〈和の日本語な私〉、〈アポロジェティックな英語の私〉、そして、〈神秘的なギリシャ語の私〉
今朝、日本で宣教されている宣教師の方のチャンネル「Japan Testimonies」で、とんでもなく共感できる対話を聞き、心が躍った。
宣教師の方が、流暢で美しい日本語で、仲間のHirokiさん(日本人クリスチャン)に、「日本という土壌で、信仰を論理的に説明し、擁護しようとする apologetics って、どうなんだろう?」と問いかけていた。
それに対してHirokiさんが、まさに私の胸の内を代弁するようなことを語っていた。
まず、キリスト教や信仰という点において、日本人にとって日本語モードと英語モードはまったく違うということ。また、「God is all-powerful and you are a sinner.」のように言葉で定義していく西洋的な論証のスタイルが、一般の日本人の耳には、どこか「ラベルを貼られる」ような押しつけ感を伴って聞こえること、だからこそ、日本の精神土壌にはなかなか沁み込んでいかないという指摘だった。
私はその言葉に深く頷いた。
同じ日本人クリスチャンとして、「そうそう。ほんとにそうだよね!同感。」と、胸の内で何度も応答していた。
私は浄土真宗の流れをくむ家庭に生まれ、大学生の頃、留学先でプロテスタントの宣教師を通してキリストの福音に出会った。
その後、十七年間、ギリシャで国際的な超教派のミッションフィールドに身を置き、中東からの難民の方々と共に歩みながら、宣教師として奉仕し、二〇一九年に東方正教へ移った。そこに加えて、主人はイラン出身の亡命キリスト者なので、家の中では、ペルシャ語や英語、ギリシャ語がてんやわんやに交差し、食卓にも中東の味、地中海の味、そして和食が、ごく当たり前のように、ふしぎに入り混じっている。
一つの信仰の中を歩んできたつもりでも、その旅路には幾つもの文化と言語、そして神学的伝統が折り重なっている。
その歳月を振り返ると、私の中には、幾つもの「私」が住んでいることに気づく。その中でも、今回あらためて心に浮かぶのは、次の三つ。
和の日本語な私。
アポロジェティックな英語の私。
そして、神秘的なギリシャ語の私。
不思議なことに、それぞれは同じ人格の別の側面でありながら、まるで異なる光に照らされたように、神への向き合い方も、言葉の選び方も変わる。
日本語(薩摩弁)で話すとき、私は「和の私」になる。
里帰りをして、家族と食卓を囲む。
湯気の立つ味噌汁。箸の触れ合う小さな音。誰かがぽつりと話し、「ふーん、そうなんだねえ」と穏やかな合いの手が返ってくる。
その穏やかで優しい空間のどこにも、「贖罪に関するapologetics」「旧約聖書の予型論的解釈」「女性教職の是非をめぐる聖書的議論」といったアポロジェティックが入り込む場所はない。
それは、そうした営みを排除しているからでも、拒絶しているからでもない。
ただ、とにかく無縁なのだ。この日本の地方都市のちゃぶ台では。
日本語の私には、直接的な定義や論理の剣よりも、関係性の柔らかな織物のような語り方が自然に身についている気がする。ふと思いだせば、大学一年生の英語論文の授業で、アメリカ人の先生が「日本人の論文には maybe や I think が本当に多い」と笑っていたことがある。断定を和らげようとする日本語の感性は、母語を離れて英語を書くときでさえ、私たちの内側からひょっこり顔をのぞかせるのだろう。
言葉の間に余白を残し、相手が自ら受け取る余地を大切にする。
もちろん、日本のクリスチャン家庭であれば、その余白には自然とキリスト教的な要素が織り込まれているのだろう。ほわーっとした会話の中にも、案外骨太な「神様トーク」が息づいている食卓もあるのかもしれない。
でも、私のように家族の中にクリスチャンは自分しかおらず、地域を見渡してもクリスチャンの姿がほとんど見当たらない。そんな環境の中で、さらに海外で暮らすようになると、里帰りしたときのクリスチャンとしての私の居場所は、「私」という小さな身体の内側にしかないように感じられる。
「私」の外へ一歩出れば、そこにはクリスチャンであることを思い出させてくれるものも、感じさせてくれるものも、ほとんど何もない。
とはいえ、「言わずもがな」を共有する美意識、日本という文化が長い年月をかけて育んできたこの感性は、今も私の中で深く生きている。そこには説明を要さない安心感があり、ただ身を置くだけでほどけていくようなやすらぎがある。正直に言えば、本当にほっとする。
一方、英語で語るとき、私は「アポロジェティックな私」として目覚める。
不思議なほど頭の中に論理の骨格が立ち上がる。
前提を一つ一つ確かめ、概念を丁寧に定義し、問いの核心へと降りていく。その営みには、神を愛する知性の歓びがある。
私は——英語のわたしは——この世界がすごく好きなんだ、、と思う。
その豊かさを教えてくれた一冊が、ウェイン・グルーデムの九百ページを超える『組織神学』だった。
神とはどのようなお方なのか。
人間とは何者なのか。
教会とは何か。
救いとは何か。
聖書全体を見渡しながら、それぞれの教理が一つの壮大な秩序として編み上げられていく。その様子を読み進めるうちに、私は深い感動を覚えた。
それは、まるで夜空いっぱいに広がる銀河を見上げるような体験だった。
無数の星々は決して無秩序ではない。一つ一つが確かな位置を持ち、互いに響き合いながら、一つの宇宙を形づくっている。
それと同じように、聖書の教えもまた、一つのコスモスとして美しく秩序づけられていた。
私は、その知的な美しさに魅了された。
英語圏のアポロジェティクスが私を惹きつけるのも、まさにこのためだ。
言葉で話し合える限り、表面的な印象や社会の空気だけで満足せず、物事の本質まで降りていこうとする。
「本当にそうなのか。」
「その前提は何なのか。」
「世界観全体の中ではどう位置づけられるのか。」
そこまで徹底して問い続ける知的誠実さがある。
私は、その姿勢に深い敬意を抱いている。
そのような知の伝統に触れるたび、なぜ大学という共同体が中世ヨーロッパにおいて花開いたのかを考えさせられる。ギリシャ・ローマの哲学的遺産と、ユダヤ・キリスト教が育んだ「真理は探究するに値する」という確信。その二つが長い歳月をかけて交わり、一つの知的文化を形成してきたことへの敬意は、私の中で年々深まっている。
さらに言えば、近代科学という営みそのものも、自然は理性によって理解可能であり、創造された秩序は探究に値するというこうした世界観の土壌の中から育まれていったという点において、この精神史の延長線上にあるものとして私には映る。そして信仰と科学が矛盾なくつながっているということに、私は静かな高揚感とともに、深いワクワクを覚える。
だから私は、西洋のアポロジェティックの世界を決して否定できない。
そこには、人間の理性を神への奉仕として用いようとする、敬虔な知性の歴史がある。
そして、その姿勢は、現代の人間のセクシュアリティをめぐる議論にも表れているように思う。
日本では、現代文学や社会全体の空気を通して、「多様性だよね」「いろんな生き方があっていいよね」という感覚が少しずつ共有されていく。そして、いつの間にか社会や個人の考え方が変わっている。そんな「なんとなく」の、ふわりと漂う空気を私は感じる。
その中には、人への思いやりや、弱い立場にある人を大切にしようとする、日本人らしい繊細で優しい心が確かに息づいているのだと思う。
一方、私が英語圏のクリスチャン・アポロジェティクスに魅力を感じるのは、そこで世論が「なんとなく」「ほわーっと」変わるがままにはならないことだ。
「人間とは何か。」
「身体とは何か。」
「結婚とは何か。」
「自由とは何か。」
「神のかたちに創造されたとは、どういうことなのか。」
一つ一つの問いを切り離して論じるのではなく、聖書全体の世界観の中に位置づけながら、とことん考え抜こうとする。
そのように聖書全体の枠組みの中で思考しようとする営みを知るほどに、日本では開国以後、西洋の技術や学問は驚くほど広く受け入れられながら、その根にあるキリスト教的世界観は比較的見過ごされたまま今日に至っているという事実にも思いが及ぶ。だからこそ日本人クリスチャンとして、その「根」を魂の芯奥に根付かせながら、且つ、西洋から来るものと日本固有の感性とを同時に受けとめながら歩んでゆくことができる——そのことをとってもありがたく思う。
そして、もう一人の私がいる。
そう、ギリシャ語の祈りと東方正教の典礼の中に身を置くとき、私は「神秘的な私」になる。
そこには、否定神学――アポファティック・セオロジーの深い流れがある。
神について語ることはできる。
しかし、神を語り尽くすことはできない。
私たちがどれほど正確な教義を積み重ねても、神はなお、私たちの言葉を超えておられる。
定義しようとする営みは大切。
けれども、定義できることが神のすべてではない。
最後には沈黙が残る。
私は、こういった東方神学に出会ったとき、不思議な懐かしさを覚えた。
それは、日本人として育ってきた私の感性と、どこか深く響き合っていたから。
このモードは、私の日本人としての感覚――言わずもがなの美意識や、はっきりと言い切らない余情――と、驚くほど自然に響き合う。
私はここで初めて、日本人であることと、東方正教の神秘神学とが、自分の中で一つに結ばれていくのを感じた。
以前、「どれが本当の私なのだろう」と考えていた時期があった。
自分はどこか分裂しているのではないかと、長い間悩んだ。
昨日、告解の秘跡を受けるため、アテネの修道院へ足を運んだ。
黒い法衣に身を包んだ修道司祭(修道士であり司祭でもある方)の前で、私はこう話した。
「今年に入ってから、神の恵みが自分の内面に深く働き、これまで別々だと思っていたものが、少しずつ integrity(全体性)へと統合されつつあるのを感じています。」
その言葉を口にしたとき、私は自分自身の変化をあらためて知った。
和の私。
アポロジェティックな私。
神秘的な私。
これら三つの私は、互いを消し去ろうとはしない。
非難し合い、排除し合うのでもない。
むしろ、和の精神の中で静かに調和しようとしている。
共に生き、互いを織り合わせながら、一つの生きられた信仰として、integrity(全体性)へ向かって歩んでいるように思う。
英語の論証の強さを愛し、日本語の和の繊細さを守り、東方正教の神秘の深みに憩う。
どこにも完全にはフィットしない自分。どこにいても、少しだけ異質に浮かび上がる。それでも、と私は思う。
この多層は、きっと神様が私に与えてくださった一つの贈り物なのだ、と。
異なる文化と言語、そして神学のあいだに生きる者として、私はこれからも、この調和の道を静かに探り続けていきたい。
