ゲンセン・イズ・バーニング 源泉は燃えている。
W杯とツールドフランスが重なって、忙しい日々が続いています。
と言いましても、ライブで観ることはほとんどなく、ダイジェストが中心ですが笑
それでも日々追い切れないほどの情報に満ち溢れています。

さて、今回は書籍刊行のご案内です。
前回の『ゲンセン・コーリング』に続くタイトルは、『ゲンセン・イズ・バーニング 源泉は燃えている』です。
はい、前回がザ・クラッシュさんのサードアルバム『ロンドン・コーリング』のオマージュだとすれば、今回はファーストアルバムの収録曲『ロンドン・イズ・バーニング』のオマージュとなっています。
しかしながら、前回と同様、内容に関しては一切関係がありません。
さらに言うと、今回は音楽とも全く関係がありません。
単なる「揺らぎ」をテーマにした15編の短編集です。
その分、表紙は若干サイケデリックな感じとなっています。
これまでの通り、下記に2編を記載していますので、もしよければお読みいただければ幸いです。
●紙書籍です↓
●電子書籍です↓
作品紹介
ゲンセン・イズ・バーニング。
源泉は燃えている。
もちろん本当に燃えているわけではない。
けれど、湯面から立ちのぼる湯気を見ていると、ときどき炎に似ていると思う。
絶えず立ちのぼり、絶えず形を変え、同じ場所にありながら、一瞬たりとも同じ姿ではない。
炎は揺れる。
湯もまた揺れている。
そして、世界もまた揺れている。
――判定と基準は、本当に正しいものを示しているのだろうか。
――同一性と自分は、どこまで保たれるのだろうか。
――記憶と過去は、本当に一つだけなのだろうか。
――身体と効率は、本当に私たちを正しい場所へ導いているのだろうか。
――場所と時間は、本当にひと続きなのだろうか。
――復元と輪郭は、何を元の姿と呼ぶのだろうか。
――因果と時代は、どこから始まっているのだろうか。
――そして、所有は本当に保たれるのだろうか。
私たちが確かなものだと思っているものは、思っているほど確かではないのかもしれない。
あるいは、揺らいでいるからこそ存在できるのかもしれない。
この短編集に収めた十五篇は、そんな揺らぎについての物語である。
ゲンセン・イズ・バーニング。
源泉は燃えている。
その炎は、今日も静かに揺れている。

判定の揺らぎ
中央行政府の判定室は地下二階にある。階段を降りるたびに、ブレラは湿度が変わるのを感じた。地上の乾いた空気が、一段ごとに重くなっていく。
扉を開けると、石造りの壁に沿って細い湯路が走り、その先に判定槽がある。槽の縁には、何百年分もの析出が白く固まっていた。
ブレラは中央行政府の判定官だった。正確には、湯意解読係の上席——政策決定の最終工程として、湯の示す結果を読み取り、それを記録し、上位機関へ送る。それが彼女の職務だった。
この国では、あらゆる決定を湯が下す——個人の進路、企業の合併、国家予算の配分。すべては判定槽に案件を投じて、湯の示す結果を読むことで決まる。槽は学校や企業、役所など国中のあらゆる場所に設けられており、人々は身近な槽に案件の判断を委ねていた。
温度、流量、泡立ち、表面の揺らぎ——それらを基準表に照らし、「承認」「否認」「保留」のいずれかを導く。人が選ばずに、湯が選ぶ——それが建国以来の原則であり、少なくとも表向きは、誰もそれを疑っていなかった。
ブレラは十一年、この仕事をしていた。最初の三年は研修期間で、先代の判定官トロンカの補佐として、湯の読み方と記録の付け方を学んだ。トロンカは無口な女性で、判定槽の前に立つとき以外はほとんど口を開かなかった。
引退の日、トロンカはブレラに一言だけ言った。
「基準表は身体で読むものです」
ブレラはその意味を、しばらく理解できなかった。
問題が起きたのは、秋の終わりだった。案件は北部三州への水路拡張工事の可否だった。大規模な政策決定で、関係省庁が半年かけて準備したプロジェクトだった。
ブレラは、案件の文言、判定槽への投じ方、湯面との距離を手順書通りに整えた。そして所定の位置に立ち、案件票を槽へ投じた。
しばらくすると、湯が動き出した。しかし、どこにも収まらなかった。温度は基準の「承認域」に届いていたが、流量が「否認域」の数値を示していた。泡立ちのパターンは「保留」を示す形に近いが、完全には一致しなかった。
三つの要素がそれぞれ別の答えを指し示し、互いに打ち消し合っていた。十一年の勤務で、こんな判定は一度も見たことがなかった。
ブレラは基準表を広げた。判定官が代々受け継いできたその表には、これまでのあらゆる判定が整理されているはずだった。しかし、どの項目にも完全には該当しなかった。
条件を整え直し、湯温を確認し、投じ方を変えて再度試みた。だが、結果は変わらなかった。三度目も同じだった。
ブレラがその結果を報告すると、判定長のミトは書類から目を上げずに言った。
「提出期限は翌朝でしたよね?それまで何度か試してみてください。条件を整えても結果が変わらないようであれば、近いほうで処理してください。承認に近ければ承認ということにしましょう」
「……近いほう、ですか?」
ミトはようやく顔を上げた。
「過去にも例があります。判定が完全に一致しないことは、まれですがあります」
ブレラは答えず、しばらくミトを見た。
「……わかりました。記録庫で確認してみます」
ミトは短くうなずき、また書類に視線を戻した。
そのままブレラは、判定室の隣にある記録庫に行った。そして、古い台帳を引っ張り出し、過去の判定記録を最初から読んでいった。
数値の羅列を目で追ううちに、あることに気づき始めた。曖昧な判定は、今回が初めてではなかった。十三年前にも、二十六年前にも、似たような記録があった。いずれも「近いほうで処理」という注記とともに、「承認」「否認」「保留」のいずれかの結論に収めてあった。
トロンカの時代にも、その前の判定官の時代にも、同じような処理があった。ブレラは台帳を閉じ、暗い記録庫の中でしばらく動かなかった。曖昧な判定が出ること自体は、珍しいながらも前例があった。問題は、そのたびに結論が出されていたことだった。
承認された政策も、否認された計画も、保留になった案件も――判定官は基準表に照らし、どの結論に最も近いかを判断していた。湯が決めていたのではない。判定官が決めていたのだ。
それでも社会は動いていたのだ。すべては「湯による決定」として記録され、誰もそれを疑わなかったのだ。
提出期限は翌朝だった。ブレラは判定室に入り、扉を閉めた。湯温を確認し、投じ方を整え、間隔を空けて再び判定した。しかし結果は変わらなかった。湯は変わらず揺れていた。曖昧なまま、どこにも収まらないまま、ただ流れていた。
再び基準表を広げたとき、トロンカの言葉を思い出した。
「基準表は身体で読むものです」
当時は技術的な助言だと思っていた。けれど、今は違う意味に聞こえた――基準表に正解はない、あるのは判定官の読みだけ。トロンカはそれを知っていて、それでもこの仕事を続けた。身体で読む、というのはそういうことだったのかもしれない。
ブレラは槽を見つめた。北部三州の水路拡張、半年の準備、関係する人々の数、拡張が行われた場合の水資源の分配、行われなかった場合に生じる乾燥地域の拡大——政策文書を何度も読んでいたので、すべての数字は頭に入っていた。
判定官として、それは本来必要のない知識だった。湯が決めるのだから、内容を理解する必要はない。しかしこれまで、ブレラは特に理由もなく、習慣として読んでいた。
やがて、ブレラは判定票を取り出した。承認、否認、保留——三つの欄が並んでいた。
しばらく印章を持ったまま、手を動かせなかった。それから——「承認」の欄に印を押した。湯の結果からではなかった。承認に近かったからでもなかった。読んだ文書から、考えた末に、自分が出した結論だった。
記録用紙に数値を書き込んだ。温度、流量、泡立ちの分類――ブレラは「承認」の結論に合うように数字を書いた。湯が示した結果ではなかった。自分が出した結論に合わせて記録を整えた。書類の上では、湯が承認を示したことになった。
翌朝、判定票は上位機関へ送られた。午後、ミトから短い連絡が来た。
「受理されました。お疲れ様でした」
それだけだった。
ブレラは判定室に下りた。槽の前に立ち、湯面を見た。昨日と変わらず揺れていた。曖昧なまま、どこにも収まらないまま、ただ流れていた。
世界は何も変わっていなかった。北部三州の工事は承認され、それは記録に残り、湯が決めたこととして後世に伝えられるだろう。
判定官ブレラが自分の判断で決めたとは、どこにも書かれていない。書かれることもない。正しかったかどうかは、わからなかった――ただ、そうするしかなかった。
一つだけわかったことがあった。トロンカも、その前の判定官も、おそらくこの場所で同じように曖昧な判定と向き合っていた。そして最終的には、承認、否認、保留のいずれかを記録していた。
ブレラは台帳を開き、今回の記録を書き始めた。数値を並べ、分類を記し、結論を書く。手順通りに、正確に、湯が決めた、という形式で、すべてを整えた。
ペンを置く前に、欄外の小さな余白を見た。十三年前の記録にも、二十六年前の記録にも、そこには「近いほうで処理」と書かれていた。しかし、ブレラは何も書かなかった。書く必要がなかった。記録はすでに完成していたからだ。

時代の揺らぎ
仮説が形になるまでに、七年かかった。ブレラが湯の温度差と状態変化の研究を始めたのは、一つの違和感がきっかけだった。同じ源泉の湯なのに、湧出直後の高温の湯と、地表で冷却された湯では成分の挙動が一致しなかった。
成分自体は変わらない。だが、その振る舞いは温度によって異なっていた。単なる熱運動では説明できない差だった。冷えた湯は、ただ温度が下がっただけではない。何か別の状態に近づいているように見えた。
では、その状態とは何なのか。追いかけていくうちに、ブレラは一つの考えに行き当たった――高温で湧き出た湯が冷えるとき、過去のその温度にあった状態に近づいているのではないか。
実際、それまで不可解だったいくつかの観測結果は、その仮説で説明することができた。それを論文に書いてみたが、反応は薄かった。研究は続けたものの、決定的な証拠は得られなかった。
三年後、別の国で同様の研究を進めていたチームが実験データを発表した。そのとき、ブレラの仮説を参照した。
その実験では、一定条件で冷却した湯を密閉容器に満たすと、容器内部の環境が現在とはわずかに異なる状態を示した。それは完全ではなかったが、誤差の範囲を超えていた。
それから四年で、装置ができた。
実験施設は研究所の地下にあった。部屋の中央には、特殊なステンレスで作られた箱状の装置が設置されていた。外側には温度を制御するための配管が張り巡らされており、その内部には人が一人入れる大きさの湯船が置かれていた。
その正面には防水加工されたスクリーンが設置されており、部屋全体の映像や各種データが表示されるようになっていた。一方、装置の外では、部屋の壁際に操作卓と監視用のモニターが並んでいた。
湯は施設のそばにある源泉から引いており、湧出温度のまま供給される。実験では一人が湯船に入り、もう一人が外から装置を操作しながら湯を段階的に冷却する。
特定の温度帯で周囲の環境が過去の状態へと変化し、湯船の中の人間はその時代の空間をスクリーン越しに体験できると考えられていた。
現在に戻るための加熱は、外から行う必要があり、湯船の中から装置を操作することはできない。また、冷却が始まると内部と外部では異なる時代になるため、通信は成立しなくなる。よって、実験中は互いに連絡を取ることができなかった。
「湯船には一人しか入れません。ですので、操作はすべて外部から行います。加熱のタイミングも私が判断します」
ブレラとトロンカは同じ研究機関に所属しており、この装置の開発に最初から関わっていた。ブレラが内部に入り、トロンカが制御に回ったのは、彼女の方が操作に慣れているためだった。
「何かあれば即座に加熱します。だから安心してくださいね」
トロンカは言った。
「その判断はどうするんですか?」
ブレラは笑いながら聞いた。
「それがわかっていたら苦労しません」
トロンカも笑った。
実験前夜、ブレラはシナリオを確認した。
――湯に入る。
――冷却が始まる。
――特定の温度帯で過去の空間が現れる。
――変化を観測して記録する。
――トロンカが加熱を開始する。
――現在に戻る。
所要時間は最大で四十分の予定だった。加熱開始は三十八分前後を想定していた。
当日の朝、ブレラは湯船に入った。湧出直後の温度なので湯は熱く、身体が慣れるまで少し時間がかかった。
トロンカの声がスピーカーから聞こえた。
「準備できたら合図してください」
ブレラが手を上げると、冷却が始まった。
最初の変化は、温度が下がり始めて十二分後だった。まずスクリーンに映る部屋の壁の色が変わった。白かった壁が、薄い黄みがかった白になった。照明の色ではなく、壁そのものの色が変わっていた。
次に、天井の取り付け具の形が変わった。現在は四角い埋め込み型だが、丸い吊り下げ型になっていた。床のタイルも変わった。
ただ、部屋そのものは変わっていなかった。大きさも基本的な構造も同じだった。しかし、どの時代なのかはわからなかったが、確かに時代は違っていた。
ブレラは手首の記録装置に向かって言った。
「壁色変化、十二分経過、湯温四十一度」
声は普通に出た。記録装置は映像と温度、そしてブレラの声を記録していた。
その後も変化は続いた。ドアのノブの形が変わった。扉が内開きから外開きになった。壁に小さな棚がついた。現在のこの部屋にはない棚だった。スクリーンを拡大すると、棚の上には何かが置かれていたようなほこりの跡が見えた。
スクリーンに映る範囲だけでは、どの時代なのかを特定することはできなかった。湯船の外に出ることはできた。禁止されているわけではない。
しかし出た場合、湯船から離れた位置で加熱が始まると、戻れなくなる可能性があった。そのため、ブレラは湯の中にとどまっていた。
三十分が経過した。変化は安定していた。壁は黄みがかったままで、照明は丸い吊り下げ型のままだった。外から音はしなかった。
ブレラは湯の中で待った。ここでは、待つことが仕事だった。加熱が始まるのを待つ、景色が戻るのを待つ――それだけだった。しかし三十分、何もない部屋を眺めながら湯に浸かって待つのは、思っていたより長かった。
――あの棚のほこりの跡、何が置いてあったのだろう。
――この部屋はいつ研究所として使われ始めたのだろう。その前はどういう用途だったのだろう。
――黄みがかった壁は、古い建材の色なのだろうか。それとも当時の流行の塗装なのだろうか。
いつの時代かわからない部屋の中で、ブレラは湯に浸かり、そういうことを考えていた。
時間の感覚が、少し曖昧になってきた。湯の温度が低いせいかもしれなかった。冷たいわけではない。ただ、適温ではなかった。この景色の温度なのだろうと思った。
三十八分が経過したとき、湯の温度が少しずつ上がり始めた。最初は気のせいかと思った。しかし確かに上がっていた。ブレラは小さく息を吐いた。トロンカが加熱を始めたのだとわかった。
記録装置に言った。
「加熱確認、三十八分経過」
壁の色が戻り始めた。黄みが薄れ、白くなっていった。吊り下げ照明が消え、埋め込み型の照明が現れた。棚が消え、ほこりの跡も消えた。今の壁になった。
湯温が湧出時の温度に近づいた。景色が完全に元に戻った。ドアのノブが現在の形になり、床のタイルも元に戻った。
そのとき、トロンカの声がスピーカーから届いた。
「ブレラさん、聞こえますか?」
「聞こえます」
ブレラは答えた。
「よかった。戻ってこれましたね」
トロンカの声には、わずかに安堵が混じっていた。
「戻りました」
ブレラは言った。
湯船から上がり、箱状の装置から出た。タオルを受け取り、椅子に座った。
しばらくすると、トロンカがタブレットを見ながら近づいてきた。
「お疲れ様でした。早速ですが、変化の詳細を確認していきましょう。これが今、装置から送信されてきたデータですが、ブレラさんの体験と同じですか?」
ブレラは画面をのぞき込んだ――壁の色、照明の形、棚の存在、ほこりの跡。自分がスクリーン越しに見たものが時系列で表示されていた。
「はい、同じですね」
ブレラは答えた。
それから数時間後、報告書をまとめながら、ブレラはあの三十八分のことを思い出していた。スクリーンに映る部屋は現在と同じ寸法だった。壁や照明、扉の形は変わっていたが、部屋そのものは同じだった。
壁の色でも照明でもなく、あの棚のほこりの跡が一番印象に残っていた。何が置いてあったのかは、わからなかった。今のこの部屋には、あの棚は存在しない。だから、その跡も今はない。
しかし、あの棚はあの時代には確かにあった。そこに、何かが置かれた跡が残っていた。それをブレラは見た。
見たことは記録に残る。しかし、何が置いてあったかは永遠にわからない。過去に行っても、わからないことはある。時代が変わっても、技術が進歩しても、問いは残る。
トロンカが聞いてきた。
「次の実験はいつにしますか?」
「少し間を置いてからにしてください。少し考えることがあって」
ブレラはそう答えた。
「もしかして、棚の跡のことですか?」
トロンカが聞いた。
「そうですね」
ブレラは笑った。
「あれは私も気になります。次に行ったとき、まだあるかどうか確認してみましょう」
トロンカも笑った。
棚が毎回同じ場所にあるかどうか、それもまだわからなかった。それよりも、同じ時代に戻れるかどうかも、わからなかった。湯を同じ条件で冷やせば同じ時代に戻るのか、それとも毎回別の時点になるのか――それもまだわからなかった。
ブレラはコーヒーを飲んだ。熱かった。この熱は現在のものだった。それだけは確かだった。

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