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36歳 独身 パートナーなし、の私は「やばい」のか


35歳を過ぎて独身でいると「何かある」「やばい」のだと、20代の頃に友人が言っていた。

36歳、独身。パートナーはいない。結婚歴もない。パリで一人、それなりに人生を楽しんでいる私は、果たして「やばい」のだろうか。

「何かある」というのは、どうやら本当らしい。 私には、世間一般の人が求める「安定」や「恋愛」への欲求が、極端に欠落しているのだ。

なぜ、私はこうなのだろう。 その問いの先にあったのは、私自身も知らなかった、私の人生の「OS」とも言うべき、ある一つのシンプルな事実だった。

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今36歳で独身、パートナーもおらず、パリに一人暮らし。こうなると、共通の知人や友人と長めに会話をしていると、「ご結婚は?」「パートナーは?」といった話題に自然となる。その流れもわかる。

その度にわたしは正直に、今、自分には(もともとあったのに)恋愛感情が全くと言っていいほどなく、恋愛をしたいという欲求が限りなくゼロに近い状態であること、そして、自分自身のやりたいことが明確にあって、今の人生をとても楽しんでいる、ということを伝える。

しかしその言葉はどうも想定外な言葉であることの方が多いようで、ちょっと変な空気になる。そして、私の返事が聞こえたのか聞こえていないのか、「でも、良い人にすぐ出会えますよ」とか、「どんな人がいいんだろうね」と私に合いそうなパートナー像をあれやこれやと考えてくれたり、「理想高そうだから、見つけるの難しそうですよね」「幼少期に辛い経験したの?家族問題のトラウマが恋愛に出やすいからね」と、共感なのか、同情なのか、そんな言葉をいただくこともある。

私が「今そういう気持ちがなくて」というと、きっと、「強がっているのだろうな」と思ってらっしゃるのかもしれない。「パートナーができるために一緒に考えるよ!」と買って出てくださる方もいる。でも、そんな流れになるたびに、この質問への返答の最適解はいったいなんなんだろう、と考え込んでしまう。真意とは異なる思わぬ方向に会話が進んでしまうことに「どうしようかな」と困りつつ、しかし、社会通念上(なのかわからないが)、"パートナーがいることが良い"という考えを、無意識に強く持ち合わせた方が多い社会であることもつくづく理解する。なので、彼らのその発言に悪意がないことも、良心からくることだということも非常によくわかるので、余計に返答に困ってしまう。そして、相手に合わせて「わたし、どうしたらいいですかね」とリップサービスをしてしまう自分に、自分で辟易する。正直、どうしたらいいんだろう、なんて、1mmも思ってない。

そして改めて考える。なぜ私はこんなにも今、恋愛や結婚に関心がないのだろう。

じっくりと深堀りし、内省してみることにした。すると面白いことがわかってきた。この疑問を深掘りしていくと、私の中で「人生」というものをどう捉えているかが関係していることに気づき、面白いので記録してみたい。

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わたしにはもう一つ、恋愛系以外に極端に社会とずれている、と感じるものがある。それは、「現状維持」に対して強烈な恐怖を抱いてしまう、ということだ。

通常、人は本能的に「安定安心」を求めるからこそ、現状維持に強いモチベーションが働く。これは「身を危険にさらしたくない」、という私たちが本能的に持ち合わせた感覚があるからだ。だからこそ、挑戦や行動、といった安心安全を自ら壊す行為にはとても大きな負荷がかかる。現状いる場所をコンフォートゾーン(心地いい場所)といい、現状の外側をストレッチゾーンという所以だ。

しかし、どういうわけか、私の場合はこの、現状、コンフォートゾーンに居続ける、ということが"恐怖"なのである。世間一般と真逆な感覚を抱く自分に、時々、自分はどこか、どうしようもない欠落があるんじゃないかと不安になることがある。なぜ自分はこうなんだろう、と不思議になる。

例えば、日本での安定した生活が続く、と察知した瞬間、「これが続くのはいやだ」「このままで人生終わっちゃうのはいやだ」と強烈な恐怖と焦りが芽生え、決断から半年でパリに移住してきた。

ブランド運営でさまざまな挑戦をやり切ったのち、あとは現状維持、という点に到達したとき、「もっと新しいことを始めたい」と強烈な欲求に突き動かされ、「人生リデザインプログラム」という新しい事業を作りあげた。

現状の状態でも、もちろん、生きていける。でも、わたしはその「現状」のコピーが続く未来に、とても恐怖を感じるのだ。おい、私の本能どうなってるねん、と切に問いかけたい。人間として、本来は真逆だ。わたしにとって、ストレッチゾーンに足を踏み入れることが、「安心安全」になっているのだ。何が起こっているんだ。

そして、「なぜだ」を深堀りしながら内省をしていて、ハッと気づく。

わたしが、人生を「物語」だと捉えている、という事実が、どうやらこの根本原因にあるらしい、ということに。

つまり。

何かがうまくいって「このまま続くんだろうな」という未来が見えた瞬間、それは多くの人にとって「安心」や「安定」を意味するのかもしれないが、私にとっては「人生の物語の終わり」を意味してしまうのだ。それはすなわち、わたしにとっての「人生の終わり」とも言えるのだ。

このことに気づいた時、震えるような感覚があった。現状維持は、私にとって物語の終わりである──それがたまらなく怖いのだ、と。

思い返せば、フリーランスになる時に出会った元パートナーと同棲していた時、ある日ふと「この人生がこのまま続くのかも」と思った瞬間に、とてつもない恐怖を感じてしまった。今でもあの日のその感情の瞬間をありありと覚えている。そして、その恐怖から逃れるように、自らその関係を破壊するような行動をとってしまったのだ。

彼との出会い↓

当時の自分の行動は意味不明の極みであり、なんであんなことしちゃったんだろう、とその後何年にもわたり何度も後悔していたのも正直なところだ。しかし、今ならわかる。あれは「物語の終わり」を感じてしまった私が、無意識に「次の章」を始めたかったからだ──。

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そもそもなぜ、私はこんなにも人生を「物語」として捉えているのだろうか。

そして行き着いた思考。

それは、物語を転がすことで「まだ見ぬ自分に出会える」ことを、人生を通して経験してきているからだ。物語を転がすということは、まだ出会ったことのない、未来の自分に会いに行く旅のようなもの。

それはすなわち、今の自分では全く想像もできない自分になることだ。現状維持は今の自分で居続けること。それは私にとって、これから出会えるはずだった無数の新しい自分の可能性を、すべて手放して諦めてしまうことなのだ。そんなのいやだ。私の心が叫ぶ。私は、自分自身の可能性を開拓していくことを諦めたくない。

この「新しい自分に出会いたい」という強い欲求が、私の人生を動かす原動力になっているのだと気づく。だって、人生たった1回なのだ。この年齢でいられるこの瞬間も、今だけだ。大きな夢や目標を立てるのが好きなのも、それによって人生が切り拓かれていく感覚を得られるからなのだと、自分の行動のあれこれが一本の線のように繋がっていく。

大きな夢は、私にとって「本のタイトル」のようなものなんだと思う。そして、日々の小さな挑戦やアクションが、物語の「章」になっていくのだろうと、自分の行動を振り返って、それぞれのアクションにラベルがついていく。失敗に対してそこまで何も感じないのも、「うまくいっていない時ほど、人を惹きつける魅力的な章になる」と感じているからかもしれない。

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閑話休題。
さて、ここで恋愛の話に戻る。

これまでの思考整理を経て、自分にとっての「恋愛」がいかなるものか、を因数分解できる材料が揃った。今の私にとって、誰かとパートナーシップを結ぶこと、特に「結婚」は、自分が"主人公"の人生の物語をストップさせてしまう可能性であるということを、無意識的に、でも強烈に感じているのだろう。

お恥ずかしいが本当のことなので書くと、過去の経験上、私は恋愛をするとどうしても相手中心の人生になってしまう傾向がある。それはそれで幸せな時間だったのだが、今の「自分で人生の物語をデザインしている」という人生を味わってしまった今、こちらの方がとんでもなく絶品であり美味であり、何倍も楽しいのが正直なところだ。

もちろん、私のこのスタンスを理解し、応援してくれて、かつ相手自身も常に挑戦し続けるような方であれば、また違うのかもしれない。それは、共に走る「パートナー」という感覚に近い。

でも今の私にとっては、自分の人生の物語を面白くすることの方がプライオリティが高い。まだ見ぬ私に出会うことの方が楽しみだ。だから、私の物語に「恋愛の章」を作る意欲が全く湧かず、それよりも自分の夢を実現させていくことに全力を尽くしたい。新しい自分になればなるほど、面白い方に出逢える可能性も広がる。自分の可能性の種を、潰したくない。これがわがままだけれど、本心だ。

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そして私は、スタンフォードの大学院を目指すという、新しい物語のタイトルを掲げた。

この挑戦がうまくいくかどうかは、正直なところ問題ではない。大切なのは、大きすぎる挑戦の過程で物語が面白くなること、そしてその中でまだ見ぬ自分に出会うこと。大きな夢であればあるほど、わたしは私の人生と私に夢中になる。もしかしたら、その物語を描いている最中に、登場人物として未来のパートナーが出てくるかもしれない。そうなればそれもありだし、出てこなくても、正直なところ本当にどちらでもいい。だって今の人生もとびきり楽しい。唯一こだわり続けたいのは、あくまで私は、自分の人生を自分でデザインし続けたい、ということだ。


「こんな生き方もあるんだ」
「こんな風に生きていいんだ」

私の生き方が、誰かにとっての「許可」のようなものになれたら、こんなに嬉しいことはない。そう思って、今の状況で考える、わたしの1サンプルを記録した。「36歳独身、パートナーなし」というラベルは、全く「やばい」わけではなく、あなたにとって最高の「今」を生きている証だ。これを読んだ同じ境遇にある人の、何かの参考になれば、これほど嬉しいことはない。


型にはまらない、自分だけの物語を紡いでいく。

その先に、きっと最高の「まだ見ぬ自分」が待っている。







執筆後記

ずっと書きたかったテーマで、書きました。わたしの感覚は、どう考えてもマイノリティだという自覚もあります。ですが、マイノリティであるということは、その声が、マジョリティの声にかき消されがちだとも言い換えられると思うのです。

わたしはどういうわけか、こうして自分の考えや心のうちを話すことに、恥ずかしさというものがあまりないようで(明らかに何かのネジが飛んでいるとしか思えない)、だからこそ、こうして書くことで、「私もそう」「大声で表で言えないけど、そうなの」と誰かのカタルシスになれば、という気持ちがあります。

「こういう生き方もあるんだ」を示していくことが、私の今世の使命であるような気もしています。それは、「本当の自分として生きていく」こととイコールだと感じています。

どうしても私たちは社会の大勢の声が「正解」だと思ってしまう。島国で生まれた日本人である私たちは、特にそういう感覚が遺伝子レベルでインプットされていると感じます。この島で、異端であること、マジョリティと異なる意見を持つことは、あるいは排除を意味するのかもしれない。だから、ここで平和に生きていくために、わたしたちはマジョリティの声に従うことを、生存戦略として選んでしまうのかもしれません。

でも、あなたの本心は、あなたの生きたい在り方をもう、知っている、と私は強く感じるのです。誰がなんと言おうと、あなたの人生。あなたの人生の責任を、だれもとってはくれない。だから、ありきたりな言葉に着地しますが、「好きなように生きるのがいちばん」だと私は感じるのです。幸せのかたちはひとそれぞれ。あなたにとっての、「幸せ」を追い求めること。それが、本当の豊かさ、に直結するとわたしは考えています。

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