【カストリ焼酎考】 戦後、闇市で何が飲まれていたのか?④ 東京で飲まれたカストリ焼酎はどこで製造されていたのか?

「2月17日早朝、300名の武装管官が東京・月島に大挙出動しました。
目標はまたもやドブロク退治。人数のわりには戦果は挙がらず、
結局ドブロク5斗、焼酎5升の匂いを嗅いだ程度でした」
当局は激怒した。必ず、かの脱法不埒の酒を除かなければならぬと決意した。当局も人の子である。けれども当局は、首都の番人である。笛を吹き、不法を検挙し暮して来た。巨悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明当局は署を出発し、野を越え山越え、数里はなれた此の月島の集落にやって来た。
■カストリ焼酎は、どこで造られていたのか?
前回ご紹介した小泉武夫先生の著作にこういう一節がある。
昭和二十一年ごろカストリ部落とか、カストリ雑誌、カストリゲンチャーという流行語があった。カストリとはヤミ市に氾濫した密造酒でこれを密造するところがカストリ部落……….
国立国会図書館デジタルコレクション 太字は引用者
さて、“カストリ部落”とは何か?
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濁酒の密造については日本敗戦前の戦争中でも農村地帯で行われていた。警察が地域の行事や集会に現れては宴会をせびり、用意された密造酒で警察官が泥酔。はたまた県庁から役人が出席した会合では「配給の酒が無ければ“翼賛酒(=密造酒)”でもよい」と事前に指示を出し、壇上で「濁酒の密造は許し難い」と演説するも用意された密造酒でへべれけになり、喧嘩沙汰を起こすという一幕もあった。(『戦後農村の実態と再建の諸問題 : 啓明会研究報告』小野武夫 経営評論社 1947年)
しかし小泉先生の言にある闇市と直結した『カストリ部落』は別のものである。密造する場所として挙げられた「カストリ部落」とはなにか? 証言を列挙してみよう。
同じ密造酒でも、ドブロクは米の生産地である農村が産地だったが、カストリ焼酎は、消費地をひかえた都市周辺だった。東京の場合は多摩川や隅田川の対岸に集中しており、たえず警察の取り締まりの対象となった。酒を勝手につくることは禁じられていたうえ、飢餓時代の貴重な主食である米や芋をそうしたことに使用することなどもってのほかで、カストリ焼酎はそれらを犯した二重の非合法のうえになりたっていた。無法の時代にふさわしい存在だったことになる。
昭和二十年十二月復員し、郷里の写真館に技工として住込み、翌二十一年六月独立して写真業を開業いたしましたが、思わしくないので、僅か四分月で店を畳んで同年十一月上京し、一時浅草公園で靴磨きを始めました。又、生活を支えるために翌二十二年四月からは、朝鮮人より粕取焼酎を仕入れてきて、取締の眼をかすめては方々の屋台飲屋に売って歩きました。
国立国会図書館デジタルコレクション
あの頃、うちで焼酎つくってたですがね。米がないときだから、さつまいもで作るんですよ、蒸溜してね。この中に、軍が燃料に使っていたアルコールで、メチールっていうのがあるんですよ。だいたいメチールは飲めないものですがね、これを少し焼酎に混ぜて入れてたんです。これが適量こすと、目がつぶれたり、死因にもなるんですがね。
国立国会図書館デジタルコレクション
朝鮮人集落で密造されていたものが多く、生産地は東京では多摩川や隅田川の対岸に集中とある。『東京闇市興亡史』によれば、
“かつぎ屋”自身の仕入れ先は、米、落花生は総武線沿線の農家、酒は東武(日光線、池袋線)沿線、焼酎は総武沿線の密造地帯、どぶろくは蒲田区羽田付近の密造集落……..
としている。さて、多摩川の対岸、隣県の川崎市も密造が盛んな場所だった。関係機関による摘発が相次いだが、川崎市では現在の川崎区桜木での手入れの際に税務職員の殉難事件も起きている。この事件以降、さらに取り締まりが強化された。

警視庁では、7月30日朝、深川署や東京財務局の応援で総勢400名を動員、江東区深川のどぶろく密造部落を急襲しました。この部落は、毎日2、3石を東京都内に売りさばく大規模な密造所でした。この日、もろみどぶろく70石(注:12.6㎘)をはじめ、カストリ焼酎など500万円近くの証拠品を押収しました。



■どうして朝鮮人集落が主要な密造場所となったのか?
それを調べていたら、現在東京経済大学で全学共通教育センターの専任講師をされている李 杏理(リ・ヘンリ)氏の存在を知った。
博士論文である『在日朝鮮人の濁酒と生活経済:1939-1949』を読みたかったが、その代わり在日本大韓民国民団サイトへの寄稿と論文が一編見つかったので、その中から紹介させていただく。まずはサイト寄稿文から。
(前略)敗戦にともなう解雇が同胞の生活に打撃を与え、濁酒づくりに向かわせた。
日本にいた同胞の8割は帰国を希望していた。だが、すでに土地と生活基盤を失い、政治も落ち着く気配がないために、帰りたくとも帰れなかった。よって、なんとか日本で生きる道を探ったのだ。
かねてより同胞は自らの手で酒をつくってきた。家(カ)醸(ヤン)酒(ジュ)という言葉があるとおり、自家で酒をつくり、客のもてなしにおいても、食事のお供としても重宝されていた。
「ヌルッ」と呼ばれる小麦の麹と米の酒飯をあわせて仕込むのが醸造の基本型であり、これだけで濁酒が出来る。主発酵がおわり、上に浮かび上がっている澄んだ部分が清酒である。そこから醸造を繰り返して精度の高い酒(法酒や薬酒)をつくり、蒸留させて焼酎をつくる。ときにはお好みで木の実や果物、花や樹皮などを加えて、医食ものや味、香りを引き立たせる多彩な酒をつくった。
なかでも、一度仕込むだけの濁酒は、アルコール度数が低い割に腹もちが良く、農民たちが野良仕事の合間に飲むことから「農酒」とも称されている。庶民の手に最も慣れ親しんできた酒が濁酒であったのだ。
このような同胞の文化に根をはった自主的な酒づくりを、日本は「酒税法違反」として取り締まった。
朝鮮民族には濁酒/マッコリを女性たちが自家醸造する文化があった。
論文『脱植民地と在日朝鮮人女性による撹乱 ー「解放」後の濁酒闘争からみるジェンダーー』では、在日朝鮮人が濁酒をつくる背景にはそのようなジェンダー要素もあったとする。

朝鮮人女性は前述のように職能から排除され、失業者対策の公共労働にありつけた場合でも建設や化学工場など危険な日雇い労働にあてがわれた賃金差別があった。「解放」後在日朝鮮人女性は貧窮するなか、濁酒をつくるための知恵と技術があったことに加え、少ない自己投資で製造・売買ができる濁酒に頼みをつないだ。

密造集落の摘発現場を見守る女性。
在日朝鮮人運動の男性リーダーは、「解放民族として」濁酒をやめるべきだとした。それでも女性たちは濁酒をつくり続け、生きる術とした。女性たちが濁酒闘争の先頭にたち、女性運動団体は交渉現場にともに立った。
同時期に神奈川で活動していたリーダーである作家・金達寿は述懐する。
これからは独立する朝鮮人であるのだから、そのような密造酒づくりなどのヤミ行為をしてはいけない、そんなことをして朝鮮人としての体面を汚してはならない〔と考えた〕。私は「朝連(注:朝鮮人連盟)の執行委員会でもそのことを強く主張し、そのようなヤミ行為はわれわれの手で自治的に取り締まるべきだとした。・・・・・だが、それは私のロマンティシズムか、センチメンタリズムにほかならなかった。なぜかというと、戦争直後というのは、ひとり在日朝鮮人と限らず、総ヤミ行為の時代だったからである。人々はそういうヤミ行為がなくては、生きて行くことができないという現実を、私は知らなかったのだった。在日朝鮮人はなおも・・・・密造酒のカストリ焼酎をつくったりしなくてはならなかった。(金達寿 1998、146-148頁)

■生きること、生き抜くこと、そのものが犯罪だった時代。
金達寿氏が「戦争直後というのは、ひとり在日朝鮮人と限らず、総ヤミ行為の時代だったからである。」と語ったのは正しい。
山岡 明氏が著作のタイトルにした通り、だれであれ“生きることが犯罪だった”時代、私の祖父母や父母も配給では足りず、闇市と買い出し列車、タケノコ生活のおかげで敗戦後をなんとか生き延びた。そして私が今在る。
昭和20年に入ると、7月1日に主食の配給は一割減となり、一日二合一勺になった。それも現物が入荷せず一日わずか七勺しか配給にならなかった。副食も入手難であったのだから、ヤミで生き延びるか、餓死しろと二者択一を追られているというのに等しかった。事実、敗戦をきっかけとして、食糧事情はますます悪化した。
(中略)
私たちは三食、お米のご飯を口にできなかった。誰もが慢性飢餓状態となっていた。米軍の本土進攻に備えた防衛部隊でさえ、食糧が不足を告げ、やせ細った兵士が力なく築城作業を続けていたが、恐らく米軍が上陸したら、体力的に戦えなかっただろう。鉄の規律の軍隊内で食べ物泥棒が横行した。食糧確保のため、兵士が海へ魚とりにいったり、畠を耕し、野草摘みにくり出した。
山口判事の餓死に私たちは強いショックを受けた。11月6日付の朝日紙「天声人語」は、「西尾国務相も東海道の街頭国会で『私もヤミ買いしている』と告白し、苫米地運輸相の家には知らぬうちに米俵が届き黒字安本長官(注=和田博経済安定本部長官)もいよいよ肥っている。清節に死する大バカ者が伯夷叔斉の世ならずとも一人くらいあっても不思議はない。モラルの栄養失調の現代にモラルの栄養を与えてくれる」と述べた。
(中略)
配給だけで生きようとした判事らのいた半面、こんな事件も起きた。昭和20年10月、大阪検事局が敗戦直前、押収したヤミ砂糖二千三百四貫(九十六袋/8.6トン)を払下げ処分にして内部で”特配”した事件が表面化、責任者の引責問題が起こった。内部特配は検事一人八貫目(30㎏)、書記四貫八百目(18㎏)で、このおすそわけは裁判所関係や警察官へもまわったとある。
次回は、闇市で飲まれた粗製の酒の種類と原料について探ってみる。
本稿は1945年の日本敗戦直後に出版された著作や資料などからも引用しています。そのため当時使われていたものの現在では差別的語彙として捉えられる言葉・用語が出てきます。歴史資料ですのでそのまま引用しますが、引用者としては差別的言辞に賛同するものではありません。
