ゲンセン・コーリング
今回の短編集は、楽曲にちなんで書いた温泉の物語を集めたものです。出発点にあったのは、ある曲を聴いたときに立ち上がる感触を、温泉の物語に置き換えてみたい、という思いでした。
温泉は、身体をほどく場所です。同時に、言葉になる前の感覚が立ち上がる場所でもあります。湯の音、泡の音、湯気の向こうから聞こえる声、壁や天井に残る響き――そうしたものに包まれているうちに、現実の輪郭がほんの少しだけずれ、見えている世界がわずかに変わることがあります。
本書では、そうした瞬間をひとつのSFとして扱っています。ここでいうSFとは、高度な科学技術や遠い未来の話だけを意味するものではありません。現実の構造がわずかにずれること、その感覚そのものも指しています。
そして、そのような感覚が温泉という場から立ち上がることから、ここでは「温泉SF文学」と呼ぶことにします。
各篇のタイトルは、すべて実在する楽曲名から取っています。それぞれの物語は、その曲から受けた印象や感触をもとにしています。リズム、反復、ノイズ、広がり、衝動、残響といった要素を、温泉という場に移し替えながら書きました。それら十五篇の物語を収めたのが、「ゲンセン・コーリング」です。
↓ 紙書籍
↓ 電子書籍
ちなみに、今回は紙書籍を大幅にリニューアルしました。



これまでは横書きで、縦が約23㎝、横が約15㎝のサイズ、表紙はマットで、中の紙はクリームだったのですが、今回は、縦書きで、縦が約17㎝、横が約10㎝のサイズで、表紙は光沢で、中の紙はホワイトにしました。
フォントも明朝体にしました。
一般的な文庫本と横幅が同じで、縦が数センチだけ長いサイズで小さくなり、また、表紙もツルツルで紙も明るくなり、ソーキュートです。
これまでの紙書籍と比べてみるとこんな感じです。

実はWord設定が大の苦手で、このフォーマットを作るのに大変苦労をしました。
アマゾンKDPさんからの指摘もあったりして、混迷を極めたのですが、最後は偶然的に完成しました笑
こういう運だけは持っているタイプですが、再現性は全くありません笑
かなり苦労しましたので、今後当面はこのサイズで行こうと思います笑
ちなみにこれまでの紙書籍はこんな感じです。


それでは、以下に参照した楽曲をご紹介します。
楽曲のご紹介
下記に元になった曲のYouTube動画を貼り付けておきます。
1、ランド・オブ・ホープ・アンド・グローリー(エルガー)
2、ラヴレス(4ヒーロー)
3、プルーヴ・イット(テレヴィジョン)
4、シェイプス・オブ・シングス(ヤードバーズ)
5、アクエリアス(ボーズ・オブ・カナダ)
6、ブリッツクリーグ・ボップ(ラモーンズ)
7、シスター・レイ(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)
8、アストロノミー・ドミネ(ピンク・フロイド)
9、イー・ツー・イー・フォー(マニュエル・ゲッチング)
10、ティーンエイジ・キックス(アンダートーンズ)
11、トゥ・ヒア・ノウズ・ウェン(マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン)
12、ホエン・ウィル・ユー・カム・ホーム(ギャラクシー500)
13、トランス・ヨーロッパ・エクスプレス(クラフトワーク)
14、チャター・ボックス(ニューヨーク・ドールズ)
15、グリーン・ファズ(ランディ・アルヴィー & ザ・グリーン・ファズ)
それでは、ゲンセン・コーリング収録の二作を下記に掲載いたします。
あ、表紙はパティスミスさんのファーストとクラッシュさんのサード(エルヴィスさん?)のオマージュとなっております。
というか、タイトルもですね笑

ラヴレス
都市には窓がない。空はある。だがそれは投影だった。薄い雲が流れ、遠くで鳥の影が横切る。ただ、それらは存在しない。人々はそれを知っているが、気にする者はいない。都市では長いあいだ、それで成り立っていた。
水は管理されている。地下に作られた循環系を通り、温度と成分を調整されたうえで、各居住区へ送られる。入浴設備では、金属の浴槽にその水が張られる。都市では、それが入浴とされていた。
ブレラは語彙管理部門の研究者だった。旧時代の記録を整理、分類し、現在の体系に適合しない言葉をデータベースに登録する。
古い言葉の多くは、今では必要のない概念を指している。土、風、動物――都市に生きる人間にとって、それらは単なる歴史用語だった。
その日、ブレラはある記録の中に綴られた一つの言葉に引っかかった。温泉――短い言葉だった。定義が曖昧で、分類できない。水の一種らしいが、都市のデータベースには該当する概念がない。
さらに読み進めると、奇妙な記述があった――山の地中から自然に湧く、硫黄の匂いがする、人はそれを溜めて浸かる。ブレラは眉を寄せた。自然に温かい水が湧き出ていて、その中に、人が入る――体系にない。
旧時代にも、居住区に水はあったはずだ。なぜ人はわざわざ山まで行き、その水に浸かったのだろう。
記録は古い地図を示していた――山地の座標。そこには「温泉旅館」と書かれている。ブレラはしばらくその言葉を眺めた――温泉。妙に重い言葉だった。
調査申請はすぐに通った。語彙管理部門の仕事は、未知の記録を確認することだからだ。
都市の外へ出るのは久しぶりだった。今回の探査機は一人乗りだった。ドックを離れ、上昇する。ガラス越しに都市の輪郭が遠ざかる――幾何学的な建物群、整った道路、無音の交通。
境界を越えると、景色が変わった――緑。都市の外は、すべて自然に戻っている。長い年月のあいだ、人間が手を入れなかった土地だ。森林は密集し、谷は深く、地形は荒れている。都市の人間はそこを未管理領域と呼ぶ。
機体は自動航行で山地へ向かう。かつて人が移動したという道はもう消えていた――崩れた橋、森に飲み込まれた建物。川は自由に蛇行している。
座標の上空で探査機が停止した。下には谷がある。そこに、白いものが見えた――湯気。薄く立ち上り、風にほどけている。
ブレラは表示パネルを開いた。機体の下部から探査ロボットを分離する。ボタンを押すと、それはゆっくりと降下を始めた。ワイヤーに支えられ、谷の底へ向かう。
モニターに映像が映る。木々の間から、朽ちた建物が見えてくる。木造だった。屋根は半分崩れている。壁は黒く風化している。入口にかつての看板がぶら下がっていたが、文字は読めない。
温泉旅館――文献の言葉が頭に浮かんだ。しかし、建物よりも目を引くものがあった。湯気だ。谷の中央から、白い蒸気が絶えず立ち上がっている。
ロボットが地面に降り立った。センサーが周囲を読み取る――地熱反応、硫黄化合物、気温。
「水温、四十一度」
機械音声が告げた。
確認ののち、機体はゆっくりと降下した。谷底に着地すると、ブレラは外へ出て、谷の中央へ歩いた。崩れた石の縁があり、その内側に水が満ちている。そこからは湯気が立ち、ほのかに刺激のある匂いが漂っている。
ブレラは手袋を外し、指先を水に触れた。温かい。都市の浴槽と同じ温度だった。だが、感触が違う。それはやわらかく、指を包むようだった。
文献の言葉が思い出される――人は温泉に浸かる。ブレラは少し躊躇した。しかし、ここまで来て確かめない理由はない。ブレラは服を脱ぎ、そこへ足を入れた。
その水は静かだった。肩まで浸かると、身体がゆっくりとほどけていく。温度が皮膚に広がり、筋肉の緊張が消える。都市の浴槽では感じたことのない感覚だった。
水は流れている。どこからか湧き出して、石の縁から溢れている。ブレラは目を閉じた。人は都市を築いた。壁を立て、空を覆い、水を循環させ、温度を制御した。
だが、それは温泉ではない。温泉は人の手にない。温泉は地の奥にある。岩を抜け、暗い地層を流れ、静かに湧き上がる。そして、人はこの温泉を忘れた。だが温泉は、人がいなくなっても、こうして湧き続けている。
ブレラは目を開いた。白い湯気が谷に漂っている。崩れた旅館の屋根の向こうに、空がある。本物の空だった。
ブレラは湯の中で小さく言った。
「……いい」
少し考え、そして続けた。
「なぜ、これは残らなかった……」
ブレラはしばらく温泉の中にいた。岩の隙間から、絶えず新しく湧き、石の縁を満たしている。それがあふれ、谷へと落ちている。音もある――こぽん、こぽん。小さな泡が湧き上がる音だった。
都市の風呂には、こういう音はない。ポンプの振動音や、循環装置の低い唸りならある。だが、それは機械の音だ。これは違う。地の奥から届くような音だった。
ブレラは手を温泉の中で動かした。それはゆっくりと揺れ、指の間をすり抜けていく。同じ温度の水でも、都市の浴槽とは違う。温度が皮膚の表面だけではなく、もっと深く、身体の内側へ染みてくる。
文献の一節が浮かんだ――温泉は人をほどく。意味が分かった気がした。都市では、人の身体は常に緊張している。気温は一定、湿度も一定、照明も一定――すべてが制御されている。だがここでは、何も制御されていない。温泉はただ湧き、ただ流れている。
ブレラは空を見上げた。谷の上には、本物の空が広がっている。雲がゆっくりと流れていた。都市の投影よりも、ずっと遅い。時間の進み方が違う。
ふと、視界の端で何かが動いた。谷の斜面に、小さな動物がいた。こちらを見ている。見たことのない生き物だった。
ブレラは動かなかった。動物も近づかない。ただそこに立ち、湯気の向こうからこちらを見ている。しばらくして、ゆっくりと森の中へ消えた。
谷はまた静かになった。こぽん、こぽん――また泡が上がる。ブレラは温泉から上がった。身体を拭きながら、崩れた温泉旅館を見上げた。
かつてここでは、人を迎え、訪れた者が温泉に浸かっていた。長い年月のあいだに人はいなくなり、建物は崩れた。だが温泉は止まらなかった。
ブレラは探査機に戻り、記録装置を起動した。少し考えて、入力する――自然発生型の温水源を確認。それから、付け加えた―旧時代の文献に記されていた記述と一致。そこで、止める。
しかし、それだけでは足りない気がした。ブレラは谷をもう一度見渡した。湯気が立ち、その下では温泉が湧き続けている。
ブレラは静かに言った。
「温泉……」
短い言葉だった。都市のデータベースには、まだ正確な定義がない。
ブレラは探査機の操縦席に座った。機体がゆっくりと上昇を始める。谷が遠ざかる――崩れた旅館、湯気、温泉。すべてが小さくなる。
やがて森の緑に飲み込まれ、見えなくなった。しかしブレラは知っている。あの谷では、今も温泉が湧いている。人がいなくても、温泉は止まらない。
ブレラは小さくつぶやいた。
「なぜ、残らなかったのか……」
探査機が雲の上へ出る。その下で、山は静かに呼吸していた。

イー・ツー・イー・フォー
山道を分け入ると、岩の間から湯気が立ち上っている場所があった。細い沢が流れる谷で、周囲には背の高い木が生えている。人の手が入った形跡はほとんどない。
岩の割れ目の底から、透明な湯が湧いていた。湯面は静かに揺れ、底の砂利の間から小さな泡がゆっくりと浮かび上がってくる。
初代ブレラは、その湯をしばらく眺めていた。旅人のような身なりをしていたが、腰には手斧を下げている。
ブレラは周囲の石を集め、湯だまりの縁に並べ始めた。丸い石を一つずつ置いていく。湯が外へ流れすぎないように、低い囲いを作るのだ。
それから近くの林に入り、細い木を何本か切った。枝を払って柱にし、岩の脇に立てる。上に板を渡し、簡単な屋根をかけた。粗末な湯小屋だった。
風が吹けば隙間から入り、雨が降れば端から滴が落ちる。それでも湯は変わらず湧いていた。ブレラはここへ来るたび、湯に身を沈めた。
ある日、湯から上がり、ブレラは湯舟の縁に腰を下ろした。まず湯面を見る。静かに揺れ、細かな泡が上がっている。次に耳を澄ます。谷は静かだった。沢の流れの音だけが聞こえる。
ブレラは手を湯に入れた。指の間を湯が流れていく。温かさは柔らかく、皮膚の奥までゆっくりと広がる。指先についた湯を、鼻に近づける。かすかな鉱の匂いがした。
最後に、指についた湯を口に含む。ほんのわずかに塩の味がする。ブレラは静かに言った。
「湯は、人のものではありません」
谷には誰もいない。それでも彼女は、湯に向かって話しているようだった。
「人が、湯を借りているのです」
湯舟の底から泡が上がる——ぷくぷく、こぽん。
十代目ブレラの頃、この谷には小さな湯治宿ができていた。山道は以前より踏み固められ、ところどころに石が敷かれている。谷を下りると、木の建物が三棟並んでいた——客が泊まる棟、台所の棟、そして湯小屋。
湯小屋は太い柱で組まれていた。屋根は杉皮で葺かれ、入口の軒から白い湯気が流れている。
中に入ると、濡れた板張りの床がきしんだ。奥には木枠で囲まれた湯舟があり、その底には砂利が敷き詰められている。その隙間からは、細かな泡が上がっていた。
湯治客は朝と夕方に湯へ来る。木桶で湯をすくい、身体にかけてから、ゆっくりと湯舟に身を沈める。昼になると客たちは宿の裏へ回り、かまどに火を起こして米を炊いた。味噌の匂いが谷に広がる。湯治に来た者は、こうして十日、二十日と暮らす。
夕方になると、ブレラが湯小屋へ来た。彼女は戸口で履物を脱ぎ、濡れた板の床を静かに歩く。そして、湯舟の縁に腰を下ろした。
まず、湯面を見る。湯は穏やかに揺れている。底から泡がゆっくり上がる。次に耳を澄ます——湯の音と桶が板に当たる小さな音、客の息づかい。
ブレラは手を湯に入れた。指の間を湯が流れていく。温かさは柔らかく、皮膚の奥までゆっくりと広がる。指先についた湯を鼻に近づけ、匂いを確かめる。それからほんの少し口に含む。
客が言った。
「早く良くなりたいものです」
ブレラは客の方を見て言った。
「湯は急ぎません。急ぐのは人だけです」
彼女は湯面を見て続けた。
「人が急ぐだけなのです」
湯舟の底から泡が上がる——ぷくぷく、こぽん。
十五代目ブレラの頃、この谷の湯治場は以前よりずっと大きくなっていた。山道は幅が広がり、馬も通れるようになっている。
谷へ下りると、湯治宿の建物がいくつも並んでいた——板張りの宿、藁屋根の宿、そして大きな湯小屋。その柱は太く、黒く磨かれている。
入口の暖簾をくぐると、広い板張りの床が続き、その奥に昔より大きくなった湯船があった。木の枠で囲まれ、底には砂利が敷き詰められている。その間から、変わらず泡が上がっていた。
客は朝から湯小屋に集まる。桶で湯をすくい、身体にかけ、ゆっくりと湯に浸かる。湯治に来る者もいれば、旅の途中で立ち寄る者もいる。
昼になると宿の前で野菜が売られ、川辺では洗濯をする者たちの声が聞こえる。谷は、湯を中心にして暮らしていた。
夕方になると、ブレラが湯小屋へ入ってくる。そして、湯船の縁に腰を下ろした。
まず、湯面を見る。広い湯船の中央で、湯が静かに揺れている。底の砂利の間から泡が上がる。次に耳を澄ます——湯の音、客の話し声、桶が板に触れる音。
ブレラは手を湯に入れた。指の間を湯が流れていく。温かさは柔らかく、皮膚の奥までゆっくりと広がる。指先についた湯を鼻に近づける。それからほんの少し口に含む。
湯小屋の隅から湯治客が尋ねた。
「この湯は、ずいぶんと昔からあるのですか?」
ブレラは、少しだけ間を置いて頷いた。
「人は、湯を求め続けています」
彼女は湯面を見たまま言った。
「これからも求め続けるでしょう」
湯船の底から泡が上がる——ぷくぷく、こぽん。
二十代目ブレラの頃、この谷の宿は旅館と呼ばれるようになっていた。山道の途中まで新しい道が通り、町から来る客も増えた。
谷へ下りると、以前の湯治宿より大きな建物が建っている。木造二階建ての旅館だった。
玄関を入ると板張りの広い土間があり、その奥に帳場がある。廊下は長く、左右に客室が並んでいた。畳の部屋には障子があり、窓から山の光が入る。
湯殿は建物の奥にあった。浴室の床には石が張られ、湯船は大きな木枠で囲われている。底には丸い砂利が敷かれ、そこから細かな泡が上がっていた。
客は以前の湯治客とは少し違っていた。長く滞在する者もいるが、一日だけ泊まる旅人も増えた。廊下では足袋の音が静かに響く。
夕方になると客は浴衣に着替え、湯殿へ向かった。その頃、ブレラは帳場を離れ、湯殿へ歩いていく。そして、湯船の縁に腰を下ろす。
まず、湯面を見る。広い湯船の湯面は静かだった。底の砂利から泡がゆっくり上がる。次に耳を澄ます——湯の音、廊下を歩く客の足音、障子の向こうで誰かが笑う声。
ブレラは手を湯に入れた。指の間を湯が流れていく。温かさは柔らかく、皮膚の奥までゆっくりと広がる。指先についた湯を鼻に近づけ、匂いを確かめる。それから少しだけ口に含む。
湯殿にいた旅人が言った。
「この辺りも、ずいぶんと変わりましたね」
ブレラは静かに答えた。
「宿は変わります。人も変わります」
彼女は湯面を見つめた。
「でも湯は変わりません」
湯船の底から泡が上がる——ぷくぷく、こぽん。
二十三代目ブレラの頃、この谷の宿は温泉ホテルになっていた。山道は舗装され、谷の入口まで大きなバスが入ってくる。
以前の木造旅館の隣に、白いコンクリートの建物が建っていた。三階建てのホテルだった。玄関には広いロビーがあり、壁には大きな時計が掛かっている。
団体客が次々に到着し、フロントの前で賑やかな声が上がる。夕方になると、浴衣を着た客が廊下を歩いていく。
廊下の奥には大きな浴場があった。浴床は石造りで、天井は高い。湯船は広く、何十人でも入れる大きさだった。湯船の底には砂利が敷かれている。その隙間から、細かな泡が上がっていた。
客たちは肩まで湯に浸かり、宴の話をしている。笑い声が浴場の壁に響いた。夜になると宴会場から歌声が聞こえてくる。山の静かな谷に、灯りが並んでいた。
その頃、ブレラは浴場へ入ってくる。そして、湯船の縁に腰を下ろした。
まず、湯面を見る。広い湯船の中央で、湯が静かに揺れている。底の砂利から泡がゆっくり上がる。次に耳を澄ます——客の笑い声、水面の揺れる音、湯の小さな泡の音。
ブレラは手を湯に入れた。指の間を湯が流れていく。温かさは柔らかく、皮膚の奥までゆっくりと広がる。指先についた湯を鼻に近づける。それから少し口に含む。
湯に入ってきた客が言った。
「ずいぶん賑やかな温泉ですね」
ブレラは静かに答えた。
「人は賑やかです」
彼女は湯面を見つめたまま続けた。
「でも湯は、いつも静かです」
湯船の底から泡が上がる——ぷくぷく、こぽん。
二十六代目ブレラの頃、この谷の宿は以前より小さくなっていた。以前に建てられた大きなホテルは取り壊され、その跡地に新しい木の建物が建っている。
二階建ての小さな宿だった。玄関を入ると、広くはない帳場がある。廊下は木の床で、窓の外には山の木々が見えた。客室の数も多くない。静かに泊まりに来る客が、ゆっくりと過ごす宿だった。
湯殿は建物の奥にある。大きなガラス窓の前に湯舟があり、周りには石が並べられている。底には、砂利が敷かれていた。その間から、細かな泡が上がっている。
夜になると、湯殿には静かな湯気だけが漂っていた。ブレラは湯舟の縁に腰を下ろした。
まず、湯面を見る。湯面に灯が映っている。底の砂利から泡がゆっくり上がる。次に耳を澄ます——山の風の音、遠くの沢の音、湯の小さな泡の音。
ブレラは手を湯に入れた。指の間を湯が流れていく。温かさは柔らかく、皮膚の奥までゆっくりと広がる。指先についた湯を鼻に近づける。それから少し口に含む。
湯舟にいた客が言った。
「この温泉は、ずいぶん古いのですか?」
ブレラは静かに答えた。
「昔も今も、湯は同じです」
彼女は湯面を見たまま言った。
「同じまま、ここにあるのです」
湯舟の底から泡が上がる——ぷくぷく、こぽん。
百三十代目ブレラの頃、この谷にはもう宿はなかった。人は都市に住むようになり、ここへ来る者はいなくなっていた。
谷へ下りると、奥に一つだけ建物があった。かつて湯小屋があった場所に、金属の外壁の施設が建っている。窓は少なく、周囲には太い管がいくつも張り巡らされていた。
岩の割れ目から湧いた湯は、そのまま施設へと引き込まれている。中で湯は濃縮されていた。水分が抜かれ、成分だけが残される。濃くなった湯は、別の管へ送られる。その先には接続口があり、都市から来るドローンがそこに取り付く。
かつてあった湯舟は、もうなかった。ブレラは施設の脇に立っていた。岩の割れ目から、湯は変わらず湧いていた。そのまま透明の管へと引き込まれていく。しばらく、その流れを見ていた。
湯は細い流れとなって、止まることなく動いている。その流れの表面がわずかに揺れていた。耳を澄ます。谷は静かだった。風の音と、装置の低い駆動音、そして管の中を流れる湯の音だけが聞こえる。
ブレラは手を伸ばした。管の継ぎ目から、わずかに滲んだ湯に触れる。温かさは柔らかく、皮膚の奥までゆっくりと広がる。指先についた湯を、鼻に近づける。それから、ほんの少し口に含む。
上空から機体が降りてきた。都市から送られてきたドローンだった。管の接続口に取り付き、濃縮された湯を受け取っていく。しばらくして、ドローンは離れ、そのまま都市の方角へ飛んでいく。運ばれた湯は、都市で水と混ぜられ、浴場で使われる。
ブレラは空を見上げた。
「人は、湯を運びます」
谷には誰もいない。それでも言葉は、どこかへ向けられているようだった。
「でも湯は、変わりません」
管の奥で、小さな音が続いていた——ぷくぷく、こぽん。
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