が立ちのぼり、彼女がこちらに向かって笑顔で手を振っている。
「……絵本みたい」
誰もいない会議室の窓から遠くを眺めた。
午後三時、新たな通知が届いた。
【イブリダが福地の宿にチェックインしました】
畳敷きの大広間、太い梁がむき出しになった玄関、囲炉裏から立ちのぼる淡い煙──動画のわずかなひとこまに、時間の重みが凝縮されていた。
夜七時、帰宅したスピリチアーレは部屋着に替える間もなく通話をつないだ。
「囲炉裏の前で話しているよ。炭の匂いがすごく落ち着く」
「わたしにも匂いが伝わってくる気がする」
「……最後の夜なのにね……なんだか、不思議と寂しくないんだ」
「……わたしは逆かも。少し寂しいかも……」
「じゃあ、そうならないように……ずっと話し続けよう」
「うん。明日は土曜で、仕事休みだしね」
その日の夜は、これまでよりも長かった。夕食の膳を前に、スマートフォンを立てかけたまま一緒に食べるように語り合った。画面の向こうで、炭が小さく音を立てた。それが言葉の合間に混ざるたび、部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。
スピリチアーレの前にはコンビニ弁当、画面の向こうには、山菜や川魚の塩焼きが並んでいる。
「ごはん、交換できたらいいのに」
「できないからいいんだよ。想像して、話して、それだけで十分でしょ?」
時計の針が深夜を指しても、二人は話し続けた。これまでのこと、これからのこと、どうでもいいこと──話題が尽きても、沈黙が訪れても、通話は切らなかった。眠気に目をこすりながら、スピリチアーレはつぶやいた。
「本当に、セブンデイ・ウイークエンドなら……毎日が休日みたいに続くなら……終わりのない旅なら……よかったのに……」
画面の向こうで、イブリダが静かに笑った。
土曜の朝七時、ほとんど眠らないまま、アラームもないのに目が覚めた。今日は休み──けれど、胸の奥はざわついていた。もうすぐイブリダの旅は終わる。スマートフォンを手に取ると、すでに通知が届いている。
「おはよう、スピリチアーレ。ちゃんと眠れた?」
通話をつなぐと、画面の向こうに浴衣姿のイブリダが現れた。
「今、温泉から上がったところ。湯気がまだ残っているよ」
「ほんとに今日で終わりなんだね」
「うん。チェックアウトは十時だよ」
朝食の間にも二人は他愛のない話を続けた──やがて、その時間が近づいてくる。
【イブリダが福地の宿をチェックアウトしました。赤のコンパクトスポーツカーで神戸に戻ります】
通話がつながったまま、車のエンジン音が響く。
「神戸に帰って、最後に一人で打ち上げしようと思うの。気になっている居酒屋があるんだ」
「……いいなぁ。わたしも行っちゃおうかな」
言ってみて、すぐに笑ってしまった。
「来れるわけないでしょ。で、本当に来ても、わたしは見えないよ」
「そういえば……そうだよね」
二人で笑い合った。けれど笑いながらも、スピリチアーレの胸の奥で何かが決壊しかけていた。
通話はつながったままだった。けれど、もう言葉は続かなかった。すべてが途中で止まったまま、空白だけが伸びていく。
スピリチアーレは、スマートフォンの画面からそっと目を逸らした。通話は続いているはずなのに、さっきまで自然に流れていた空気が、少しずつ遠ざかっていた。何かを話そうとしても、その言葉がもう見つからなかった。共有していた時間が、静かにほどけ始めていた。
イブリダが運転するコンパクトスポーツカーの心地いい排気音、窓の外のざわめき、ときおり聞こえるウインカーの音──通話の向こうから届くそれらは次第に現実のものとなり、スピリチアーレの胸を締めつけてきた。気づけば、立ち上がっていた。
「……やっぱり、わたし……神戸に行く」
沈黙が落ちた。
「……スピリチアーレ……本気で言ってるの?」
「うん。今から新幹線に飛び乗れば、まだ間に合う」
気づけば身体が勝手に動いていた。バッグに財布とスマートフォンを放り込んだ。そして玄関を飛び出し、最寄り駅へと駆け出す。発車ベルが鳴る中、息を切らしながら列車に飛び乗った。
車窓に映る景色がどんどん後ろへと流れていく。都会のビル群がやがて田園風景に変わり、山並みへと溶けていく。スピリチアーレは、その景色を、通話の向こうの声と重ねながら見つめていた。
午後六時すぎ、新神戸駅に降り立ったスピリチアーレは、胸の鼓動を抑えきれないまま、改札を抜けた。見慣れない坂道を下り、スマートフォンの地図を頼りに路地裏へと向かう。やがて目指していた居酒屋が見えてくると、店内のざわめきが漏れ聞こえてきた。
暖簾をくぐり、ドアを開けた瞬間、視線が忙しく動く。
「あそこだ……」
カウンターの端に、不自然に空いた二つの席──迷いはなかった。スピリチアーレはすっと歩み寄り、椅子に腰を下ろした。
注文したグラスが運ばれてくると、スピリチアーレはスマートフォンを取り出し、アプリを起動した。水色のアイコンがくるくると回転し、やがて画面に光が満ちる。その光が彼女の頬を照らし出した。
「こんばんは、イブリダ」
「こんばんは、スピリチアーレ」
そこからは、ただ穏やかな時間だけが空間を満たしていった。
店内では笑い声と注文の声、店員の声が飛び交い、酒と料理の匂いが漂っている。スピリチアーレはただスマートフォンの画面を見つめ、時折ふっと笑みを浮かべている。たまに小さくうなずき、グラスを口に運び、また画面へと視線を戻す。その一連の仕草は自然で、ごく普通の通話にしか見えなかった。
どれほどの時間が経っただろう。氷は溶けきり、グラスの中身はもう水のように薄まっていた。スピリチアーレはそっとスマートフォンを伏せた。画面は静かに暗転し、隣の空席だけが、冷たく現実に残されていた──まるで二人の境目が、音もなくほどけていったかのように。
スピリチアーレは深く息をつき、目を閉じた。
「本当に、セブンデイ・ウイークエンドならよかったのに……」
瞼の裏に、イブリダが最後に見せた笑顔がふっと浮かんだ。あの声の余韻が、まだ耳の奥に残っている。それもやがて喧噪にかき消され、夜の街に溶けていった。
翌週の朝、渋谷の雑踏を抜け、ガラス張りのビルに入ったスピリチアーレは、いつもの席に腰を下ろした。モニターには開発画面と確認項目の一覧が並んでいる──それらを追いながらも、胸の奥ではまだあの夜の余韻が消えていなかった。
旅が終われば、もう一人の自分の記憶は完全に消去される──仕様書に書かれた一文を、何度も読み返した。それがどれほど現実的な判断かを、エンジニアとして理解している自分がいた。それでも、あの六日間そのものが、ただ消去されるものとして扱われることは、どうしても受け止めきれなかった。
テストを始めたころは、通知のタイミングや会話の自然さばかり気にしていた。それが二日目にはもう消えて、ただ、イブリダと話したいとだけ思っていた。エンジニアとしての自分は、いつの間にか消えていた。
そのあとに残ったのは、もう一人の自分への思いだった。それは今もはっきりと胸の奥に残っていて、旅が終わったあとでも、簡単にリセットされるようなものではなかった。
あの六日間に起きたことは、到底、ただのテストとして割り切れるものではなかった。ログに残せば、動作も応答も、すべては仕様の範囲内だ。けれど、画面の向こうと共有した沈黙や、呼吸のあいだまでも、同じテストという言葉で扱うことはできなかった。
人間とAIのあいだに、どんな感情が成立するのか?──そんな問いは学術論文にでも任せておけばいい。ただ、あの体験は今でも言葉にできない。
デスクの横を通りかかった開発リーダーが、足を止めて声をかけてきた。
「あのアプリ、よかったでしょ?今のところ、大きな不具合も出てないし」
その視線は、いつも通りにスピリチアーレを捉えていた。彼女は小さくうなずいた。
「では、イブリダさん、セブンデイ・ウイークエンドのテストレポートは金曜までにお願いね」
「はい」
呼ばれた名に、イブリダは迷いなく返した。

第二部 湯界の律
夜は静かに動いていた。壁の奥から「プシュー」という息吹が漏れている。湯界の呼吸――その音を聞きながら、今夜もイブリダは全国の温泉宿から寄せられる注文を束ねて、発注書に筆を走らせていた。
そのうち数枚をまとめて落下管へ発注筒を落とし、噴き上げ管から飛び出す納品筒を受け取る。「ぼこん」と「ボフッ」が交互に響く。それが一晩のリズムだった。ときには「ボフッ」の間隔が半拍だけずれる夜もあるが、そうした誤差は湯界の律では日常の揺らぎにすぎない――そこへ、電子音が割り込んできた。
「プルルル……プルルル……」
イブリダは受話器を取った。
「はい、仲介湯者のイブリダです」
「……あの、すみません……白浜の宿なのですが、今夜、湯が出ないのです……」
背後で客たちのざわめきと、スタッフたちが走り回る音――地上の騒がしさは、湯界には存在しない種類の音なのだろう。
イブリダは落ち着いた声で答えた。
「元栓の確認はされました?」
「えっ、はい……あ、念のためもう一度見てみます」
受話器の向こうで、ドタバタと足音――しばらくして気まずい沈黙のあと、笑い混じりの声が戻ってきた。
「あの……すみません。開いていませんでした……」
「確認、ありがとうございます」
短く答えて通話を切る。
イブリダは小さく息をついた。発注も、納品も、湯界の律も、すべて正常――人の世界の小さなミスだけが、異常を生む。壁の奥で再び「プシュー」と音がした。今夜も湯界は息をしている。彼女は机の端の記録帳に小さく書き込む。
【白浜温泉の湯停止:人為的閉栓】
書き終えると筆を置き、次の発注書に手を伸ばす。屋敷の中では再び、「ぼこん」と「ボフッ」が交互に響き始めた。地上の夜は、湯界の昼――そして今夜も、滞りなし。
地の底には、湯界と呼ばれる世界がある。そこでは絶え間なく湯が湧き上がり、その奥底では巨大な間欠泉(かんけつせん)が脈打っている。湯界の者たちは、その噴き上がる力を使って、地上のあらゆる温泉宿へ湯を送り出している――湯は自然に地上へと流れ出ないのだ。
その間を取り次ぐのが、仲介湯者(ちゅうかいとうじゃ)――湯界と地上を結ぶ唯一の人間であり、両者のあいだで湯の流れを取り次ぐ家系である。その血を受け継いだ者だけが、湯界と地上を結ぶ役目を担うことができた。
仲介湯者の屋敷には二本の管が通っている。一本は、地上の温泉宿から届く依頼を湯界へ落とす管で、もう一本は、湯界からの返答が地上へ噴き上がってくる管だ。どちらも地の奥深くにある湯界にまで続いている。落下管は重力に従って湯界へと沈み、噴き上げ管は間欠泉の力で地上へ押し上げる。
発注書入りの金属筒を落下口へひとつ滑らせると、「ぼこん」と低い音を立てて沈み、湯界へ届く。逆に、湯界からは納品書を収めた筒が勢いよく打ち上がり、地上の噴き上げ口から「ボフッ」と湯気とともに飛び出す。その往復の音こそが、地上と湯界の呼吸だった。
地上の夜は、湯界の昼となっている。だから仲介湯者の仕事は夜に始まり、夜明けに終わる。夜のあいだ、全国の温泉宿から届く湯の注文を発注書に変え、管へ落とす。どの宿へ、どの湯を、どれだけ流すのか――その依頼に対する供湯(きょうとう)――つまり、湯を送り出した結果が、納品書となって湯界から届くのだった。
湯は、求められてはじめて動く。注文がなければ、どれほど湯界に湯が満ちていても、地上の温泉宿には届かない。発注と納品を繰り返すこの循環を、仲介湯者の家では「湯界の律」と呼んできた。この律が続くかぎり、温泉宿の湯は絶えることがない。
屋敷の壁の奥から「プシュー」と音がした。湯界の息吹だ。イブリダは机に向かい、積み上がった注文書へ静かに目を落とした。長湯、白骨、那須、乳頭──全国の温泉宿から届くものだ。その多くはいつも通りの供湯依頼だが、ときには細かな要望が添えられることもある。
──今日は少し熱かったので、ぬる目にしてください。
──香りを、もう少し強めてもらえませんか?
──最近、湯花が増えてきたので、少し減らしてほしいです。
いつも似たような内容だ。イブリダは静かに目を通し、文字を持たない湯界の者たちにも伝わるよう、発注書へ書き直していく。そのうち数枚をまとめて金属筒へ入れる。
「今日も湯が動きますように」
小さく呟き、落下口へ落とすと、「ぼこん」と低い音を立てて沈んでいった。
音が消えると、屋敷に静寂が戻る。そのなかで、湯気がひと筋だけ、流れと逆の方向へふわりと揺れた。こうした気まぐれは、夜更けにときおり起こることだった。
やがて天井のあたりで低い唸りがする──次の瞬間、「ボフッ」と鈍い音とともに湯気が噴き上がり、納品書の筒が噴き上げ口から飛び出して床に転がる。拾い上げると、まだあたたかい。
金属筒を開けると、湯気の中から一枚の紙が現れた。朱の〇印が横に三つ並んでいる。左は塔の番号だった。湯界では地上の地域ごとに供湯塔が設けられており、その番号が記されている。中央は供湯の結果、右は温度を示していた。三つの印は、どれもくっきりと押されている。イブリダはそれを確認し、納品簿に写し取った。
【湯界庁第八供湯塔:供湯は正常・温度は安定】
納品書を束ねて棚の供湯録に差し込むと、胸の奥が静かにほどけた。イブリダは息を整え、また次の筒を落とす──「ぼこん」と「ボフッ」が交互に響く。
夜が深まるにつれ、湯気が屋敷を満たしていく。紙の端が湿り、灯りが揺らめく。それでもイブリダは眉ひとつ動かさない。この家系は、同じ作業を何百年も繰り返してきた。湯界の律が途切れないかぎり、彼女の手も止まることはない。
壁の奥で再び「プシュー」と息吹が漏れる。まるで世界そのものが呼吸しているようだった。イブリダはその音を聞きながら、静かに次の発注書を束ねる。やがて、窓の外がわずかに白んでくる。最後の金属筒を落とすと、やがて最後の筒が打ち上がってくる。
イブリダはそれを開き、指先で紙についた湯のしずくを拭う。
「供湯、すべて完了」
そう囁き、筆を置いた。壁の奥で「プシュー」と湯界が静かに息を吐いた。それが終わりの合図だった。湯気が薄れ、外では鳥が鳴き始める。
夜明けには、すべての仕事が片付く。それが、湯界と地上をつなぐ女――仲介湯者イブリダの一夜の仕事だった。
「今日も、滞りなし」
ある静かな夜、白馬の宿から連絡が入った。
「湯がぬるいのです……」
受話器の向こうでは、風が鳴っていた。
「元栓の確認はされました?」
「ええ、きちんと開いています。けれど、ぬるいのです。測ってみると、四十度を切っています……」
イブリダは机の端にある納品簿を開いた。そこには、直近の納品記録が整然と並んでいる。彼女は白馬の欄を探し、指先で文字をなぞった。
【湯界庁第六供湯塔:供湯は正常・温度は安定】
湯界からの異常報告はない。
「では、湯界に照会してみます」
第六供湯塔の調査依頼に印を付けた紙を金属筒に入れ、落下口へ落とす。「ぼこん」と沈み、数分後、「ボフッ」と噴き上げ口が響いた。
金属筒の中には、【異常あり・異常なし】のみ記されている一枚の紙が入っていた。そのうち、異常なしに朱の〇印が押されていた――湯界は正常と言っている。だが地上では、湯がぬるいと訴えている。胸の奥に、冷たい針のような違和感がひとつ残った。
イブリダは机の隅に置いてあるタブレットを開いた。検索欄に「白馬・温泉・湯気」と打ち込むと、すぐに数件の投稿が現れた。
――裏山の斜面から湯気が出ている。
――雪解けでもないのに地面があたたかい。
――沢沿いの土が一面ぬかるんでいる。
「これは……漏れている」
彼女は小さく呟き、受話器を取り直した。呼び出し音は短く、すぐに宿へと繋がった。
「湯界は正常のようです。けれど、おそらく途中の管が破損しています。そこに雪融け水が入り込んで、湯が冷まされているのでしょう」
「そんなことが……」
「裏手の山の沢沿いで、湯気の出ている場所を探してください。そして、配管を掘り出して、露出部分を仮修繕してください。銅板と布で巻くと、湯の流れを戻せます」
「わかりました、すぐにやってみます」
電話を置くと、壁の奥の管が「プシュー」と息を吐いた。音が、いつもより柔らかい。まるで、湯界自身が安堵しているかのようだった。
しばらくして、電話が鳴った。
「直せました!お湯が熱いです!」
「確認、ありがとうございます」
イブリダは小さく微笑み、記録帳に書き込む。
【白馬支線の配管破損(雪融け水混入):修繕済】
壁の奥の「プシュー」が長く響く。地上の乱れが鎮まり、湯界の息吹が穏やかに響いた。外では、雪がしんしんと降っている。白い湯気の中、湯界の息だけが、変わらず続いていた。
その夜もイブリダは湯界からの納品書を綴じながら、鳴り始めた電話を横目に見た。
「プルルル……プルルル……」
この時間の連絡は、だいたい慌てた声で始まる。客が夜の温泉を楽しむ時間なのであろう。
「はい、仲介湯者のイブリダです」
「あのっ、すみません!湯が、出すぎるんです!」
受話器の向こうでは、どたばたとした足音や、客たちのざわめきが入り混じっている。夜の宿が騒がしくなるのは、いつもこういうときだ。
「出すぎるのですか?」
「はい!どんどん湯が溢れて……もう浴場が川みたいに!」
「温度はどうですか?」
「正常です!でも量が、湯が止まりません!」
イブリダは書きかけのメモから筆を離した。そして、静かに息を整えて、淡々と答える。
「まぁ、それでもいいんじゃないですか?」
「えっ?」
「ほとんど自然現象です。湯界が元気な証拠です。排水溝へ多めに流すようにしてください」
受話器の向こうで、一瞬の沈黙があった。やがて、安堵と戸惑いの混じった声が続いた。
「あ、はい……わかりました。そういうものなんですね……」
「ええ、そういうものです」
電話を切る。壁の奥で「プシュー」と息吹が響いた。湯界の呼吸は、少し強めだった。勢いを増したその音に、イブリダはふと目を細める。
「ほんとに、元気だこと……」
壁の奥から「プシュー、プシュー、プシュー」と連続して響く。湯界の息が、今夜は妙に荒い。地の底で、何かが笑っているようだった。
イブリダは机の上にある記録帳に書き記す。
【草津支線の湯量過多:自然湯勢で処理済】
外では春先の風が吹いている。雪解けの季節、地熱が上がるこの時期は、湯界の息も荒い。それでも、湯は変わらず流れ続けていた。
また別の日にも電話が鳴った。
「仲介湯者のイブリダです」
「あの、すみません。湯が、出ないのです……」
「元栓の確認はされました?」
「しました。開いています。昨日までは普通だったのに……」
イブリダは机の上にある納品簿を開き、第三供湯塔の欄を確認した。
【湯界庁第三供湯塔:供湯は正常・温度は安定】
湯界からの異常報告はない。
「では、湯界に照会します」
イブリダは筆を取り、第三供湯塔の調査依頼の欄に印を付けた。そして、落下口へと落とす。いつもより少し長い沈黙――噴き上げ音がしたのは約三十分後だった。金属筒を拾い、中の紙を広げる。
朱の〇印が【異常あり・異常なし】のあいだに押されていた。イブリダは眉を寄せた。こんなのは初めてだった――湯界が迷う?ありえない。湯界の返答は、いつも絶対だ。
「……どっちなの?」
思わず、小さく呟く。
その瞬間、机の上の電話が鳴った。
「イブリダさん!出ました!お湯が出ました!」
「あ、そうですか。それはよかったです」
短い電話を切ったあと、イブリダは噴き上げられてきた紙をもう一度見つめた。あいだに押された朱の〇印――まるで湯界自身が迷った跡のように見えた。
「……湯界にも、そういうことがあるのね」
壁の奥で「プシュー」と音がする――いつもの息吹。だが、その音の中に、ほんのかすかな揺らぎが混じっているような気がした。
その夜も、いつも通り発注と納品が続いていた。発注書を落とし、噴き上げられた納品書を受け取り、筆を走らせる――いつも通りの律。壁の奥では「プシュー」と湯界の息吹が響いていた。
いつもより濃い湯気が、机の上まで流れてきていた。イブリダはそれを指で払う。湯界の呼吸が、今夜は少し強い。春先のせいかもしれない――そう思った、そのときだった。壁の奥で「ゴウン」と低い音がした。続けて「ボフッ」「ボフッ」「ボフフフフッ」という音――間欠泉の噴き上げ音が連打のように続いた。
「……え?」
次の瞬間、噴き上げ管から轟音とともに湯が噴き出した。天井まで跳ね上がった湯は屋敷中へ降り注ぎ、床の上を瞬く間に満たしていく。白い湯気が部屋いっぱいに広がり、机の上の書類や筆が飛ばされて湯に浮かび上がった。
イブリダの膝まで湯が迫り、あたたかい気配が一気に広がった。息を吸うたびに、湯の香りが胸の奥にしみてくる。
「ちょっ、ちょっと……」
湯界の息吹が、屋敷そのものを湯船に変えていた。それでも、湯はどこまでも清らかだった。
「あなたたち、今夜は元気すぎるわよ……」
息を切らしながら笑うと、壁の奥が「プシュー」と音を立て、湯がゆっくりと引いていった。
しばらくして、いつもの静けさが戻る。床には湯気の名残だけが漂っていた。イブリダは濡れた髪をまとめ、椅子に腰を下ろした。
「まぁ、たまにはこういう夜もあるか……」
そのとき、噴き上げ口から小さく「ボフッ」と音がした。金属筒がころん、と床に転がる。拾い上げて開くと、【異常あり・異常なし】のうち、異常なしの欄に、しっかりと朱の〇印が押されていた。
イブリダは吹き出した。
「そう。……異常なし、なのね」
壁の奥から「プシュー」と穏やかな息吹の音――湯界は、まるで何事もなかったかのように呼吸していた。
その日の夜は、いつもより増して静かだった。発注書を落とし、湯界から納品書を受け取り、筆を走らせる――いつも通りの仕事、いつも通りの湯界の律。壁の奥から「プシュー」と息吹が漏れ、屋敷の空気はあたたかい湯気に満ちていた。
筆の音だけが、かすかに続いている。
「今日も滞りなし」
イブリダは小さく呟き、最後の納品書を束ねて棚の供湯録に差し込んだ。それで、今夜の仕事は終わりのはずだった。
そのときだった。「ボフッ!」といつもより鋭い噴き上げ音が部屋に響き渡った。机の上で湯気が震え、噴き上げ管が低く唸った。
「……?」
小さく首をかしげた瞬間、噴き上げ口から眩い白い湯気が噴き出した。視界が一瞬、真っ白に染まる。反射的に腕で顔を覆うと、肌に熱気が触れ、少しだけ息が詰まる。
やがて湯気がゆるやかに晴れてくると、畳の上に小さな影が倒れているのが見えた。白い肌、濡れた髪、手のひらほどの身体――浴衣姿の人形に見えた。湯気の中で揺れるその輪郭は、まるで湯そのものが人の姿になって現れてきたようだった。
イブリダは思わず後ずさった。心臓の鼓動が耳の奥で鳴る。だが、目の前の小さな影は、規則正しく息をしていた――この世の理を外れた者がそこにいた。
しばらく立ち尽くしたあと、イブリダは一歩近づき、膝を折って覗き込んだ。
「……あなた、誰?」
小さな存在が、ゆっくりと目を開けた。そのまわりで湯の粒が、淡い金色となって静かに揺れている。
「ここ……地上、ですか?」
その存在は湯気の粒をまとい、光を受けるたびに淡く揺らめいた。
イブリダは息をのんだまま、机に置かれたコップの中の茶を匙ですくい、恐る恐るその前へ差し出した。
「……飲める?」
娘は両手で匙の縁を抱え、そっと口をつけた。頬がほんのり赤く染まっていく。
「……あたたかい。これが、地上の飲み物なんですね」
「……あなた、もしかして……湯界から、来たの?」
娘は、湯気の中でまっすぐに顔を上げた。
「……そうです。供湯塔の修繕をしていたのですが、管を伝ううちに、誤って地上側に出てしまったんです」
イブリダは息を呑んだ。その言葉の意味を噛みしめるように、そっとまばたきをする。
「……本当に、そんなことが……」
胸の奥で高まったざわめきが、湯気とともに静まりはじめる。目の前の娘を見つめながら、イブリダはようやく息を整えた。
「……あなたたちが、湯を、動かしているの?」
娘は静かに微笑んだ。
「ええ、そうです。わたしたちは、供湯士(きょうとうし)と呼ばれています。地上から届く紙を受け取り、湯を整え、その結果を紙に書いて返すのが役目です」
「……わたしは……ずっと、筒を落として……その紙を受け取っていたの……まさか、本当に誰かがいたなんて……」
娘は目を丸くした。
「……もしかして……あなたが、あの筒を?」
「……ええ。ずっと、筒を落としていたのはわたし……」
娘はまだ驚きの色を残したまま、イブリダを見つめた。
「……そんな……ずっとあなたが……」
やがて、その表情がゆっくりほどけていった。驚きが、やがて確かな喜びに変わる。
「なんて不思議。わたしたちはいつもやり取りしていたのに、顔を見たのは初めてね」
「ほんとうね」
壁の奥から「プシュー」と音がした――湯界の息吹。その音が、ふたりの静かな笑いに応えるように響いた。
イブリダは少し身を乗り出しながら言った。
「ねえ、あなたたちは、いつも湯界で何をしているの?」
娘は、湯気の揺れを見つめながら答えた。
「わたしたちは、流れを見ています。湯は生きていて、呼吸しているのです。ときどき気泡が滞ると、流れが乱れます。だからわたしたちは、その滞りを見つけ、撫でてやるのです」
「撫でる?」
「ええ、撫でて、落ち着かせるのです。もう大丈夫、流れてもいいよって……」
イブリダは思わず微笑んだ。
「地上の整備士は、スパナで叩くのに……」
娘はきょとんとしたまま、首をかしげた。
「……せいびし?……すぱな?」
「あ、ごめん。どっちも地上の言葉よ。湯を直す人が、固い鉄の棒みたいなので、ガンって叩くの」
娘はほっとしたように小さく笑った。
「地上の人は力が強いのですね。でも、湯は力より気持ちの方に敏感なんですよ」
イブリダは頷き、机の上に積まれた納品書の束へ視線をやった。
「あなたたちのやさしい仕事が、地上の温泉宿を動かしているのね」
娘は小さく首を振った。
「違います。わたしたちだけでは、湯はどこにも流れません。あなたが届けてくれる願いがあって、はじめて湯は動くのです」
イブリダは言葉を失った。これまで自分は、ただ筒を落とし、紙を受け取るだけだと思っていた。けれど、その仕事もまた湯を動かす流れの一部だったのだ。
湯気の向こうで、娘は小さな丁子皿の縁に腰を下ろしていた。灯りがその頬を照らし、髪がやわらかく揺れていた。
しばらくして、イブリダは棚の供湯録から一枚の納品書を取り出した。【異常あり・異常なし】のあいだに、朱の〇が押されたあの紙を、そっと娘の前に差し出した。
「そういえば、あなたに聞きたいことがあるの。先日の第三の件、異常ありと異常なしのあいだに、〇印が押されているよね。こんなの、これまで一度もなかった……。これはどういう意味だったの?」
娘は両手でその紙を受け取り、朱の〇印を指先でなぞった。しばらく沈黙したのち、小さく息をつく。
「これは……異常ありでも、異常なしでもありました」
「どういうこと?」
「最初は、異常ありでした。湯が途切れていたのです。でも、すぐに繋ぎ直しました。それで、異常なしになったのです。だから、両方だったのです」
イブリダは息をのんだ。
「じゃあ、この〇印は……」
娘はうなずき、静かに笑った。
「わたしたちには文字がありません。異常ありのあとに、異常なしを続けられないのです。でも、どちらも伝えたくて……あいだに〇印をつけました」
イブリダは紙を見つめたまま、しばらく言葉を失っていた。湯気がふたりのあいだをゆらりと漂う。
「……そういうことだったのね。あれは、迷いじゃなくて、伝達だったのね……。異常ありのあとに、異常なしがあったなんて……」
娘は小さく頷いた。
「ええ、湯は一瞬止まっても、大きな流れは途切れません。いや、絶対に途切らせません」
そのまなざしに、静かな決意が宿った。イブリダは胸の奥をそっと掴まれたような気がした。
「ごめんなさい。わたし、あのとき、分かったつもりでいた……」
娘は微笑み、首を横に振った。
「湯界の律は、すぐにわかるものではありません。あたたまるまで、時間がかかるのです」
イブリダは目を瞬いた。
「……あなたも、その言葉を使うの?」
「言葉?」
「湯界の律」
娘は不思議そうに首をかしげた。
「ええ。わたしたちは、ずっとそう呼んでいますけれど……」
イブリダは息をのんだ――仲介湯者の家に伝わるだけの言葉ではなかったのだ。
「……そうだったんだ」
壁の奥で「プシュー」と息が漏れた。まるで湯界自身が、二人の会話を見守るようだった。娘は静かに湯気に目を向けた。その瞳の奥には、ほんのりと光が揺れていた。「プシュー」「プシュー」と連続して湯界の息が響いた――夜明けが近い。
娘は立ち上がり、落下管のほうを見た。外の空が、わずかに白んできた。湯気がその光を受けて、やさしく揺れていた。
「そろそろ、戻らないと……」
その声は、湯気に溶けるようにかすかだった。イブリダは頷きながらも、胸の奥がわずかに沈むのを感じていた。「……またいつか、会える?」
娘はふわりと笑った。その笑みは、湯けむりに溶けて形を失う。
「湯が動くかぎり、わたしたちは、湯界にいます。あなたからの筒が落ちてくるたび、湯を整えます。それが、湯界の律なのです」
イブリダは黙ってその言葉を聞いていた。湯気の奥にいる娘の姿が、次第に淡くなっていく。思わず問いかけた。
「ねえ、あなたの名前を教えて」
娘は静かに目を伏せ、息をひとつ整えた。そして、湯の底から湧きあがるような声で答えた。
「……スピリチアーレ」
その名は湯の呼吸とともに屋敷中に広がった。イブリダの胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
「……わたしは、イブリダ」
スピリチアーレはその名をそっと口の中で繰り返し、柔らかく微笑んだ。
やがて、スピリチアーレはゆっくりと立ち上がり、落下管のほうへ歩き出した。湯気の流れが導くように、裾がふわりと浮かぶ。
「イブリダさん、会えてうれしかったです。湯が動くかぎり、わたしたちは、ずっと湯界にいます」
その声が響くと同時に、スピリチアーレの身体は光に溶け、金の粒となって落下口の奥へ吸い込まれていった。
屋敷の中には、いつもの音が戻っていた。壁の奥で「プシュー」と、湯界の息が静かに響いている。湯気がまだ部屋の隅に淡く残り、光を宿している。
さっきまでスピリチアーレが腰を下ろしていた丁子皿には、小さな湯の滴が一粒、ぽつりと光っていた。イブリダはそっとその滴を指で拾い、掌に移した。肌の上でほのかな温もりが息づく。その気配に、胸の奥が静かに揺れた。
「……ほんとうに、会える日が来るなんて」
思わずこぼれた独り言は、すぐに湯気へと溶けて消えた。これまで筒の往復だけで続いてきた仕事で、声も姿も知らなかった相手が、あんなにも柔らかな笑みを持っていたとは――机の上には、交わした言葉の余韻がまだ漂っているようだった。
小さな姿で、文字もなく、それでも確かな言葉を持って現れた存在――その現実が、イブリダの中でいつまでも反響していた。
湯界の律とは、正確さよりも流れを大切にすることだった――イブリダは、その意味をようやく理解した。これまでただの記録だと思っていた納品書の一枚一枚に、湯界の者たちの気配が宿っている気がした。自分もその一部として呼吸しているのだと思うと、胸の奥があたたかく満ちていった。
ふと窓を見ると、湯気の向こうで山際の光がゆっくりと広がっていた。その光景の中で、時間の感覚が静かに溶けていく。壁の奥の管が「プシュー」と深く息を吐いた――スピリチアーレが、もう湯界へ戻ったのかもしれない。その音に包まれながら、イブリダは机の上の湯滴をそっと指でなぞった。
やがて、一時間ほどが過ぎた。噴き上げ口から「ボフッ」小さな音がして、金属筒がひとつ、床に転がった。いつもの音よりも柔らかく、まるで誰かの返事のようだった。拾い上げると、まだあたたかい。そのぬくもりは、まるで湯界の律そのもののようだった。
イブリダは静かに蓋を開けた。湯気がふわりと立ちのぼり、紙があらわれる。広げると、そこにはただひとつ、朱で描かれた大きな〇印――筆のかすれも、印の乱れもない。まるで湯そのものが自らの呼吸で描いたような、完璧な円だった。その朱はまだ湿りを帯び、指先に触れると微かにぬくもりを返してくる。
イブリダは目を細めた。湯界の律にはない〇印――それを見た瞬間、それが誰からのものかはすぐにわかった。
「……スピリチアーレ」
その名を口にすると、胸の奥にあたたかさが広がる。壁の奥で「プシュー」と短い息が漏れ、空気がそっと揺れた。
イブリダは筆を取り、白紙に朱で小さな〇印を描いた。その紙を筒に収め、落下口へそっと添える。
「受け取って、スピリチアーレ……」
落とすと、低い「ぼこん」という音がした。しばらくの静寂ののち、「ボフッ」という音とともに、噴き上げ口が息を吐き、白い湯気が舞い上がる。その中で、朱の光が一瞬きらめいたような気がした。まるで、スピリチアーレが笑って応えたかのようだった。
イブリダは静かに目を閉じた。胸の奥で、もうひとつの律が響いている。壁の奥の管が「プシュー」と深く息を吐いた。その音が、屋敷の空気をゆるやかに満たしていく。
湯気は天井に昇り、朝の光と溶け合った。空が白くほどけ、遠くの山々が息をしている。世界のどこかで、同じ呼吸をしている誰かがいる――そう思うだけで、胸の奥が静かに温かくなった。
そのとき、机の上の電話が鳴った。
「プルルル……プルルル……」
イブリダは目を開け、受話器を取る。
「はい、仲介湯者・イブリダです。」
「こんな時間に、す、すみません!湯が出ないんです!」
朝の定番の慌てた声――イブリダは小さく笑い、落ち着いた声で答えた。
「元栓の確認はされました?」
受話器の向こうで、しばしの沈黙――そして、遠くから小さな声が戻ってきた。
「すみません……開いてませんでした……」
「確認、ありがとうございます」
イブリダは受話器を置き、静かに笑った。壁の奥から「プシュー」と息が漏れる。それはまるで、湯界も一緒に笑っているかのようだった――世界は今日も、滞りなし。
ふと、自分の名前を口の中で転がした。イブリダ――どこから来た名前なのだろう。発注書を落とし、納品書を受け取り続けてきた長いあいだ、一度も考えたことがなかった。
スピリチアーレが帰っていってから、何かが静かに動き始めている気がした。それが何なのかはまだわからない。ただ、その気配は湯界の息吹のように、胸の奥でじわりと温かく息づいていた。

第三部 湯ばやしの宿
標高二千メートルの山腹に、ひとつの宿がある。名を「湯ばやしの宿」という。夏でも空気はひんやりとしており、冬になれば雪と氷に閉ざされる。だが、館内には温かな湯流が張り巡らされ、湯気が絶えず廊下をめぐっている。だから、宿の中はいつ訪れても春のように温かい。外は零下でも、この宿だけは凍えない。
昼も夜も、どこかで音がしている――ピーピー、ドンドン。笛と太鼓の音が、湯気の向こうで絶えず鳴っている。音の正体は、湯の流れが奏でる湯ばやしだ。館内のあちこちに仕掛けられた楽器が、湯の勢いで鳴りつづけている。
流れの途中には小さな水車が並び、その回転で館内すべての電力をまかなっている。照明も、冷蔵庫も、調理器具もすべて湯の力で動いている。
湯流にはいつも、小さな檜の舟が浮かんでいる。舳先には部屋の名が墨で書かれ、酒や料理、客と宿を結ぶさまざまなものを運んでいる。客室にも、帳場にも、厨房にもゆるやかに湯が流れ、舟が途切れることなく通り過ぎていく――すべてがひとつの流れで繋がっていた。
湯と舟が絶え間なく宿をめぐり、音と湯気がひとつの輪を描く――ピーピー、ドンドン。湯ばやしの宿は今日も鳴っている。
午後三時、山の空はうっすらと霞んでいる。湯ばやしの宿では、客が着いても誰も出迎えない。玄関に掲げられた札には、こう書いてある。
――ご予約の部屋へそのままお入りください。
客はピーピー、ドンドンという音の中、湯気の満ちる廊下を進む。その脇には湯が流れている。そこを、いくつもの小舟がゆっくりと巡っていた。湯の流れに押されて静かに進み、ときおり壁や橋脚に触れて小さく音を立てる。客はそれを横目に、自分の部屋に入る。
部屋の机には、一枚の案内が置かれている。
――入室後、この札を舟の上に置いてください。
札には、「チェックイン済」と書かれている。客は障子を開け、流れてくる舟を待つ。自分の部屋の舟が近づいたとき、札をその上にそっと置くと、舟はそのまま滑り出していく。
帳場では、女将イブリダが湯流に身を寄せ、流れてくる舟の札を読む。客のチェックインを確認すると、湯呑と栗餡の菓子を、その舟にそっと乗せ、一枚の札を添える。
――お着きのお茶をどうぞ。
舟は再び流れに戻る。しばらくすると、客室の前を通る舟の列の中に、その一艘が到着する――ピーピー、ドンドン。
別の客室の前を舟が一艘、ゆっくりと通り過ぎようとしている。客は机の横にある筆と札を取り、短く書いた――瓶ビール一本。その札を舟の上にそっと置く。湯の流れがすぐにそれをさらい、音の奥へと消えていく。
帳場では、イブリダが湯気越しに流れてくるその舟を見つけ、札の内容を確かめる。そして、静かにうなずき、冷蔵庫を開けると、霜をまとった瓶ビールが並んでいる。その中から一本を取り出し、木の盆にのせる。そして、舟の上にそっと盆を置く。やがて、舟は音の中へゆっくりと戻っていく――ピーピー、ドンドン。
しばらくして、客の前に冷たい瓶ビールを乗せた一艘が戻ってくる。瓶の表面から小さな水滴が落ちている。客は笑みを浮かべ、湯ばやしの音に合わせてポンと栓を抜いた。
舟の列の中に、一艘だけ少し重そうに揺れる舟があった。客が、都会で評判の菓子折りをそっと乗せたのだった。
――女将さまへ、みなさまでどうぞ。
帳場では、イブリダが湯の流れを見守っていた。その舟が近づくと、ほのかに甘い香りが湯気に混じる。手を添えて箱を確かめる。彼女は目を細めて小さくうなずいた。
「ありがたいことです」
イブリダは筆を取り、白い紙にさらりと書く。
――ご厚意、あたたかく受け取りました。
紙を折り、舟の上に薄紫の花弁を一枚添える。そして、音の拍に乗せて送り出した。やがて、客の前を通る舟の列の中に、淡い花びらを乗せた一艘が流れてきた。客はそれを見て、ふっと笑った。手紙は読まなくても、返事の意味は伝わっていた。
日が沈むと、館内の灯がゆっくりと明るさを増した。湯流の上に反射する光が、金色の筋になって壁を這う。厨房では、イブリダが白い前掛けを締め直している。湯気の奥には、音の拍に合わせて流れる舟の列が待っている。ピーピー、ドンドン――今夜も、湯ばやしの音が宴の始まりを告げる。
最初に流すのは、茶碗蒸しだ。出汁の香が湯気に逃がさぬように蓋を閉め、舟の上に置く。部屋の名前が書かれた舳先の札を確かめ、一艘ずつ、流れの拍に合わせて送り出す。舟が音に押されて静かに動き出すと、厨房の灯が一瞬だけ揺れた。
続いて、川魚の焼物――炭の香ばしさが湯気に乗る。舟に乗せるとき、魚の皮が軽く鳴った。三皿目の山菜の天ぷら、四皿目の和牛のステーキも同じように舟に乗せられていく。最後は、デザート――舟の上に白い小皿が並ぶと、まるで祭の後の静けさのようだった。イブリダは深く息をつき、舟が流れていく様子を見送った。
その頃、帳場の前には紙札を乗せた舟が次々と流れ着いていた。
――熱燗を一合ください。
――ワインを一本お願いします。
――デザートを追加してください。
イブリダは湯気越しにそれらを拾い読み、徳利や瓶を手にして次々と舟へ乗せた。それらが再び音の中へ消えるたび、宿の奥で音が鳴った――ピーピー、ドンドン。
夜、客たちはそれぞれの部屋で湯を楽しんでいた。この宿のすべての部屋には、小さな内湯がある。壁の奥を通る湯流が枝分かれして、客室の湯舟を満たしていた。そこでは、館内の笛と太鼓の音がかすかに響いている。湯に身を沈めると、音が身体の奥で鳴っているのがわかる。それは、眠りの拍のようでもあった。
帳場では、イブリダが湯口を静かに絞っていた。すると湯の流れがゆるやかになり、湯気の向こうで音がゆっくりと弱まっていく。さらに絞ると、笛と太鼓の拍が一段と低くなる。
イブリダは筆を取り、白い札に短く書いて舟に乗せた。
――御用がありましたらなんなりとお知らせください。
――お飲み物も、お夜食も、すぐにお届けします。
舟は湯気に包まれながら静かに進み、曲がり角をいくつも越え、やがてすべての部屋の前を巡っていく。湯の上には灯が反射して、まるで小さな星が流れていくようだった。低くなった湯ばやしの音が、その星々を導く――ピーピー、ドンドン。イブリダはしばらく、その音に耳を澄ませていた。
標高二千メートルの朝は、春先でも息が白い。外では雪が溶け始め、館内では湯の流れがほんのりと早くなる。イブリダが湯口を少し開いたのだ――それが一日の始まりだった。
厨房では、朝食の支度が静かに進む。イブリダは湯気の向こうで舟の列を見つめていた――ピーピー、ドンドン。朝の拍に合わせて舟を流す。炊き立ての白飯、焼き鮭、山菜の小鉢、温泉卵――湯の流れでほどよく保温され、音に押されて廊下の角をゆっくりと回っていく。
窓の外はまだ雪が残っている。だが湯流がある限り、この宿の朝は冷えない。食後の舟には、客が書いた札が乗って流れていく。
――美味しかったです。
――湯の音が心地よかったです。
イブリダはそれを見て、小さく笑った。今日も湯が巡っている。
朝食が済むと、湯気の向こうにチェックアウトの気配が漂ってくる。部屋の中では、客たちが荷をまとめている。帳場では、イブリダはその音を聴き分けていた。支度をする足音や襖の音が、湯流を通して伝わってくる。
イブリダは筆をとり、一枚の札に墨を走らせた。
――本日はご宿泊ありがとうございました。
――またのお越しをお待ちしております。
湯で温めた折鶴を添えて、舟に乗せる。湯の流れがそれを受け取り、館の奥へ運んでいった。
部屋では、客が障子を開け、流れてくる舟を見つめていた。札の文字を見て、客は旅の終わりを悟る。机の上の筆で短く返事を書く。
――またお伺います。
紙を舟の上に置くと、湯がそれをさらい、静かに奥へと流れていった。
帳場の前を、返事の舟が通り過ぎる。イブリダは静かに頭を下げた――ピーピー、ドンドン。音がひとつ、低く鳴った。それが湯ばやしの宿の、見送りの音だった。湯も音も舟も、とどまることなく――今日もひとつの輪が閉じた。
ある日の昼下がり、音がわずかに鈍った。笛が半拍遅れ、太鼓の響きが浅い。イブリダは筆を置いた。音が乱れるときは、たいてい湯の流れがどこかで滞っている。彼女は湯流の方へ目をやった。すると、帳場の奥、湯気の向こうに小さな影が動いていた。
最初は湯花かと思ったが、影はゆっくりと輪郭を帯びていった。白い浴衣をまとった女――ただし背丈は人の手のひらほどしかない。湯の表面を歩くように進み、腰には細い竹筒をいくつも下げていた。
「まあ、湯の国の人。音を聞いて、調子を見に来てくれたのね」
イブリダは軽く笑った。湯の国の娘は振り向き、深く頭を下げる。
「たぶん、湯口が詰まりかけています。春先は湯花が多いのです」
娘は竹筒を一本抜き、湯口の奥にすばやく差し入れた――ポン、と湯泡のはじける音。次の瞬間、笛の音が澄み、太鼓の音が整った――ピーピー、ドンドン。湯ばやしが呼吸を取り戻した。
「いつも助かるわ。あなたたちがいなければ、この宿は凍えてしまう」
「お互いさまです。わたしたちにとっても、この音は大切なのです」
湯の国の娘は微笑み、波紋を残しながら湯の流れの上をすべるように進んだ。舟の列が自然に道を開け、湯気がその背を包む。笛の音が彼女の歩みに合わせて調子を変える。まるで湯そのものが敬意を表しているかのようだった。
湯の国の娘は振り返って言った。
「音が変わりましたら、また調子を見に来ます」
「ええ、待っているわ」
やがてその姿は湯気の奥へ消え、湯面には波紋だけが残った。
その夜、湯ばやしの音が、いつもより少し高かった――ピーピー、ドンドン。笛の拍が少し走っている。イブリダは帳場の灯を落とし、湯流の方へ目をやった。その瞬間、昼に笛の管を直してくれた小さな娘が、また湯面に波紋を揺らした。
「あら、また来たのね。どうしたの?」
「あのう……昼に湯口を見ていた者です。改めまして……スピリチアーレと言います。実は……家を出てきてしまって……」
「スピリチアーレ。いい名前ね。それで、どうして家を出たの?」
「親と喧嘩して……笛の調律を任されたのですが、新しい音を足したら叱られてしまって……」
イブリダはくすりと笑った。
「わかる気がするわ。音に新しい風を入れたかったのね」
「……はい。でも、少し言い過ぎました」
「それで家出?」
「イブリダさん……一晩だけ、ここにいさせてもらえませんか?」
「いいけど……でも、どうしてわたしの名前を知っているの?」
スピリチアーレは湯気の向こうで小さく笑った。
「湯ばやしの宿と湯の国をつないでいるのがイブリダさんだって。湯の流れを大切にしている人だって。音の調子を見守る湯の国の者なら、みんな知っています」
「そう、なんだか照れるわね。まぁ、とりあえず、今夜はここで休みなさい。湯のそばがいちばんあたたかいわ」
スピリチアーレは湯縁に腰を下ろしかけたが、イブリダがすぐに手を伸ばした。
「そんなところじゃ熱すぎるわ」
棚の上から木のお椀を取り、そこに少しだけ湯を汲む。
「ほら、ここに掛けて。今の時間は、冷えるでしょう」
スピリチアーレは恥ずかしそうに笑いながら、お椀の縁に腰をかけた。湯が彼女の足もとでかすかに揺れる。湯気の向こうで揺れる小さな姿は、まるで小さな灯火のようだった。
しばらくすると、音が少しやわらいだ。湯気の奥で、笛と太鼓の拍がやさしく揺れている。
「……ねえ、イブリダさん」
「なに?」
「どうして、湯の流れを大事にしているのですか?」
イブリダは少し笑った。
「この宿は、湯で生きているの。湯が流れてくれるから暖かいし、明かりもつくし、音も鳴るのよ。もし湯が止まれば、この館は凍ってしまうわ」
スピリチアーレは頷いた。
「そうだったのですね。湯ばやしの宿は湯で生きているのですね」
しばらく湯気の向こうを見つめていたが、やがて口を開いた。
「湯の国は違うのです。わたしたちは音で生きています。湯ばやしの宿の笛や太鼓の音が届かなくなると、湯の国の灯りも風も止まってしまうのです」
イブリダは目を丸くした。
「まあ、そうだったの。じゃあ、わたしたちはお互いを支え合っているようなものね」
スピリチアーレは小さく笑った。
「ええ。湯ばやしの宿の湯が流れれば、音が生まれる。その音がわたしたちの国を動かす。湯の流れと音は対になっているのです。どちらかが眠れば、もう片方も眠ってしまう」
イブリダは静かに笛や太鼓の音を聴いた。
「なるほど……だからわたしは湯を見ているとき、いつも音の方も気になるのね。知らないうちに、そちらの世界の呼吸も感じていたのかも……」
スピリチアーレは笑みを浮かべた。
「湯も音も、同じ流れの両端なのです。わたしたちは一緒に息をしているのです」
二人はそのあと、湯の国の話をたくさんした――光る花、音で揺れる灯、歌を食べる魚。スピリチアーレの声は、いつしか弾んでいた。湯ばやしの拍も、ゆっくり整っていった。
やがて夜が更け、笛や太鼓の音がやさしく落ち着いてくる。
「なんだか、もう平気になりました」
スピリチアーレは立ち上がり、お椀の中で小さく礼をした。
「イブリダさん、お世話になりました。また今度、湯の詰まりを取りに来ます」
「ええ、スピリチアーレ。いつでもいらっしゃい」
イブリダがそう言うと、スピリチアーレは湯流の上を進み、光の筋となって消えていった。湯面には小さな波紋だけが残る――ピーピー、ドンドン。笛が一段と澄み渡る。
イブリダは笑みを浮かべた。
「なるほど。これが、心が晴れた音なのね」
その日は、笛の音が、朝から妙に小さかった――ピーピー、ドンドン。どこか力が抜けている。客たちは、今日は静かですね、と話した。イブリダも帳場で舟の流れを見ながら、胸の奥にわずかなざらつきを感じていた。
こんな時は、いつもならスピリチアーレがやって来る。湯口をのぞき込み、そこに詰まった湯花を取りのぞき、この時期は音が詰まりやすいのです、と笑って帰っていく――けれど、今日はその姿がない。拍が乱れているのに、誰も手を入れない。湯気の向こうの笛や太鼓が、鳴りきれないまま震えていた。
夕食が終わるころ、音はほとんど消えていた。湯の温度は変わらないのに、音だけが冷えていた――こんな夜は、これまで一度もなかった。
イブリダは筆を取り、白い札に短く書いた。
――音が弱まっています。
――湯の国で異変が起きている可能性があります。
――これより湯量を最大にします。
――湯が荒れますが、どうかご協力をお願いします。
同じ札を何枚も書き、部屋ごとの舟に乗せて流した。しばらくして、返事の舟がいくつも戻ってきた。
――了解しました。
――がんばってください。
――なにか手伝えることがあれば、なんでもやりますので。
湯気の中を行き交う舟の光が、かすかに脈打つように見えた。イブリダは深くうなずき、湯口に手をかけた――ごう、と地の底が鳴った。次の瞬間、湯流が一気に膨らみ、廊下を走り抜けた。舟が跳ね上がり、笛の音が張りつめ、太鼓の拍が震えた――ピーピーピー、ドンドンドン。
だがまだ弱い。
「もっと湯を……」
イブリダは湯口をさらに開いた。湯が噴き上がり、天井まで湯気が立ちのぼる。湯流が廊下いっぱいに膨れ、舟がぶつかり合いながら流されはじめた。
客たちは流れてくる舟がぶつからぬよう手を添えた。湯の勢いが増すたびに音が高まり、宿全体が息を吹き返していく――ピーピーピーピー、ドンドンドンドン。
しばらくすると、その拍がひとつに揃った――その瞬間、宿全体が鳴った。湯の流れが音を生み、音が湯の流れを押し返す。光と蒸気が混じり合い、湯ばやしの宿はひとつの巨大な楽器のようになった。笛の音が天井を突き抜け、太鼓の響きが山の斜面を震わせる。外の雪が音に溶かされ、蒸気が夜空に昇っていく。
イブリダは湯口からの熱を受けながら、目を閉じた。
「音よ、お願い、湯の国に届いて」
そして、湯口を限界まで開いた。その瞬間、ピィィィィィ、ドォォォォン――音が爆ぜ、湯の飛沫が光に変わった。
やがて、湯の勢いが静まった。廊下に漂う蒸気の中で、音がひとつ、かすかに鳴った――ピーピー、ドンドン。拍が、戻っていた。
しばらくして、湯の流れの上を、一艘の舟がゆっくりと進んできた。舟の上には小さな紙が添えられていた。
――イブリダさん、ありがとうございました。
――湯源からガスが大量に発生し、湯の国の者たちは避難していました。
――その間に音の調子が崩れ、動力が完全に止まっていました。
――あなたの湯の流れが、音を戻してくれました。
イブリダは紙を手に取り、湯気の奥を見つめた。
「よかった……間に合ったのね」
やがて、筆を取り、白い札に書いた。
――ご協力、ありがとうございました。
――湯の国はもとに戻った様子です。
――夜食と温かい飲み物、それに手拭いをお届けします。
同じ札を何枚も書き、部屋ごとの舟に乗せて流す。それから厨房へ向かい、夜食や飲み物、手拭いを用意した。それらをひとつずつ舟に乗せ、部屋の札を確かめながら流していく。舟が各部屋をめぐるたび、笛が低く響いた――まるで、おつかれさまでしたと応えるように。
客たちは湯気に包まれた部屋で、ほっと息をついていた。誰も騒がなかった。ただ、音が戻ったことを確かめるように、耳を澄ませていた――ピーピー、ドンドン。宿が再び呼吸していた。
朝、空は晴れ、山の木々が白い湯気をまとっている――厨房では、焼き魚の香ばしい匂いと炊き立てのご飯の湯気。イブリダは舟に朝食を並べ、舳先の札を確かめる。そして、湯の流れに合わせて舟を送り出す。
イブリダは湯気の向こうで静かに微笑んだ。ピーピー、ドンドン――湯ばやしの宿は今日も鳴っている。
ふと、あの日の別れ際を思い出す。スピリチアーレの小さな背中は、湯気の奥へ溶けるように消えていった。あのとき最後に揺れた波紋を、イブリダはまだ覚えている。その記憶に触れるたび、ふと自分の名前が少しだけ遠くなる気がした。

エピローグ
イブリダという名前があった。
スピリチアーレという名前があった。
その二つの名前は、ときどき世界を越えて現れた。
同じ人ではなかった。
同じ記憶を持つわけでもなかった。

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