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イブリダ秘湯物語 温泉にまつわる十五の短編 vol.5

今回は、イブリダ秘湯物語5(温泉に関する十五の短編集)のご案内をさせていただきます。

イブリダ秘湯物語も5作目となりました。

よって、これまでの中でも最も良いものになったと自画自賛しています笑

という訳で、この辺でこのシリーズを一旦止めたく思います。

次からは、温泉SF文学というか、そんな言葉をテーマに作りたいと考えています(まさに今、やっているところです)。

イブリダ秘湯物語での登場人物、イブリダ、スピリチアーレ、ティーアイにはしばらくお休みに入って貰い、次回からは、ブレラ、トロンカ、ミトに頑張って貰おうと考えています!

↓電子版 ※Kindle Unlimited対象です。

↓紙書籍です。

今回のあらすじ


エピソード1 誘湯士

実家に戻ったスピリチアーレは、裏山から自噴する湯を得たいと考え、誘湯士イブリダに依頼する。三日間、彼女は裸足で山を歩き、地面に触れて場所を定めると去る。残されたプレハブは沈黙したまま消え、跡地には静かに湯だけが湧いていた。

エピソード2 一歩手前温泉

イブリダ食堂の井戸水に変化が生じ、加温すると温泉のような湯になる。だが温度も成分も基準に届かず、「一歩手前温泉」として扱われる。客は集まり、食堂は賑わうが、正式な温泉にはならない。イブリダはその境界を守り続ける。

エピソード3 湯の滝

イブリダは秋分の日、夜の山を越えて湯の滝へ向かう。夜明けを待つ中、湯に浸かる人々は言葉を交わさず、同じ一点を見つめる。朝日が差す瞬間、落ちる湯は上へ昇るように見え、一瞬だけ龍の姿を思わせる。やがて陽が変わると、その光景は消え、滝はただの滝に戻る。

エピソード4 古代都市の湯

古代遺跡を調べるイブリダは、人の痕跡のなさと大量の析出物に違和感を抱く。呼ばれたスピリチアーレは、それが石造建築ではなく、長い時間をかけて湯が育てた空間だと見抜く。都市は人ではなく湯を中心に築かれ、湯が衰えるとともに静かに捨てられていた。

エピソード5 湯の視点

イブリダは朗読会で、湯の側から語る物語を発表する。人ではなく湯の視点で触れ合いを描くその言葉は、聞き手の感覚を揺らす。会場にいた詩人スピリチアーレも影響を受け、自らも湯の視点で詩を書く。異なる表現が交わり、新たな表現が生まれる。

エピソード6 宇宙入湯計画

宇宙での疲労軽減を目的に、イブリダとスピリチアーレは各地の源泉を無重力下で観測する。湯は宇宙でもそれぞれ異なる性質を保ち、個性を失わないことが確認される。次に控えるのは有人実験――人が宇宙での湯を選ぶ段階へと進もうとしていた。

エピソード7 湯との別れ

イブリダは湯口に身を置き、湯が混ざり消えていく瞬間に向き合う。縁を越える別れや排水の終わりとは違い、混ざった湯は見送ることもできない。流れを確かめようとしても捉えられず、ただ温かさだけが残る。分からないまま、別れは静かに続いていく。

エピソード8 湯決

選択は二つに絞られた時点で議論を終え、最終判断は人ではなく湯に委ねられる社会。イブリダやスピリチアーレ、ティーアイもその方法で決断する。湯決所では、書かれた二案が湯に流され、辿り着いた側が結果となる。人は選ばず、ただ受け入れる。

エピソード9 湯との境目

イブリダが湯に入る過程と、湯の側からの感覚が交互に描かれる。触れた瞬間から境界はゆるみ、身体と湯は同じ温度へと近づいていく。やがて区別は曖昧になり、ただ満ちる感覚だけが残る。離れると静けさが戻り、境目は再び消えていく。

エピソード10 桶の理由

整然とした湯殿で、ひとつだけ乱れた桶にイブリダは違和感を覚える。理由を探るがどれも当てはまらず、思考は空回りする。やがて現れた猫により、ただ場所を確保するために押しのけられたと気づく。人の意味づけは崩れ、湯の中で静かにほどけていく。

エピソード11 湯の連続性

イブリダとスピリチアーレは、温泉後に失われる時間に違和感を抱き、機内温泉を構想する。湯を連続させる装置により、移動中も身体の状態は途切れない。実現された飛行では、人は目的地へ向かいながらも、まだ前の温泉に留まり続ける。

エピソード12 噂の女将

湯を求めて訪れた男に、イブリダは女将として取り合わないふりをするが、密かに条件を拾い続けていた。やがて本気を確かめると、掘るべき場所を示す。後日、その土地に湯が湧く。彼女の仕事は、静かに終わっていた。

エピソード13 空湯

イブリダは観覧車型温泉「空湯」を訪れ、案内役のスピリチアーレに迎えられる。カプセル内の岩風呂に浸かりながら空を巡り、アルプスの景色とともに湯の時間を味わう。一周ごとに湯は入れ替わり、体験は静かに繰り返されていく。

エピソード14 目覚ましの湯

眠気は湯で落とす社会の中で、イブリダはその習慣に違和感を持つ。何気ない言葉は拡散し、意図を離れて社会や政治に回収され、生活は崩れていく。すべてから離れたあと、彼女は再び湯に入り、何者にもならずに戻れる場所であると知る。

エピソード15 日本湯魔人の会

温泉を記録するアプリで、イブリダとスピリチアーレは常に上位に位置していた。高得点を狙うティーアイは三十点を積み重ねるが、湯との向き合い方に違和感を抱く。同じ入湯でも何かが違うと気づき、やがて点数ではない基準が自分の中に生まれ始める。

今回は、上記の内、誘湯士と日本湯魔人の会を下記に掲載したく思います。

誘湯士


実家に戻った。急な事情があったわけではない。ただ、順番が来ただけだった。スピリチアーレは、平日の午前中を二階の和室で過ごしていた。畳の上に低い机を置き、そこでノートパソコンを開いて、都会でしていた仕事をそのまま続けていた。

通信環境に支障はない。会議も資料のやり取りも、そのまま続く。窓の外に見えるのがビルではなく、山の斜面になっただけだ。昼休みになると、簡単な食事をとる。午後の予定を確認してから、少しだけ外に出る。家の裏に回ると、すぐに山がある。

その山は、きれいな形をしていなかった。尾根の途中が途切れ、斜面が不自然に落ちている。昔、大きながけ崩れがあったと聞いている。何百年も前の話で、正確な記録は残っていない。ただ、土地の古い言い伝えと、山の形だけが、それを伝えていた。

山裾には細い川が流れている。雨のあとには水量が増えるが、普段は静かだった。護岸は最低限で、土がむき出しの場所も多い。舗装された道は、少し離れたところで終わっている。

スピリチアーレは温泉が好きだった。旅行先でも、宿を選ぶ基準はほとんどそれだった。ある日、裏山を眺めながら、ふと思った――ここから温泉が出たら、いいのに。

事業にするつもりはなかった。宿をやる気もない。ただ、自分の家の風呂に、湯があればいい。湯量は少なくて構わない。派手である必要もない。自分が毎日入れる分があれば、それで十分だった――機械で汲み上げるようなものではなく、土地がそのまま吐き出すような湯。

思いついてから、少しだけ自噴について調べてみた――地形図、地質図、崩落の履歴、川の流路。仕事の合間に、資料を画面に並べて眺める。条件という言葉が、いくつも出てきた――舗装されていないこと、削られた土地であること、川が近いこと、浅い層で割れていること。画面の中の条件と、窓の外の風景が、少しずつ重なっていく。

掘削や揚湯の話ではなく、自噴を、誘う――そういう仕事があることを、そのとき初めて知った。誘湯士――その名前だけが、妙に静かだった。口コミの中に、こんな一文があった。

――出る。必ず出る。ただし、断られることの方が多い。

やり方は分からない。何をしているかも、誰も知らない――スピリチアーレは、もう一度、裏山を見た。条件は、揃っているように見えたが、大きな期待はしていなかった。失敗しても、生活は変わらない。それでも、一通の問い合わせを送った。土地の資料を添えて、可能性があるか見てほしいとだけ書いた。

返事は短かった。

――資料を拝見しました。三日間、現地を見させてください。

それだけだった。

イブリダが来たのは、約束していた日の午前中だった。小さなリュック一つで、車から降りてきた。挨拶は簡潔で、名乗りもしない。名刺も出さない。スピリチアーレが名乗ると、軽くうなずいただけだった。

「三日間、見させてください」

それが、最初の言葉だった。

裏山へ向かう途中、イブリダは突然、靴を脱いだ。舗装が切れたところで立ち止まり、はだしで土に足を下ろす。ためらいはなかった。そのまま、歩き始める。

山裾、川沿い、崩れて露出した斜面――イブリダは黙って、同じ場所を何度も行き来した。速くもなく、遅くもない。歩いては止まり、しばらくそのままになる。何を見ているのかは、分からなかった。測る道具は使わない。印もつけない。地形図も広げない。

昼を過ぎても、同じ調子だった。スピリチアーレは、少し離れたところで静かに見守っていた。質問はしなかった。聞いたところで、答えが返ってくる気がしなかった。

一日目は、それで終わった。二日目も、やることは変わらなかった。ただ、歩く範囲が狭くなっていた。昨日は一度立ち止まっただけの場所で、今日は長く立ち止まる――川の音が重くなるところ、土の色が微妙に変わるところ、崩れ跡が途中で切れているところ。

イブリダは、足を止めるたびに、しばらく動かなかった。視線は地面に落ちている。考えているようにも、何かを待っているようにも見えた。

夕方、スピリチアーレは声をかけた。

「夕食を用意しています。よろしければ……」

イブリダは振り向かずに答えた。

「結構です」

それだけだった。

三日目の朝は、これまでより早かった。スピリチアーレが裏に回ると、イブリダはもう来ていた。今度は、しゃがみ込んでいる。歩くことは、ほとんどしなかった。代わりに、地面に手を当てている――片手、ときどき両手。動かさず、長く触れている。

その様子を見て、スピリチアーレは思った――測っている、というより、待っているように見える。昼過ぎ、イブリダは立ち上がった。靴を履き、山を一度だけ見上げる。それから、スピリチアーレの方を向いた。

「……ここで、やってみます」

説明はなかった。それで、すべてが決まったようだった。

イブリダは、三日目の夕方にはもういなかった。その一週間後、裏山にプレハブが建った。基礎はなく、地面にそのまま置かれているようだった。設置に来たのは業者だけで、彼女の姿はなかった。

それから、音沙汰がなくなった。夜になっても灯りは点かない。発電機の音もしない。人の出入りも見えなかった。スピリチアーレは、実家の二階で仕事を続けていた。朝は会議があり、昼には資料をまとめ、夕方には返信を返す。都会にいた頃と、何も変わらない。

仕事の区切りで、裏山の方を見ることがある。プレハブは、そこにある。ただ、それだけだった。一週間が過ぎても、特別なことは何もなかった。プレハブは設置された日のままだった。

ある日、夕食を作りすぎた。鍋を火から下ろし、思いついて裏へ回った。ドアをノックするが、返事はない。中で物音がしたような気もした。けれど、確信はなかった。もう一度ノックすることはしなかった。

二週目に入った。昼休みに、短いメッセージを送った。

――昼食を用意しています。必要でしたらどうぞ。

既読にはならなかった。

翌日、紙コップにコーヒーを入れて持っていった。ドアの前に置き、戻った。夕方に見ると、同じ場所にあった。誰も触れていない。

近所の人に声をかけられることがあった。

「中では、何をされているのですか?」

「……分かりません」

それ以上、聞かれることはなかった。

夜、山は静かだった。風の音と、川の音だけがする。二週間が過ぎても、何も変わらない。プレハブは背景になり、スピリチアーレの生活の一部に溶け込んでいった。見に行く頻度も減り、気に留める時間も短くなる。何をしているのかは分からない。けれど、何も起きていなかった。

そのまま、一か月が経った。プレハブは、設置された日と同じ姿のままだった。

ある朝、裏山が妙に静かだった。スピリチアーレは、仕事の前に窓を開けた。風の向きはいつもと同じで、川の音も変わらない。ただ、視界の中で一つだけ違うものがあった――プレハブが、なかった。

撤収の音は、聞いていない。事前の連絡もなかった。身支度を整え、裏へ回る。地面は荒れていない。掘られた形跡もない。タイヤの跡すら見当たらなかった。

プレハブが置かれていた場所に、濡れた土があった。近づくと、かすかな湯気が立っている。音はしない。噴き上がりもない。ただ、地面の一点から、湯が静かに湧いていた。手を伸ばすと、温かい。しばらく、そのまま見ていた。量は多くない。流れは静かだ。穴はなく、管もない。

その日のうちに、役所の人を呼んだ。簡単な確認だけで、長くは留まらなかった。

「自然湧出として扱うほかないですね」

そう言って、帰っていった。

イブリダからの連絡はなかった。こちらから連絡することもなかった。スピリチアーレは、湯のそばに立ち、しばらく山を見上げた。崩れた斜面は、以前と同じ形をしている。川も、同じ音で流れている。何も変わっていない。

変わったのは、そこに湯があるということだけだった。今日は、まだ手をつけない。落ち着いてからでいい。自宅に温泉を引く――それは、数か月前に思いついたことだった。その思いつきが、静かに形となっていた。

日本湯魔人の会

日本湯魔人の会というアプリは、よく分からない。まず、目に入るのは写真だ――湯気の立つ湯面、濡れた岩、山道の終わりに現れる小さな湯船。いわゆる映える写真は、ほとんどない。構図も揃っていないし、色味も地味だ。それでも、目を離しづらい何かがある。

写真の下には、一言だけ文章が添えられている――霧が濃かった、今日はここまで。また来る理由がある。その横に、三つの数字が並ぶ――温泉純度、温泉距離度、温泉到達度。それぞれ十点満点で、合計は最大三十点になる。純度は湯そのものの話、距離はどれだけ日常から離れたか、到達度は辿り着くまでの困難さだ。

日本湯魔人の会からは、それ以上の説明はない。それでも、数字の意味は、見ているうちに分かってくる。純度が満点でも、距離と到達が低い投稿は静かに下へ沈んでいく。距離と到達度が高い投稿は、数字を見ただけで息を呑む人がいる。

誰かの入湯が、誰かの次の行き先を決める。このアプリは、評価ではなく、痕跡を見る場所だった。利用者は三万人ほどいると言われている。その大半は、投稿しない。タイムラインを眺め、自分の生活と照らし合わせ、行けそうな湯と行けそうにない湯を静かに分けている。

投稿できるのは、月に十回まで――制限があるせいで、一つ一つの入湯は軽くならない。今月はどの湯を使うか、自然と考えるようになる。

日本湯魔人の会


月の合計点が二百点を超えると、湯人と呼ばれるようになる。湯人の中で、さらに上位一パーセントに入った者が、湯魔人だ。仕組みだけ見れば、単純だった。だが、実際に二百点を超えるのは簡単ではない。温泉純度は、知っていれば取れる。問題は、距離と到達度だった。

遠くへ行けるか、辿り着けるか、辿り着いた先に本当に湯があるか――それらは、時間と体力と、時には運を要求した。だから湯魔人は、基本的には毎月入れ替わる。だが、日本湯魔人の会には、二人の例外がいる――イブリダとスピリチアーレ。

イブリダの投稿には、必ず川柳が添えられていた。五・七・五の短い言葉が、写真の上に置かれている。意味は分かるようで分からず、読み返すたびに印象が変わる。その川柳を保存している利用者も多い。

スピリチアーレの投稿は、祈りのようだと言われている。感想ではない。評価でもない。誰に向けた言葉なのかも分からないのに、読み終えたあと、少しだけそのままにしておきたくなる。

二人は、いつも上位にいる。一位と二位を入れ替わることはあっても、そこから落ちることはない。仕組みは公平なはずなのに、最初から席が決まっているように見えてしまう。そのせいで、日本湯魔人の会には、どこか、説明しきれない空気がある。

そして最近、その空気がわずかに動き始めた。三十点の投稿が、同じ名前で続いたのだ――また満点だ、今月は来るかもしれない。タイムラインの中で、その名前が繰り返し流れてくる。

まだ誰も確信を持って語らないが、目は自然とそこに向く――ティーアイ。その名前は、まだ噂の段階にあった。だが、数字だけははっきりとしていた。

ティーアイは、日本湯魔人の会で勝ちにいっていた。タイムラインを眺めるだけでは足りなかった。過去の投稿を遡り、点数の出方を見比べ、どの条件がどれくらい影響しているのかを、頭の中で整理していった。

温泉純度は、ほぼ固定だ。源泉掛け流しであること、加水や循環の有無――ここは知識で埋まる。差が出るのは、距離と到達度だった。距離は単純な移動距離ではない。前泊が必要か、始発に乗るか、車を降りてからどれだけ歩くか――生活をどれだけ歪めたかが、そのまま数字になる。

到達度は、もっと曖昧だ。道があるかどうか、情報がどれだけ共有されているか、辿り着けるかどうか――行ってみるまで分からない場所ほど、点が伸びる。ティーアイは、その曖昧さを嫌わなかった。むしろ、そこに規則性があると考えた。

過去の三十点の投稿を並べると、いくつかの共通点が浮かび上がる――野湯であること、温泉地から外れていること、危険すぎないこと。三十点は、無謀の先にはない。計算の先にある。ティーアイはそう考えていた。

実際、結果は出ていた。月に十回の投稿枠を、無駄にしない。確実に高得点が見込める場所を選び、天候と季節を見極め、行ける日に行く。三十点、二十九点、また三十点――タイムラインに、その数字が並び始める。

またか、この人すごいな――そういう声が、コメント欄ではなく、外部の掲示板や個人のまとめ記事に現れるようになった。日本湯魔人の会では、直接の称賛はあまり歓迎されない。だから噂は、別の場所で育つ。ティーアイは、それも分かっていた。

自分は、ゲームをしている。ルールを理解し、最適解を選び、結果を積み上げている。湯が嫌いなわけではない。だが、好きという感情だけで、ここまで点は揃わない。

月の半ば、ランキングを見ると、ティーアイの名前ははっきりと上位にあった。湯魔人の中でも、さらに上の位置だ。

それでも、一位と二位には届かない。イブリダとスピリチアーレ――二人の点数は、派手ではない。二十八点台が続いている。三十点は、ほとんどない。それなのに、平均が落ちない。ティーアイは不思議に思った。なぜ、この二人は外さないのか。なぜ、無理をしている気配がないのに、ここにいるのか。

タイムラインを見ながら、ティーアイは次の湯を決める。条件は揃っている。距離も、到達度も、計算上は問題ない。三十点が取れる可能性は高い。そう判断して、山へ向かった。

その野湯は、条件が揃っていた。温泉純度は文句がない。源泉がそのまま湧き、手が加えられた形跡もない。距離も十分だった。自宅からの移動だけで半日が潰れ、前泊も必要になる。到達度は、地図を見る限りは曖昧で、情報も少ない。つまり、三十点に最も近い。ティーアイはそう判断して、山に入った。

登山道と呼ぶには心許ない道だった。人が通っている痕跡はあるが、整備されているとは言えない。木の根が露出し、足元は湿っている。天候は安定していたが、前日の雨の影響が残っていた。

歩きながら、ティーアイは時計を確認する。想定より少し遅れているが、誤差の範囲だ。引き返す理由はない。息が上がり、汗が背中を伝う。ザックの重さが、普段より気になる。

そのとき、前方から人が来るのが見えた。細い道を、こちらに向かって歩いてくる。一瞬、見間違いかと思った。この時間帯に、下りてくる人がいるとは想定していなかった。

距離が縮まるにつれて、その違和感ははっきりした。装備が軽い。歩き方に無理がない。何より、表情が穏やかだった。すれ違う直前、相手は軽く会釈をした。年齢は分からない。疲れている様子も、急いでいる様子もない。

「こんにちは」

それだけ言って、通り過ぎていく。ティーアイは、思わず立ち止まった。振り返ることはしなかったが、背中に残る気配が気になった。湯から出てきた人だ――直感的に分かった。理由は説明できない。ただ、湯に浸かった後の人特有の、余分な力の抜け方があった。

再び歩き出しながら、ティーアイは考える。湯に浸かった人であれば、同じ場所を目指したはずなのに、同じ条件を踏んでいるはずなのに、自分とはまるで違う速度で、この道を通っている。計算が合わない。

岩に囲まれた場所に出たとき、そこに湯だまりがあった。湯温も問題ない。人の気配もない。三十点が、ほぼ確定した。それでも、湯に浸かりながら、さきほどのすれ違いが頭から離れなかった。

下山後、宿に戻り、投稿を済ませる――写真と一言。点数が表示される――三十点。タイムラインに、自分の投稿が流れていく。その少し下に、別の投稿があった。写真は、湯気だけ。一言は、短い祈りのような文だった――点数は、二十八点。

アカウント名を見て、ティーアイは指を止める――スピリチアーレ。投稿時刻は、自分より少し早い。場所の表記は、同じ山域だった。

ティーアイは、画面を見つめたまま動かなかった。数字だけを見れば、自分の方が上だ――三十点と、二十八点。それでも、山道ですれ違ったときの光景が、数字を軽くする。同じ山を登っているはずなのに、そうは思えなかった。その理由は、まだ分からなかった。

次に選んだ野湯は、三十点が取れるかどうか、ぎりぎりの場所だった。条件だけを見れば悪くない。温泉純度は問題ない。距離も十分だ。ただ、到達度が読みにくい。情報が少なく、実際に行ってみなければ、入れるかどうかが分からない。

ティーアイは、少し迷ってから向かった。それでも、身体は自然に準備を始めていた。靴を選び、荷物を詰め、天気予報を何度も確認する。いつもの動作だった。

山に入ると、前に行った場所よりも道は荒れていた。落ち葉が積もり、踏み跡も薄い。何度か立ち止まり、現在地を確認する。汗が流れ、呼吸が浅くなる。それでも足は止まらなかった。

湯の気配を感じたのは、突然だった。音でも匂いでもなく、空気の変化だった。岩の向こうに、小さな湯だまりが見える。そして、そこに――人がいた。一人の女性が、湯に浸かっていた。肩まで湯に沈め、目を閉じている。まるでそこが自宅の風呂であるかのようだった。

ティーアイは、思わず足を止めた。先客がいること自体は珍しくない。だが、この場所で、すでに湯に浸かっている人がいるという事実が、少しだけ現実味を欠いていた。女性は、目を開けてこちらを見た。驚いた様子はない。

「こんにちは」

声は穏やかだった。

ティーアイは返事をし、少し距離を取った場所に荷物を置く。視線を逸らしながら、湯の様子を確認する。

「あなたも、湯が好きなのですね」

不意に、そう言われた。

「だって、こんなところまで、わざわざ」

責める調子ではなかった。同意を確かめるような言い方でもない。ただ、事実をそのまま口にしたようだった。

「……はい」

ティーアイは、それだけ答えた。女性は、ふっと笑った。

「分かります。ここ、いい湯ですよね」

しばらく、湯の音だけが続いた。風が木々を揺らし、湯気がゆっくりと立ち上る。

「もしよかったら、こんなのもありますよ」

女性はそう言って、湯から出ずに、防水ケースに入ったスマートフォンを手に取った。

「日本湯魔人の会っていうアプリなんですけど……」

画面には、見慣れたタイムラインが映っていた――写真と、一言と、点数。

「気持ちのいい湯に浸かっていると、なんだか川柳が浮かんでくるのです」

少し照れたように、続ける。

「古風でしょう?ふふ」

画面を指でなぞりながら、言った。

「それも一緒に、ここに残しているのです。忘れちゃうので……」

ティーアイは、言葉を失ったまま画面を見る。そこに表示されているアカウント名を、何度も見返す――イブリダ。湯気の中で、その名前だけがはっきりしていた。

イブリダは、ティーアイの視線に気づいた様子もなく、再び目を閉じた。ただ、気持ちよさそうに湯に浸かっている。湯魔人、伝説、一位と二位――そのどれもが、この人の中には存在していないように見えた。ただ、湯があって、そこに来て、楽しんで、忘れないように記録している。それだけだった。

日本湯魔人の会のタイムラインは、いつもと同じ速度で流れていた。写真があり、一言があり、点数が並ぶ。湯人も、湯魔人も、特別扱いはされない。誰かが上がり、誰かが落ちる。それだけのことが、淡々と繰り返される。

イブリダの投稿には、相変わらず川柳が添えられていた。意味は説明されない。スピリチアーレの言葉も、変わらない。祈りのようで、感想ではない。点数は、二十八点前後――いつも通りだ。

ティーアイの投稿は、その少し下に流れた。写真は同じように湯気を写している。点数も高い。三十点に近い数字が並ぶ。一言だけが、少し違っていた。今日は、点数を気にしませんでした――それ以上の説明はない。誰も反応しない。だが、見る人は見る。

ランキングは更新される。一位と二位は、変わらない。湯魔人の顔ぶれも、大きくは動かない。ティーアイは、湯魔人だった。それは、もう疑いようがない。だが、伝説かどうかは、まだ分からない。

次の湯を決める画面で、ティーアイは少しだけ指を止めた。条件は揃えられる。三十点も、また取れる。それでも、すぐには選ばなかった。山道ですれ違った涼しい背中。湯に浸かりながらスマートフォンを差し出した笑顔――どちらも、点数とは無関係だった。

ティーアイは、まだ一位を諦めていなかった。ただ、その意味は、少し変わっていた。タイムラインは、今日も静かに流れていく。

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