実は火の車だった😳 ── 派手好きプティの台所事情(番外編)
📘 このシリーズでは、「五郎さんがえらくこだわっているモネと後妻アリスの関係」を手がかりに、当時のブルジョワ社会の構造を多角的に読み解いています。
🖼️ 今回は「モネの『市場価値』の実像」シリーズ第4回目・第1部の最終回となる「アート市場の主導権を握った戦略家たち──近代画商のビジネスモデル進化論④」で紹介した“プレステージを売る社交人”ジョルジュ・プティの番外編です。華やかさの演出コストの実態に迫ります!
華やかさの代金─野心が“身の丈”を超える時
1882年、パリのマドレーヌ寺院近くの一角に超豪華なギャラリーをオープンし、展覧会や競売、社交行事を盛んに行って話題を集めていた画商ジョルジュ・プティ──。その華やかさには、社交界とはあまり縁のなかった「都会から田舎に移った実業家」然としたモネさえも商機を感じ、熱心に売り込みをしていたほどです。

ただし、「モネの財産はどのように築かれたか?」の回で紹介したように、モネがプティと取引していた期間は、デュラン=リュエルと比べると非常に短いのです。記録から1885年、1886年、1887年、1889年、1899年の展覧会に参加していたことが分かっていますが、1900年以降はモネの書簡にも台帳にも、プティとの取引を示す記録は見られません。
1880年代半ば以降、モネの名声も高まり、絵画の価格も高騰し続けていたので、売れ筋ならなんでも扱うプティの関心が離れたとは考えにくいのに──不思議です。
でも実はその理由、もしかしたらプティの支払いの遅さにあったのかもしれません。モネは書簡でたびたびこれを愚痴っていて、もしかしたら画家の方から愛想を尽かしてしまった可能性さえありそうだからです。
では、なぜそんなに支払いが遅かったのでしょう?
──実はプティ、1920年に64歳で亡くなるまでこのギャラリーを拠点に活動を続けていましたが、1895年にはすでにこっそりと事業を清算していたのです。しかも破産関連の書類からは、「セーズ通りの展覧会宮殿」と称えられた豪華ギャラリーをオープンした1882年当初から、すでに財政難が始まっていたことが明らかになっています。なんということでしょう!

一般的に当時の画商は、在庫資金を確保するため、建物を賃借して運営するのが通例でした。ところがプティは土地を購入し、自邸を兼ねた展示館を建設するという、大胆な不動産投資に踏み切っていました。
これは──資金さえ潤沢にあれば、という条件付きではありますが──時代の潮流を的確に捉えた先見的なプロジェクトでもありました。何しろ1880年代初頭といえば、国家による美術展示の独占が終わり、個人による展覧会活動が活発化した時期です。ギャラリーという「場」の存在自体が、作品と同じくらい重要になり始めていたのです。
だからこそ、プティはこの豪華なギャラリーで盛んにイベントを開き、華やかさを全力で演出していたのでしょう。
1882年の新聞には、次のような記事が掲載されています。
「ジョルジュ・プティ氏は、芸術家と愛好家が出会うことのできる真の芸術の中心地を自らの館の中につくるという夢を抱いていた……。今後ここでは、展覧会や著名コレクションの公開競売が開催されるであろう。」
しかしあいにく1882年といえば、フランスの株式市場が暴落した年でもあります(この暴落で株式仲買人だったゴーギャンが失職し、画家に転じたことはよく知られるエピソードです)。
予想以上に膨れ上がった建設費に加え、株価暴落の影響がのしかかりました。さらに──控えめに言っても収入を上回る華美な生活とギャラリー運営に加えて、1890年代には莫大な初期コストを要する複製印刷事業まで事業多角化の一環として始めていたのです。
当然ながら、家計は逼迫していきました。
このように、華やかさの背後で火の車のような自転車操業をしていた──これは実は、経営者“あるある”の話でもあります。
ちょっとお下品かもですが(🤭)、プティ家の台所事情をもう少し覗いてみましょう。
高すぎた不動産投資─実は破産の原因だった豪華ギャラリー
絵画販売とともに競売場の鑑定人としても信頼を得ていたフランシス・プティ。その父の死を受けて事業を継いだジョルジュ・プティが、長年店を構えていたドルオー競売場近くのサン=ジョルジュ通りからマドレーヌ地区へ移転を決めたのは、1881年初頭のことでした。

マドレーヌ地区は、オペラ座やプランタン百貨店などが集中する商業エリアで、美術市場とはあまり縁のない多種多様な商店が立ち並んでいました。ただし、シャンゼリゼ通りや年次美術展の会場に近く、美術商たちが次第にパリ西部へと移動し始めていた時期でもありました。
プティのこの地理的選択は、一種の賭けだったと言えるでしょう。
彼はマドレーヌ地区の一角の土地を約79万〜95万フランで購入し、総面積1,400平方メートルに及ぶ広大で豪華な建物を新築します。住居・事務所・展示室を備えた複合施設で、建物群は中庭やガラス張りの通路、廊下で結ばれていました。目玉であるメイン展示室は約400平方メートル、小規模な展示室がその向かいに配置されています。長い廊下の先に大階段を設けるという劇場的な演出は、当時ロンドンで話題をさらっていたグローヴナー・ギャラリーを意識したものでした。
プティの新建物は展示空間であると同時に、実質的には不動産投資としての側面も持っていました。建設費はおよそ240万〜300万フランとされ、工事は1883年2月に完了しています。
しかしこの金額は、彼が父親から相続した遺産額を大きく上回っており、「手持ち資金を使い果たした」うえでの融資頼みの計画でした。実際、抵当登記簿によれば、プティは1881年1月から1895年4月の間に合計36件の抵当債務を負い、その総額は400万フランを超えていました。1882年には早くも最初の銀行借入(100万フラン)を余儀なくされています。
つまり、戦略的に先を見越して土地を購入し、自邸兼展示館を建てるというプティの決断は、大胆で野心的ではあったものの、財務基盤は脆弱で、費用を回収する明確な見通しもありませんでした。
画商として年間160万フランを稼ぎ、展覧会場や競売会場としてのギャラリー賃貸でも一定の利益を上げてはいたものの、株価暴落から2年後の1884年には経営が赤字に転落します。
さらに、年間800万フラン規模と言われたアメリカとの取引も、1890年の関税法(昨今話題の「マッキンリー関税」ですね😊)によって壊滅的な打撃を受けました。

損失を補おうと立ち上げた印刷事業は5〜6万フランの利益を生んではいたものの、負債返済には到底足りません。こうしてプティは多額の負債を抱え、1893年7月には建物が差し押さえられ、その後、画廊は清算に追い込まれました。
1895年6月26日、破産を申請したプティの所有不動産は、同年8月31日にわずか130万フランで売却されてしまいます。
ところが──です。
もはやプティの所有ではなくなったにもかかわらず、彼のギャラリーは表向きには何事もなかったかのように営業を続けていたのです。
一体どういうことでしょうか?
ビジネス多角化の裏事情─財政難ゆえの”副業”開拓だった?
建物の差し押さえと事業清算が行われた後も、実は「ギャルリー・ジョルジュ・プティ」は、事業形態を変えながらも表向きには何事もなかったかのように再スタートしていました。
1895年6月には「建物を取得・所有し、その他の不動産を開発・賃貸・再販売すること」を目的とした《セーズ通り不動産会社》が、同年8月にはギャラリーの商業活動を運営する《芸術展示販売会社》が設立されます。
債務から解放されたプティは、これらの新会社のもとで「雇われ支配人」として再びギャラリーの運営に携わっていました。
数々の経営失敗にもかかわらず、彼の社交的な人格と名声が債権者の和解を導き、将来の利益分配を条件に事業継続が許されたのです。つまり、洗練された社交家プティにとって、築き上げた信頼と名声こそが「資本」であり、最大の販売力だったのです。

こうして見ると、もし無謀な不動産投資さえなければ、プティは比類なき画商になっていたのではないか──そんな思いさえ抱かせます。
しかし裏を返せば、火の車のような財政難こそが、彼をして「売れ筋」狙いの商法やビジネスの多角化へと駆り立てたとも言えるでしょう。
破産資料からは、プティの活動がいかに多岐にわたり、複雑であったかが浮かび上がります。
不動産投資は、流行や制度的・社会的変化に対して商業的に敏感であった彼の野心を物語っています。モネが出品を希望した国際展の開催や、アメリカとの積極的な取引も、国内外で新たな市場を開拓しようとする彼の努力の証でした。
なかでも注目されるのが、展覧会開催にあたりアーティストからかなりの賃料を取るという仕組みです。財政難の中で生まれた苦肉の策だったかもしれませんが、結果として斬新なビジネスモデルとなりました。
実際のところ、プティの“売れ筋狙い”とは「場所代を支払う意思のある者なら誰でも展示できる」方式に近かったのかもしれません。
(ちなみに、1889年開催の「モネ=ロダン展」でロダン作品の配置にモネが激怒したのも、「高額な場所代を払ったのに自分の絵が見えないとは何事か!」というモネらしい怒りだったとも言えます。)

そして何より、400平方メートルを超えるメイン展示室を当時急増していた美術家協会に定期的に貸し出していたことは、財政難の中での極めて賢い経営判断でした。
長期契約による安定収入が見込めただけでなく、同時期に増加していた独立系芸術団体の展覧会(1882年の2件から1898年には26件に増加)により、会場稼働率を最大限に高めることができたのです。
名高いコレクション競売会場としての貸出と合わせれば、この「場の貸出業務」はかなりの利益を生み、さらに多彩なイベントカレンダーを構築することで、ギャラリーを上流市民層にとってのレジャーとスペクタクルの場へと変貌させることに成功しました。
こうして一度は破綻したにもかかわらず、プティは革新的かつ成功した経営者として再び高い評価を得ます。
彼の死後、『ル・フィガロ』はこう讃えました。
「新たな才能を温かく迎え入れ、発表の機会を与える点で、彼に勝る人物はいなかった。彼はまた、同時代に生きた芸術家たちの名声を広め、その不確かな栄達を支え続けたのである。」
『アメリカン・アート・ニュース』も、「パリの“エキスパート”および画商の世界でもっとも人気のある人物の一人」と記しています。
美術複製技術の革新、サロン独占体制の終焉、そして美術団体の乱立──こうした芸術界の変化をいち早く読み取り、巧みに利用したプティ。
大胆な決断を下す反面、資金繰りには脆さがあり、常に新たな事業を模索して落ち着きを知らない起業家。
しかし、顧客を前にすれば比類なき忍耐と礼節で応じ、相手の心を解きほぐす術を心得た社交人。
華やかな見栄と厳しい台所事情のはざまを生き抜いたプティの姿には、時代を超えて通じる“生存の知恵”が感じられます。
皆さんは、このビジネスマン、ジョルジュ・プティからどんなことを学び、感じられるますか?
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