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指導案検討は「文字を読む会」から「授業を見る会」へ変わる。AIで全14時間を板書化して感じたこと

研究授業を経験したことがある先生なら、「指導案検討」に参加したことがあると思う。

授業者が作った指導案を学年や研究部で囲み、単元の流れ、発問、手立て、評価などについて話し合う時間である。研究授業をよりよいものにするためには、当然必要な過程である。

ただ、私は以前から一つ気になっていた。

指導案検討は、あまりにも文字が多い。

文章を読み、文章について話し、文章を修正する。しかし、私たちが最終的に作ろうとしているのは文章ではない。子どもがいる教室で行われる授業である。

指導案の文章をいくら丁寧に読んでも、参加している先生全員が同じ授業を思い浮かべているとは限らない。むしろ、それぞれが頭の中で別の授業を想像しながら話していることも多いのではないかと思う。

そこで私は、AIを使って指導案検討の形そのものを変えられないかと考えた。

文字だけでは、授業の「絵面」がそろわない

指導案には、授業に必要な情報が書かれている。

本時の目標。
学習活動。
教師の発問。
予想される子どもの反応。
指導上の留意点。
評価する場面。

ただ、それらは基本的に文章である。

例えば、「地図を提示し、地域の特色について考えさせる」と書かれていたとする。

しかし、その地図はどの地図なのか。

黒板のどこに貼るのか。

最初から提示されているのか。

子どもの発言が出た後に出すのか。

拡大したものなのか。

タブレットで一人ひとりに配るのか。

指導案のどこかに小さく書かれている場合もあるが、文章を追うだけでは、実際の教室の様子まで瞬時に想像するのは難しい。

授業者の頭の中では完成している。

しかし、検討する側には見えていない。

この差があるまま話し合うと、議論がかみ合わなくなる。

ある先生は導入の地図を想像し、別の先生はまとめで使う地図を想像している。ある先生は子どもが資料を持っていると思い、別の先生は黒板の資料を全員で見る授業だと思っている。

同じ文章を読んでいるのに、頭の中にある授業は違う。

指導案検討が難しい理由の一つは、ここにあるのではないか。

教員にとって最も分かりやすい共通言語は板書である

では、授業を最も具体的に想像しやすいものは何か。

私は板書だと思っている。

板書を見ると、授業の流れがかなり見える。

最初に何を提示するのか。

どんな学習問題を立てるのか。

子どもの考えをどこに位置付けるのか。

資料をどの順番で出すのか。

比較するものは何か。

最後に何を残すのか。

板書には、教師の授業観が出る。

何を中心に置くのか。

何を大きく書くのか。

どの言葉を囲むのか。

子どもの発言をどこにつなぐのか。

つまり、板書は単なる黒板の完成予想図ではない。授業の構造を可視化したものなのである。

ところが、単元全体の板書案を人間が一から作ろうとすると、ものすごく時間がかかる。

一時間分でも大変である。それを全十時間、全十四時間と作るとなれば、現実的にはかなり厳しい。

だから多くの場合、研究授業として公開する本時だけは詳しい板書案を作るが、それ以外の時間は文章だけで済ませる。

しかし、本時だけを板書化しても、本時に至るまでに子どもがどんな言葉を獲得し、黒板にどんな知識が積み重なってきたのかは見えにくい。

ここにAIを使う価値がある。

AIで全14時間の授業を一枚ずつ可視化した

私は現在、全十四時間の単元の指導案を作っている。

その中で、各時間の授業の流れと板書イメージを、一時間につき一ページで作ることを試している。

十四時間なら十四ページである。

一ページを見ると、その時間に何をするのかが分かる。

本時の問い。

提示する資料。

黒板に残す言葉。

予想される子どもの発言。

教師がつなぐ内容。

次の時間へ残す課題。

これらをAIに整理させ、板書の形に起こしている。

もちろん、AIに「全部考えて」と丸投げしているわけではない。

単元で何を目指すのか。

その時間に何を考えさせたいのか。

どの資料を使いたいのか。

子どもからどんな発言が出そうなのか。

私は何を黒板に残したいのか。

こうした内容を音声や文章で伝える。その内容をもとに、AIに板書案として可視化させている。

すると、自分の頭の中にしかなかった授業が、他の先生にも見える形になる。

これは想像していた以上に大きかった。

検討の言葉が一気に具体的になる

板書案があると、指導案検討で交わされる言葉が変わる。

「この辺りが少し分かりにくいですね」

という抽象的な話ではなく、

「この資料をここで出すと、子どもは先に答えを知ってしまわないか」

「この二つを比較させたいなら、黒板上でも左右に並べた方がよいのではないか」

「この言葉は前時にも出ているので、ここでは新しい概念にまとめられそうだ」

「この時点ではまだ子どもからこの言葉は出ないのではないか」

という話ができる。

指導案の文章だけでは見落としていたことも、板書になると見えてくる。

資料が多すぎる。

子どもの考えを書く場所がない。

教師のまとめが先に出すぎている。

学習問題とまとめが対応していない。

前時とのつながりが弱い。

こうしたことが、視覚的に分かる。

指導案検討が「文章の表現を直す会」から、「授業の流れを編集する会」へ変わるのである。

これはかなり大きな変化だと思う。

本時だけでなく、単元全体を話し合える

研究授業では、どうしても公開する一時間に注目が集まる。

この発問でよいか。

この活動でよいか。

このまとめでよいか。

もちろん、本時を丁寧に見ることは必要である。

しかし、本時だけを切り取っても、本当の意味で授業を検討したことにはならない。

子どもは、その一時間だけで突然深く考え始めるわけではない。

前時までにどんな知識を得たのか。

どんな問いを持ってきたのか。

どんな資料を読んできたのか。

どんな言葉を使えるようになったのか。

それらの積み重ねがあって、本時の姿が生まれる。

全時間の板書案があれば、本時だけでなく単元全体を俯瞰できる。

「この言葉は何時間目に獲得するのか」

「この資料は前にも使っているのか」

「ここで立てた問いが、最後の判断につながっているか」

「同じような活動が続きすぎていないか」

こうした検討ができる。

社会科のように単元で学びを積み重ねる教科では、特に有効だと思う。

四十五分の授業案を検討するのではなく、十四時間分の子どもの思考の変化を検討できる。

AIによる可視化は、単元で考える授業づくりと非常に相性がよい。

AIが優秀な授業を作るわけではない

ここは誤解してはいけない。

AIに板書を作らせれば、優秀な授業が自動的に完成するわけではない。

AIが想像した子どもの反応は、あくまで予想である。

実際の子どもは、その通りには動かない。

AIは、教師が伝えていない事情を知らない。

学級の人間関係も知らない。

どの子が発言しやすいかも知らない。

前時にどんな偶然の発言があったかも知らない。

だから、AIが出した板書案は完成品ではない。

仮説である。

「このような流れになるのではないか」という、一つの授業モデルである。

大切なのは、そのモデルを教師同士で見ながら修正することである。

ここでこの資料は出さない。

この言葉は子どもから出るまで待つ。

この活動にはもっと時間が必要だ。

このまとめは教師が与えすぎている。

そうやって、人間が授業を磨く。

AIは授業者ではない。

AIは、授業者の頭の中を外に出すための道具である。

優秀な教員の暗黙知を共有できる可能性

これまで、優秀な先生の授業技術は、その先生の頭の中にあることが多かった。

どの瞬間に資料を出すのか。

どの発言を拾うのか。

何を黒板に残し、何を消すのか。

どこで待ち、どこで説明するのか。

こうした技術は、文章だけでは伝わりにくい。

実際に授業を見ることでしか学べない部分も多かった。

しかし、AIを使って授業の流れや板書を可視化できれば、その先生が考えていることを共有しやすくなる。

「なぜここにこの言葉を書くのか」

「なぜこの資料を後から出すのか」

「なぜこの発言を中心に置くのか」

そこまで言葉と図で残せる。

これは、優秀な教員をAIでコピーするという話ではない。

優秀な教員が持っている思考を、他の教員が学べる形にするという話である。

これまで一部の先生の中に閉じていた授業づくりの知恵を、学年や学校全体の財産にできる可能性がある。

特に若手教員にとっては大きい。

完成した指導案を渡されるだけでは、なぜその授業になるのか分からない。

しかし、各時間の板書と授業の流れが見えれば、単元をどう組み立てたのかをたどれる。

これは、かなり有効な研修資料になると思う。

指導案は「読む資料」から「見る設計図」へ

これからの指導案は、文章だけである必要はない。

文章には文章のよさがある。

単元観や子ども観、指導観を丁寧に説明するには文章が必要である。

しかし、授業の流れまで文章だけで伝えようとすると限界がある。

だから、文章と可視化を組み合わせる。

単元の理論は文章で示す。

授業の流れは図で示す。

各時間の板書を見せる。

資料の出し方を見せる。

子どもの思考の変化を矢印で示す。

こうすることで、指導案は「読まなければ分からない資料」から、「見れば授業の全体像がつかめる設計図」に変わる。

AIは、この変化を支える道具になる。

これまで時間がかかりすぎて現実的ではなかった可視化が、短時間でできるようになるからである。

指導案検討は、これから変わる

私は、AIによって指導案検討の仕方はかなり変わると思っている。

文字だけの指導案を囲み、それぞれが別々の授業を想像しながら話す。

そこから、同じ板書案、同じ資料配置、同じ単元の流れを見ながら話す形へ変わる。

検討する先生全員が、同じ授業の仮説を共有できる。

その上で、

ここは子どもに任せる。

ここは教師が教える。

この資料は削る。

この問いは前に持ってくる。

この時間は二時間に分ける。

と具体的に編集していく。

指導案検討が、文章の添削ではなく、授業の共同設計になる。

私は、この使い方こそAIが授業を変える一つの方法だと思っている。

AIに授業を任せるのではない。

AIで授業を見えるようにする。

そして、見えるようになった授業を、人間同士でよりよくしていく。

AI時代の指導案とは、立派な文章を作ることではない。

教員同士が同じ授業を見ながら、子どもの学びについて話せる設計図を作ることなのだと思う。

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