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実は頼みの綱だった対米貿易──画商たちのサバイバル作戦

📘 このシリーズでは、「五郎さんがえらくこだわっているモネと後妻アリスの関係を深掘りしてみたら、当時のブルジョワ社会の解像度が一気に上がった」という視点から、モネをとりまく人間関係・経済・社会構造を多角的に読み解いています。

🖼️ 今回は「アメリカの財力に頼らざるを得なかったフランス画商たち①」。19世紀後半、アメリカ人たちは大量にフランス近代絵画を買い集めていました。けれどその裏で、「売る側」であるフランスの画商たちは、なぜ遠く離れたアメリカ市場にまで活路を求めざるを得なかったのでしょうか?



実はアメリカ人客の来訪を待ち望んでいたフランスの画商たち

アメリカの富豪たちの美術品蒐集熱を支えていたのは、言うまでもなく画商たちでした。「フランス的なもの」への憧憬は多くの外国人をパリへと引き寄せましたが、同時にパリの画商たちも、アメリカ人好みの作品を取り揃え、彼らが訪ねてくることを心待ちにしていました。

というのも、自由経済のもとで財を成したアメリカの大富豪たちが、自国に欠けている文化芸術を購買力に任せて大量に買い集めていた一方で、フランスの美の商人たちは、金回りのよいアメリカ人たちに多くの美術品を売ることで、なんとか生き延びねばならない状況にあったからです。

いったい当時のフランスで何が起こっていたのでしょうか?

《1873年5月9日のブラック・フライデー、ウィーン証券取引所》(1873年、ディ・プレッセ誌掲載の木版画)。
1873年恐慌は欧米各国を巻き込んだ金融危機であり、その最初の兆候は、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンにおける財政破綻だったとされています。皮肉なことに、このときウィーンでは、日本が明治政府成立後、初めて公式参加した万国博覧会が、華やかに開幕したばかりでした。

革命と不況の連続が蝕んだフランス美術市場

フランスは18世紀末から19世紀にかけて、フランス大革命、7月革命、2月革命と幾つもの革命を経験しました。この過程で、多くの国家遺産級の美術品が美術館に収められる一方、地位を失った旧支配階級の者たちが保有していた夥しい量の美術品が市場へと流出していきます。

続く第二帝政期には、ナポレオン3世主導の急速な経済近代化とブルジョワの台頭が進みましたが、普仏戦争の敗北によって政権はあえなく崩壊。この戦争はフランス経済、とりわけ美術市場をほぼ壊滅させたとまで言われています。

さらに第三共和制下では、1873年恐慌に始まる長期不況と慢性的なデフレが続き、トドメとなった1882年の株価暴落では、デュラン=リュエルのメインバンクでもあったユニオン・ジェネラル銀行が破綻。伝統的な美術品収集家層を直撃したこの出来事は、画商たちにとって決定的な打撃となったのです。

ユニオン・ジェネラル銀行の20,000フラン債券(©︎フランス銀行)。
1878年にリヨンで設立されたユニオン・ジェネラル銀行は、カトリック系や王党派の貴族・富裕層の資金を背景に、ユダヤ系・プロテスタント系資本による大手銀行に対抗しうる「カトリック銀行」を築くという野心から誕生しました。しかし、過度な投機によって資本構成が脆弱化し、株価下落が引き金となって破綻に追い込まれます。 この破綻は銀行間の相互接続を通じて連鎖反応を引き起こし、パリ全域の銀行危機へと発展、フランス全土の経済に深刻な影響を及ぼしました。当時の人々は、この大暴落を単なる経済的失敗としてではなく、「自由主義的な左派」と「保守的・正統主義的な右派」とのあいだに生じた、金融的かつ政治的な闘争の結果として受け止めていました。 この事件は、フランス社会における「古いカトリック的価値観」と「新しい金融資本」との衝突を象徴する出来事でもあり、その緊張関係は、舞台設定こそ第二帝政期ではあるものの、エミール・ゾラの小説『金』にも色濃く反映されています。

こうなると画商たちはいよいよ新しい客層を開拓せねばやっていけません。新興ブルジョワの購買力も、このように社会的・経済的混乱が常態化した状況ではあまりに頼りなく、増え続ける芸術家(1860年から1900年の40年間で約190%増加していました!)の作品が売れるだけの国内市場の拡大発展などおよそ期待できない状況だったからです。

それだけではありません。フランス国内では、美術市場をめぐる競争の質そのものが変わり始めていました。

国外ディーラー参入が加速させた美術市場のグローバル化

実は、「芸術の都」として認知されていたパリには、国外の画商たちも少なからず参入してきていたのです。国境を超えて欧米の超富裕層を顧客につけていたウィーン出身の画商シャルル・ゼーデルマイヤーはその好例と言えます。彼のように国内外の市場を渡り歩き、各国のコレクターを顧客に持ち、彼らの嗜好にも通じたコスモポリタンの画商たちは、そうでなくても競争が激化しているフランスの美術市場において脅威でしかありません。彼らに対抗していくためにも、フランスの美術商たちも国内市場だけを見てビジネスをしているだけでは生き残れない時代に突入していたのです(この傾向は今日の現代アートに関しても該当していますね)。

(左)ジョン・プレスコット・ナイト《エルネスト・ガンバールの肖像》(19世紀、アトキンソン・アートギャラリー)、
(右)ムンカーチ・ミハーイ《シャルル・ゼーデルマイヤーの肖像》(1879年、ハンガリー国立美術館) 。
ベルギー出身の画商エルネスト・ガンバール(1814–1902)は、パリで印刷業・製紙業者として成功したのちグーピル商会に合流。1840年にロンドンへ移住して同商会の支店を立ち上げ、その後は独立して出版業を興すとともに、画商としても大成功を収めた有能な人物です。 一方、オーストリア出身のシャルル・ゼーデルマイヤー(1837–1925)は1866年以降パリを拠点に活動。ウィーンの蒐集家のための作品収集、グーピル商会のためのオーストリア系アーティストの発掘、ドイツ語圏の美術館への作品売却などを手がけ、さらにはアメリカ市場への進出も試みるなど、国境を越えて広範囲に活動した画商でした。

したがって、新たな市場としての国外市場の開拓は、画商たちにとってもはや必須課題となっていました。デュラン=リュエルがパリ・コミューン時にロンドンでギャラリーをオープンしたのも、グーピル商会が世界の主要都市にネットワークを広げたのも、このような時代の荒波に対処するためでした。

そしてその延長上にあったのが、新興国であるアメリカ市場への進出です。つまり、対米貿易は単なる拡張戦略ではなく、ヨーロッパ美術市場の衰退という現実のなかで、画商たちが選び取らざるを得なかったひとつの生存戦略だったのです。

次回は、アメリカ市場に一番乗りした画商を取り上げます──
(つづく)

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