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揺れるふたつの家族 ── モネとオシュデ、それぞれの岐路

📘 このシリーズでは、「五郎さんがえらくこだわってるモネと後妻アリスの関係、👉 深掘りしてみたら… 当時のブルジョワ社会の解像度が格段に上がった!」というテーマを軸に、モネをとりまく人間関係・経済・社会構造を多角的に読み解いています。

🖼️ 第6回の今回は、いよいよ「モネと後妻アリスの関係」が育まれていく経緯を詳しく追っていきます。パトロン・オシュデ氏の郊外の邸宅に住み込みで作画を進めるモネと、夫の不在中、その邸宅で彼を見守るアリス。一方で、モネの妻カミーユは病に冒され、徐々に弱っていきます。



“愛妻家”モネの裏側 — カミーユとアリス、交錯する運命

モネが後に後妻となるアリスと親しくなったのは、彼女の夫であり、当時モネのパトロンであったオシュデ氏から、シャトー・ロッテンブールの円形広間を飾る大画面絵画4点を依頼された1876年8月末のことでした。この制作には約4カ月かかったとされています。モネは多作な画家でしたが、当時1.5メートルを超える大作はほとんど制作しておらず、これだけの大画面にはかなりの時間を要したと考えられます。これほどの大作は、直近では1876年4月の第2回印象派展に出品された「ラ・ジャポネーズ」程度でした。

「ラ・ジャポネーズ」は、モネが妻カミーユに日本の着物を着せて描いたジャポニスムの作品で、日本人にはなじみ深い絵画です。

クロード・モネの『ラ・ジャポネーズ』(1876年、縦231.8 cm × 横142.3 cm、ボストン美術館)は、1875年10月頃から制作が始められたとされるこの大作は、1876年4月の第二回印象派展に出品され、同月、パリの競売所オテル・ドルオーで2,020フランという高値で落札されました。

五郎さんはよく、画家が奥さんにコスプレさせて絵のモデルとして描くときは、画家が奥さんにラブラブな証拠だとおっしゃっています。確かにこの愛らしいカミーユの笑顔を見ていると、五郎さん説には説得力があります。でも、そんなにカミーユにラブラブだったモネが、その数カ月後に後妻となるオシュデ夫人と出会ってしまったと思うと、なんだか皮肉な気もします。

ところで、モネがアリスが親交を深めることになったシャトー・ロッテンブールでの大広間用装飾画の制作中、モネの妻カミーユはどこにいたのでしょうか? モネは完全に「単身赴任」状態だったのでしょうか?

このような疑問がふと湧いたのには理由があります。モネがモンジュロンに招待される前に、同じくシャトーに招待され、やはり何点かの作品を制作しているマネは、どうやら夫妻で招かれていたらしいからです。

モネが1875年に制作した「部屋の一角」(オルセー美術館)に描かれているのは、当時9歳だった長男ジャン。この作品は、1877年の第3回印象派展に出品されました。

ただ、仮にモネもカミーユとともに招待されていたとしても、制作期間中の数カ月間ずっと滞在していたとは考えにくいでしょう。当時10歳だった長男ジャンは新学期が始まれば学校に通わなければなりません。そのため、カミーユはジャンとともにアルジャントゥイユの家で過ごしていた可能性が高いと考えられます。

事実、1876年11月上旬にモネがモンジュロンから蒐集家で医師のド・ベリオ氏宛に送った手紙の記述は、この仮説をある程度裏付けています。モネはこの手紙の中で、同氏に「アルジャントゥイユに一人で行って欲しい作品を選んでほしい」と勧めるとともに、『日傘を差す女』に興味を持っている婦人を説得して購入してもらうようお願いしています。そして、その売上は「金銭を残さずに置いてきた妻を喜ばせるだろう」と述べています。さらに、「妻に100フランほどの小額の前借りをお願いできないか」とも相談しています。

モネの『散歩、日傘をさす女性』(1875年、ワシントン、ナショナルギャラリー)は、1876年の第二回印象派展に出品され、同年11月上旬にモネが手紙で「ラスティ氏の義母を説得し、『日傘をさす女』を購入してもらえないか」と書き送った相手であるド・ベリオ医師が購入しました。

つまり、モネがモンジュロンで装飾画を制作している間、妻カミーユは夫から十分な生活費を与えられないまま、アルジャントゥイユで息子と生活していたことになります。

ここで(個人的な興味というより、五郎さんの関心にお応えする意味で🤭)、少し”踏み込んだ”計算をしてみます。アリスが第6子ジャン=ピエールを出産したのは1877年8月22日。このことから、受胎時期は1876年11月半ばと推定されます。つまり、モネが父親である可能性も否定できません。ただし、それを証明する確かな資料は残されていません。

運命に揺さぶられる二家族 — 妻の病に打ちひしがれるモネ、破産に直面するオシュデ

いずれにせよ、1876年後半から1877年にかけてカミーユの体調は急激に悪化していったようです。モネがカミーユの容体について悲痛な声を上げる手紙が数多く残されています。そのカミーユが第2子ミシェルを出産したのは1878年3月17日。この第2子は、1877年6月末頃に受精したと考えられます。カミーユは健康が優れない状態で妊娠し、妊娠後期にはさらに体調を崩していきました。モネが医師に助けを求める手紙を頻繁に送っていたことからも、その深刻さがうかがえます。

モネがアルジャントゥイユで住んでいた2軒目の家のベランダで刺繍をするカミーユを描いた
「刺繍をするカミーユ」(1875年、バーンズ財団美術館)。

しかし、カミーユの出産を2カ月後に控えた1878年1月中旬、モネ一家はアルジャントゥイユから引っ越しを決行しています。

一方、オシュデ氏は、アリスが第6子を出産したわずか4日後の1877年8月24日に破産宣告を受けました。6人の子供を抱えるオシュデ家にとって、出産は喜ばしい出来事であると同時に、経済的にさらに厳しい現実を突きつけるものとなりました。

このような経済的問題を抱える両家が、なぜか1878年9月に共同生活を始めることになるのです。この展開には驚くばかりです。

次回は、両家が一緒に住むに至る経済的背景を詳しく探っていきたいと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


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