イブリダ秘湯物語 温泉にまつわる十五の短編 vol.2
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
新年早々ですが、今回は、出版関連のご案内をさせていただきます。
前作の続編をこの度、発売することになりました。
イブリダ秘湯物語 vol.2です。
続編といいましても、前作と同様、短編集となりますので、本作から読んでいただいても全く問題ございません。
↓紙版です。
↓ 電子版です。
※過去作品はコチラからどうぞ。
本書『イブリダ秘湯物語 vol.2』は、十五の温泉にまつわる短編集の第2作目です。
主人公イブリダは、湯と岩、蒸気と風、土地の記憶と旅人のまなざし――
そうした異なる要素が重なり合う瞬間に現れ、ときに学者として、ときにビジネスパーソンとして、
またときにはSNSユーザーや旅人として姿を変えながら、現実と幻想のあわいにある十五の湯をめぐっていきます。
本書はいずれの物語も独立した短編として構成されています。
どの一篇から読んでも差し支えありません。
湯めぐりのように、気になった湯から浸かっていただければと思います。
1. 土偶温泉
再開発中の野湯で源泉が縄文土偶と融合していることが判明し、三大学の研究者が協力して分離を成功させ、湯は静かに安定を取り戻す。
2. 湯狂と湯愛
SNSで拡散されたイブリダの「湯狂」とスピリチアーレが生んだ「湯愛」は互いにすれ違いながらも、最後は湯自身が応答する。
3. 温泉のメリーゴーランド
吐き続けなければ壊れる温泉ライオンの研究をきっかけに、廃湯を循環させる温泉アトラクションという“吐く価値”の未来が構想される。
4. レトロフィンテック・イズ・マイフェイバリットシングス
フィンテック最前線のイブリダは、電話予約や現金書留に残る声と時間にこそ、また別の信頼の価値があると気づく。
5. ホットホットスプリング
幻覚温泉キャンディーが温泉宿の衰退を救いかけるも、暴走の末に禁止され、人々は遠回りの果てに再び実在の湯へ戻っていく。
6. 理論最高値12.0
年一回のアプリ計測日に集まった三人は無名の野湯で協力し、理論上ありえない最高値「12.0」を同時に記録する。
7. 未来の温泉通信
温泉分子を媒介とした新技術で、1925・2025・2125年の研究者三人が同じ湯で対話し、時間を越えた再会を約束する。
8. 少食の晩餐
少食の宣告を前に厨房は流れを選び、最後にイブリダが密やかに完食することで、晩餐は静かに完成する。
9. 一湯一国記
唯一の源泉を守る小国は、侵攻する大国軍を源泉自体が滅ぼし、「一湯あれば一国たり得る」という掟を守る。
10. 湯女王
湯の今を俳句で伝えたSNSアプリのアカウント秘湯王が攻撃された後、湯女王が現れ、今度は短歌で湯を伝え続ける。
11. 封じられた湯獣
循環と消毒に閉じ込められた湯獣を一夜だけ解放したイブリダは、失われた自由と向き合い、さらなる解放の方法を考え始める。
12. 記憶をも溶かす温泉
忘却体験を提供する宿で、イブリダは思い出したくなる仕組みを調整し、再訪へ続く循環を管理している。
13. 雪夜保存のステーキ
湯気の流れから天然冷蔵の仕組みを見抜いたイブリダは、騒動の収束と宿の均衡を雪夜に見届ける。
14. 湯の中で考える葦
パスカルを起点とする対話は、AIがあるというやさしい時代でも、揺れ方を選ぶ限り人は思考を失わないことを確かめる。
15. 禁湯律
湯を禁じられた国で姉妹は湯魔人として隔離されるが、弟子ティーアイの『無湯宣言』は人々の内部に湯を残す。

本作より、二つのエピソードをコチラに掲載させていただきます。
一作目は、土偶温泉です。
秋に京都で開催されていた「世界遺産・縄文」展の帰り道、ふと思い浮かんだイメージから描きました。
二作目は、禁湯律です。
なぜかそのとき、トムヴァーラインとリチャードヘルのことを思い出し、そこから構成が浮かびました。

土偶温泉
再開発が進む山あいに残された野湯は、もう長いあいだ使われていなかった。湯船はひび割れ、板張りの脱衣小屋は半分潰れている。それでも湯は絶えることなく湧き続け、朝夕には湯気が杉林の間をゆらゆらと漂っていた。この湯を「再開発後の温泉施設で再利用する」――それが今回の計画の肝だった。そのため工事班は、まず湯が湧き上がる地点の正確な位置を特定する作業から始めることになった。足元からの自噴とされていたが、湯量が日によって大きく変わり、そのたびに湯の流れも変化するため、どこから湧いているのかが分からないという報告が上がっていた。
午前九時。作業員がポンプを設置し、湯船に溜まっていた湯を一度すべて抜いた。ぬるい湯が沢へ流れ落ちていくと、底から柔らかな砂地が現れる。「この下から湯が湧いているんですよね」「そう。足元自噴って聞いている」誰もが、砂の下に源泉口があると信じて疑っていなかった。スコップを入れると、意外なほど簡単に掘れた。湯の花を含んだ砂は湿り気を帯び、硫黄の匂いがわずかに漂う。三十センチ、五十センチ、七十センチ――掘っても掘っても、同じ砂が続いた。
「……おかしいな、湯が止まらない」ポンプを止めた瞬間、露出した砂地から熱を含んだ空気がふっと吹き上がった。湯脈に当たったのかと思ったが、違う。スコップの先が硬いものを叩いた。「岩か?」「いや……なんか、丸い」湯気をかき分け、砂を払う。焼けた粘土のような手触り。指先に、縄文土器の渦巻文らしき筋が触れた。さらに掘り広げると、それは仰向けに埋まった“顔”だった。巨大な目の輪郭、太い鼻梁、そして――閉じた口のあたりから、白濁した湯がぽつりと漏れ出していた。
「……土偶だ」誰かが呟いた。その声に、もう一人が驚き交じりに言った。「まさか――土偶温泉だったか。聞いたことはあるが、本物を見るのは初めてだ」その瞬間、穴の底で“ボコッ”という音がして、土偶の口から湯が勢いよく吹き上がった。まるで地の底で長い眠りについていたものが、今、息を吹き返したかのようだった。
翌朝、現場は報道陣でごった返していた。工事は中断され、掘削現場は黄色いテープで囲われている。湯口のように見える“土偶の口”からは、相変わらず湯が流れ続けていた。湯面には湯の花が薄い膜を作り、風が吹くたびにゆらめく。地元紙の記者がカメラを構え、役所の担当者が言葉を濁した。「文化財の可能性が高いです。調査が終わるまでは、再開発を一時中止にします」記者が続けて尋ねる。つまり――“土偶温泉”が出土した、ということで間違いないですか?」「現時点でははっきりしたことは言えません。掘る作業はいったん止めていますが、湯は変わらず湧き続けています。現在はその様子を見ながら対応しているところです」
午後には全国ネットのテレビ局も到着した。ドローンが上空を飛び、ニュースのテロップには、〈巨大土偶から温泉湧出 国内三例目〉の文字。SNSでは「#土偶温泉」「#地球の呼吸」がトレンド入りし、観光地化を望む声と、神聖視する声が入り混じった。
現場監督は頭を抱えた。「湯が出ている限り、工事なんかできないですよ。ポンプも意味がない。止まらないのです」作業員のひとりが小声で言った。「昨日、夜勤の見回りに来たんです。あの湯、呼吸していました。ボコボコって、まるで……寝息みたいに」誰もその言葉を笑えなかった。湯口の音は、確かに一定のリズムで鳴っていた。“ボコ……ボコ……ボコ……”まるで何かが、地の底でゆっくりと息をしているようだった。
夜。照明塔が湯気を照らしていた。現場には、依然として温泉の匂いが濃く漂っている。役所の担当者たちが黄色いテープの外で待っていた。そこへ、一台の小型ワゴンが止まる。ドアが開き、灰色の作業服を着た女性が降り立った。肩には細長いケース、手には金属の箱。湯気を見上げながら、短く息をつく。
「東京温泉大学のイブリダです。現場責任者の方、いらっしゃいますか?」「こちらです。市の文化財課の者です」担当者が手を上げる。互いに軽く会釈を交わすと、イブリダは足元の湯船跡に目を落とした。「……これは大きい。写真よりも、ずっと」湯はまだ止まらず、土偶の口から一定のリズムで流れ続けている。足元の砂は温かく、靴底からわずかに振動が伝わってくる。
イブリダはケースを開け、直方体の装置を取り出す。そこから二本のケーブルが伸び、先端には赤と青の光を放つセンサーがついていた。「内部温度と圧力の波形を測定します。この規模は初めてですが、試してみます」担当者たちは少し距離をとって見守る。彼女はヘルメットのライトを消し、赤と青の光を土偶の目に向けて照射した。湯気の中に二色の光が溶け、装置のモニタに乱れた波が走る。
「強すぎる……センサーが焼ける」イブリダは装置を止めた。光が消えると、湯の音がまた戻った。“ボコ、ボコ……”静かに、しかし確かに呼吸しているようだった。彼女は小さく息を吐く。「……これは、一人では到底無理ね」そして夜空を見上げながら、東京の研究室にデータを送信し、東北温泉大学のスピリチアーレに応援を依頼した。
翌朝。霧の中を一台のワゴンが現場に入る。スピリチアーレが降り立ち、まだ湯気を上げる現場を見て目を丸くした。「……こんなに大きいのは初めて。この規模なら、湯の方が主導権を握るのは当然ね」彼女は金属製の立方体装置を取り出し、表面に刻まれた小さな渦を指先でなぞる。「波動をずらして干渉を抑えれば……たぶん」
イブリダとスピリチアーレが並んで装置を起動した。赤と青の光が土偶の両目に重なり、モニタが光を帯びる。しかし波形は再び不安定に跳ね上がる。二人は装置の出力を上げた。低い唸りが響き、照射角がわずかに変わる。赤と青の光が湯気の中で交差し、土偶の両目に重なった。だが、モニタの波形はすぐに跳ね上がり、安定しない。二人の装置が唸りを上げ、湯気の中で光が交差した。「だめ、湯の圧が乱れている」「湯が拒んでいるのかも」
イブリダが眉を寄せて装置を止めたとき、背後から落ち着いた声がした。「すみません、許可証あります」振り返ると、テープの外に一人の女性が立っていた。銀色のヘルメット、黒いリュック、肩には細い機材ケース。女性はポケットから名札を掲げた。「北海道温泉大学のティーアイです」担当者が慌てて近づく。「今回は見学ってことで聞いていましたけど……」
ティーアイは苦笑いを浮かべた。「見学のつもりだったんです。でも、これは放っておけないでしょ」彼女はテープをまたぎ、二人のそばへ歩み寄る。イブリダとスピリチアーレが顔を見合わせた。「あなたも来ていたの?」「ええ、ちょっと気になって」ティーアイは銀色の細身の装置を取り出す。先端から白い光がゆらめいた。
「順番にやりましょう。まずイブリダが赤、一分後にスピリチアーレが青。わたしが五分後に白を当てる。焦らせないで。土偶は生きている。今は怖がっているだけ」三人は湯気の中に並び、それぞれの光を構えた。「大丈夫。私たちは味方」「傷つけない」「ちょっとだけ、顔を見せて」
赤い光が左目を照らす。続いて青が右目に重なり、最後に白が二つを包み込んだ。湯の音がゆっくりと変化する。“ボコ……ボコ……”が、“ポコ……ポコ……”に。呼吸が浅くなり、やがて穏やかになった。次の瞬間、砂が静かに盛り上がり、土偶の頭部がゆっくりと持ち上がった。新しい湯口が、土偶の顔の下に隠れていた岩の割れ目へとゆっくり移動していく。
「……切り離せた」イブリダが小さく呟く。ティーアイは光を消し、湯気の向こうに現れた“顔”を見つめた。「うん、これでいい。湯も落ち着いた」午後、現場は静かだった。湯は安定し、土偶の頭部は冷たくなっていた。三人はヘルメットを脱ぎ、ただ黙ってその顔を見つめていた。
午後。現場は、再び騒がしくなっていた。ヘリコプターの音が頭上をかすめ、フェンスの外では報道陣が列をつくっている。フラッシュが何度も焚かれ、白い光が湯気を切り裂いた。中央に立つイブリダは、ヘルメットを外し、記者たちに向かって穏やかに口を開いた。「――今回の現象について説明します」マイクが差し出される。彼女の声は静かで、風に流されてもなお、現場全体に届く不思議な落ち着きを持っていた。
「こうした野湯を掘削してみると、太古の浴場に由来するケースが少なくありません。この場合、地層を追っていくと、必ず土偶に行き着きます。今回の場合、それがかなり大きな遮光器土偶でした」記者たちがざわめく。イブリダは続けた。「太古の土偶は、長い時間の中で湯口と一体化してしまっています。そのまま引きはがそうとすると、強い圧力変化が起き、周りの環境にも影響が出るおそれがあります。ですから、わたしたちは特殊な装置を使って、湯口と土偶を“静かに切り離す”作業を行いました」
背後の現場では、まだ蒸気が薄く漂っている。イブリダの作業着の裾が風で揺れた。「通常の温泉土偶は三十センチ前後です。しかし今回は一メートルを超える規模でした。この大きさは、記録上初めてです」彼女は一度言葉を切り、報道陣を見渡す。フラッシュがいくつも光った。
「当初、わたし一人での作業は困難と判断し、東北温泉大学のスピリチアーレ准教授に応援を要請しました。しかし湯の圧が強く、反応が安定しませんでした。そこに、偶然現場を見学していた北海道温泉大学のティーアイ准教授が加わり、三大学合同の作業体制でようやく分離に成功しました」一斉にカメラの音が鳴る。イブリダは少しだけ笑みを見せた。
「あの土偶の頭部は、現在、冷却処理を経て東京に搬送されています。専門施設で安全を確認したのち、博物館で展示される予定です」イブリダは最後にマイクを少し引き寄せた。「皆さま、もうご安心ください。湯の圧は落ち着き、周囲に危険はありません。この地は、もう大丈夫です」その瞬間、上空のヘリが遠ざかり、風が止んだ。記者たちはいくつかの質問を投げかけ、イブリダは丁寧に一つずつ答えた。やがてマイクを下ろし、静かにヘルメットをかぶり直す。湯気の奥を一度だけ振り返った。湯は、もう何も語らなかった。

禁湯律
昔、この国には湯があった。人々はその温もりに身を沈め、互いの疲れを分かち合っていた。朝の湯は眠りをほどき、夜の湯は心のざわめきを静める。湯気は家々の屋根から立ちのぼり、まるで国全体が、ひとつの呼吸をしているかのようだった。触れられるたび、人は少しだけ柔らかくなり、言葉は角を失っていった。そうした暮らしは、理性と情熱が拮抗する、穏やかな均衡の中にあった。
だが、ある年を境に、その湯は罪とされた。政府の中枢に新しい理念が生まれた。それは「理性の国」と呼ばれ、感情を排し、思考の均衡をもって秩序を保とうとするものだった。湯は人の判断を曇らせる、欲望を煽る、秩序を乱す――そう告げる布告が全国に貼られた。湯殿は封鎖され、管の中を流れる湯は真水に換えられた。家々の湯壺は割られ、湯口は塩で封じられた。
そして新しい法律が公布された――「禁湯律」。それは、湯に触れることを禁じる唯一の法であり、国の道徳の根幹とされた。湯に触れた者は「湯罪者」と呼ばれ、白い更生施設へ送られる。そこでは湯への誤解を正す教育が行われ、奉仕活動によって心の清浄が試みられる。静かな音楽が流れ、笑顔での対話が奨励される。半年で戻れる者も多い。
だが、十度の再犯を重ねた者は、もはや「湯罪者」とは呼ばれない。「湯魔人(ゆまじん)」――理性を失った者として、記録に永久保存される。更生期間は三十年。認定理由の説明も、異議の機会もない。「湯に溶けた理性は、凍てて正気を取り戻すべし」――それだけが判決の言葉だ。
湯を失ったこの国で、唯一まだ熱を帯びていたのが言葉だった。湯罪者の多くは、湯に代わるものとして言葉を求め、詩を詠んだ。彼らは、表向きは罪人だが、裏の詩壇では“過去の生き残り”と呼ばれていた。彼らの詩は必ず発禁となり、印刷所は閉鎖された。それでも地下では、写本が密かに出回り、学生や批評家たちが夜な夜な朗読した。その夜、人々は小さく声を揃えて言う――「湯はまだ、生きている」その言葉を合図に、誰もが口を閉ざす。湯の名を呼ぶことすら、もはや詩の一部だった。
湯罪者は文学の黒い太陽だった。そして、最も有名な湯罪者が――イブリダとスピリチアーレ、この姉妹である。二人は理性的で礼儀正しい。乱暴な言葉を使うこともなく、政治を語ることもない。ただ静かに、湯の詩を書いた。彼女らの詩は、湯に触れたことを示唆するだけで、どの句にも直接的な「湯」という語はなかった。
「人の心が、まだ熱を憶えている――それだけのことだ」イブリダのこの一節だけで、詩集は焚書処分となった。だが、それは同時に詩壇における“認定”でもあった。この国では、焚かれた詩だけが本物とされている。彼女は思想の人だった。「タブーに触れることで、人間本来の欲望を解放する」と説き、その言葉は若い詩人たちの信条となった。
一方、スピリチアーレは実践の詩人だった。「触れた者だけが、その温度を語れる」と書いた。姉より感覚的で、短く鋭い詩を好んだ。二人の考えは似ているようで、まるで違った。理性と熱。静寂と欲望。それでも互いを否定せず、世界の均衡のように存在していた。禁湯律が生まれてから百年以上が経ち、もはや誰も湯に触れたことがない。それでも、詩の中では湯が生きていた。姉妹の詩は、まるで古代の祈祷のように人々の心を温めた。
ティーアイが姉妹のもとを訪ねたのは、雪が解けかけた春の夕方だった。詩壇では、彼女のことを「湯を知らぬ若者」と呼んでいた。湯を知らず、それでも湯の気配を言葉に宿す詩で頭角を現し、人々を驚かせていた。湯に触れたことのない世代にあって、禁じられた熱を想像によって描く――その矛盾こそが、才能の証とされた。
扉を開けたとき、部屋には紙の匂いと、わずかな温もりがあった。イブリダは机に向かい、スピリチアーレは窓際で空を見ていた。二人とも白い服を着て、静かに筆を動かしていた。「詩を学びたいのです」とティーアイが言うと、スピリチアーレが先に口を開いた。「……あなたは、あの“湯を知らぬ若者”?」ティーアイは少し緊張した面持ちでうなずいた。
イブリダは筆を止め、穏やかに笑った。「噂は聞いているわ。湯を知らずに、湯の匂いを言葉にした詩人。禁湯の時代に、それは最も危うく、最も美しい試みね」ティーアイは静かに答えた。「湯を知らなくても、心のどこかに熱の記憶がある気がするんです。それを確かめたくて……来ました」スピリチアーレが振り向き、少し笑った。
「……記憶の熱、ね。けれど想像の湯は、すぐに冷めるわ」イブリダは妹を見やりながら、ゆっくりと立ち上がった。「だからこそ学ぶ価値があるのよ。湯を知らぬ者の中にある熱――それが、この国で最後の湯かもしれない」スピリチアーレは息をつき、わずかに肩をすくめた。「また捕まりますよ、お姉さん」「捕まるのは詩のほうよ」窓の外では、春の雪がひとひらだけ残っていた。
それから数週間、ティーアイは姉妹のもとを通い続けた。姉妹の詩は、技術ではなく温度の稽古だった。イブリダは語る。「詩を書くとき、心が少しだけ沸く瞬間があるでしょう?その温度が湯なの」ティーアイは何度も頷いた。スピリチアーレは一冊のノートを渡した。「この中に、自分の“冷たさ”を書いて。熱を恐れる詩人は、冷たさの形を知らなければならないの」三人で詩を読み、言葉の端々に沈黙を混ぜた。窓の外では、春の風が少しだけ湿っていた。
ある晩、湯殿跡で朗読会が開かれた。それは禁湯律に触れる危うい集まりだった。崩れた石壁の間に、灯がひとつ置かれ、人々は息を殺してその光を囲んだ。イブリダがゆっくりと立ち上がり、静かに詩を読み始めた。「心の奥で、名を失いながら生きている。理性が凍るほどの静けさの中で、それはまだ呼吸をしている」
その声に重なるように、スピリチアーレが目を閉じて続けた。「手のひらに残るぬくもり。触れぬままでも、皮膚の下で脈を打っている」理と情、冷と熱――ふたつの声が交わったとき、空気がわずかに震え、冷えきった夜の闇に、かすかな湯気のような白い息が立ちのぼった。
ティーアイはその光景を見つめながら、胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じた。その熱は、湯を知らぬはずの自分の中にも確かに息づいていた。言葉が湯に変わる瞬間を、彼女は初めて見たのだ。朗読が終わると、誰も拍手をしなかった。ただ、静かに頭を下げた。それがこの国での賛辞の作法だった。
人々が去ったあと、湯殿跡には三人だけが残った。灯がゆらめき、崩れた石壁の隙間から、かすかな湯音が響いていた。それは地の底でまだ眠っている心臓の鼓動のようだった。イブリダが膝をつき、そっと手を伸ばした。指先に触れたのは、封じられて久しいぬるい雫。とろみを帯び、指の間をゆっくりと滑る。
硫黄の匂いが立ちのぼり、どこか懐かしい甘さを含んでいた。この国がまだ湯を許していたころ――人々が語り合い、笑い合いながら湯に浸かっていた記憶が、その雫の温度に沈んでいた。スピリチアーレがその手に自分の手を重ね、そっと目を閉じた。「……まだ、生きているわ」灯の明かりが波のように揺れ、三人の影が一つに溶け合った。
ティーアイは息を呑んだ。湯を詠んできた詩人として、これまで想像の中でしか触れられなかった“熱”が、いま、目の前で形を持っていた。指先を伸ばせば届く距離。触れてみたい――その衝動が胸の奥で波のように広がった。だが同時に、彼女の中で別の声が囁いた。詩は湯の代わりに沸くもの。触れた瞬間に、それは詩ではなくなる。
ティーアイは拳を握りしめ、震える手を膝の上で押さえた。理性と熱がせめぎ合い、心の奥で小さな音を立てて溶け合った。湯の匂いが鼻をくすぐり、胸の奥で何かがほどけていく。それは言葉になる前の詩、まだ湯気のような祈りだった。彼女は恐れと歓喜の入り混じった心でその光景を見つめ、生まれて初めて――本物の湯の匂いを吸い込んだ。
翌日、禁湯監視庁から通達が届いた。「イブリダ、スピリチアーレ両名、湯に関する思想の反復および接触の疑いにより、湯魔人として認定。更生期間三十年」まだ七度目の再犯にもかかわらず、異例の処分だった。紙一枚の通達。逮捕も裁判もなかった。白い封筒が届けば、それで終わりだ。
夕方、姉妹のもとへティーアイが駆けつけた。「なぜ逃げないのですか」イブリダは微笑み、静かに首を振った。「逃げるのは、まだ熱を恐れる者のすることよ。わたしたちはもう、湯ではなく、言葉そのものになった」スピリチアーレが窓の外を見た。「湯は冷たくしても消えない。凍るときでさえ、かすかな音を立てて流れ続ける。更生もまた、その流れの一部なのよ」
ティーアイは涙をこらえながら、二人に手を伸ばした。「わたしは……どうすればいいのですか」イブリダが短く答えた。「湯に触れずに、湯を灯しなさい。それが、わたしたちの続きになる」スピリチアーレが微笑んで付け加えた。「熱を持たない手で書きなさい。その冷たさの中にこそ、本当の湯が滲む」ティーアイはうなずき、震える声で言った。「湯を語らずに、湯を残します」イブリダは静かに目を閉じた。「それでいい――詩は、まだ呼吸している」
夜、白い車が来た。二人は並んで乗り込み、誰も見送らなかった。ティーアイは、二人の部屋に残り、そのまま立ち尽くしていた。風が吹き、部屋の外で封鎖された噴泉跡の柵が鳴った。その音が、まるで湯の音のように聞こえた。彼女は目を閉じ、その響きを胸の奥に刻んだ――湯はまだ、言葉の底で息をしている。
三年の歳月が過ぎた。世界は何も変わっていない。けれど詩壇の空気は確かに変わっていた。その中心に、若き詩人ティーアイの名があった。彼女の詩集『無湯宣言』は刊行と同時に完売し、誰もがその静かな熱に打たれた。内容は穏やかで、体制の基準に従順なものだった。湯という言葉は一度も出てこない。だが読む者の胸の奥で、なぜか小さな熱が生まれる。「冷たい川の底にも、まだぬるさが眠っている」誰かがそう朗読すると、人々はなぜか涙を流した。
その詩集が出た週の終わり、ティーアイは面会の許可を得て、イブリダのいる更生施設を訪れた。長い廊下を進むと、白い壁が光を返し、足音さえも温度を失っていった。面会室のガラス越し、彼女は以前と変わらない穏やかな表情をしていた。白い服の袖をまくり、窓辺の光に手を透かしていた。
「先生」ティーアイはそう呼びかけ、テーブルの上に一冊の本を置いた。「わたしが書いた『無湯宣言』です」イブリダは本を見つめ、ゆっくりと笑った。「湯はもう、書かれていないのね」 「ええ。でも、読む人の心に湯が湧けばいいと思って」 「それが一番危険よ」そう言って、イブリダはうれしそうに微笑んだ。
沈黙が流れた。どちらも言葉を探さず、ただ光の温度を分け合っていた。やがてティーアイが口を開く。「先生、あの夜の言葉をずっと覚えています。『湯を知らぬ者の中にある熱――それが、この国で最後の湯かもしれない』わたしは、その熱を信じて書きました」イブリダは目を閉じ、静かに頷いた。「ええ、それでいいわ。湯はもう、触れるものではない。信じる者の中でだけ、生きていくの」「あなたは、湯の外側で湯を守った。それは、わたしたちにはできなかったことよ」ガラス越しに差し出された手。指先が透明な壁に触れる。
その瞬間、白いガラスがわずかに曇った。イブリダが小さく呟いた。「……湯はまだ呼吸している」面会を終え、ティーアイは外に出た。夕方の空は淡く、雪がゆっくりと降りはじめていた。冷たい風の中で、彼女はポケットの中の詩稿を握りしめる。そこには、まだ書かれていない一行があった――「湯は詩になり、詩は人に還る」その言葉を胸の奥で反芻しながら、ティーアイは歩き出した。向かう先は、あの夜の湯殿跡だった。
街は白く沈み、道端の標語塔には〈理性は秩序の礎〉の文字が薄く浮かんでいる。雪を踏むたび、靴底の下で水の音がした。地の底で、まだ何かが生きている――そう思えた。湯殿跡にたどり着くと、柵の向こうはすべて雪に覆われていた。崩れた石の隙間から、かすかな湯気が立っている。ティーアイはしばらく立ち尽くしたのち、ゆっくりと膝をつき、手袋を外した。
触れてはいけない――頭のどこかで声がした。けれど、その声の奥で、姉妹の笑い声がかすかに響いた気がした――『捕まるのは詩のほうよ』彼女は目を閉じ、指先を雪に埋もれた石段の隙間へ沈めた。とろみを帯びた温もりが皮膚を伝い、胸の奥で広がっていく。その瞬間、詩稿の一行が静かに浮かび上がった――「湯は詩になり、詩は人に還る」彼女は微笑み、白い息を吐いた。風が柵を鳴らし、遠くの煙突から白い煙が立ちのぼった。その光景は、まるで湯が再び世界に戻ろうとしているようだった。
施設の窓辺では、イブリダが外を見ていた。同じ棟の別室にはスピリチアーレもいる。
二人の間を隔てる壁の向こうで、雪が地面に触れ、かすかな湯気を立てた。その気配を感じ取ったのか、イブリダは小さく笑い、まぶたを閉じた。白い世界の奥から、スピリチアーレの声が微かに届いた気がした。「お姉さん……あの子、触れましたね」
イブリダはゆっくりと頷いた。「ええ。きっと見つかるでしょう。けれど、もう恐れることはないわ」少し間を置き、柔らかく微笑んだ。「触れることよりも、その手で何を残すか――あの子はそれを知っている」スピリチアーレは静かに目を閉じた。「そうね。あの子の指先には、もう湯と詩の区別がない」イブリダは窓の外を見つめながら、かすかに頷いた。雪が降り続く。そのひとひらひとひらの奥で、湯の呼吸が、静かに世界を温めていた。

今後もこのイブリダ秘湯物語シリーズを続けていこうと思います!

年末は中之島美術館でアールデコ展を楽しみました。







その帰りに一軒立ち寄るところまではいつも通りです笑


しかしながら、その後は日本語がほぼゼロなマニアックなスパイスショップに立ち寄りました。


で、コチラで購入したものです。
そうです。
カルダモンの実です。

近年、大阪にも東京系の居酒屋が増えてきましたが、そこにあるのがカルダモン系のサワーです。
で、コレが余りも美味しすぎるので自分で作れないかと思ってスパイスを買った次第です。


で、24時間経ちました。

完成品です。
味は・・・うん・・・十分です。
でも48時間寝かした方がよりお店でのフレイバーに近いと思います。
よって、48時間が正解なのでしょう。

続いて、本場通りにキンミヤさんで作りたく思います。
大阪でも、やまやさんでは購入できます。

これで完全に再現できるのではないかと・・・。


48時間後に濾して瓶に戻して完成!

(翌日)サイコーです!

こんな感じで今年も色々と体験して、創作の糧にしていきたく思います笑

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