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人物探訪|川淵三郎 ― 「時期尚早」を退けた男

日本のスポーツが好きな人なら、川淵三郎という名前をどこかで耳にしたことがあるはずです。Jリーグを立ち上げた人。日本サッカー協会の会長を「キャプテン」と名乗った人。分裂して国際大会に出られなくなったバスケットボール界を、たった1年半で立て直した人。そして東京オリンピックの組織委員会会長にいったん決まりながら、48時間で身を引いた人。

肩書きだけを並べても、ひとりの人生とは思えないほどの密度です。けれども、この人がやってきたことをひとつの線でつなぐと、ある共通した姿勢が浮かび上がってきます。それは「できない理由を並べる人たちの前で、できる方法を探し続けた」という一点です。

川淵三郎さんの口癖に、こんな言葉があります。「時期尚早と言う人間は、100年たっても時期尚早と言う。前例がないと言う人間は、200年たっても前例がないと言う」。この一文は、彼の人生そのものを説明しています。

この記事では、大阪の小さな町に生まれた野球少年が、いかにして日本のスポーツ文化を根っこから作り替える存在になっていったのかを、時系列でたどっていきます。サッカーに興味がない方にも、組織を変えるとはどういうことか、リーダーとは何をする人なのかを考える手がかりになれば幸いです。


1. 高石の空き地から ― 野球少年がサッカーに出会うまで

川淵三郎さんは、1936年12月3日、大阪府泉北郡高石町、いまの高石市に生まれました。父・眞一、母・淑子のもとに、三男として育ちます。名前の「三郎」は、三番目の男の子だからつけられたものです。愛称の「サブ」も、ここから来ています。

生まれ育った高石は、大阪と和歌山を結ぶ海沿いの町でした。少年時代の川淵さんが夢中になっていたのは、実はサッカーではなく野球でした。1949年に高石中学校へ進むと野球部に所属し、白球を追いかける日々を送っていました。当時の日本で、子どもが憧れるスポーツといえば野球です。サッカーはまだ、ごく限られた地域の学校で行われる少数派の競技でした。

転機は高校でした。1952年、大阪府立三国丘高等学校に入学します。この学校は大阪でも指折りの進学校であり、同時にサッカーの強豪校でもありました。入学から数か月後の同年7月、川淵さんはサッカー部へ転じます。野球からサッカーへ。この小さな選択が、のちに日本のスポーツ史を動かすことになるとは、本人も周りも想像していませんでした。

サッカーを始めた川淵さんは、めきめきと頭角を現します。恵まれた体格とスピードを生かし、フォワードとしてゴールを量産しました。高校3年で出場した全国高等学校サッカー選手権大会ではベスト8まで勝ち進み、新聞に「超高校級フォワード」と書かれるほどの選手に成長します。野球少年だった自分が、わずか数年でサッカーの全国区へ。この急成長の体験は、のちに「人は環境と本気次第で変われる」という彼の信念の原点になっていきます。

2. 早稲田、そして日本代表 ― 2浪の末につかんだ舞台

高校を卒業した川淵さんは、大学進学を目指します。ところが、ここで思うようにいきませんでした。志望した早稲田大学に、2年続けて不合格となるのです。当時の彼にとって、これは大きな挫折でした。

2浪の末、1957年、ようやく早稲田大学第二商学部商学科への進学を果たします。名門・早稲田大学ア式蹴球部、つまりサッカー部に入部し、ここで本格的な競技生活が花開きます。

入部の翌年、1958年に、川淵さんは早くも日本代表に初めて選ばれます。同じ年、香港との国際親善試合で代表デビューを飾りました。大学2年生での代表入りは、当時としても異例の速さです。同年、関東大学リーグでも優勝を経験し、川淵さんは学生サッカー界の中心的な存在になっていきます。

1959年にはローマオリンピックのアジア予選に出場し、1960年には翌年のワールドカップ、チリ大会のアジア予選にも名を連ねます。1960年には再び関東大学リーグ優勝を果たしました。2浪という遠回りをした青年が、日本を代表するフォワードとして世界の舞台に立とうとしていたのです。

この学生時代の経験は、彼のなかにふたつのものを残しました。ひとつは、国際試合で世界との差を肌で感じたこと。もうひとつは、名門の伝統ある組織のなかで、勝つためのチーム作りとは何かを体で覚えたことです。どちらも、のちのJリーグ創設で生きてきます。

3. 国立競技場のゴール ― 選手・古河電工時代

1961年3月、川淵さんは早稲田大学を卒業し、古河電気工業に入社します。配属先は横浜電線製作所でした。当時の日本にプロサッカーは存在せず、トップレベルの選手は企業のサッカー部に所属しながら、社員として働くのが当たり前でした。川淵さんも、昼は会社員、夜と週末は選手という二重生活を始めます。

古河電工サッカー部は、日本サッカーリーグ、いわゆるJSLを代表する強豪チームでした。川淵さんはそのフォワードとして活躍します。1962年にはインドネシアのジャカルタで開かれたアジア競技大会に出場。同じ年の12月には結婚し、公私ともに新しい人生を歩み始めます。

そして迎えた1964年、日本にとって特別な年がやってきます。東京オリンピックです。自国開催の大舞台に、川淵さんは日本代表として出場しました。グループリーグの相手のなかには、南米の強豪アルゼンチンがいました。世界と日本の実力差は歴然としており、多くの人が敗戦を予想していました。

ところが、この試合で川淵さんはゴールを決めます。リードされた展開のなか、彼の得点がきっかけとなり、日本は強豪アルゼンチンを相手に見せ場を作りました。地元開催のオリンピックで、自らの足でネットを揺らす。この経験は、選手・川淵三郎のキャリアの頂点のひとつになりました。

翌1965年には、完成間もない国立競技場で行われたロコモティフ・モスクワとの試合で得点を挙げます。これは「国立1号ゴール」と呼ばれ、のちに国立競技場と川淵さんを語るうえで欠かせないエピソードとなりました。皮肉なことに、この国立競技場は、それから28年後の1993年、彼が立ち上げたJリーグの開幕の舞台になります。

選手としての川淵さんの通算成績は、日本代表として26試合8得点、日本サッカーリーグで68試合10得点でした。1967年にはリーグのアシスト王にあたるシルバーボール賞も受賞しています。派手な点取り屋というより、チーム全体を動かす頭脳的なフォワードだったことがうかがえます。

4. サラリーマンの焦りと転機 ― 引退・監督・出向内示

1970年、川淵さんは33歳で現役を引退します。まだ動けるうちに指導者へ転じる決断でした。引退後はすぐに古河電工のコーチに就き、その後1972年から1975年まで監督を務めます。監督時代の成績は、3年間で5位、4位、6位と、決して華々しいものではありませんでした。

指導者としての実績を積んだ川淵さんは、1980年から1981年にかけて日本代表の監督代行も経験します。日本サッカーの強化に、選手とは違う立場から関わり始めた時期でした。

一方で、会社員としての川淵さんは、着実に階段を上っていきます。1976年には日本サッカーリーグの常任運営委員に就き、競技の運営側にも足を踏み入れます。1982年には古河電工の名古屋支店で金属営業部長を任されました。問屋を相手にした金属の取引は、海千山千の商人たちとの厳しい交渉の連続でした。ここで川淵さんは、駆け引きの勘と、相手の懐に飛び込んで信頼を勝ち取る術を磨いていきます。この商売人としての経験が、のちにスポンサーや自治体、政治家を相手にする局面で大きく生きることになります。

しかし、50歳を過ぎたころ、川淵さんは人生の壁にぶつかります。1988年、古河電工から子会社の古河産業への出向の内示を受けたのです。出向は、大企業のサラリーマンにとって、出世コースからの一歩後退を意味することが少なくありません。自分のサラリーマン人生に先が見えてしまった。将来への焦りと物足りなさが、川淵さんの胸に広がっていました。

まさにその時期に、ひとつの誘いが舞い込みます。日本サッカーリーグの総務主事にならないか、という話でした。多くの人なら、会社の仕事の傍らの名誉職くらいに受け止めたかもしれません。けれども川淵さんは、この誘いを人生を賭ける転機として受け止めます。1988年、彼は古河産業の取締役を務めながら、日本サッカーリーグ総務主事に就任し、同年10月には日本サッカー協会の理事にもなりました。ここから、日本サッカーを根こそぎ変える大仕事が始まります。

5. Jリーグという革命 ― ゼロからプロリーグを立ち上げる

1980年代の日本サッカーは、深刻な低迷期にありました。日本代表はワールドカップにもオリンピックにも出られず、国内リーグの観客はまばらで、スタジアムにはすきま風が吹いていました。競技人口こそ増えていたものの、トップの人気は野球に遠く及びません。多くの関係者が「日本にプロサッカーは無理だ」と考えていました。

そんな空気のなかで、川淵さんは動き出します。1989年6月、日本サッカー協会のプロリーグ委員会の委員長に就任。1990年8月にはプロリーグ検討委員会の委員長となり、日本にプロサッカーリーグを作るという壮大な計画を、具体的に設計し始めます。1991年3月には強化委員長とプロリーグ設立準備室長を兼ね、構想はいよいよ現実の段階へ入りました。

このとき川淵さんが直面したのは、無数の「できない理由」でした。企業がスポーツにそこまで金を出すはずがない。地方都市にプロチームを支える力はない。日本人はサッカーにお金を払わない。前例がない。時期尚早だ。会議のたびに、慎重論と反対論が飛び交いました。

しかし川淵さんは引きませんでした。参加を希望する企業チームに対して、彼は妥協のない条件を突きつけます。専用または優先使用できるスタジアムを確保すること。ホームタウンとなる地域に根を張ること。ユースなど育成組織を持つこと。企業の宣伝媒体ではなく、地域の文化になること。この厳しい基準に応えられるチームだけが、プロリーグに入る資格を得られました。

1991年、参加する10クラブが決定します。同年11月、社団法人日本プロサッカーリーグ、すなわちJリーグが正式に設立され、川淵さんは初代チェアマンに就任しました。このとき彼は、30年間勤めた古河電気工業を退社します。安定した大企業のポストを捨て、まだ一試合も行われていないリーグに人生を賭ける。50代半ばでの、後戻りのできない決断でした。

スタジアムの基準ひとつとっても、川淵さんの要求は当時の常識からかけ離れていました。多くの企業チームは、陸上トラックのある総合運動場を間借りして試合をしていました。しかし川淵さんは、観客とピッチが近く、サッカーに集中できる環境を強く求めました。芝の状態、照明、収容人数、アクセス。細部にまで口を出す彼の姿勢に、当初は「そこまで必要なのか」という声もありました。けれども、良い観戦体験こそが観客を呼び、観客がクラブを支える。この因果を、川淵さんは誰よりも理解していました。

準備の過程では、資金の問題も重くのしかかりました。プロ選手に見合った報酬を払い、育成組織を維持し、スタジアムを整える。そのすべてに莫大な費用がかかります。川淵さんは、テレビ放映権や広告、グッズ販売など、それまでの日本のスポーツにはなかった収益の仕組みを次々と設計していきました。サッカーを、情熱だけでなく、持続可能なビジネスとして成り立たせる。理想主義者と思われがちな川淵さんですが、その足元は徹底して現実的でした。

そして1993年5月15日、国立競技場。満員のスタンドと全国のテレビ中継を前に、川淵さんは正装で舞台の中央に立ちました。「スポーツを愛する多くの皆様に支えられまして、Jリーグは今日ここに、大きな夢の実現に向かってその第一歩を踏み出します。1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します」。

この開幕宣言は、日本のスポーツ史の分水嶺となりました。この日を境に、日本のスポーツは「企業のもの」から「地域と市民のもの」へと、少しずつ姿を変えていくことになります。Jリーグの成功は、日本代表の強化にもつながりました。国内にプロの舞台ができたことで選手のレベルが底上げされ、日本代表は1998年のフランス大会で初めてワールドカップ出場を果たします。その後は本大会の常連となり、いまや世界の強豪と互角に戦うまでになりました。この躍進の土台を築いたのが、ほかならぬJリーグの創設だったのです。

6. 「地域密着」という思想 ― 言葉が文化を作る

Jリーグが単なる新しいサッカーリーグにとどまらなかったのは、川淵さんが「思想」を持ってこれを作ったからです。その核にあったのが「地域密着」という考え方でした。

当時の日本のスポーツは、企業スポーツが主流でした。チーム名には会社名が付き、選手は社員で、チームは会社の宣伝と福利厚生のためにありました。会社の業績が傾けば、チームはあっさり廃部になります。実際、多くの実業団チームがそうやって消えていきました。

川淵さんは、この構造そのものを否定しました。目指したのは、ヨーロッパのように、街のクラブを市民が支え、世代を超えて愛し続ける文化です。そのために彼は、まずクラブ名から企業名を外させました。会社の宣伝ではなく、その土地の名前を背負ったクラブにする。この一点に、彼は徹底してこだわりました。

言葉へのこだわりも、川淵さんの真骨頂でした。リーグのトップを「会長」ではなく「チェアマン」と呼ばせ、本拠地を「フランチャイズ」ではなく「ホームタウン」と表現し、ファンを「観客」ではなく「サポーター」と呼びました。「フランチャイズ」という言葉には商業的な響きがあり、地域への根ざしを表すには「ホームタウン」がふさわしい。「サポーター」という呼び名には、クラブを一緒に支える仲間という意味が込められています。ひとつひとつの言葉に、彼は理念を宿らせました。名前が変われば、人の意識が変わり、意識が変われば文化が生まれる。川淵さんは、それを直感的に理解していました。

この思想は、1996年に「Jリーグ百年構想」というスローガンに結晶します。掲げられた理念は、「地域に根ざしたスポーツクラブをつくること。そのクラブを、スポーツ文化の担い手とすること。そして、スポーツを通じて、地域から日本を、世界を、幸せにすること」でした。目先の勝敗や興行収入ではなく、100年先の文化を見据える。この途方もなく長い時間軸こそ、川淵三郎という人物のスケールを表しています。実際、この構想はサッカーの枠を越えて、のちにバスケットボールをはじめ日本のさまざまなスポーツの手本になっていきました。

7. 巨人は要らない ― 理念と痛みの11年

川淵さんがJリーグのチェアマンを務めたのは、1991年から2002年までの11年間です。この間、リーグは順調に発展しただけではありませんでした。理想と現実のはざまで、いくつもの苦しい判断を迫られました。

川淵さんの有名な言葉に「Jリーグに巨人は要らない」があります。プロ野球では、読売ジャイアンツという圧倒的な人気球団が中心にあり、その巨人を軸にリーグ全体が回る構造でした。地上波のテレビ中継も、巨人戦に集中していました。川淵さんは、この一極集中の構造をよしとしませんでした。特定の一強がすべてを引っ張るのではなく、全国のどのクラブにもチャンスがあり、どの地域も主役になれる。そういう分散型のリーグを、彼は目指したのです。この発言は、既存のスポーツ興行のあり方への、はっきりとした異議申し立てでした。

しかし、理念を掲げるだけでは、経営は回りません。Jリーグの初期の熱狂が落ち着くと、多くのクラブが経営難に苦しむようになります。そのなかで起きたのが、川淵さん自身が「最大の汚点」と認める出来事でした。1998年、横浜フリューゲルスというクラブが、親会社の経営悪化を受けて、横浜マリノスに吸収合併されることになったのです。ひとつのクラブが消滅する。地域と市民のためのリーグを目指したはずが、その理念を守りきれなかった。川淵さんは今もこの一件を悔やみ、「どうして存続させられなかったのか」と語っています。

一方で、クラブを救った経験もあります。2000年、経営危機に陥ったヴァンフォーレ甲府を救うため、川淵さんは山梨県に自ら乗り込み、地元の主要な株主を一軒一軒回って支援を訴えました。リーグのトップが、いち地方クラブのために頭を下げて歩く。この泥くさい行動力こそ、古河電工の営業時代に培ったものでした。ヴァンフォーレ甲府はこの支援を経て存続し、のちに地域に愛されるクラブへと成長していきます。

理念と現実。理想を掲げながら、目の前の火を消して回る。川淵さんの11年は、その繰り返しでした。2002年7月、日韓ワールドカップの熱気のなか、彼はチェアマンの座を退きます。

8. 「キャプテン」と呼ばれた会長 ― 日本サッカー協会時代

Jリーグのチェアマンを退いた2002年7月、川淵さんはそのまま日本サッカー協会の会長に就任します。日本サッカーの頂点に立ったわけです。

このとき、川淵さんは面白いことをします。会長という堅苦しい肩書きを、自分の代に限って「キャプテン」と呼ばせたのです。上から統べる「会長」ではなく、チームの先頭に立って一緒に戦う「キャプテン」でありたい。この肩書きひとつにも、彼らしい思想が表れています。言葉で人の意識を変えるという、Jリーグ以来の手法がここでも生きていました。

会長時代の川淵さんは、数々の決断と、そして騒動の中心にいました。日本代表の監督には、ブラジルのスター選手だったジーコを起用します。ジーコ体制の日本代表は2006年のワールドカップ、ドイツ大会に出場しましたが、グループリーグで敗退します。

このドイツ大会をめぐっては、川淵さんは「世紀の失言」と呼ばれる出来事を起こします。2006年6月24日、大会の日本代表が敗退した直後、次期監督にイビチャ・オシムを起用する意向を、記者会見の場でうっかり口にしてしまったのです。まだ正式に決まっていない人事を、しかも当時ジェフ千葉の監督だったオシムの名前を出して漏らしたことは、大きな波紋を呼びました。

批判は、それだけにとどまりませんでした。2006年8月9日には、国立競技場で行われた試合の会場周辺で、川淵さんの解任を求めるサポーターのデモが起きます。集まったのは400人から500人。日本サッカー協会の会長に対して、これほどの規模で辞任を求める声が上がるのは、異例のことでした。改革者はしばしば、変化を望まない人々の反発を一身に受けます。川淵さんも、その宿命から逃れられませんでした。

それでも川淵さんは、組織の透明化を進めます。2005年からは、Jリーグの各クラブの経営情報を公開する仕組みを実現させました。どのクラブがどれだけの収入と支出を持ち、どんな経営状態にあるのかを、外から見えるようにしたのです。数字を隠さず、健全性を市民の監視のもとに置く。この方針は、日本のスポーツ組織のガバナンスの先駆けとなりました。

会長時代の川淵さんは、代表監督人事だけでなく、日本サッカーの土台を広げる仕事にも力を注ぎました。将来の日本代表を育てるため、寄宿制でエリート選手を育成するJFAアカデミーの構想を推し進め、ユース年代の強化に本気で取り組みました。目先の代表チームの勝敗だけでなく、10年先、20年先に花開く選手を育てる。この長い時間軸は、Jリーグ百年構想とまったく同じ発想でした。

2008年6月、川淵さんは6年間務めた協会会長を退き、名誉会長となります。選手として、指導者として、そして経営者として、半世紀近くにわたって日本サッカーの中心にいた男が、ようやく第一線から退いた瞬間でした。しかし、彼の仕事はまだ終わっていませんでした。

協会の要職を退いたあとも、川淵さんはさまざまな分野に足跡を残します。2011年には東京都の教育委員に就任し、子どもたちの教育やスポーツ振興に関わりました。2012年には心の東京革命推進協議会の会長を務め、2013年からは首都大学東京、いまの東京都立大学の理事長として大学経営の舵取りにも携わっています。将棋連盟の理事や、のちには麻雀のプロリーグであるMリーグの最高顧問まで引き受けました。サッカーという枠を大きく越えて、日本社会のさまざまな場所で「組織を良くする」仕事を求められ続けたのです。

9. バスケットボールを救った剛腕 ― Bリーグ創設

70代半ばを迎えた川淵さんに、まさかと思うような大仕事が回ってきます。今度はサッカーではなく、バスケットボールでした。

2014年11月、日本のバスケットボール界に激震が走ります。国際バスケットボール連盟、FIBAが、日本バスケットボール協会に対して資格停止処分を下したのです。これにより、日本の男女代表チームは国際大会に出場できなくなりました。オリンピックにも世界選手権にも出られない。スポーツ組織にとって、これ以上ない非常事態です。

処分の背景には、根深い問題がありました。日本には、男子のトップリーグが2つ存在し、2005年以来およそ10年にわたって分裂したまま対立していたのです。ひとつは実業団を母体とするリーグ、もうひとつはプロ化を目指すリーグでした。両者はまとまらず、協会のガバナンスは機能不全に陥っていました。FIBAは、この分裂の解消と組織改革を強く求めていました。

この難局に、外部から送り込まれたのが川淵三郎でした。2015年1月、FIBAが設置した改革のためのタスクフォース、「ジャパン2024タスクフォース」のチェアマンに就任します。バスケットボール界の人間ではない川淵さんが、いきなりトップに立ったのです。しがらみのない外部の実力者にすべてを託す。それだけ事態が切迫していたということでした。

川淵さんの仕事ぶりは、まさに剛腕そのものでした。10年間まとまらなかった2つのリーグを、彼は短期間で統合へと導きます。長年の対立で凝り固まった関係者を、ときに説得し、ときに押し切って、ひとつの新しいプロリーグにまとめ上げました。かつてJリーグでやってのけたことを、今度はバスケットボールで再現したのです。

2015年4月、新しいプロバスケットボールリーグの運営法人が設立され、川淵さんは初代チェアマンに就任します。翌5月には日本バスケットボール協会の会長も兼任し、25人いた前体制の理事を8人にまで絞り込む思い切った組織のスリム化を断行しました。そして同年8月、FIBAは日本への制裁を解除します。処分からわずか9か月あまりでの解決でした。

2016年、統合された新リーグ、Bリーグが開幕します。川淵さんは同年6月に協会会長を退き、エグゼクティブアドバイザーとしてリーグの門出を見届けました。潔い引き際でした。役目を終えたら、さっと身を引く。これも川淵さんの美学のひとつです。

川淵さんがこの改革でとった手法は、Jリーグ創設のときと驚くほど似ていました。対立する2つのリーグの関係者を一堂に集め、過去のいきさつをいったん脇に置かせ、「日本のバスケットボールの未来のために何が必要か」という一点だけで議論をまとめていったのです。誰が悪かったかを問うのではなく、これからどうするかだけを見る。この前を向く姿勢が、10年ほどきしみ続けた関係を短期間で溶かしました。バスケットボール界の人間ではないからこそ、しがらみに縛られず、まっすぐに正論を通せた面もありました。

改革の司令塔となったタスクフォースは、その後も日本バスケットボール協会の体制づくりを支え続け、およそ10年にわたる役目を終えて2025年に活動を終了しました。川淵さんはこの節目に、「10年間で画期的に変わった」と、日本バスケットボールの成長を振り返っています。ゼロから作るだけでなく、壊れかけたものを立て直す。その両方をやってのけたところに、彼の底知れない実力があります。

このバスケットボール改革の成果は、数年後にはっきりとした形で実を結びます。制裁が解除されて国際大会に復帰した女子日本代表は、2021年の東京オリンピックで、なんと銀メダルを獲得したのです。かつて国際大会にすら出られなかったチームが、世界の頂点争いに加わった。この快挙を見た川淵さんは、涙を流して喜んだと伝えられています。ひとつの組織を立て直すことが、いかに多くの選手の夢につながるか。それを象徴する光景でした。

10. 幻に終わった五輪会長 ― 2021年、48時間の辞退劇

川淵さんの長いキャリアのなかで、最も短く、最も痛みを伴った役職が、実は「就任しなかった役職」でした。

2021年2月、東京オリンピック・パラリンピックの開催を目前に控えたなか、大会組織委員会が揺れていました。会長を務めていた森喜朗元首相が、女性蔑視ととられる発言をして激しい批判を浴び、辞任に追い込まれたのです。次の会長を誰にするか。世界が注目するなかで、この人事は待ったなしでした。

このとき、後任として名前が挙がったのが川淵三郎でした。2021年2月11日、森会長は自らの後任に川淵さんを指名し、川淵さんもいったんこれを受諾します。すでにJリーグとBリーグという2つのプロリーグを立ち上げ、東京オリンピックの選手村の村長も引き受けていた川淵さんは、この難局を託すにふさわしい実績の持ち主に見えました。

ところが、事態はすぐに暗転します。問題視されたのは、決め方でした。本来、組織委員会の会長は、理事会での正式な手続きを経て選ばれるべきものです。それを、辞任する森会長が個人的に後任を指名し、既定路線であるかのように話が進んでいく。この不透明なプロセスに、組織委員会の内部からも、社会全体からも、強い批判が沸き起こりました。

翌2月12日の朝、当時オリンピック担当大臣だった橋本聖子氏が、「後任は組織委員会の理事会で決定されるものであり、今は何も決まっていない」と発言し、川淵さんを後継とする流れにはっきりとブレーキをかけます。同じ日、川淵さんは辞退を表明しました。就任の受諾から、わずか1日あまりのことでした。

このとき川淵さんが漏らした言葉が、事の本質を突いています。「外堀が埋まっていて、断れる状況じゃなかった」。まわりが勝手に話を進め、逃げ場がなくなっていた。長年、自分の意思で組織を動かしてきた川淵さんが、めずらしく人に流された結果でした。80代半ばの大先輩を、いわば体よく担ぎ出そうとした周囲の思惑があったことは、否めません。

結果として、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長には橋本聖子氏が就任します。川淵さんにとって、この48時間の出来事は、輝かしいキャリアのなかの数少ない苦い記憶となりました。しかし同時に、批判を受けて速やかに身を引いた判断は、いさぎよさの表れでもありました。しがみつかない。それもまた、川淵三郎という人物を語るうえで欠かせない一面です。

11. 「時期尚早と言う人間は…」 ― 語録に宿る哲学

川淵三郎という人物を理解するうえで、彼の残した言葉ほど雄弁なものはありません。数々の語録は、そのまま彼の行動原理を言い表しています。

最も有名なのが、冒頭にも紹介したこの言葉です。「時期尚早と言う人間は、100年たっても時期尚早と言う。前例がないと言う人間は、200年たっても前例がないと言う」。新しいことを始めようとすると、必ず「まだ早い」「前例がない」という声が上がります。川淵さんは、こうした言葉を、変わりたくない人が変化を先延ばしにするための口実だと見抜いていました。だからこそ、その手の慎重論には決して屈しませんでした。プロサッカーリーグも、バスケットボールのリーグ統合も、すべて「時期尚早」「前例がない」と言われながら成し遂げたものです。

もうひとつ、彼の仕事観を表す言葉があります。「できないことにチャレンジして、できるようにする。それを仕事という」。すでにできることを繰り返すのは作業であって、仕事ではない。できないと思われていることを、できるようにしてこそ、本当の仕事だ。この考え方が、彼を次々と困難な役職へと向かわせました。

こうした言葉の裏には、即断即決の行動スタイルがありました。川淵さんは、悩んで立ち止まるより、決めて動くことを優先する人でした。そのやり方は、周囲からしばしば「ワンマン」「独裁者」と評されました。会議で全員の合意を待つのではなく、自分が正しいと信じた方向へ、ぐいぐいと組織を引っ張っていく。反発も多く、敵も作りました。

けれども、その「独裁者」ぶりには、はっきりとした裏づけがありました。ひとつは、古河電工の営業時代に鍛えられた交渉力と人心掌握術です。海千山千の商人を相手に信頼を勝ち取ってきた経験が、スポンサーや自治体、政治家との折衝で生きました。もうひとつは、私利私欲のなさです。川淵さんが強引に物事を進めるのは、いつも自分のためではなく、競技全体の未来のためでした。だからこそ、多くの人が最後には彼についていきました。強い決断力と、私心のなさ。この2つがそろっていたからこそ、彼のワンマンぶりは組織を壊すのではなく、組織を生み出す力になったのです。

阪神タイガースの熱烈なファンであることや、将棋連盟の理事、麻雀のMリーグの最高顧問まで引き受けるなど、川淵さんには意外なほど幅広い顔があります。勝負事とチーム作りへの尽きない好奇心が、80代、90代になっても彼を動かし続けました。

12. 89歳のいま ― 未完のバトン

川淵三郎さんは、その功績によって数多くの栄誉を受けています。2009年には旭日重光章を、2015年には文化功労者に選ばれ、2016年には国際オリンピック委員会からオリンピック功労賞を授与されました。そして2023年には、文化勲章を受章します。スポーツの世界からの文化勲章は極めて異例であり、彼の仕事が競技の枠を越えて日本の文化に及んだことを、国が認めた証といえます。

2023年、Jリーグは開幕から30周年を迎えました。あの日、国立競技場で開幕を宣言した川淵さんは、その席で「30年前のこの日、開会宣言で語った夢とは、100年構想を意味していました」と振り返っています。彼が見ていたのは、常に自分が生きているうちには完成しない、遠い未来でした。

いま89歳を超えてなお、川淵さんは日本のスポーツに厳しい目を向け続けています。近年のJリーグに対しては、その現状に苦言を呈することもあります。ラグビーなど他の競技と比べながら、選手や関係者にもっと高い志を求める発言をすることもあります。老いてなお、現状に満足しない。この姿勢は、かつて「時期尚早」を一蹴した若き改革者と、まったく変わっていません。

川淵三郎という人の生涯を振り返ると、そこには一貫した構図が見えてきます。野球少年がサッカーと出会い、2浪しても諦めず、大企業を捨ててリーグを作り、70代でバスケットボールを救い、80代で五輪の重責をいさぎよく退いた。そのどの場面でも、彼は「できない理由」の前で立ち止まりませんでした。前例がないなら、自分が最初の前例になる。時期尚早と言われるなら、自分がその時期を今にする。

彼が作ったのは、Jリーグでもバスケットボールのリーグでもなく、「スポーツは地域と市民のものだ」という、日本社会の新しい常識そのものでした。企業のためのスポーツから、街のためのスポーツへ。この価値観の転換は、いまや当たり前のものとして日本に根づいています。当たり前になったからこそ、それを作った人の苦労は見えにくくなります。

100年構想は、まだ道半ばです。川淵さんが差し出したバトンは、いまを生きる私たちの手のなかにあります。「時期尚早」と言って立ち止まるのか、それとも自分がその時期を作るのか。川淵三郎の人生は、その問いを静かに、しかし力強く投げかけています。


参考文献・出典

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