相手を傷つけないように言葉を選ぶとき、一番傷ついているのは私だった
朝目覚めた時、珍しく涙が溢れた。
自分の心の声に従って生きる、そんなことを大切に、日々を丁寧に積み上げられるようになってきたここ最近。
自分の心の真ん中と、自分自身の行動を一致させていくこと、すなわち「自己一致」を今年の目標に掲げ、丁寧に「今わたしはどうしたいのか」の小さな声を掬い上げるようにしている。そのおかげで、わたしの日常は、とても満ち足りたものになりつつあった。
それなのに。
いや、だからこそ、なのか。
これまでだったら見逃していた出来事を、無視して受け流すことができなくなっていた。
──
私は、誰かと会う時、ほとんどの場合において過剰な気遣いをしてしまう。私はこの自分の性質に、とても苦しめられている。辞めたい、と思う。なぜなら誰かを気遣っている時、私は私自身のことをめちゃくちゃ雑に扱い、大事にできていないからだ。人と接しているその最中はなんとか大丈夫なのだが、一人になったあと、文字通り全くの使い物にならないほどに、倒れ込んでしまっては、回復するまでに人と会っていた時間の2倍以上の回復時間がかかる。
心を許している数少ない、私が私のままでいられる人(片手に収まるくらいの人数だ)と会う時には、むしろ回復し充電される感覚がある。けれど、そうではない人と会う時、私は誰に頼まれてもいないのに過剰な気遣いをし、そのやりすぎで歪な行動の結果勝手に信じられないくらい消耗してしまう。問題は相手がそれを求めているわけではなく、私が勝手にやってしまう、というところにある。
そんな私の対応は、接客であれば「素晴らしい接客」と評価していただくことになるし、プライベートであれば「自分のことを丁寧に扱ってくれる」というふうに受け取っていただくこともある。しかし、ある時には(そして結構な割合で起こるのだが)「気遣いが過剰すぎて裏の目的があるのでは」と変に構えられてしまうこともある。
そして、何度も言うが、この過剰な気遣いは私が自動的に、ある種防衛反応的に行ってしまうことであり、接する相手の方は全く悪くない、ということを念を押しておきたい。100%自分が行なっており、そして、私が行なっているのに、私の真ん中、本心からの行動ではない、というのが厄介なところだ。
私はこのやりすぎな気遣い行動に、私が一番苦しめられてきた。いや、過去形で片付けられる要素ではなく、今も苦しめられている。目の前にいるその人を気遣う、大切にするための行動と言葉をもはや反射的に口にする自分自身によって、私は自分が一番傷ついている。全く理解されないことかもしれない。私だって長らく理解できなかった。だから帰宅すると、わけもわからず涙が出るのだ。でも、理由がわからなかった。相手に喜んでもらえたのに、なんで涙が出ているんだろう、と。
その正体不明な苦しさのせいで、私は人に会うことが億劫になってしまっているのだと思う。そして、一人でいる時間を、ある種切実に求めるようになった。以前よりも強く。
そして自分と向き合う中でわかったのが、私は目の前の人を傷つけない、喜んでもらえる言葉を伝えるとき、同時に私は私自身のことを一番傷づけていた。自分のことを蔑ろにして、相手を100%優先して、自分の真ん中の部分の私なんて、ないもののように扱っていた。だから、一人になった瞬間、その蔑ろにされていた私が、涙を流していた。
人と会うのが、億劫だ。なぜなら私はまた、私のことを傷つけてしまって苦しくなることと、対峙しなければならないからだ。そして、これまで全くの自動反応として行なってきたことなので、ほとんど反射的に行なっているといってもいい。それを少しずつ、自分のことも大切にするスタンスで、言葉を選び、人と接することができるようになりたい。
なぜ私はこんなにも欠落しているのだろう、と思う。多くの人のように、人と普通に会って、何も悩まず、心を楽しく通わせたい。なのに、人に会うと勝手に変なモードにカチッとスイッチが入り、私は私自身を間接的に攻撃しまくり、一人になったあとに絶望の淵に立つ。こんなの、もうやめたい。
このテーマは私の心が成り立った頃に関係しているし、これを乗り越えることは、きっと同じようなことで悩んでいる人のヒントにもなるだろう、とまた別の私が冷静に見ていたりする。
人よりも嫌になる程劣っている私のこの内側の複雑な葛藤を、きちんと紐解いていきたい。今まさに向き合っていることの記録として、ここに残しておきたい。
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