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第2話 喉に根を張る石|知覚陰陽道(パーセプション・オンミョウドウ)シリーズ


-1-

翌朝目覚めたとき、時計は9時10分を示していた。ゆっくりと、ベッドから起き上がり、指で目をこすって、洗面台へ向かう。歯を磨いて、顔を洗っているうちに目が覚めてきて、視界に入ってきた、シンクに置かれたフォークとスイーツのガラを片付けて、部屋に戻るとスマホを手に取った。
ロックが解除された画面には、昨日のAIとのやり取りが表示されている。
「感情の解像度……」
 昨日のことを思い出して呟く。しっかり寝たはずだし、おかしな夢も見ていない。眠気もないし、体も重くない。なのに、リンクをクリックしようとすると、指先が震えて、右のこめかみのあたりがズキっとする。立ち上がり、キッチンでコーヒーを淹れると、ブラックのまま流し込み、熱めのコーヒーが、喉を驚かせながら体内への落ちていくのを感じて、姿勢を正し、リンクをクリックした。
 ドラマなどに出てくるセラピストの部屋のような、オフホワイトの背景に、『インサイト・レンズ』というサイト名が、習字のようなフォントで書かれている。どうやら、セラピストやカウンセラーが運営しているサイトのようで、メニューを押すと、『インサイト・レンズとは、サイトの使い方、個人情報の扱い方、お問い合わせ』という4つが表示され、サイトの責任者は、『稲野邉 咲月(いなのべ さつき)』となっている。
「脳科学と心理学をベースに、あなたの悩みを祓う儀式を提案します……」
 美伽は、サイト責任者のプロフィールを読んで、首を傾げた。脳科学と心理学はともかくとして、悩みを祓う儀式とはなんなのだろう。
「……」
 少し胃が重くなったが、プロフィールには本人と思しき画像があり、作り笑いではない微笑みを見ていると、曲がっていた腰が上を向いた。
「やってみようかな。診断は無料みたいだし……」
 自分に言い聞かせるように呟き、『診断を開始する』を押した。と、『まず最初に、あなたの悩みを書いてください。抽象的でも構いません』という文字が浮かんだ。美伽は『良くないって分かってるのに、人と比べてしまいます』と打ち込んで、『進む』を押した。すすると、AIが回答を考えているときのように、『Thinking』という文字が浮かび、数秒して、文章が浮かび上がった。
『悩みを聞かせていただき、ありがとうございます。相手がAIであっても、最初は悩みを伝えるのは勇気が必要だと思います。その一歩を踏み出したあなたは、悩みを解決したいという意志を、行動によって示せる方だと確信します。では、これから私が示す質問に、”はい、いいえ、どちらとも言えない”のいずれかでお答えください』
「ここからは書かなくていいってこと……?」
 美伽の質問に答えるように、質問が浮かび上がった。
『人と比べてしまう瞬間は、いろいろなところに潜んでいると思います。あなたは、日常的にSNSを見ますか?』
「SNS……見たいわけじゃないけど、つい見ちゃう……毎日見てるな……」
 唇がきゅっと締まって、”なんでつらいって分かってるのに見るの?” という声が聞こえた気がしたが、無視して『はい』を押した。その後も、答えに応じて質問が生成されているのか、性格診断サイトなどでよく見かける、定型の質問とは少し違う、本当に今、目の前で聞かれているような質問が続き、いつの間にか他のことを忘れ、気づくと『ここまでお疲れ様でした。自分の感情をクリアにしていくのは、大変だったと思います。質問に答え終わった今、明日から行動を変えられそうなら、ブラウザは閉じてください。どうすればいいか分からないということなら、無料相談してみませんか?』という文書が浮かび上がった。
 全部で10の質問に答え終わった今、美伽の頭には、一つの言葉が浮かんでいた。
『人と比べる以外、自分を測る方法がない』
 なぜそんな言葉が浮かんだのか、自分でも分からない。人と比べる以外に自分を測る方法がないから、比較してしまうということなのは理解できたものの、じゃあどうするのかというのは分からない。
「無料診断……」
 サイト責任者のプロフィールを思い出し、指を動かす。喉が絞まるような感覚がして、少し冷めてしまったコーヒーを飲み、咳払いしてから、命運を分けるスイッチでも押すように、無料診断のボタンに触れた。切り替わった画面で、メールアドレスと名前を登録し、送信ボタンを押す。2営業日以内に連絡しますと表示されて、美伽はテーブルにスマホを置いて、天井を見上げた。心臓が鼓動を早め、本当にいいのか、意味があるのかと、脳内に浮かぶ言葉を無視するように目を閉じた。


-2-

『仕事をゲーム化する!? 何を馬鹿な……』
『スキルアップの仕組みに、ゲーム的な要素を取り入れては? と言っているだけです。表彰も賞金もいりません』
『さっぱり分かりません。何をしろと……』
『できないことでも、できることでもない。できそうなところを基準にするんです』

 咲月は、フラット・ムーブとの二度目の会話を終えて、少し遅い昼食を取っていた。歩いていて見かけた店に入っただけで、料理のジャンルも見ずに入ってきたが、どうやらイタリアンらしい。イカスミパスタとサラダ、食後のコーヒーを注文すると、午前中の会話を思い出していた。
 こういう仕事をしているとよくあることだが、問題を解決したいと言いながら、自分たちのそれまでのスタイルを変えることを、頑なに拒絶する人は多い。長く会社にいる人間ほど反応が強い傾向があり、脳の仕組みを考えれば当然ではあるものの、自分たちは変化しないまま、結果だけを変えたいというのは、考え方としては狂気に等しい。結局は、個人の問題という前提から抜け出せていないから、仕組みを変えることに拒絶反応を見せるのだろうが、この仕事を始めて最初の頃、とある会社の社長にそれを指摘したところ、激怒された。中小企業だったが、風の噂では、できる社員に逃げられ、新しい人材も定着せず、激怒された日から一年と少し経って、人手不足で仕事が回らなくなり、倒産したらしい。
(つい仕事のこと考えちゃう。せっかくのランチなのに)
 頭を横に振って、運ばれてきたイカスミパスタを堪能してから、スマホでメールをチェックしていると、無料相談申し込みの受信トレイに、新着がきているのに気づいた。メールには、申込者の名前とメールアドレス、Webサイトでの診断で生成された質問、それに対する答えが、表として表示されている。
(比較癖……よくある話だけど、深刻な話ね)
 咲月は、内容を三回見直してから、無料相談の日程を決めるために、記載されたメールに日程の件を送った。
 食事を終えて、午後の仕事を2件こなしてから、19時過ぎに帰宅したときには、返信が届いていた。希望日時は、三日後の金曜日、14時。念の為カレンダーを確認してから、オンラインルームを作ってURLを送信した。
「……」
 街を歩いているときの”景色”を思い出す。多くの人が、スマホに視線を落としている。まるで、世界のすべてがそこにあるように、体が感じている世界などないかのように。あるいは、スマホの中の世界こそ現実であってほしいと願っているのかもしれない。その願いと、体感する現実のギャップこそが、現代人にとって大切なものを枯渇させているのかも……
『にゃあ』
 クオリアが歩いてきて、ソファに座って難しい顔をしている咲月の膝に飛び乗った。ゴロンとお腹を出して、背中を擦るように、くねくねと動いているのを見て、頬が緩んだ。
「仕事は終わったのに、またあれこれ考えちゃうところだったよ。ありがと、クオリア」
 愛猫のお腹を撫でながらも、頭の中に浮かび続けるものが、ささくれのように時々引っかかる。私は間違っているのだろうか? 前にチラっと見た、ネット広告に書かれていたように、心から波風を取り去れば、それで……
 手が止まったことに、『なぜ止める?』という視線を向けてくるクオリアの顔に気づいて「ごめんごめん」と笑顔を向けた。
 間違ってはいない。取り去ればそれでいいなんてことは、絶対にない……


-3-

金曜日の13時半。
 美伽は、何度も時計を見ながら、オンラインの無料相談で使うアプリが問題なく動くか、四度目のチェックを終えて、部屋の中を落ち着きなく動き回っていた。自分の悩みについて、すでにメールで伝えているし、相手はプロ。何も怖いことなどない……何度そう言い聞かせても、心臓の鼓動は少し早いまま、リラックスしてコーヒーを飲むことも許さず、昼食も半分残したまま、ラップをして冷蔵庫に戻した。
 スマホの時計が50分を表示すると、心臓はさらに動きを早め、手のひらには汗が滲んできた。みぞおちのあたりは重く、今から連絡して、急用が入ったとか、体調が悪くなったとか、何かしら言い訳を作ってキャンセルしても……それをしている自分を想像すると、体に黒い霧が広がって、そんなのダメ、相手にも時間を取ってもらってるんだから……などと考えているうちに、58分になった。
「……」
 震える指を動かして、『会議開始』のボタンをタップする。
 あと2分……心臓が飛び出すのではないかと思うほど、大きく動いたとき、画面の向こうに女性の姿が見えた。小さな顔を、凛とした目。意志が強そうなのに、それでいて威圧感がない、慈しむような眼差し……
「こんにちは」
 静かで、ゆっくりとした声が、イヤホン越しに聞こえた。途切れのないシルクのような滑らかさで、雰囲気と声が一致している。
 美伽は、一瞬ぼんやりと静止した体が、また震えだすのを感じた。マイクをオンにして、話さなければならないと思うのに、指は震えたまま、動こうとしない。こんな自分が、こんな素敵な人と話していいのだろうか……迷惑なんじゃ……
 俯いていたことに気づき、飛び起きるように顔を上げると、女性は微笑を浮かべたまま、何も言わずにこちらを見ていた。
「あ、えっと……」
 マイクをオフにしたまま声が出て、美伽は顔が熱くなるのを感じながら、マイクのボタンをタップした。
「すみません、あの……小崎美伽です。ごめんなさい、挨拶してもらったのに黙ってて……えっと、こんにちは」
 かすれた声を絞り出すと、女性は微笑みを浮かべた。
「こんにちは、小崎さん。私は稲野邉咲月です。咲月って呼んでください」
「あ、はい……私のことも、美伽で、いいです……」
「よろしくお願いします、美伽さん」
「お願いします……あの、すみません、わざわざ時間とってもらって……人と比べちゃうなんて、誰にでもあるような、悩みのために……わざわざ相談するようなことじゃないですよね……」

 消え入るような声で、眉間にシワを寄せたまま笑みを浮かべる美伽を、咲月は全体を捉えるようにして見ていた。おそらく無意識だろう、美伽は話しながら、何度も首筋をさすり、小刻みに呼吸をしているせいか、肩が小さく上下している。体は、違和感として”それ”感じ取っている。今この瞬間にも、自分が評価されているという圧を感じているのかもしれない。
「美伽さん」
 咲月は、幼い子供と視線を合わせるように語りかけた。
「まず、思い切って連絡してくれて、ありがとうございます。サイトでの診断が終わって、相談申し込みのボタンを押すのは、勇気が必要だったと思います。知らない人に、自分の悩みを相談しますかって聞かれてるようなものだから。
美伽さんが抱えてる、つい人と比べてしまうことは、美伽さんが言うように、誰にでもある悩みだと思う。でもね、人それぞれ、悩みは少しずつ違うものです。だから、誰にでもあることだからダメってわけじゃないんです。美伽さんが抱えてる悩みは、紛れもなく、美伽さん一人のもの。だからね、相談することは、なんにもおかしいことじゃない」
 咲月の言葉が意外だったのか、美伽は口を小さく開けたまま、そのうち、震えるように口を閉じて、目を伏せた。
「ありがとうございます……ごめんなさい、そんなふうに言ってもらえるって思わなくて……」
 滲む声を、咲月は微笑みで受け止めて、次の言葉を待った。
「あの、私、どうすればいいんでしょう……? 自分でも分かってるんです、人と比べても辛いだけだって……なのに、気づくとスマホを持って、SNSを開いて……」
 美伽の言葉に、咲月は小さく頷いた。
「SNSにある、キラキラした他人の投稿を見て、自分には何もないんだって下を向いてしまう……やめたいのについ見てしまう自分を情けなく感じてしまっているんですね。たとえば、どんなときにSNSを見てしまうのでしょう?」
 美伽は、肩を内側に丸めるようにしながら、少し俯いて、口を開いた。
「どんなときに……夜が多いですね、夜、家に一人でいるとき」
「仕事が終わって家に帰ってくると、つい見てしまう?」
「はい……カフェの仕事は立ちっぱなしで……あ、私、ア・ヴォロンテっていうチェーン店のカフェで働いてるんですけど……」
「ア・ヴォロンテ、私も行きますよ」
「ほんとですか? ありがとうございます……それでその、ずっと立ちっぱなしだし、忙しいときは朝8時から夜の10時まで仕事のときもあって、帰るときはもうクタクタで……」
「気づくとスマホに手が伸びてる?」
「はい……家に帰ってきて夕飯を食べて、テレビはないから、見ることはないんですけど、見ようと思ってるわけじゃないのに、気づくとスマホを手に持ってて……最初は、料理の写真とか見てるんです、好きだから。でもそのうち、オススメに楽しそうな旅行の写真とか、私と同い年か、年下ぐらいの子の写真とか出てきて、すごくキラキラしてて……」
「疲れている自分と比べてしまう?」
「そうなんです……! 閉じればいいのに、どんどん次の写真を見ちゃって、喉の奥が苦しくなってきて、顔を上げると、さっきまで食べてたコンビニ弁当のガラが見えて……すぐにゴミ箱に捨てるんだけど、そのあとも、一時間以上いろいろな写真を見て……馬鹿ですよね、つらいって分かってるのに、ずっと見ちゃって……」
 美伽の目は、表面が揺れて、視線は回遊魚のように動き続けている。奪われた体温を取り戻すように、右手で首筋をさすり、再び俯いた。
「最初は、仕事から帰ってきて、リラックスするために、好きな料理のアカウントの写真を見たりしているけど、オススメのアカウントや写真を見ている間に、引っ張られてしまう……そんな感じでしょうか。
間違っていたら、教えて下さいね。
もし、私の理解が正しいのであれば、キラキラした写真を見ているときに、喉の奥が苦しくなる……その感覚を、もう少し具体的に教えてもらえますか? あるいは、写真を見ていると聞こえてくる、自分に向けられる声があるとか、そういえば……っていうこと。どうでしょう?」
 咲月の言葉に、美伽はハッと顔を上げた。
「そうです! 咲月さんが言ってくれたとおり……見ようと思って指を動かしてるわけじゃなくて、自分とは関係のない遠くの人たちを見るために……そう、引っ張られてるみたいになってる気がします」
 美伽は言葉を止めて、右手で喉のあたりを擦りながら、何かを思いついたように目を見開いた。
「喉の奥に、何かが詰まってるような感覚があります。飲み込もうとしても飲み込めないし、吐き出すこともできない石かな……そこにあるのにないみたいな……それと、自分に向けられる声って言われて、気づいたんですけど、頭の中で小さく聞こえてくる音があって、ハッキリと何を言っているのか分からないのに、何を言われているのか分かるみたいな、変な感じで……」
「どんな言葉に聞こえるんですか?」
「この人たちはこんなに輝いてるのに、あんたは何? とか……28歳にもなって、部屋で一人、スマホで時間を溶かして……これから先もずっと、あんたはこのままねとか……」
 美伽の声が滲む。
「……その音、声? が聞こえたときは、喉の石が、いつもより重くなるんです。その声が、母が昔、私によく言ってた言葉と似ていて……やっぱり私は惨めな人間なんだって、何も変わってないし変わることもないって言われてるみたいで……」
「冷たくて硬い石のようなものが詰まっているような感覚……飲み込むことも、取り出すこともできなくて、声が出せないような状態でしょうか。そんな声が出せない状態の美伽さんに向けられる声……その声が、石を重くしていく。
美伽さんに向けられるその声は、どこからきているのでしょう?
美伽さん自身の声ではないとしたら、どこからきていると思いますか?」
 美伽は目を見開き、何かを探すように顔を上下に軽く動かし、何かを見つけたように、視線を止めた。
「自分じゃない……そう、そうですよね。だって、おかしいですよ。自分自身にそんな冷たい言葉をかけるなんて……ううん、そういう声があってもしかたないかもしれない。でも、大丈夫だよとか、そういう声だってあってもいいはずなのに……いつも同じ声……? 音がハッキリ聞こえないのは、古い録音を再生してるような声だからかも……」
「遠い昔に、誰かに埋め込まれたスピーカーみたいに?」
「そうです……!」
「そのスピーカーを埋め込んだ誰かが、思い浮かびますか?」
「……たぶん、母です。私が子供の頃、母はいつも周囲を比べてばかりで、私のことも……どうしてっていつも言われて……嫌でしかたなかったはずなのに、私、自分に同じことしてる……」
 美伽は一瞬沈黙し、顔を上げた。
「咲月さん、スピーカーの声が聞こえるときね、喉の石が、根を張るみたいにしてるんだと思うんです。飲み込ませないし、吐き出させもしない……これって、私の性格じゃなくて、何かにそうさせられてる……?」
 美伽は、右手で喉のあたりを触りながら、眉間にシワを寄せている。咲月は、数秒の間、美伽の様子を観察してから、口を開いた。
「石が根を張るように、美伽さんがしたくないことをさせているような感覚……怖いと思います。でもそれは、美伽さんが一歩踏み出したということかもしれません。踏み出したから、違和感に気づけた。大きいな一歩だと思います。
でもまだ、違和感の正体は漠然としている……どうでしょう? 今日美伽さんが気づいた違和感、その違和感に対して美伽さんが感じている気持ち……そうですね、さっき、『大丈夫って言葉があってもいい』と言っていた、そういう気持ちを、日記のように記録してみるというのは」
「記録……?」
「その記録には、正解も不正解もありません。ただ、日々自分が感じたことを書いていく。毎日じゃなくてもいいです。一行でも二行でも、書けるだけ書く。今、美伽さんが気づけたことを、書くことで少しずつ、輪郭をハッキリさせていく」
「一歩踏み出した、私の記録……」
 美伽は、頬を伝う涙に気づいて、「ごめんなさい」と言ってから、ティッシュで拭った。
「スマホに書けばいいかな……あ、でも、スマホを使うと、また見たくないものを見ちゃうかも……」
 美伽は、何かに気づいたように立ち上がり、20秒ほどして、B5サイズのノートを持って戻ってきた。
「これ、前に英語の勉強をしようって買って、2、3ページ書いて、そのままになってたんです。これに書いてみようと思います……!」
 美伽は少し咳き込んで、マグカップに入ったコーヒーを飲んでから、小さく笑みを浮かべた。
「咲月さん、ありがとうございます……なんだか少し、分かった気がします。つけてみます、記録」
 咲月は、美伽の目から、セッションを始めたときに宿っていた揺れが消えているのを確かめて、微笑んだ。
「少しでも光が見えたなら、良かったです。じゃあ、まずは一週間、やってみましょうか。その経過を、メールで教えてください。それを踏まえて、二週間後にもう一度話せればと思いますが、どうですか?」
「はい……! それでお願いします」

 会話を終えた美伽は、熱いものが込み上げてきて、再び思いが頬を濡らしたことに気づいた。自分に優しくする……そんなこと、考えたことがなかった。疲れているからと、スイーツを食べる甘やかしとは違う、自分をかける優しさ。何かをあげるのではなく、声をかける気遣い……
「よし……!」

 その日の夜から、美伽は記録をつけ始め、最初は照れくささのようなものがあったが、3日もすると慣れて、約束の一週間後には、咲月に「順調です」とメールを送っていた。だがその2日後。バイトの一人が給仕中にコーヒーをこぼしてしまい、お客の服を汚してしまったことを庇ったところ、いつの間にか美伽がやったことになっていて、バイトも叱られるのを嫌ってか、何も言わなかったため、美伽は副店長の大宮に呼び出された。
「ベテランなのに何やってんだ……! バイトだってこんなミスしないぞ」と言われ、自分ではないと言えずに、「すみません……」と謝ってしまった。
 帰宅しても、何もする気になれず、帰りに買ったショートケーキを食べて、スマホを手に取った。視界の端には、ノートが見える。記録……ペンを手に取ろうとしたとき、昼間のことが浮かんで、スマホに視線を移した。
 最近あまり見ていなかったが、表示されるものは変わらず、30分ほど時間を溶かしたあと、咲月に連絡しようとメールを開くと、広告らしい見出しが目に入った。
『私たちが提供するのは、心の凪。あなたは、誰かと比べるために生まれてきたわけではありません。がんばること、少しお休みしてみませんか? あなただけの”凪”が、ここにはあります』
 メールを開くと、そう書かれていた。
 和鳴の郷(わなりのさと)……美伽は、吸い込まれるように、リンクをタップした。


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