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人生100年時代のオフボーディング戦略:退職後の「健康格差」を埋めるために人事ができることー日経新聞記事からの考察

 「退職」が健康に良い影響を与える可能性 特に女性で顕著:日経ビジネス電子版を拝読しました。

退職と健康の意外な相関関係

 これまでの研究では、退職が健康に及ぼす影響について一貫した結論が出ていませんでした。「健康を害したから退職した」という逆の因果関係がデータに含まれがちだったためです。しかし、慶応義塾大学の佐藤豪竜氏らの研究チームは、日本を含む世界35カ国の約11万人のデータを分析し、より精緻な検証を行いました。各国の年金受給開始年齢を操作変数として用いることでバイアスを除去した結果、退職は全体として健康に良い影響を与える可能性があることが明らかになりました。

具体的な健康改善効果と男女差

 分析の結果、退職は認知機能の向上、身体的自立度の維持、自己評価による健康状態の改善、さらには運動不足の解消と有意に関連していることが分かりました。特筆すべきは、この傾向に男女差が見られた点です。女性の場合、退職後に認知機能が向上し、身体的自立度が高まる傾向が強く、喫煙率の低下や運動習慣の改善も顕著でした。一方、男性では自己評価による健康状態の向上は見られたものの、女性ほどの多面的な健康改善効果や、生活習慣の劇的な変化は確認されませんでした。

社会活動への参加が鍵

 この男女差の背景として、退職後の過ごし方の違いが指摘されています。女性は退職後、社会的な活動に参加したり、体を動かしたりする機会を比較的多く持つ傾向にあります。また、仕事のストレスからの解放が喫煙率の低下につながっている可能性も示唆されました。対照的に、男性は退職によって社会との接点を失いやすく、それが健康利益を限定的にしている可能性があります。このことから、退職後の健康維持には、単に仕事を辞めるだけでなく、その後の社会活動への参加やコミュニティとの関わりが重要であると考えられます。

企業人事の視点から考える、シニア従業員の「出口」と「その後」の支援

退職を「健康のスタートライン」と捉え直す

 長年、企業において退職とは「労働力の喪失」や「雇用関係の終了」という事務的な節目として捉えられがちでした。しかし、今回の記事が示唆するように、退職が個人の健康状態、特に認知機能や身体的自立度を向上させる契機になるという事実は、人事として非常に希望の持てる視点ではないでしょうか。

 これまでの定年退職や早期退職の文脈では、どうしても「役割の終了」という寂寥感が漂いがちでしたが、これを「より健康で自立した人生のステージへの移行」とポジティブに定義し直すことが可能になります。企業が従業員を送り出す際、「これまでの貢献への感謝」に加え、「これからの健康増進へのエール」というメッセージを込めることで、退職というプロセスの質(エンディング・クオリティ)を高めることができると考えられます。従業員が心身ともに健康な状態で次のステージへ進むことを支援するのは、企業の社会的責任(CSR)の一環とも言えるでしょう。

男性従業員への「居場所」と「つながり」の支援

 記事の中で私が特に気になった点は、退職による健康改善効果において、男性が女性ほどの恩恵を受けていないというデータです。これは多くの企業人事にとって、肌感覚として理解できる部分ではないでしょうか。現役時代、仕事がアイデンティティの全てであり、社内の人間関係が社会関係のほぼ全てであった男性従業員ほど、退職後の「燃え尽き」や「孤立」が懸念されます。

 この課題に対して、企業ができるアプローチはいくつか考えられます。例えば、50代のキャリア研修やライフプランセミナーの内容を見直すことです。従来のセミナーでは、退職金や年金、再雇用後の給与といった「金銭面」の設計に重きが置かれる傾向がありました。しかし、これからは「金銭」と同じくらい、あるいはそれ以上に「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」の構築が重要であることを伝える時間を設けたいところです。

 具体的には、社外のコミュニティへの参加、趣味のサークル、ボランティア活動、あるいは副業やプロボノ活動など、会社の看板を下ろした一人の人間として、どのように社会と関わり続けるか。その準備を現役のうちから促すことが、男性従業員の退職後のウェルビーイングを高める一手になるでしょう。「会社以外の名刺を持つこと」の推奨は、現役時代の視野を広げ、イノベーションを促進する効果も期待できるため、企業にとってもメリットがある取り組みといえます。

プレ退職期間における「ソフトランディング」の設計

 退職がいきなり「仕事ゼロ・社会との接点ゼロ」になるような急激な変化は、特に男性にとってリスクが高いかもしれません。そこで検討したいのが、退職に向けた「ソフトランディング(軟着陸)」の仕組みづくりです。

 法的な定年年齢や再雇用制度の枠組みはありますが、その運用において、例えば退職の1〜2年前から徐々に勤務日数を減らし、その空いた時間で地域活動や新しい学習に充てる「週3日勤務制度」や「サバティカル休暇(使途自由の長期休暇)」のようなものを導入することも考えられます。
 仕事の比重を少しずつ下げながら、仕事以外の世界でのアイデンティティを確立していく期間を設けることは、退職後の「退職ショック」を和らげ、スムーズな健康改善効果へとつなげる有効な支援策になるはずです。

 また、こうした柔軟な働き方の選択肢を提示することは、シニア層だけでなく、若手や中堅層に対しても「この会社なら、長く健康的に働き続けられる」という安心感を与え、エンゲージメントの向上にも寄与するのではないでしょうか。

アルムナイ・ネットワークによる「緩やかなつながり」の維持

 退職後の社会的な孤立を防ぐための一つの解として、「アルムナイ(退職者)ネットワーク」の構築・活性化も有効です。完全に縁を切るのではなく、OB・OGとして緩やかにつながり続ける場を企業側が用意することは、特に男性退職者の「所属欲求」を満たす助けになります。

 定期的な交流会や、現役社員へのメンターとしての関わり、あるいは社外の知見を持ち帰ってもらうスポットコンサルとしての依頼など、関係性は多様に考えられます。「退職=さようなら」ではなく、「退職=社外のパートナー」という関係へのシフトです。これにより、退職者は社会的な役割を持ち続けることができ、認知機能の維持や精神的な健康にも良い影響があるでしょう。結果として、元社員が健康で活き活きとしている姿は、その企業のブランドイメージ(エンプロイヤー・ブランディング)を高めることにもつながります。

ウェルビーイング経営の延長線上に「退職」を位置づける

 現在、多くの企業が健康経営やウェルビーイング経営に取り組んでいますが、その対象は主に「在籍中の従業員」に限られています。しかし、真に人を大切にする組織であるならば、その視座を「在籍中」から「退職後」の人生にまで少し広げてみるのも良いかもしれません。

 「当社で働いたことによって、退職後も健康で豊かな人生を送ることができる」。そう言えるような企業文化や支援体制を作ることは、人材獲得競争が激化する現代において、強力な差別化要因になり得ます。記事にあるように、退職によって認知機能が向上し、運動不足が解消されるのであれば、企業はその「きっかけ」をより良い形で提供する触媒になれるはずです。

 例えば、退職直前の健康診断の結果に基づき、退職後の健康管理アドバイスを行ったり、地域のスポーツクラブやカルチャースクールと提携して紹介したりすることも、細やかですが温かい支援です。特に女性従業員が退職後に活動的になる傾向があるという知見を活かし、女性社員向けのキャリアセミナーでは、先輩退職者のロールモデル(地域で活躍している方など)を招いて話を聞く機会を作るのも刺激になるでしょう。

「役割」からの解放と、新たな「役割」の獲得

 最後に、人事として意識したいのは、従業員一人ひとりの「役割」に対する感度です。記事では、仕事のストレスからの解放が健康に寄与する側面が触れられていました。これは、過度なプレッシャーや長時間労働が健康リスクであることを改めて示唆しています。

 現役世代に対しても、特定の人に負荷が集中しすぎないような業務設計や、心理的安全性の確保は急務です。同時に、退職を控えた層に対しては、「仕事の役割」を下ろした後に、どのような「人生の役割」を見つけるか、その探索を応援するスタンスが求められます。

 退職後の健康状態が良いということは、もし本人が希望すれば、再び何らかの形で労働市場に戻ってくる可能性も高まるということです。人生100年時代において、70歳、80歳でも働ける社会が来るならば、一度「退職」してリフレッシュし、健康を取り戻したシニア人材は、社会にとって貴重な戦力になり得ます。

 私たち人事は、退職手続きを淡々と進めるだけでなく、その先にある従業員の長い人生と健康に想いを馳せ、彼らが胸を張って次のステージへ踏み出せるような、温かく、かつ戦略的な送り出し方を模索していきたいところです。それが結果として、企業の評判を高め、巡り巡って優秀な人材を引き寄せる好循環を生むのではないでしょうか。

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