【36歳からの人生の作り方】#18 30代夫と40代妻が「人生最大の賭け」に出た理由
note創作大賞2026 オールカテゴリ部門 応募作品
36歳まで、わたしは「趣味で絵を描いていた専業主婦」に過ぎなかった。
それがイラストレーターになり、46歳で漫画家になり、51歳でインタビューライターになった。気づけば4冊の本を出し、NHKで教え、新聞やテレビ媒体でコラムを書くまでになったのだ。
そして、36歳で離婚し、39歳で9歳年下の男性と再婚した。
36歳の自分に20年後の自分の話をしても、おそらく信じないだろう。
今までわたしが心がけてきたこと、やってきたこと、やらなかったことを、少しずつ書いていきたいと思う。
この冒頭から始まる記事も、今回で18本目となる。
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10秒で読める「前回までの話」
20年前、趣味で絵を描いていた専業主婦のわたし。ライター講座が縁で決まった「ひよこ企画」は、離婚と同時に頓挫したが、代わりに『仏像ぬり絵』の著者として華々しくデビュー。
フリーのイラストレーターとなったわたしは9歳年下男子Yと39歳で結婚。順調に見えた結婚生活だったが、3年目、Yは持病のアトピーの悪化で寝込むようになってしまう。

記憶の中の春は、いつも切ない。
元夫と結婚していたころ、転勤族にとっての春はまるで「ロシアンルーレット」だった。3月20日過ぎに辞令が出て、4月1日から新しい土地に移り住むことさえ珍しくなかった。
自分の築き上げてきた生活が一瞬にして崩れる虚しさ。転勤族ではない今のオットと再婚したときは、もうこれで春が来るたびに耳元に銃を押し当てなくていいとホッとした。
それなのに、再婚して3年目の2011年の春は、それまでのどの春よりも苦しかった。
前倒しの介護生活
アトピー治療の脱ステは生活全般に及び、わたしは精一杯彼の世話をした。
たんぱく質は肉・魚・卵などを含めて、一切摂らないようにしていた。たとえばお弁当には玉子焼きの代わりにカボチャと山芋を混ぜて焼いたものやジャガイモ団子、おひたしなどが定番となった。
石鹸や洗剤も昔ながらの、自然に近いものに切り替えた。衣服にこびりつき、洗濯しても取り切れない薬剤と格闘した。
カバーのこのイラストのように、毎日せっせとスクワランオイルを彼の全身に塗ったりもした。

「なんか介護みたい」という彼に「わたしの方が先に年を取って世話になるんだから、恩を売っておくよ」と返した。「老後はまかせて」と彼。
このときの会話をオットは今も覚えていて「下の世話でも何でもやるよ」と言うのだが、勘弁してほしい。そんなことをさせるくらいなら、わたしゃ先に死ぬよ。
それはさておき、本当によくなるのかもわからないまま、ただ必死だった。すべてが手探りの中で、本で読んで納得できたことはすべて試してみるしかなかったのだ。
それでもしばらく続けると、彼の症状は落ち着いて、会社にも休まずに行けるようになってきた。
本当にしんどかったのは震災後
脱ステから2カ月ほど経った、3月のあの震災の日、彼は会社を休んだ。そのおかげで、帰宅困難にならずに済んだのだった。

震災後、本当にしんどかったのは「元の生活」が戻り始めてからだった。
今までと同じ場所に住み、何も生活は変わっていないはずなのに、世界はそれまでとは明らかに変わってしまったからだ。
それまで信じていた日本という国の輪郭が、ガラガラと崩れて、まったく違った形になったようだった。少なくともそれまでは、日本に生まれてきたことを幸福にも誇りにも思っていた。よい国だと信じていた。
暮らしへの不安だけでなく、我が家にはオットの身体への不安もあった。震災当日、もしも出社していたら、帰宅困難者となっていただろう。当時の彼の体力では、歩いて帰宅するなど不可能だった。
大げさでなく、行き倒れていた可能性すらあった。
朝、オットを見送るとき、もしかしたら生きた彼に会うのはこれが最後なのではないか、そんな不安に駆られるようになった。
平和な毎日にふと浮かんだ疑問
街から物が消え、灯が消えた。何を買えば安全で安心できるのか、誰に聞けばいいのかもわからなかった。
オットと話し合った結果、「世の中が落ち着くまでの間だけ、脱ステを辞めよう」と決めて、隣町の医者に通いはじめた。
以前通っていた都心の病院の医師は流れ作業的にステロイドを出すだけだったが、この医師はきちんと治療法を説明してくれた。
そして彼の体調は戻り、我が家は少しずつ平穏な日常に戻っていった。
そのまま日々が過ぎていき「あれ?これでよかったんだっけ?」とふと我に返った。いや違う、そうじゃない。
わたしたちは、もう一度彼のアトピーを抜本的に見直そうと話した。そして、どちらからともなく同じことを口にした。
「このまま、東京に住んでいていいのだろうか」
絵を描かないわたしと写真を撮るオット
2人とも感じていた。このまま東京で激務の中、脱ステを続けるなんて不可能だと。
(何より彼を休ませてあげたい。好きなことに挑戦させてあげたい)
好きなこととは、「写真」だった。

付き合い始めた頃からわたしは、彼がおもしろい写真を撮ると感じていた。でもそう感じたのはわたしだけではなかったようだった。
前年の2010年、わたしがよく出展していたギャラリーで、イラストレーターを中心として発足した写真部に、2人で参加するようになった。写真部ではゲスト講師を招いてワークショップを開催した。また、部長の紹介で、新聞社の専属カメラマンが主宰する撮影会にも顔を出した。
たいてい、カメラマンの先生はオットに目をかけてくれて、彼は丁寧な助言をもらっていた。
また、写真部のグループ展では、まったく知らない人が何人も彼の写真のポストカードを買ってくれて、彼のポストカードの売上は最高額を記録した。
彼は月に一度しか休めないような激務の中でも、驚くほどたくさんの写真を撮っていた。それに引き換え、自分は帽子ばかり作っていて、数日まったく絵を描かないこともあった。

名古屋行きを決める
イラストレーターにとってのイラストは筋トレやバレエのバーレッスンのようなもので、毎日描かなければ、簡単に筋力は失われてしまう。
「こんなに絵を描かないわたしが、イラストレーターとしてのほほんと生きているのに、こんなに写真を撮っている彼がカメラマンじゃないなんて、おかしいんじゃないだろうか」
また、2011年ごろは、SE(システムエンジニア)余りの問題もあった。彼も現実的に自宅待機を命じられ、給料が6割に減額される可能性もあって、先行きには不安しかなかったのだ。
そうして、わたしの実家の母とも相談した結果、オットは会社を辞めて、名古屋で写真の専門学校に通うことになった。
オット、33歳からの再出発だ。わたしも42歳になっていた。
学校に行って、本当に彼がモノになるかどうかは未知数だった。それでも、わたしは信じていた。わたしたちは「この賭けに絶対に勝てる」と。
このときは、いつか東京に戻ってくるつもりだった。
わたしたちは東京が嫌いなわけでもなく、東京で夢破れたわけでもない。ただ、今は少し離れるだけ。そう思っていた。
まさか、引っ越し後に、あんな地獄が待ち受けているとも知らずに。
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20年間のフリーランスとして培ったノウハウを余すことなく書いたnoteを集めたマガジン
出版するためにどうすればいいか?について書いたnoteをまとめたマガジン
このシリーズをまとめたマガジンです。
当時のアトピー治療についての詳細を描いたコミックエッセイです。
電子版はコチラ
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