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第1話 憑き物が溢れる街|知覚陰陽道(パーセプション・オンミョウドウ)シリーズ


-1-

「ここ三ヶ月で、四人が退職してます。二人は一年、もう二人は半年ほどです。どうにか、社員が定着するようにしたいんですが……」
株式会社フラット・ムーブの部長、外塚(とのつか)は、ため息をついた。
薄茶色のナイロンカーペットが敷かれた応接室には、中央にガラステーブルがあり、周囲に茶色のソファが置かれている。観葉植物などの緑は一切なく、ベージュの壁には、社長の『ありがたい言葉』が、額縁に入って飾られている。
「新人さんは、入社後にどういった研修を受けるのでしょう?」
雨宮咲月(あまみや さつき)は、『ありがたい言葉』に視線を流してから聞いた。
ミディアムボブの黒髪が、顔の微かな動きに反応して、周囲の分子を揺らす。白い肌と、少しキツめのパッチリ二重、AIが作り出した画像のような美しい鼻筋。薄い唇から放たれる言葉は、やや温度が低い。
黒いパンツと白いブラウス、グレーのツイードジャケットというシンプルな服装が、咲月が持つ雰囲気とコントラストになっていて、目を奪われる。
外塚も例外ではなく、質問が耳に届くのにタイムラグが発生しているように、数秒遅れて口を開いた。
「新卒の場合は、社会人としての基礎研修を二週間受けてもらい、その後の二週間でうちの理念を学んでもらっています。中途の場合は、最初から理念を学んでもらって、それから各現場へ配属されます」
「貴社の理念研修というのは、たとえばああいったものを学ぶということですか?」
咲月は、正面の壁に掛けられている額縁を見ながら言った。
外塚は首を捻り、確認してから、「ええ、そうです」と頷いた。
「今、うちで管理職に就いている者は、ほとんどが社長と共に頑張ってきた社員です」
「外塚さんも?」
「ええ、もちろん。社長の言葉は会社の言葉。うちでやっていくのに一番大切なことは、その理念を染み込ませることですから」
外塚は胸を張った。
「ここに来る前に、少し社内の様子を見せていただきましたが、管理職と一般社員の間に仕切りがあって、温度が違うように見えました。色でいうなら、赤と青」
 どのあたりがフラットなのか、という言葉は隠して、咲月は言った。
「色、ですか?」
「もののたとえです。額縁に入っている、アメリカ系自己啓発のような言葉が、若い人には響いていないのではないですか?」
「いや、しかし、我々は社長以下、これらの理念を大事にやってきたんですよ?」
「ええ、それは否定しません。問題は、個人のやる気を鼓舞するだけで、社員が自分から動く環境が整えられていないということです」
「環境? 部下に対する言葉遣いとか、そういったことですか?」
「表面だけ柔らかい言葉を使っても、声のトーンが威圧的だったり、言葉の影に、”なんでこんなことも分からないんだ?” というようなものがあれば、相手は分かります」
「いやしかし、仕事は楽しいだけじゃない。あなたのように個人で仕事をされている方は、自由にできていいかもしれませんけど、組織人はそうはいかない」
「あなたの言うように、仕事は楽しいだけじゃありません。でも、新人がすぐに辞めてしまうのと、堪え性がないと、個人の責任だけにするのも違います」
「これ以上ホワイトにしたら仕事が回りませんよ」
「ホワイトなフリをしているだけのブラックもありますし、本当にホワイトでも、手応えがなければ人は定着しません」
「手応え? じゃあ、どうすればいいんですか?」
鼻を鳴らし、眉間にシワを寄せて首を傾げる外塚の目を見据えたまま、咲月は表情を変えずに言った。
「環境をデザインしましょう」

 予定の一時間を少しオーバーして、会話を終えると、咲月はオフィスを出た。今日はあと二件、仕事が入っている。一つは企業研修のコンサル、もう一つは一件目と同じ、社員が定着しないという悩み。
 19時過ぎ。二件の仕事を終えたあと、友人と食事をするために、待ち合わせのイタリアンに向かった。
「ごめん、遅れた」
 店の前で待っていた友人、屋山愛結(ややま あゆ)を見つけて、弱い笑みを向けると、「5分ぐらいだよ」愛結は白い歯を見せて笑った。
「遅れるってチャットもくれてたし、謝らなくていいのに」
「でも待たせちゃったから」
「気にしない! もう10年の付き合いだしね」
 愛結とは、高校一年のときに同じクラスになって、一度は、好きになった男が一緒という亀裂の影が見えたが、二人ともフラれたことで、むしろ関係は深まった。

 食事を終え、22時に店を出ると、少し火照った顔を夜風で冷やすように、二人はゆっくりと駅に向かった。途中、「奢るから一緒に飲みに行かない?」と声をかけてきた男を、愛結は無視して、咲月が下から突き刺すような視線を向けると、男は顔を引き攣らせて消えていった。
「……やっぱり、最近増えてる。三人に一人ぐらい……?」
咲月が呟くと、愛結は口元を緩めて顔を向けた。
「何か見えたの?」
「うん、最近ね、多いの。現代病……ではないけど、自覚症状としてはそういうものかも。重そうな人もいる」
「”祓わなくて”いいの?」
「自分でやらなきゃ、また戻っちゃうからね」
「そうだよね……でも、それが難しくて、みんなスマホに夢中になる……」
「うん。でも、そこを越えなきゃ」
「咲月のやってること、もっと広まればいいと思うけど、中々難しいんだろうね、きっと。私は、全力で応援するからね!」
「ありがとう、愛結」
 駅で愛結と別れ、電車に揺られて30分、駅から歩いて15分。玄関のドアを開けると、愛猫のクオリアが、姿勢を垂直にして、つぶらな瞳を向けているのが目に入って、咲月はしゃがみ込んだ。
「ただいま」
 右手で顔をそっと撫でると、クオリアは目を細めて、手のひらに顔をこすりつけてきた。少しの間、そのまま撫でたあと、立ち上がってリビングに行くと、クオリアもついてきて、荷物を置いて、群青色のソファでリラックスモードになった咲月の膝に、「ぴょん」と飛び乗った。
 今年3歳になる、この黒猫は、母猫が死んでしまったあと、その遺体に寄り添うようにして、小さな体を震わせていた。考え事をするときに、よく散歩している小川の近くの草原で見つけて、母猫を天国に送ったあと、クオリアはそのまま引き取った。
 家に来たばかりの頃は、怯えていて、中々懐いてくれなかったが、少しずつ、「ここは安全な場所なのだ」と分かってくると、咲月にくっついて、家の中を動くようになった。
「あなたは私の天使よ、クオリア」
 ゴロゴロと喉を鳴らしながら、膝の上でお腹を見せている愛猫を撫でながら、帰って来る途中で見た光景を思い出していた。視線の先には、テーブルに置いたスマホ。この、手のひらに収まる小さなデバイスが、多くの人を虜にして、依存すら引き起こす。いや、スマホがというよりは、スマホの中のものが。
 クオリアが落ちないように、姿勢を保ったまま、なんとか腕を伸ばしてスマホを手に取った。SNSを観察すると、様々な情動が見える。投げ合っていたり、ポツンと宙に浮いていたり、必死に光を放とうとしていたり……誰にも拾ってもらえない、彷徨う悩みをなんとなく見ていると、『和鳴の郷』と書かれた広告が目に入った。
「わなりのさと……? 私たちが提供するのは、心の凪。あなたは、誰かと比べるために生まれてきたわけではありません。がんばること、少しお休みしてみませんか? あなただけの”凪”が、ここにはあります……」
 広告のコピーを読み終えた瞬間、クオリアは体を戻してソファの端にジャンプした。愛猫の視線に気づいて、微笑みを向けてから、SNSを閉じ、スマホをテーブルに戻した。


-2-

「小坂さん、悪い、今日ラストまでいける? バイトの佐々木さん、体調悪いから休むって電話あってさぁ」
副店長の大宮誠(おおみや まこと)が、わざとらしく両手を合わせた。
カフェ、『ア・ヴォロンテ』は、関東エリアで展開しているチェーン店で、全部で11店舗ある。フレンチをベースにした食事と、カスタマイズ可能なコーヒーメニューを売りにしていて、ファンも多い。副店長の大宮は、美伽の一つ下で、27歳。入社も一年遅れだが、フットワークの軽さと、高いコミュニケーション能力で、滑るように副店長のポストに収まった。
「……分かりました」
 小坂美伽(こさか みか)は、一瞬目を伏せてから答えた。
「ありがとう、助かるよ!」
 大宮は、手を合わせたまま頭を下げて、バックヤードに戻っていった。時刻は17時半。昨日も通しで、少し疲れていたから、今日は仕事が終わったら少し自分を甘やかそうと思っていたが、社員である以上、「私は予定がありますから」と、帰るわけにもいかない。
 お守りのように、首から下げている計量スプーンを、右手でぎゅっと握ってから、仕事を再開した。

「お疲れ様です」
 22時。閉店作業も終えて、美伽は店を出た。夕食はまかないで済ませたから、空腹感はなかったが、駅に向かうまでの道すがら、ア・ヴォロンテにとっては競合でもある、全国展開しているドーナツ屋さんが目に入った。店内はまだ、テイクアウトのお客が並んでいて、速度を緩めた足を無理やり動かして、視線を駅のほうへ向けた。
 まだ水曜日だからか、電車は空いていて、酔っぱらいもいない。座席の端に座り、スマホを取り出す。何が見たいわけでも、したいわけでもない。電車に揺られている20分の間、どこに目を置いておけばいいか分からず、向かい側の窓に映る自分の顔から目を逸らすように、SNSを開く。
 社員になって五年。実家で母と二人で暮らすのが嫌で、バイトで働いていたア・ヴォロンテが社員を募集していたのを機に、そのまま家を出た。仕事にやりがいはあるし、お客様の要望に応えるために、コーヒーの淹れ方も勉強した。機械任せにするのではなく、少しでも……と。
「……」
 SNSの中には、芸術品といってもいいような、美しい泡を纏ったカプチーノや、彩り豊かにデコレートされたパフェ、友達と並んで満面の笑みを浮かべる女子二人、ずっと浸っていたいと思ってしまうような、青空と海が見えるホテルでくつろぐ写真……喉のあたりがチクっとして、お腹に向かって何か、重いものがゆっくりと落ちていく。なぜか、口元が緩んで、小さく首を振った。

 家に着くと、ため息と共にクッションの上に腰を下ろし、ベッドに寄りかかる。帰宅途中にコンビニで買ってしまったスイーツを開ける……プラスチックの蓋を取るときの、パキパキという小さな音が、「買ってしまったから食べなきゃ」「なんで買っちゃったんだろう」などの”脳内批評”と共に、胃に黒いクモの巣を張り巡らせていく。スマホを片手に、フォークを差して口に運ぶスイーツの味は、美味しいはずなのに、食べ終わると味が思い出せない。
 スマホをテーブルに置いて、フォークを洗ってスイーツの入れ物を洗ってから捨てる……分かっている。このままテーブルに置いたまま寝たら、明日の朝になって「どうして片付けなかったんだろう」と、モヤッとしたものが広がって、朝の準備中も引きずる……分かっているのに、体は動こうとせず、再びスマホを手にして、30分ほどを溶かしてから、シンクに持っていくところまでは済ませて、ベッドに潜った。
 「明日は休みなんだ。でもね、なんの予定もない……職場の人はね、休みに日にどこどこに行ったとかで、お土産のお菓子をくれたりすることがあるんだけど、私はそういうの、なくて……ダメだなって思っちゃう。私、なんで人と比べちゃうのかな? どうすれば変われるかな?」
 明かりの消えた部屋の中、眠れずにAIに話しかけると、AIはいくつかの理由を述べたあと、『まずはご自身の中にある理由を探ってみるのはいかがでしょうか? いくつか提案させていただきます』と、セラピーのサイトや、比較癖を直す本などを出してきたが、その中で、美伽は一つのサイトに目を止めた。
『感情の解像度を上げることが、悩み解決の始まりです』と書かれていて、AIの説明によると、提示される質問に答えていくだけで、漠然としている不安の正体を知ることができるというものらしい。
「感情の、解像度……?」
 何かが喉に詰まったような感覚がして、意識的に咳払いする。リンクをクリックする指は、微かに震えていて、「今日はもう寝よう」という言葉と共に、スマホをテーブルに置いて目を閉じたが、脳は夢に向かう代わりに、言葉を投げかけてきた。
(感情の解像度を上げる……それって、良いことなのかな? 見ちゃいけないものを見るみたいにならない? 一度見てしまったら、もう戻れないみたいな……)
 体が丸まっていく。丸められていく……?
「なに……!?」
 背中に何かが触れたような気がして、掛け布団を抱いたまま、ベッドの上に立った。当たり前だが、何もいない。物音もしなければ、見えるのはベッドや家具のかすかな輪郭だけ。ゆっくりと膝を曲げて、胸を守るように掛け布団を抱えたまま、ベッドの下を覗き込んだが、何もなかった。そう、何もあるわけがない……横になり、掛け布団を頭まで被って、目をキツく閉じた。何かが入り込む余地がないほど体を縮めて、眠りが訪れるのを待った。一瞬感じた、ゴブリンのような目を、消しゴムで消すようにしながら。


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