イブリダ秘湯物語 温泉にまつわる十五の短編 vol.3
今回はイブリダ秘湯物語 ~温泉にまつわる短編集vol.3~ のご案内です。

実は、このシリーズには、少し変わった決まりがあります。
必ず登場する主人公がいるのです。
その名は、イブリダと言います。
ただし、このイブリダには連続性がありません。
話ごとに、まったく違う立場で現れます。
どのvol.から、どの話から読んでいただいても問題がないのは、そのためです。
すべて一話完結の物語です。
物語に二人目の人物が現れるとき、その名は必ずスピリチアーレになります。
こちらも同様に、話ごとに別人となります。
三人目が登場することもあります。
その名はティーアイです。
そんなに登場頻度は高くありません。

この三名の名前は、実はアルファロメオのモデル名やグレード名に由来しています──ジュニア・イブリダ・スペリチアーレ、ジュリア・ティーアイ。
物語では、スピリチアーレという表記になっていますが、もともとはスペリチアーレのつもりでした。
変換ミスに気づいたのは、今回のvol.3制作時という、ずいぶん遅い発見です笑
しかし、気づいた頃にはこの表記に馴染んでしまっていて、そのまま続けることにしました。

あ、ひとつ、大事なことをお伝えするのを忘れていました。
この物語には、必ず温泉が登場します。
ただし、浸かるための温泉ではありません。
むしろ、浸からない温泉です。
イブリダと温泉──この二つだけが、必ず現れる物語となります。
そんな物語を十五話集めて短編集にしたのが、イブリダ秘湯物語です。
↓紙書籍
↓電子書籍
という訳で完成したvol.3ですが、今回も色んなイブリダが登場します。
15話のあらすじ
エピソード1 TEISEN
衰退が続く国で、イブリダは封鎖された帝国時代の巨大温浴施設の復興を掲げる。人々の記憶と感情が呼び起こされ、TEISEN構想が国全体を動かしていく。
エピソード2 湯舞
新人湯舞オーディションで出会ったイブリダ、スピリチアーレ、ティーアイ。三人は特別合格でユニットを組み、湯のない都会で修行し、新しい湯舞を生み出す。
エピソード3 湯豆
湯守イブリダの発想から、学者のスピリチアーレとティーアイが湯の瞬間冷凍に挑む。三人は「湯豆」を生み出し、湯の記憶を日常へ広げていく。
エピソード4 黄金のマスク
イブリダは「仮面の湯・黄金荘」を訪れ、黄金バンドで感覚を閉ざして湯と食を味わう。夜の湯では黄金の世界に沈み、朝の静けさで心身を整えて宿を出る。
エピソード5 湯家大全
蔵で見つけた古書『湯家大全』を通じ、湯守を引き継いだイブリダは湯触・湯香・湯流・湯音・湯華・湯塊という六つの湯の特性を知り、祖母が見ていた湯の本質を追っていく。
エピソード6 Dix minutes
通勤の駅までの十分で、イブリダは春夏秋冬の変化とすれ違う人々の移ろいを見つめる。繰り返す朝の中で、自分が変わっているのかを静かに考える。
エピソード7 湯論会
イブリダとスピリチアーレが湯を前に三題で対話する湯論会決勝。思想は湯気に溶け、勝敗を越えて問いだけが朝まで静かに残る。
エピソード8 湯球換起説
湯球研究家イブリダは、湯のない山で現れた湯球を追って異常な湯脈を突き止める。湯球は避難の道しるべとなり、彼女は自身の仮説を「湯球喚起説」へ改める。
エピソード9 湯を持ち帰る夜
イブリダは湯舟を撮り、スピリチアーレは湯を瓶に収め、ティーアイは析出物を採る。三人は持ち帰った湯の記憶を、静かな夜に並べて味わう。
エピソード10 炎湯大魔神
源泉ごとに炎湯大魔神が宿る世界。村の魔神イブリダが不調となるが、国が派遣した烈湯大魔神スピリチアーレの放熱で回復し、湯と日常が元に戻る。
エピソード11 湯筆
イブリダは湯の感情を言葉にするアプリ「湯筆」を開発。試作の解析で、湯の揺らぎから「ひとをいやしたい」という意味が現れる。
エピソード12 世界湯エキスポ2126
2126年の世界湯エキスポで、イブリダは各国の湯パビリオンを巡る。最後に南極の白い湯を訪れ、湯で世界を旅した余韻を抱えて帰路につく。
エピソード13 先取りされた旅
予約前の綿密な情報収集と比較こそがイブリダの旅の本体。実際の宿泊は答え合わせで、その場で次の旅の検索がすぐ始まる。
エピソード14 考えていた時間
イブリダ、スピリチアーレ、ティーアイは、湯に浸かりながら、ものづくりの起点は外か内かではなく、誰がそれを自分の問題として引き受けた瞬間かだと語り合う。
エピソード15 湯転
イブリダが名づけた「湯転」を、スピリチアーレは哲学的に受け取り、ティーアイは「湯転人」という物語へ広げる。やがて湯の底で働く小さな湯転人イブリダの一日が描かれる。

今回は上記15話の内、TEISENと湯転の全文を掲載いたします。
まずは、TEISENからです。

TEISEN
国体が変わってから、ちょうど五十年が経った。あの日を境に、この国の針はゆっくりと狂い始めたと言われている。経済は伸び悩み、世界に誇った技術力は陰りを見せ、人口は毎年、静かに減り続けた。国際的な存在感は後退し、人々の自信は、砂がこぼれるように失われていった。
この長い低迷の時代は、いつしか「失われた五十年」と呼ばれるようになった。誰が最初に言い出したのかも分からない。けれど、その言葉は国中の空気とあまりに一致し、人々は諦めにも似た空気の中で、それを受け入れていた。
そんな停滞を象徴するかのように、国の中央にはひとつの巨大な廃墟が沈んでいた。かつて「帝国温泉・総合大浴場」と呼ばれ、人々からは親しみを込めて「帝泉」の名で知られていた場所だ。東京ドーム五十個分の敷地を誇る、世界最大規模の温浴施設だった。
帝国時代、帝泉はこの国の繁栄を視覚化した存在だった。数万人が一度に身を沈められる大殿湯、各地の名湯を再現した多彩な湯船、海水を運び込んだ塩湯、山岳を模した森林湯、湯治医学の研究棟まで備え、帝泉は昼夜を問わず帝都の空を白く染めていた。
そこでは、ただ湯に浸かるという行為そのものが、ひとつの祝福だった。人は自然と肩の力を抜いた。家族が笑った。未来を語れた。そんな記憶を持つ世代は、いまや少数派になりつつある。
というのも、国体が変わったその年、帝国の象徴とされた帝泉は、贅沢の象徴として槍玉に挙げられ、政治的判断によって強制的に封鎖されたからだ。人々の願いとは正反対に──帝泉の灯は消された。
それからの五十年、国は一度も上向くことなく、静かに沈み続けた。老人たちは口をそろえて言う。
「帝泉が閉じたあの日から、この国は変わってしまった」
帝泉についての資料は少ない。映像はほとんど残っていない。政治家たちは誰も語らない。帝国の文字がつくものが、避けられるようになったからだ。
しかし、この国のどこか深い層には、消えきらない湯の記憶がたしかに残っていた。そしてその記憶は、いま再び、静かに呼び起こされようとしていた。新しい世代の、ある女性の手によって──。
帝泉が閉ざされてからちょうど五十年。国のどこを見ても、衰退を前提とした仕組みばかりが並んでいた。誰もが「仕方がない」と言い、若者は希望よりも安定を口にする。老人は過去を語り、政治家は未来を語らなくなっていた。
そんな中、ひとつの新しい政党が静かに勢いを増しつつあった──社会再生党。党首のイブリダは、三十二歳──帝国を知らない世代。帝泉にも入ったことがない。けれど、街頭に立つ彼女の言葉は、なぜか人々の胸の底にまっすぐ落ちていった。
イブリダが最初に掲げたキャッチコピーは、誰も予想していなかったほど端的だった。
「かつての自信を取り戻せ!」
それは、政治家の言葉というより、忘れてしまった本音を呼び戻す呪文のようだった。老人たちはうなずき、若者たちは自分でも理由の分からない熱に触れたように顔を上げた。
最初は、ただのスローガンだった。だが、街に貼られたポスターと、SNSで拡散されたその言葉は、次第に国全体を揺らし始めた。イブリダの演説は、いつも静かで、切れ味があった。
「私たちの国は衰退している。それは、数字が証明している。でも──心が衰退したのは、もっと前からです」
「五十年前、帝泉が閉じられたあの日から、この国は自信を失いました」
帝国の話を避けてきた政治家たちとは、まるで違った。忌避されていた言葉を、イブリダだけが呪いとしてではなく、事実として扱った。彼女が語っているのは、帝国の復活ではない。五十年前に失われた象徴──帝泉を、もう一度この国の中心に据え直すことだった。
記者が問う。
「あなたは帝国を復活させたいのですか?」
イブリダは即答した。
「違います。私は、帝泉を復活させたいのです」
国体の問題ではない。帝国温泉・総合大浴場という、人々が共有していた象徴を取り戻すこと。それを初めて口にした政治家だった。それは、比喩ではなかった。実際に手を入れ、形にするという宣言だった。社会再生党の人気は、そこから急上昇した。
そして、選挙を目前に控えたこの日、イブリダはついに最重要公約を発表する。帝泉復興計画(TEISEN構想)──発表会見は、夏の終わりの午後だった。
湿り気をわずかに残した空気の中で、街のビル群の影が、いつもより早く足元へ伸びていた。控室から演台へ向かうイブリダの足取りは、驚くほど静かだった。
社会再生党のロゴが印刷された白い壁面。その中央に掲げられた文字を、記者たちは目を細めて見つめていた──TEISEN。最初、誰も意味が分からなかった。新しい英単語でもなければ、造語にしては語感が妙に古い。イブリダは演台に立ち、深く息を吸ってから、はっきりと言った。
「帝泉を、TEISENとして復興させます」
会場がざわめいた。ざわめきが波となり、波が会場の温度を一瞬で変えた。スーツ姿の記者が手を挙げた。
「TEISEN……それは、帝国温泉のことですか?」
イブリダは頷いた。
「はい。TEISENは、帝国温泉・総合大浴場──通称・帝泉の復興を、現代の公共のあり方に合わせて行う計画です。東京ドーム五十個分の敷地を持ち、五十年前、贅沢の象徴として封鎖された、あの施設を、役割ごと最新の形に組み替えてよみがえらせるのです」
別の記者が食い気味に問う。
「帝国の復活を示唆しているのですか?」
すぐさま、イブリダは首を横に振った。
「違います。私は、帝国を復活させたいのではありません。人々が愛した湯の共同体を取り戻したいのです」
その一言で、空気が変わった。
「帝泉があった頃は明るかった」と語った老人たちの顔が自然に思い浮かぶ。街の片隅に残る、色あせた古い案内看板。廃墟となった敷地に立ち止まる若者たちの視線。イブリダは続けた。
「政治は五十年間、帝泉に触れようとしてきませんでした。しかし国が衰えはじめたのは、帝泉が閉じられたあとなのです」
会場が静まり返る。
「だからこそ──帝泉を、TEISENという新しい形で蘇らせます。かつての自信を取り戻すために」
モニターに、TEISENのロゴが映し出された。古い帝泉の字形をもとに抽象化し、現代的に再構成したデザイン。記者席の誰かが小さくつぶやいた。
「帝泉を……本気でやるつもりなのか?」
その声は、会場全体の本音だった。
会見の翌日から、国中に小さな波紋が広がり始めた。テレビでは識者が論争を繰り返した。
「帝泉は本当に必要か?」
「過去への回帰だ」
「いや、国民が求めているのは象徴だ」
SNSではもっと率直だった。
〈帝泉復活、賛成〉
〈TEISENってかっこいい〉
〈五十年前の画像はある?〉
〈うちのおばあちゃんが帝泉は本物だったって言っている〉
〈社会再生党に投票する〉
若者の間では、TEISENのロゴ入りのTシャツが非公式に作られ、いつの間にか売り切れていた。老人ホームでは、「帝泉にまた行ってみたい」という声がニュースになる。そして、投票日まで一週間を切った頃、世論調査で、社会再生党が支持率一位に立った。
テレビのスタジオがざわつく。新聞の論説が浮き足立つ。街の選挙ポスター前に、立ち止まる人が増えた。その中心に掲げられた言葉はただ一つ──「かつての自信を取り戻せ!」イブリダの声は、国の底に沈んでいた湯の記憶をもう一度熱くし始めていた。
その日は、イブリダが帝泉跡地で集会を行うと知らされていた。廃墟となった広大な一帯は、早朝から熱を帯びていた。まだ太陽が昇りきらない時間帯にもかかわらず、その周辺には色とりどりのテントと屋台が並び、一晩中そこにいたらしい若者たちが寝袋から身を起こしながら笑っていた。
「今日、イブリダが来るらしい!」
「百万人も集まるって噂があるね!」
いつの間にか、集会という言葉を超えていた。
帝泉跡地へ向かう道路はすべて人で埋まり、歩道橋の上にも、ビルの屋上にも、旗を持った人々であふれていた。勝手に来て、勝手に動き、勝手に希望を語る。誰のコントロールも及ばないまま、街全体が自走し始めていた。
水を配る人々、ゴミを集める学生グループ、即席の案内板を立てる若者たち。すべてが自主的で、指揮系統などは存在しない。だが不思議なことに、一度も混乱は起きなかった。それは、ここに集まった百万人が同じものを目指していたからだ。この国がもう一度自信を持つ瞬間を。
帝泉跡地の東側。廃材を集めて作られた簡易ステージが、前夜のうちにできてしまっていた。そこへ、名前の売れたミュージシャンがひょっこり現れたとき、誰もが驚いた。そのあとも次々に、メジャーもインディーズも関係なく、ミュージシャンたちが勝手に楽器を持って現れた。出演順すらない。演奏したい者が演奏する。リハーサルもなければ、音響も不揃い。それでも音は空へ広がり、人々のあいだを渡っていった。
陽が昇りきった頃、帝泉跡地は完全に揺れていた。地面が振動するほどの人の波。小さな子どもを肩車する父親。老人たちが涙を拭きながら手を振る。若者たちは旗を掲げ、黒地に白の TEISENの文字が空を切り裂くように翻った。
誰もがざわざわと期待に満ち、その場に立っているという事実だけで胸が熱くなっていた。この場所は半世紀もの間、ずっと沈んでいた。封鎖されたまま忘れられた帝国の遺構だった。だが、その跡地がいま、最も生きている場所になっていた。
やがて、帝泉跡地の西側に設置されたメインステージの照明が点灯した。ざわめきが波のように広がり、百万人の視線がひとつの方向を向いた。その瞬間、イブリダが姿を現した。シンプルな白いスーツ。胸につけられた小さなTEISENバッジ。彼女は、驚くほど静かに歩いていた。
マイクの前に立つと、百万人の熱気が、一瞬で、静寂に変わった。風の音が聞こえるほどだった。イブリダは、ゆっくりと景色を見渡し、そして、ただ一言。
「……帝泉は、まだ人々の中で生きています」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「だからこそ、私たちは帝泉を復活させます──TEISENとして」
百万人の胸が、その瞬間に燃え上がった。歓声が爆発した。涙を流す人もいた。空へ手を伸ばす人もいた。誰もが感じていた。失われた五十年が、いままさに、ここから動き出す。
静まり返った百万人の前で、イブリダはゆっくりとマイクを握り直した。
「私たちの国は、五十年沈んでいました」
その声は、奇跡のように静かで、しかし、どこまでもよく通った。
「人口が減りました。GDPが下がりました。自信を失い、未来を口に出すのも怖くなりました」
少し間があいた。風が吹き、掲げられた旗が揺れた。
「でも──本当に失われたのは、数字ではありません」
百万人が息をのんだ。
「五十年前、帝泉が閉じられたとき、私たちは、共同体の中心を失いました」
帝泉を知らない若い世代であるにもかかわらず、イブリダの言葉は、まるで誰よりも帝泉を知っているかのようだった。
「湯は平等でした。職業も、年齢も、肩書きも関係ない。ただ、そこにいるだけで、人は人に戻れたのです」
スクリーンに、かつての帝泉の白い湯気の画像が映る。それは過去の記録であると同時に、この場所に集まった人々の感情を、ひとつに結び直す光でもあった。
イブリダは、そっと微笑んだ。
「私は、帝国を復活させるのではありません。でも、帝泉は復活させます──TEISENとして。私たちの未来の象徴として」
そして、最後の言葉。
「かつての自信を──もう一度取り戻しましょう!」百万人の歓声が、帝泉跡地の空へ爆発した。
夜が訪れた。それでも誰も帰らなかった。帝泉跡地の広大な空き地には、勝手に灯されたランタンがゆらゆら揺れ、アコースティックギターの音がどこかしらから聞こえてきた。道路沿いに座り込んで語り合う若者。突然始まる即興バンドのセッション。屋台の灯りは、まるで祭りのような温かさを放っていた。
イブリダのスピーチから数時間。なぜか誰も帰らず、まるで見えない焚き火にあたるように、人々はこの場所に留まり続けていた。誰も組織していないのに、そこには確かに新しい共同体が生まれていた。
帝泉の亡霊が、静かに微笑んでいるかのようだった。
一方その頃、与党中枢では深夜の会議が開かれていた。保守連立の重鎮が叫ぶ。
「想定外だ!百万人だと!?」
選挙対策本部の責任者が震える声で報告する。
「SNSのトレンド上位十個中、すべてがTEISEN関連です……」
別の議員が机を叩く。
「帝国温泉が争点になるなど前代未聞だ!なぜ止められなかった!」
しかし、誰も答えられなかった。なぜなら、誰も帝泉に触れてこなかったからだ。五十年間、避け続けてきた話題だった。その沈黙の空白を、イブリダが埋めてしまった。保守連立の代表は青ざめてつぶやいた。
「……このままでは政権が……終わる……」
翌日の夜。選挙前夜のイブリダは、誰にも告げず、帝泉跡地に向かった。前日の熱狂が嘘のように、周囲は静かだった。ただ、踏み荒らされた地面と、まだ冷えきらない空気だけが、熱の痕跡を抱えていた。彼女は廃墟の前に立ち、そっと目を閉じた。「……私は、帝泉を知らない」
呟く声は、風に溶けた。
「けれど、この場所は……みんなの心の中に、まだ生きている」
遠く、誰かのギターの音が聞こえた。昨日から眠らずに残っている者たちが歌っているのだろう。イブリダはゆっくりと跡地に手を触れた。冷たいコンクリートの感触。長い長い五十年の時間。
「明日、すべてが決まる」
夜空には、帝泉跡地を包むように星が広がっていた。イブリダはその星を見上げ、小さく息を吸った。
「もう一度……灯りますように」

続いて、湯転です。

湯転
湯口から落ちる源泉が、湯面に円を描いてはほどけていく。わたしには、その輪が生まれるたび、世界がひとつ書き換わっていくように見えた。
「同じ川に二度入ることはできない……」――ヘラクレイトスの言葉が、湯気の向こうからふいに立ち上がる。それは誰かの声ではなく、まるで自分の奥から滲み出た響きのようだった。
湯面は途切れることなく揺れていて、同じ形を保つ瞬間が一つもない。その移ろいに見入っていると、もう一つの断片が先ほどの思考の余韻として静かに浮かんだ。
「万物は流れ、何ひとつ留まらない」――湯は生まれては、消える。いま目の前で揺れている小さな輪さえ、ただのひとときの姿にしかすぎない。
波紋の奥へ視線を沈めているうちに、わたしの思考もまた、湯口のさらに奥へと遡っていった。湯はここで生まれたわけではない。地中の湯源から、長い長い道を通って来たものだ。その源の気配を思い描いた瞬間、もう一段深い思考の声が、湯気の裏からそっと立ち上がった。
「あらゆる個物は、唯一の実体の様態にすぎない……」──スピノザの言葉。その意味が、そっとわたしの中に収まった。湯面の一つひとつの揺らぎは、湯源そのものが見せる、ほんのささやかな表情にすぎない。さらに、記憶の底で静かに続きの句がつながる。
「自然は、その本性の必然によってのみ働く」──湯の揺れがここに立つのは、偶然でも他者の操作でもない。自然がそうであるから、湯もそのように動く。湯面の小さな震えも、地中の潮流も、すべてが同じ必然の上で揺れている。
わたしはゆっくりと湯面へ視線を戻した。湯気が薄く震え、その奥で小さな波が一つ立つ。目の前のさざめきの中に、湯源の脈動が静かに重なって見えた。その瞬間、言葉がひとつ、心の底に浮かんだ。
聞き慣れた語ではない。どこから来たのかも分からない。けれど、湯面の小さな揺れと、地中の大きなうねりが一本の線で結ばれたとき、自然と形になって立ち上がった──湯転。
口には出さず、ただ胸の内でそっと転がしてみる。湯面に立つささやかな波も、地の底を巡る深い力の波も、どちらも同じ揺れの在り方として静かに響いている──それは、万物流転を思わせる、小さな輪と大きな潮流、湯の表のさざめきとその下で息づく脈動。それらが一つの名前で呼べるのだと気づいたとき、ようやく、わたしは自分が見ていたものの全体を理解した。
湯が触れ合うときに生まれる細い震え。湯源が呼吸するときに起こる重い波──その両方を、湯転と呼べばいい。そう思った途端、湯面の揺らぎがひそやかな光を帯び、世界がゆっくりと同じ呼吸で動いているように感じられた。
湯の上に薄い揺らぎが漂っていた。スピリチアーレは湯舟に身を沈めたまま、『イブリダ散文集』をそっと閉じる。
「湯転……」
彼女はその語を、静かに口の中で転ばせる。そこに込められた意味を、既存の哲学と照らし合わせながら、少しずつ整理していく。湯気の揺らぎを見ながら、感じたことを少しだけ日記帳に書き留めておく──湯転という語について。
イブリダが描いたその瞬間を、わたしはたしかに追体験した。湯面で生まれる小さな輪が、形を保たず、流れるように変わっていく様子は、ヘラクレイトスの言う「流転」そのものである。変化は決して止まらず、留まることはない。湯転の最も細かな層は、この絶え間ない移ろいにある。
しかし、湯転はそれだけではない。湯口の奥、さらに地中へ遡っていくイブリダの視線は、スピノザの言う──「個物は唯一の実体の様態にすぎない」という考えへ向かっている。つまり、湯面の揺れも、深い湯源の脈動も、どちらも同じ自然の現れであり、現れ方を違えているだけの一つの動きなのだと。
湯転とは、この二つが別々ではなく、一つの線でつながるときに生まれる揺れであり、湯面と湯源の境界で立ち上がる震え──わたしは湯の表面を指でゆっくり掬ってみた。この一瞬の震えが、深い場所の呼吸と静かに重なっていると思うと、ほんの少し世界が違って見える。
湯転とは、瞬間と永遠の境目で生まれるものであり、流転と必然が重なる場所の、目に見える印──イブリダはその揺れに、自分の感覚のままに名前を与えたのだろう。わたしも、この語をしばらく大切にしてみたい。
夜の気配が濃くなった頃、ティーアイはスピリチアーレの部屋の前で足を止めた。扉の向こうから、湯気のような柔らかな灯りが漏れている。軽くノックをしたが返事はない。いつものことだ。湯に浸かって考えごとをしたとき、スピリチアーレの意識はしばらく戻ってこない。そっと扉を開けると、湯から上がったばかりの匂いと、紙の香りが部屋を満たしていた。
「……入るよ、スピリチアーレ?」
声をかけると、窓際の椅子に座った妹が、ゆっくりこちらを振り向いた。髪はまだ水分を含んでいて、肩のタオルもぬるく湿っている。表情はどこか夢の続きを見ているようで、現実の輪郭にまだうまく戻れていないらしかった。
「お姉さん……」
かすかな声でそう呟く。ティーアイは近づくと、机の上の手帳に気づいた。
「また湯に浸かりながら書いていたの?」
スピリチアーレは小さく頷いた。
「……うん。『イブリダ散文集』を読んで……考えたことがあって……そのまま湯で書いちゃった」
ティーアイは苦笑しながら椅子に座る。
「何を考えていたの?」
スピリチアーレは少し呼吸を整え、胸の前で日記帳を両手で包むように持った。
「……湯転のことを、自分の言葉で考えてみたの。読んだら……お姉さんにも、分かってもらえると思う」
そう言うと、スピリチアーレは『イブリダ散文集』と日記帳をそっとティーアイに差し出した。受け取った瞬間、紙に残る湯のぬくもりが指先へ移った。
「それじゃあ、スピリチアーレ……まずはあなたの考えを読ませてもらうね」
スピリチアーレは静かに頷き、まだ少し現実と夢の境目にいるような目で、ティーアイを見つめていた。ティーアイは日記帳を開いた。そこには、湯面の小さな揺れと、地中の深い脈動が一本につながるという、スピリチアーレの思考が息づいていた。
ティーアイは読み終えると、なぜか急に真顔になった。
「……スピリチアーレ、ちょっと言っていい?」
「なに?」
ティーアイは日記帳を閉じ、膝の上でぽんと叩いた。
「湯面の小さな波ってさ……あれ、湯転人っていうちっちゃい奴が一人で湯を波立ててるんじゃない?」
スピリチアーレは一瞬きょとんとし、次の瞬間、耐えきれず吹き出した。
「ぷっ……お姉さん、それは……」
ティーアイは気にせず続ける。
「でね、地中の大きな波は、湯転人が大勢で、せーのっってやってる結果。どう?分かりやすくない?」
スピリチアーレは笑いながら肩を震わせる。
「そんなわけ……ふふっ……」
ティーアイもつられて笑い、それから肩をすくめた「いや、あなたの湯転が難しすぎるからさ。たまには、こういう方向から考えてもいいんじゃないかって」
スピリチアーレは息を整えながら、呆れたような、でもどこか嬉しそうな表情になった。
「……お姉さん、いつもそうだよね。湯獣とか……湯魔人とか……変な存在を考えるの、子どもの頃からやめない」
ティーアイは胸を張って言った。
「もちろんよ。世界は見えるものだけでできているわけじゃないんだから」
スピリチアーレは笑いながら、そっと目を伏せた。「……でも、お姉さんがすごいのは、そういう世界をちゃんと物語にしてしまうところ。わたしには……読んで、考えて、感想を書くことしかできないから」
ティーアイはその言葉に、少し柔らかい表情を向けた。
「スピリチアーレ。感想を書くって……それも立派な創作の一部よ。あなたの場合、それがもう新しい世界の説明書になっている」
スピリチアーレは驚いた顔をした。ティーアイは続ける。
「イブリダが見つけた湯転を、あなたは自分の言葉で再定義している。それがどれだけ大変か……物語を書いているわたしが一番わかっているつもり」
スピリチアーレは胸の前でそっと日記帳を抱きしめた。ついさっきまで、自分の言葉が頼りなく思えていたのに――今は少しだけ、温度があるように感じられた。
「……ありがとう、お姉さん」
「どういたしまして。で、湯転人の話はどう?」
スピリチアーレはまた吹き出した。
「……やっぱり変だよ、お姉さん」
ティーアイは満足げに笑った。スピリチアーレは肩を震わせながら笑っていたが、その笑いの奥で、湯面のどこかに──本当に小さな湯転人が潜んでいるような気がしてきていた。
笑いが落ち着くと、部屋には湯気の残り香だけがふんわり漂った。ティーアイは満足げに腕を組み、スピリチアーレは日記帳を胸に抱きしめたまま、その言葉の余韻を、静かに受け止めていた。それから──ふと、思いついたように口を開いた。
「……ねえ、お姉さん?」
「ん?」
ティーアイが片眉を上げてこちらを見る。スピリチアーレは少し恥じらうように視線を落とした。
「……湯転人の話、お姉さんが物語にしたらどうかなって……思って」
ティーアイは一瞬だけ目を丸くし、次の瞬間、くすっと笑った。
「物語に?湯転人を?」
「うん……だって、お姉さんなら書けるよ。湯転の揺れを誰かが起こしているって考えたの……お姉さんらしくて、すごく面白かったから」
ティーアイはゆっくり背もたれに身体を預け、妹の言葉を噛みしめるように目を細めた。
「いいよ。やってみる」
スピリチアーレは顔を上げた。
「ほんとに?」
ティーアイは頷く。
「湯転人。小さな湯面を揺らす一人の子。地中深くで、大きな波を起こす集団。これはね……動かしがいがあるかもね」
ティーアイは遠くを見るように言った。
「湯の底で働く小さな人たち……気まぐれで湯を揺らしたり、突然みんなで、せーのって波を起こしたり。世界の揺らぎの裏側にいる、小さな職人たち……うん、いけそう」
スピリチアーレの胸がふわりと熱くなった。
「ありがとう、お姉さん」
「書いたら、ちゃんと感想を聞かせてね」
スピリチアーレは、湯転の名を知った時と同じような温度で頷いた。
「もちろん。それは……わたしにもできる」
二人の間に落ち着いた沈黙が流れた。その静けさの奥で――湯のどこかで、誰かがそっと波を立てたような気がした。
湯舟の底には、人に見えない小さな村があった。そこでは、今日も一人の湯転人が目を覚ます──その名は、イブリダ。
「今日も、湯を揺らしに行こう」
湯の底の石段を登り、光の差す湯面のほうへ向かう。彼女の仕事は、朝一番の小波をつくること。湯口から落ちる湯をじっと見上げて、タイミングを合わせる。
湯がひとすじ落ちてくると同時に、イブリダは足元の揺石(ゆいし)をぐっと押し出した──ぽん。その瞬間、湯舟の表では小さな円がひとつ生まれ、静かにほどけていった。
「よし。これで上の世界に朝が来る」
彼女は胸を張った。小波をいくつか送り出したあと、今度は広場へ向かう。すでに仲間の湯転人たちが集まっていた。
「今日もやるぞ――」
掛け声が上がる。みんながそれぞれの石に手をかけ、仲間同士でうなずき合った。
「じゃあ、せーの──」──どんっ。大勢で押し出した大揺石の動きが、底のほうから大きなうねりを生み出す。その力はゆっくりと上へ伝わる。湯面では、誰かが気づくか気づかないかのほどのかすかな揺れとして、ふわりと現れていた。
「今日もいい波だったね」
仲間たちで笑い合う。イブリダは胸の奥があたたかくなった。自分たちの仕事は誰にも見えないのかもしれない。けれど、湯の揺れはきっと誰かの心に触れている。そう思うだけで十分だった。
夕方、湯面から差す光が少しずつ赤みを帯びていた。小さな波がひとつ、かすかに揺れた。それがイブリダが起こした小さな波か、仲間と起こした大きな波の名残なのか、もう分からない。けれど、どちらであってもかまわなかった。
「また明日も、揺らしに行こう」
湯転人の一日は、今日も誰にも知られないまま、静かに終わった。

【お知らせ】
秘湯物語(紙書籍・電子書籍)をAmazonで発売中です。
