見出し画像

【書籍】『致知』2025年10月号(特集「出逢いが運命を変える」)読後感

 致知2025年10月号(特集「出逢いが運命を変える」)における自身の読後感を紹介します。なお、すべてを網羅するものでなく、今後の読み返し状況によって、追記・変更する可能性があります。



巻頭:我が国を再建し新たな国際秩序を構築すべき時
後藤俊彦さん(高千穂神社宮司)p6

 移りゆく川の流れは絶えず、しかも決して元の水ではない。よどみに浮かぶ泡は、消えたかと思えば結ばれ、久しくとどまることはない。世の中の人と、その住処もまた同じである。これは鴨長明の『方丈記』の有名な一節ですが、近年の目まぐるしい社会の変化や、世界で頻発する自然災害、そして終わりの見えない争いを見ていると、まさにこの言葉が現代を映し出しているように感じられます。

 人類の歴史は、悲しいかな戦争や犯罪が絶えることはありませんでした。しかし、それでもなお、人々が正義や平和への願いを失うことはありませんでした。それは、私たちの心や社会の隅々にまで、目には見えない「道徳」という網が張り巡らされ、それが争いや犯罪への抑止力として機能してきたからではないでしょうか。特に、公的な立場にある人々には、より高い道徳性が求められ、その「徳望」こそが、社会の安寧を保つための礎となってきました。

 しかし、近年、その道徳という基盤が揺らいでいるように感じられる場面が増えています。企業の経営が傾いたり、政治への大きな不信が生じたりした際に、本来その責任を負うべき立場の人が、潔く職を辞すという光景は、かつては当然のこととして受け止められていました。ところが今は、様々な理屈を並べて責任を回避し、その地位に固執する姿が散見されます。それは、本来守るべき組織や社会よりも、自らの立場を優先する心根の表れなのかもしれません。

 幕末の薩摩藩に、田中新兵衛という武士がいました。剣術に優れ、土佐勤王党の武市瑞山とも親交があった人物です。ある時、公家の姉小路公知が暗殺される事件が起こり、現場に残された刀や下駄から、新兵衛に嫌疑がかけられました。一説には、刀は数日前に盗まれたものだったとも言われています。しかし、町奉行の尋問を受けた彼は、一言も弁明することなく、隙を見て自らの腹を切り、喉を突いて命を絶ちました。この潔い最期は、現代に生きる私たちに「自己責任」とは何かを、改めて深く問いかけているように思えます。

 思想が、単なる言葉や理論ではなく、行動そのものであり、生き様そのものであった幕末という時代。人々は自らの信じるもののために、命を懸ける覚悟を持っていました。もちろん、現代において同じ行動が求められるわけではありません。しかし、取るべき時に責任を取らないという姿勢は、問題を先送りするだけでなく、新たな対立や混乱を生み出し、組織や社会の健全な成長を阻害してしまうという事実は、今も昔も変わりません。

 中国の古典『論語』には、「身を殺して仁を成す」という言葉があります。これは、自らの命を犠牲にしてでも、人として最も大切な徳である「仁」を全うするという意味です。責任を取るという行為は、この「仁」の精神に通じるものと言えるでしょう。それは、自らが所属する組織や共同体が、これからも円滑に発展していくための、一種の自己犠牲だからです。この世に過ちを一切犯さない人間はいませんが、過ちを犯した時に、きちんと「けじめ」をつけられるかどうか。その差が、同じ過ちを繰り返すか、それとも失敗を糧に成長できるかを分けるのです。

 この「けじめ」と「責任」の問題は、個人のみならず、国家という大きな単位においても問われます。先の参議院選挙で、与党である自由民主党が厳しい結果に直面しました。その敗因は一つではないでしょうが、混迷を深める世界情勢の中で、国民が真に国の未来を託せる政党が見当たらない、という閉塞感が根底にあったのではないでしょうか。

 そして、その遠因をたどっていくと、戦後の日本の歩みそのものに行き着きます。先の大戦後、私たちは、日本人自身の手で戦争の総括を行い、国家再建への明確な道筋を描いてきたでしょうか。戦勝国が主導した裁判の結果と、日本の文化や国民性を十分に考慮されたとは言えない憲法の下で、新しい国づくりを進めてきました。もちろん、それによって得られた平和や繁栄は計り知れないものがあります。しかし、他者から与えられた価値観の上では、国民一人ひとりが心の底から納得し、国を支える力強い意志を持つことは難しいのかもしれません。

 そもそも自民党が長きにわたり政権を担ってきた背景には、日本自身の手にって憲法を改正し、この国の骨格を主体的に作るという強い意志を「党是」として掲げてきたからに他なりません。それは、日本がこれからも固有の文化や国柄を大切にしながら、災害や外部からの脅威に屈することなく、永続していくための基盤を築くという宣言でもありました。その気概や道徳心が薄れ、国民の目に頼りなく映ってしまったことが、今回の結果につながった一面もあるのではないでしょうか。

 私たち日本人には、お正月とお盆という、古来より続く大切な習慣があります。特にお盆は、年に一度ご先祖様の霊をお迎えし、共に食卓を囲みながら、命のつながりに感謝を捧げる時です。国のために殉じた御霊をお祀りする靖國神社への信仰も、こうした祖霊を敬う心に基づいています。終戦から80年という節目を前に、私たちは改めて、戦禍に倒れた数多の人々の冥福を祈り、彼らがどのような想いで未来を託そうとしたのかに、深く心を傾ける必要があるでしょう。そして、その想いを受け継ぎ、新しい日本を建設していく責任が、今を生きる私たちにはあるのです。

 現代は、国内外を問わず、大きな変革の時代を迎えています。目の前の混迷に、ただ立ちすくむのではありません。これは、私たちが自らの手で国を再建し、世界の中に新たな秩序を築いていくべき好機なのだと捉えるべきです。過去から学び、未来へ責任を持つ。その覚悟こそが、この不確かな時代を乗り越えるための、確かな羅針盤となるはずです。

企業人事として、この考えをどう活かすか
 
この記事で述べられている「けじめをつけられない人や組織は同じ過ちを繰り返す」という言葉は、そのまま企業組織の在り方にも通じる、非常に重要な示唆を与えてくれます。日々の人事業務において、この考えを活かす視点は大きく三つあると考えます。

 一つ目は、挑戦を促し、失敗から学ぶ文化の醸成です。現代の組織では、失敗が個人の評価に直結することを恐れるあまり、挑戦が生まれにくいという課題があります。しかし、過ちを犯さない人間がいないのと同様に、失敗のない成長もありません。「けじめ」とは、失敗した個人を罰することではなく、失敗の事実から目をそらさず、原因を組織全体で究明し、次に活かすというプロセスそのものを指します。
 人事としては、減点主義の評価から脱却し、挑戦した結果の失敗を許容し、そこからの学びを評価する制度設計や、失敗をオープンに共有できる心理的安全性の高い風土づくりを主導していく必要があります。

 二つ目は、「徳望」あるリーダーの育成です。『論語』の「身を殺して仁を成す」という言葉は、現代のリーダーシップ論にも通じます。優れたリーダーとは、単に業績目標を達成するだけでなく、時には自らの立場や私情を捨て、組織全体の持続的な成長のために困難な決断を下し、その結果に全責任を負う覚悟を持つ人物です。
 人事部門としては、次世代の経営幹部候補を選抜・育成する際に、スキルや実績だけでなく、こうした高い倫理観や自己犠牲の精神、すなわち「徳望」を備えているかという人間的な側面を見極め、涵養していくことが不可欠です。

 最後に、一人ひとりの当事者意識の醸成です。幕末の田中新兵衛が示した「自己責任」の姿勢は、組織に属する全員が持つべき当事者意識の重要性を示唆しています。問題が起きた時に、誰かのせいにするのではなく、「自分ごと」として捉え、解決のために何ができるかを考える。この意識が組織の隅々まで浸透して初めて、自律的に動き、変化に対応できる強い組織が生まれます。
 人事としては、明確な役割と権限の付与、自律的なキャリア形成支援などを通じて、社員一人ひとりがプロフェッショナルとしての「誇り」と「責任」を持てる環境を整えていくことが求められるでしょう。


リード:藤尾秀昭さん 特集「出逢いが運命を変える」 p8

 私たちの人生は、無数の「出逢い」によって形作られています。ある人との出逢いが人生の転機になったり、一冊の本との出逢いが価値観を大きく変えたりと、その影響は計り知れません。私たちは日々の生活の中で、意識的あるいは無意識的に、様々な縁を結んでいます。しかし、その出逢いを真に価値あるものとして活かせているでしょうか。

 この記事では、まず同誌が歩んできた歴史を振り返り、その発展がいかに多くの人々との出逢いに支えられてきたかを述べています。京セラの稲盛和夫氏や松下電器産業の山下俊彦氏をはじめとする、錚々たる経済人や知識人たちの励ましが、その歩みの原動力となりました。特に、雑誌の骨格を築き、その土壌を深く耕した存在として、安岡正篤、森信三、平澤興、坂村真民という四人の師との出逢いが大きかったと語られています。彼らとの交わりから得られた教えは、出逢いの本質を鋭く突くものばかりです。

 安岡正篤師は、「縁尋機妙 多逢聖因(えんじんきみょう たほうしょういん)」という言葉を遺しました。これは、「良い縁が良い縁を尋ねて発展していく様子は実に妙なるものがあり、また、善い人や徳の高い人と交わっていると、自然と良い結果に恵まれる」という意味です。一つの良き出逢いが、また次の良き出逢いを呼び込み、人生が思いもよらない方向へと豊かに展開していく。この言葉は、人間関係が織りなすダイナミズムと、その連鎖がもたらす妙味を見事に表現しています。

 二人目の森信三先生は、「人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」と語りました。この言葉は、出逢いには最適なタイミング、いわば「時節」があることを教えてくれます。焦って縁を求めても、その時が来ていなければ実を結ぶことはありません。逆に、まだその準備ができていないうちに出逢ってしまっても、その価値に気づけないかもしれません。自分を磨き、その「時」を待つこと。その心構えが、運命的な出逢いを引き寄せるのかもしれません。

 平澤興先生は、「教育とは火をつけることだ。しかし自ら燃えている人でなければ火をつけることはできない」と教えました。これは教育者や指導者のあり方を示す言葉ですが、広く人間関係全般にも通じる真理です。人に影響を与え、誰かの心に情熱の火を灯したいと願うなら、まず自分自身が燃え盛る炎を持っていなければなりません。自らが情熱と探求心に満ちあふれていてこそ、その熱が相手に伝わり、心を動かすことができるのです。

 坂村真民先生は、「人間は本ものに出会わないと本ものにならない」と断言しました。先生自身、「死ぬまで求道」という詩に表れているように、生涯を通じて本物を求め続けた人でした。一流のものに触れ、本質を追求する人々と交わる中でこそ、人は磨かれ、成長していくことができます。表面的な付き合いや安易な情報に満足するのではなく、常に本物を求め続ける姿勢が、自分自身を「本もの」へと引き上げてくれるのです。

 これらの師の教えに加えて、柳生家の家訓が引用されています。「小才は縁に出会って縁に気づかず。中才は縁に気づいて縁を生かさず。大才は袖すり合った縁を生かす」。これは、出逢いを活かせるかどうかは、その人の器量次第であるという厳しい現実を示唆しています。せっかくの好機や良縁に恵まれても、それに気づく感性がなければ意味がありません。また、気づいたとしても、それを行動に移し、関係を育んでいく力がなければ、宝の持ち腐れとなってしまいます。ほんの些細な縁さえも大切にし、それを大きく育てていける人こそが「大才」なのです。

 そして、「あらゆる出逢いはその人のレベル以上の出逢いはない」という真理です。どんなに素晴らしい人物や、深遠な教えに出逢ったとしても、受け取る側の自分自身のレベルが低ければ、その価値を理解することも、活かすこともできません。禅の高僧である青山俊董さんの言葉を借りれば、「こちらに同じ波長の電波を持ち合わせていなければ、良き師や友との出会いは成立しない」のです。素晴らしい出逢いは、向こうから偶然やってくるものではなく、自らの内なる準備、つまり自分自身のレベルによって引き寄せられるものだといえるでしょう。

 結局のところ、良い出逢いを求め、それを人生の糧としていくために最も重要なのは、自分自身を絶えず高め続ける「自己の涵養」に他なりません。日々の仕事や生活の中で、学びを怠らず、人間性を磨き、自分自身の「波長」を高めていくこと。その地道な努力こそが、未来の素晴らしい出逢いを引き寄せる唯一の方法なのです。出逢いとは、自分を映し出す鏡のようなものなのかもしれません。私たちは、自分に見合ったレベルの出逢いしかできないのですから。

企業人事の視点から
 藤尾氏が語る「出逢いの法則」は、企業の人材戦略、特に採用や育成、組織開発において非常に多くの示唆を与えてくれます。

 まず採用活動において、面接官はまさに「自ら燃えている人」でなければなりません。自社のビジョンや事業の魅力を情熱的に語り、候補者の心に火をつける役割を担っているからです。また、「同じ波長の電波」という観点は、スキルや経験だけでなく、企業文化との適合性、いわゆるカルチャーフィットを見極める重要性を示唆しています。候補者と企業、双方が互いを高め合える「良き出逢い」を創出することが、採用担当者の使命といえるでしょう。

 次に人材育成の観点では、「袖すり合った縁を生かす」仕組みづくりが求められます。新入社員と先輩社員を結びつけるメンター制度や、部署を越えた交流を促す社内イベントなどは、まさに社員同士の「出逢い」を意図的にデザインする試みです。しかし、単に機会を提供するだけでなく、その縁を「生かす」ための働きかけ、例えば1on1ミーティングの質の向上や、メンター自身の育成が不可欠です。社員一人ひとりが、社内の出逢いを成長の糧に変えられるような環境を整備することが重要です。

 最後に組織開発の視点です。最終的な結論である「自己の涵養の如何で出逢いが決まる」という言葉は、個人の成長が組織の成長に直結することを示しています。社員が自律的に学び、高め合える文化を醸成することこそ、人事の重要な役割です。研修制度の充実だけでなく、社内勉強会の推奨や資格取得支援などを通じて、社員一人ひとりの「レベル」を高める手助けをすること。それによって組織全体のレベルが底上げされ、「縁尋機妙 多逢聖因」の言葉通り、外部からより良い人材や情報、ビジネスチャンスが自然と集まってくるような、魅力的な組織へと成長していくことができるのではないでしょうか。


信じる心が運命の扉を開く 山田和樹さん(指揮者) 佐治薫子さん(千葉県少年少女オーケストラ 音楽監督)p12

 世界最高峰のオーケストラであるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期公演に登場し、世界から絶賛された指揮者の山田和樹氏。そして、音楽教師として赴任した先々でオーケストラを全国優勝に導き、「佐治マジック」と称賛される佐治薫子氏。20年以上にわたる交流を持つお二人の対談には、人生を豊かにし、運命を切り拓くための知恵が溢れています。

 山田氏は、ベルリン・フィルの指揮という大きな夢を叶えた経験を振り返り、指揮台に立った時の心境を「感無量でありながらも、不思議なほど平常心だった」と語ります。それは、一所懸命に準備をし、情熱を注いで音楽を創り上げ、聴衆に喜んでいただくという過程と充実感は、どのオーケストラであっても変わらないからでした。この経験を通じて、どんな舞台であっても目の前の一回一回の演奏に全力を尽くすことこそ、指揮者として最も大切な姿勢だと改めて学んだと言います。この普遍的な姿勢は、あらゆる仕事に通じる成功の要諦と言えるでしょう。

 その山田氏が「私が一番の教え子だと思っている」と語るのが、音楽監督の佐治薫子氏です。二人の出逢いは20年以上前、山田氏がまだ若手の頃に、佐治氏が音楽監督を務める千葉県少年少女オーケストラの指揮を依頼されたことがきっかけでした。当時、佐治氏は練習中に「この速度では子どもはついていけない」などと率直な指摘を重ねたと言います。山田氏は、そうした厳しいながらも愛情ある指導や、子どもたち一人ひとりと真摯に向き合う姿勢から、指導者として多くを学んだと振り返ります。佐治氏の指導の秘密を探る中で山田氏が気づいたのは、子どもたちとの対話の大切さ、そして「これくらいでいいだろう」という安易な妥協を絶対にしない徹底した姿勢でした。この妥協なき追求が、子どもたちの聴く力、集中力、忍耐力を育み、一つの音楽を創り上げる力へと繋がっていたのです。

 佐治氏の指導哲学の原点は、自身の経験に深く根差しています。音楽教師として最初に赴任した中学校には、音楽室も楽器もない、まさにゼロからのスタートでした。合唱の練習をすれば「うるさい」と怒鳴られる環境の中、ある教頭先生の勧めでリード合奏団を結成することになります。楽器の経験がない中、一つひとつの演奏法を学び、さらには楽器の調律や調整に毎晩夜が明けるまで没頭しました。この苦労の中で、音に対する鋭い感覚と、音が一つに合った時の喜びを知り、それが指導の原動力になったと語ります。

 佐治氏が指導で最も大切にしていたのは、「一音でもいいから最高の音を出す」経験を子どもたちにさせることでした。まず教師が見本となる美しい音を出し、子どもたち一人ひとりに挑戦させ、できた瞬間を「綺麗な音だね」と心から褒める。この繰り返しによって、子どもたちは自ら「良い音」を求め、音楽を心から楽しむようになります。音楽が好きになれば、子どもたちは自発的に「教えてほしい」と学び始めるのです。指導者が情熱を持って本物を示すことで、子どもたちの内なる可能性が引き出されていく。この「佐治マジック」の本質は、魔法ではなく、基礎の徹底と感動の共有、そして指導者自身の絶え間ない努力にありました。

 お二人の人生を振り返ると、その節目には必ず決定的な「出逢い」がありました。山田氏が指揮者の道を志したのは、恩師である木下先生の影響でした。そして、その道を最終的に決断する際、両親や先生が「自分で考えなさい」と突き放してくれたことが、自らの意志で未来を切り拓く強さを育んだと言います。大学では、松尾葉子先生から「家を一歩出たら指揮者だと思いなさい」という心構えや、相手の立場を先回りして考える「気遣い」の重要性を学びました。また、尊敬する小林研一郎先生からは、時にその存在の大きさに葛藤しながらも、父親のような深い愛情を受け、それが今も心の支えとなっています。

 一方、佐治氏が音楽の道に進んだのも、高校時代の恩師の一言がきっかけでした。当初は洋裁の道を考えていましたが、「音楽の道に進みなさい」という言葉に背中を押され、人生が大きく変わったのです。これらの経験は、人生における師やよき理解者との出逢いが、いかに大きな影響を与えるかを物語っています。

 しかし、その歩みは決して順風満帆ではありませんでした。山田氏は、ブザンソン国際指揮者コンクールでの優勝を機に世界へ羽ばたきますが、ある種の満足感に浸っていた時期に、小澤征爾氏から「いまのままでいいのか」と厳しい問いを投げかけられます。その言葉を胸に抱え試行錯誤する中で訪れたのが、コロナ禍でした。演奏の機会を奪われた空白の期間に、山田氏は自問自答を重ね、あるシンプルな答えに辿り着きます。それは「音楽を楽しもう」という、音楽を始めた頃の原点でした。うまく見せることよりも、まず自分が心から楽しみ、その喜びを聴衆と分かち合う。この姿勢の変化が、不思議と新たな出逢いや機会を引き寄せ、ベルリン・フィルの舞台へと繋がっていったのです。困難な時期が、自分を見つめ直し、次のステージへ進むための大きな転機となりました。

 対談の最後に、お二人は「出逢い」について語ります。山田氏は、これまでの道のりは自分の力ではなく、素晴らしい出逢いに恵まれた「おかげさま」であり、その感謝を最高の音楽で返していくことが使命だと述べます。
 一方、佐治氏は、「じっとしていても出逢いはやってこない」と語ります。自分が何か意志を持って一所懸命に努力して向かっていく先にこそ、運命を変える出逢いが待っている。自らの情熱と行動こそが、幸運を引き寄せる鍵なのです。信じる心を持ち、ひたむきな努力と行動を続けること。そうすれば、思いがけないところで運命の扉が開き、新たな道が拓けていくのではないでしょうか。

この対談から学ぶ、人材育成と組織開発のヒント
 
この対談は、企業における人材育成や組織開発においても、多くの示唆を与えてくれます。特に佐治氏の指導哲学と、山田氏の成長の軌跡は、社員のポテンシャルを最大限に引き出すための具体的なヒントに満ちています。

 第一に、「質の高い成功体験」の重要性です。佐治氏が「最高の音」をまず聴かせ、子どもたちに体験させたように、上司や指導者は、部下や後輩に対して「質の高い仕事」の基準を具体的に示す必要があります。OJTにおいて、ただ業務を教えるだけでなく、その仕事が持つ本来の価値や、達成した時の最高の状態を共有することで、本人の目指すべきゴールが明確になり、成長意欲が格段に高まります。「これくらいでいい」という妥協を許さず、基準の高い仕事に触れさせる経験こそが、プロフェッショナルを育てる土壌となるのです。

 第二に、「失敗を学びの機会とする文化」の醸成です。山田氏は、ピアノ発表会での失敗が、音楽に真剣に向き合うきっかけになったと語っています。企業においても、挑戦には失敗がつきものです。人事としては、失敗そのものを責めるのではなく、そこから何を学び、次にどう活かすかを考えさせる仕組みや文化を創ることが重要です。心理的安全性が確保された環境でこそ、社員は萎縮することなく新たな挑戦に踏み出すことができます。1on1ミーティングなどを通じて、失敗からの学びを支援する対話が求められます。

 最後に、「個人の原点とキャリアの接続」です。山田氏はコロナ禍というキャリアの停滞期に、「音楽を楽しむ」という原点に回帰することで、新たなステージへの扉を開きました。社員が仕事に行き詰まったり、モチベーションが低下したりした際に、なぜこの会社に入社したのか、この仕事を通じて何を実現したかったのかという「原点」に立ち返る機会を提供することは非常に有効です。キャリア研修や面談において、本人の内発的動機を再確認する支援を行うことで、困難を乗り越え、自律的なキャリアを歩む力強い人材を育成できるでしょう。

 この対談は、個人の才能を開花させるのは、魔法のような特効薬ではなく、指導者の情熱、本物との出逢い、そして本人の真摯な努力の積み重ねであることを教えてくれます。人事として、社員一人ひとりがよき出逢いに恵まれ、自らの力で運命の扉を開いていけるような環境を整えていくことの重要性を再認識させられました。

ナポレオン・ヒルの成功哲学をかく生かせり ドン・グリーンさん(ナポレオン・ヒル財団CEO) 青木仁志さん(アチーブメント会長兼社長)p20

 ここでは、世界中で一億冊以上を売り上げたナポレオン・ヒルの名著『思考は現実化する』等をテーマにし、ドン・グリーン氏と、青木仁志氏の対談から、私たちが人生や仕事に活かせるエッセンスを学べました。一冊の本との出会いが、いかに人の運命を劇的に変えるのか。二人の実体験を感じ取れました。

 ナポレオン・ヒルが20年もの歳月をかけ、500人以上の成功者を研究し、その成功法則を13のステップに体系化したこの本は、自己啓発の源流とも言われています。この哲学を土台に、青木氏は人材育成の分野で、ドン氏は財団のCEOとして、その教えを世界に広める活動をしています。二人の出会いは運命的であり、その背景には驚くほど多くの共通点がありました。

 ドン氏はアメリカの貧しい炭鉱夫の息子として、青木氏もまた鉱山開発を夢見る父のもと、両親の離婚などを経験し、決して恵まれているとは言えない少年時代を過ごしました。お互いに貧しい家庭環境から抜け出そうとする強いエネルギーを持ち、若くしてビジネスの世界に飛び込んでいます。そして何より、二人を結びつけているのは、ヒル博士の教えを共通言語とし、「自分が何を得るかではなく、いかに人々に与えることができるか」という“捧げる人生”を歩んでいる点です。
 ドン氏は故郷の貧しい子供たちのために大学進学の奨学金を出し続け、青木氏もまた、ヒル博士の精神を日本で守り広めることに強い情熱を注いでいます。その根底には、ヒル博士自身が体現した「金銭は人生のゴールではなく、道具にすぎない」という哲学が流れています。ヒル博士は晩年、自身の著作権をすべて財団に寄付し、非営利団体を設立しました。その収益は、世界中での翻訳出版や教育プログラム、奨学金制度を通じて、後世の人々のために活用されています。

 青木氏がヒル博士の『成功哲学』に出会ったのは、23歳の時でした。学歴も家柄も自信もなく、事業の失敗で3000万円もの借金を抱え、まさに人生のどん底にいました。そんな時、会社の先輩に薦められたこの本が、彼の人生を根底から覆します。「成功するのに学歴は関係ない。燃えるような願望、つまり自分が心から思い描いたことは何であれ実現できる」という力強いメッセージに衝撃を受け、そこに書かれていることを一つひとつ信じて実行していきました。
 いつまでに、いくらの経済的自由を得るかというゴールを明確に設定し、そこから逆算して計画を立てる。そして、その代価として自らの「時間」を誰よりも多く、濃く仕事に捧げることを決意します。その結果、トップセールスマン、トップマネジャーとなり、6年で借金を完済することができたのです。この経験から青木氏は、「良い情報との出会いが、人生における選択の質を変える」と確信し、アチーブメントを創業。ヒル博士の哲学を土台とした人材育成で、ノルマで人を管理するのではなく、社員一人ひとりがより良く生きるための具体的な方法を教えることで、会社を成長させ続けています。

 一方、ドン氏がこの本と出会ったのは16歳の時でした。ヒル博士と同じバージニア州ワイズの貧しい地域で育った彼は、家の近くの図書館で読書に没頭する少年でした。そこで出会った『THINK AND GROW RICH』に心を奪われ、特に、成功者エドウィン・バーンズの逸話に強く惹きつけられます。自らの境遇とヒル博士の境遇が似ていることにも驚き、成功者たちの伝記を読み漁るようになりました。15歳で野生のヘビを捕まえて動物園を始めるなど、早くから起業家精神を発揮していたドン氏は、その後銀行に就職。最低賃金で働きながらも、車の中では常にヒル博士のオーディオブックを繰り返し聴き、「自分はもっとよくなれる」と信じ続けていました。彼が大切にしたのは、行動すること、そして真心でした。
 債権回収の仕事では、相手を敵と見なすのではなく、「どうすればあなたが約束を守れるか、その手伝いをしたい」という姿勢で接し続けました。顧客の成功を純粋に願うその真心が信頼を生み、25歳で最年少支店長に抜擢されます。そこでも彼は、個人の成果を競わせるのではなく、チームで目標を達成し、得られたインセンティブは全員で均等に分けるという手法で、年上のスタッフたちの協力と信頼を勝ち取りました。

 後に経営危機に陥っていた銀行のCEOに就任した際も、その哲学は揺らぎませんでした。スタッフを「部下」ではなく「同志」と呼び、一人ひとりの価値と可能性を信じる言葉をかけ続けました。資金繰りが厳しい時には自らの資産を売却して会社に投じ、銀行に対するネガティブな情報を払拭するために、肯定的な情報発信に努めました。返済が滞っている顧客がいれば一軒一軒訪問し、共に返済計画を立てるなど、徹底的に相手に寄り添う姿勢を貫いた結果、銀行を黒字転換させ、見事な再建を果たしたのです。

 対談の最後に、二人は成功に不可欠な教えを語りました。
 ドン氏は「3つのP」として、パーパス(目的)、プラン(計画)、パーシステンス(粘り強さ)の重要性を説きます。すべての達成の出発点は「願望」であり、それを実現するための具体的な計画、そして何があっても諦めずにやり抜く粘り強さが必要だということです。
 一方、青木氏は、「求めよ、さらば与えられん」という姿勢、世のため人のためになる「アイデア」、そして何よりも「アクション(実行)」が全てだと強調します。

 二人の生き様が示すように、人生は単に金持ちになることや有名になることが目的ではありません。青木氏が言うように、「人生とは人格完成の旅」であり、どれだけ自分の人格を高め、縁ある人々を幸せにできるかが問われています。そして、そのような人生を歩む上で、良き人や良き本との出会いは不可欠です。
 しかし、ただ待っているだけではその出会いは訪れません。ドン氏の「私たちは出逢う人によって、また出逢う書物によって自分の人生が変わる」という言葉通り、自らが「志」や「求める心」を持って初めて、人生を変える出会いの扉は開かれるのです。最後にドン氏が紹介した「人が心に描き、信じたことは、どんなことでも達成できる」というヒル博士の言葉は、私たち一人ひとりの内に眠る無限の可能性を力強く肯定してくれています。

企業人事として、この哲学をどう活かすか
 
この対談から得られる学びは、企業の人材育成や組織開発において非常に有益な示唆を与えてくれます。

 まず、社員一人ひとりの内なる「願望」や「目的(パーパス)」を引き出すことの重要性です。日々の業務に追われる中で、社員が「何のために働くのか」を見失ってしまうことは少なくありません。1on1ミーティングやキャリア面談の場で、本人が仕事を通じて何を成し遂げたいのか、どのような人生を送りたいのかを深く問いかけ、言語化するサポートをすることが、内発的動機付けの第一歩となります。青木氏が実践したように、明確なゴールを設定し、そこから逆算して行動計画を立てるという思考法は、目標達成研修などに取り入れることで、社員の主体性を育む強力なツールとなるでしょう。

 次に、マネジメント層の意識改革です。ドン氏がスタッフを「部下」ではなく「同志」と捉え、一人ひとりの可能性を信じて関わった姿勢は、現代のマネジメントに求められる理想的な姿です。トップダウンで指示命令するのではなく、メンバーの成功を純粋に願い、そのための支援を惜しまない「サーバント・リーダーシップ」を管理職に浸透させることができれば、組織のエンゲージメントは飛躍的に高まります。また、ドン氏が支店のポイントをチームで分け合ったように、個人の競争を煽るだけでなく、チーム全体の成功を称賛し、インセンティブを与える仕組みは、組織の一体感を醸成し、協力体制を強化する上で有効な施策と言えます。

 最後に、採用活動においても、この哲学は重要な指針となります。スキルや経歴はもちろん重要ですが、それ以上に、応募者が逆境に立たされた時にどのように考え、行動してきたか、そして「求める心」や「志」を持っているかを見極めることが、企業の持続的な成長には不可欠です。貧しい環境に感謝し、それをバネに成長した両氏のように、困難な状況をポジティブに解釈し、自らの成長の糧とできる人材こそ、変化の激しい時代を乗り越えていく力を持った、真に価値ある人材といえるのではないでしょうか。


限界を決めるな—大横綱・千代の富士が教えてくれたこと 九重龍二さん(第十四代九重親方)p40

 元大関・千代大海、第十四代九重親方の指導者としての哲学と、その根幹を成す師匠・大横綱千代の富士との出会いには、私たちの人生や仕事にも通じる多くの学びが秘められています。名門・九重部屋を率いる親方は、「この部屋から必ず横綱を輩出する」という強い決意を胸に、日々の指導にあたられています。その指導法の根幹にあるのは、弟子一人ひとりへの深い愛情と、個性を尊重する姿勢です。
 かつての相撲部屋では、四股を全員で千回踏むといった画一的な稽古が主流でした。しかし、それでは個々の能力差によって、目標を達成できない者が出てきてしまいます。そこで親方は、それぞれの弟子が現在到達できるレベルに合わせた目標を設定し、日々の稽古への意欲を引き出すことを心掛けています。これにより、弟子たちはやらされ感ではなく、楽しみながら努力を重ね、成長していくことができるのです。
 「楽しく真剣にやろう」という部屋のスローガンは、まさにこの指導哲学を象徴しています。弟子を第一に考える「力士ファースト」の姿勢で、相撲の技術はもちろんのこと、社会で生き抜くための心身の強さを兼ね備えた人間を育てたいという親方の熱い思いが伝わってきます。

 親方が相撲の道へ進んだ背景には、壮絶なドラマがありました。幼い頃に警察官で柔道の師範でもあった父を亡くし、母の手一つで育てられました。若い頃は有り余るエネルギーを喧嘩に明け暮れる日々に費やし、母親に多大な心配をかけました。やがて自分の腕力を正義のために使おうと空手を始め、とび職として働きながら、アメリカでボディーガードになる夢を抱きます。
 しかし、その決意を母に告げた時、運命は大きく動きます。母は台所から出刃包丁を持ち出し、「シカゴに行けば、あんたは誰かに殺されるだろう。だったら私が殺して私も死ぬ」と、我が子の喉元に突きつけたのです。その凄まじい気迫と、目に浮かべた涙を見た瞬間、親方は脳が爆発するような衝撃を受け、母の願いを受け入れることを決意しました。母の夢は、幼い頃に占い師から「この子は力士になり、大関になれる」と言われた言葉を信じ、息子を力士にすることだったのです。こうして、母の覚悟が、親方を相撲の道へと導きました。

 相撲の世界に足を踏み入れることを決意した親方は、どうせやるなら一番強い人のもとで、と当時横綱を引退し親方となっていた千代の富士の門を叩きます。金茶色のリーゼントに迷彩服という出で立ちで挨拶に伺うと、そこにいたのは、後光が差しているかのように眩しい師匠の姿でした。初めて目を合わせた瞬間、その凄まじい眼光に金縛りにあい、「鎖から放たれたライオンが目の前にいるようだ」と感じたといいます。しかし、その恐怖と同時に、「私の師匠はこの人しかいない」と瞬時に直感したのです。「親孝行をするために力士になりたいです」という言葉に、師匠は微笑み、入門を許可しました。この運命的な出会いが、その後の力士人生のすべてを決定づけるターニングポイントとなったのです。
 入門後は、勝つか負けるかしかない厳しい世界で、四股、腕立て伏せ、鉄砲、すり足といった基礎稽古を徹底的に繰り返しました。その中で師匠は、親方の突っ張りの才能を一瞬で見抜き、「おまえはそれでいけ。回しを取るな」と、その後の相撲スタイルを決定づけました。

 師匠の教えで特に心に深く刻まれているのは、「自分で限界を決めるな」という言葉です。二時間半かかる四股千回を終え、足が棒のようになっても、師匠は「千回がおまえの限界か」「手を抜いてやる千回に加えて、もう二百回集中してやればもっと強くなれる」と諭します。どんなに辛くても、自分の力で食事をし、トイレに行けるうちは、まだ力が残っている。人は無意識のうちに自分で自分の限界を決めてしまっているのだと気づかされました。
 また、「自分を信じろ。おまえより稽古しているやつはいない」という言葉は、圧倒的な稽古量をこなす自信の源となりました。この師の教えを胸に、親方は大関在位六十五場所という歴代一位タイの大記録を打ち立てます。怪我に苦しみ、引退を申し出た際にも、師匠はまだ頑張れるだろうと励まし、限界まで土俵に上がり続けることを後押ししました。その師匠が亡くなった時は、悲しみを通り越し、涙も出ないほどの放心状態だったといいます。
 しかし、生前から後継者として期待をかけられていた親方は、その思いに応えるために前を向き、師の精神を受け継いで部屋を率いる決意を固めました。師匠から学んだ最も大きなことは、「どの弟子にも愛を持って指導する」という姿勢です。日頃から一人ひとりを愛情深く見つめているからこそ、魂を揺さぶる言葉がかけられる。その指導者のあり方は、現在の親方の中に脈々と生き続けているのでしょう。

企業人事の視点から
 
この記事から、企業の人材育成や組織開発において応用できる、数多くの貴重な示唆を得ることができました。

 第一に、「個別最適化された育成」の重要性です。九重親方が弟子一人ひとりのレベルに合わせて目標を設定するように、企業も画一的な研修プログラムを見直し、社員個々の能力やキャリア志向に応じた育成プランを設計することが求められます。
 特に、1on1ミーティングなどを通じて、上司が部下の現状を正確に把握し、共に目標を設定するプロセスは、エンゲージメントと成長意欲を飛躍的に高めるでしょう。「楽しく真剣に」というスローガンは、社員が主体性を持って仕事に取り組むための心理的安全性や、挑戦を奨励する風土づくりのヒントとなります。

 第二に、マネジメントにおける「限界を引き出す」役割です。「自分で限界を決めるな」という師の教えは、管理職のコーチングのあり方を示唆しています。部下の可能性を信じ、安易な妥協を許さず、時にはストレッチな目標を課すことで、本人が気づいていない能力を引き出すことができます。
 これは、単なる叱咤激励ではなく、親方が弟子一人ひとりを愛情深く観察したように、部下への深い理解と信頼関係が基盤にあってこそ成り立つものです。日々のコミュニケーションを通じて部下の変化を捉え、的確なフィードバックを与えることが、部下の成長を加速させます。

 最後に、「覚悟」と「出会い」の価値です。親方の人生を変えた母の覚悟や師との出会いは、採用やメンター制度の重要性を物語っています。採用活動において、スキルや経歴だけでなく、候補者が持つ仕事への「覚悟」や「熱意」といったポテンシャルを見抜くことが、組織の未来を創る上で不可欠です。また、「この人のもとで働きたい」と思わせるような魅力的なリーダーとの出会いは、特に若手社員の定着と成長に絶大な影響を与えます。効果的なメンター制度を設計し、社員にとっての「師匠」との運命的な出会いを意図的に創出していくことは、人事部門の重要な使命といえるでしょう。


坂村真民先生に学んだこと 青山俊董さん(愛知専門尼僧堂堂頭) 西澤真美子さん(坂村真民先生ご息女)p52

 「念ずれば花ひらく」という言葉で知られる仏教詩人、坂村真民先生。その詩は、没後十数年が経った今でも、多くの人々の心に寄り添い、生きる希望を与え続けています。真民先生は、九十七年の生涯を通じて、数多くの苦難を乗り越え、それを詩作のエネルギーへと昇華させていきました。その人生の軌跡は、私たちに「出逢い」の大切さと、いかに生きるべきかの指針を示してくれているようです。

 真民先生の詩の世界の根底には、「天地の声を聞く」という姿勢がありました。お釈迦様が菩提樹の下で悟りを開かれたように、また二宮尊徳が「書かざる経」を読み解いたように、真民先生も万物の中に宿る悠久の働きを感じ取り、それを詩として表現していたのです。人間はとかく、自分中心の小さな世界に閉じこもり、自我の満足を追い求めがちです。しかし、真民先生はそうした煩悩から離れ、天地から与えられた生命をいかに輝かせるかという「願い」に生きた方でした。そのひたむきな姿勢が、人々の魂を揺さぶる詩となって結晶したのです。晩年に至った「大宇宙大和楽」という境地は、私たちを含む全ての生命が、互いに繋がり、生かし合っているという壮大な世界観そのものでした。

 このような境地に至るためには、「よき出逢い」が不可欠であると、対談では語られています。しかし、ただ待っているだけでは、よき師やよき教えには巡り会えません。大切なのは、自らが求める心、つまり「心のアンテナ」を立てておくことです。そして、そのアンテナは、悲しみや苦しみといった経験によってこそ、鋭く研ぎ澄まされるのです。真民先生が「苦難は神の愛」と詠んだように、人生の困難は、私たちをより深い学びへと導いてくれる授かりものなのかもしれません。

 青山老師ご自身も、人生の節目節目で素晴らしい出逢いに導かれてきました。中学の卒業式の前夜、わざわざ自転車で追いかけてきて出家を励ましてくれた社会科の先生。尼僧堂に入ってから師事した澤木興道老師。これらの出逢いは、青山老師が仏道を求めるという高いアンテナを立てていたからこそ、引き寄せられたものでした。

 真民先生もまた、「運命の軽車に乗る」という言葉を好み、よき出逢いを掴むための努力を怠りませんでした。その一つが、長年にわたって続けられた「行」です。毎朝午前零時に起床し、近くの川辺で地球に額をつけて祈りを捧げる。こうした日々の積み重ねが、天から降ってくる言葉をキャッチできる純粋な心身を創り上げていったのです。ご家族の前では求道者としての厳しい姿を見せることはなく、子供たち一人ひとりの個性を尊重し、静かに見守る優しい父親であったといいます。

 その生涯は、決して平坦なものではありませんでした。40代の頃には、膨大な経典を読み込んだ無理がたたり、失明寸前にまで追い込まれ、さらには内臓の病にも苦しめられました。生きる気力さえ失いかけた時、師と仰ぐ利根白泉先生から「何で生きようとしないのか」と一喝され、再び立ち上がる力を得ます。この壮絶な闘病経験があったからこそ、「病いがまた一つの世界をひらいてくれた」と、病にさえ感謝できる境地に至り、「桃咲く」という珠玉の詩が生まれました。この経験は、苦難が人をいかに成長させるかを雄弁に物語っています。

 真民先生の詩作の原点には、八歳で父を亡くし、女手一つで五人の子供を育て上げた母の存在がありました。貧しく、いじめにも遭うという苦しい少年時代、母がいつも念仏のように唱えていたのが「念ずれば花ひらく」という言葉でした。この母の深い愛情と、苦境の中にあっても子供たちの教育の重要性を信じ抜いた強い意志が、後の真民先生の礎を築いたことは間違いありません。

 さらに、尼僧の杉村春苔先生と、哲学者の森信三先生との出逢いが、真民先生の人生を大きく開花させます。春苔先生の助言で月刊個人詩誌『詩国』を創刊し、森先生の助言で『自選坂村真民詩集』を刊行。これらの出逢いがなければ、真民先生の詩がこれほど多くの人々に届くことはなかったかもしれません。真の出逢いは、自己を変え、ひいては世界をも変える力を持っているのです。

 「一すじに生きたる人の尊さ」。この詩は、仏道一筋に歩んでこられた青山老師の心に深く響くと言います。そして、真民先生自身もまた、詩作という道を命懸けで一筋に歩み続けた方でした。それはまるで、経典を求めて広大な砂漠を渡った玄奘三蔵の姿にも重なります。果てしなく遠い道を一歩一歩進み、そうして得たものを、名もなき市井の人々のために持ち帰ってくる。その繰り返しが、真民先生の生涯でした。

 亡くなる二週間前、色紙に最期に書いた文字は「念」でした。この一文字には、生涯をかけて道を求め続けた求道者としての思いと、人々の幸せと世界の平和を祈り続けた詩人としての思いの、すべてが込められていたのではないでしょうか。出逢いは、一度きりの偶然で終わらせるのではなく、何度も巡り、縁として育んでいくことで、人は初めて変わることができる。真民先生の詩と生涯は、そのことを静かに、しかし力強く私たちに教えてくれています。

【人事視点】坂村真民先生の生き方から学ぶ組織と個人の成長
 
坂村真民先生の生き方や詩の世界は、企業で働く人々と組織の成長を考える上で、多くの示唆を与えてくれます。

 第一に、「レジリエンス(逆境力)」の重要性です。真民先生は、父の死、自身の病といった数々の苦難を、単なるマイナスの出来事として捉えるのではなく、「神の愛」「新しい世界をひらいてくれた」と肯定的に受け止め、創作のエネルギーへと転換させました。この姿勢は、変化が激しく予測困難な現代において、社員一人ひとりに求められる重要な資質です。困難なプロジェクトや失敗に直面した際に、それを自己成長の機会と捉え、次への糧とするマインドセットをいかに育むか。真民先生のような生き方を研修などで紹介し、逆境に対する捉え方を学ぶ機会を提供することは、社員の精神的な強さを育む上で有効でしょう。

 第二に、「よき出逢い」を創出する仕組みづくりです。真民先生も青山老師も、人生を決定づけるような師や友との出逢いによって、その道を拓いていきました。企業においても、社員の成長は「よき上司」「よき先輩」「よき同僚」との出逢いに大きく左右されます。これを個人の偶然に任せるのではなく、メンター制度の導入や、部門を超えたナナメの関係を築くための社内イベントなどを通じて、意図的に「よき出逢い」の機会を創出することが人事の役割として重要です。また、「心のアンテナ」を立てられるよう、内省の機会やキャリアデザイン研修を提供し、社員が自らの成長課題を意識できるように支援することも不可欠です。

 最後に、「一すじの道」を支える理念の浸透です。真民先生が詩作という道を一筋に歩んだように、社員が自社の理念やビジョンに深く共感し、自身の仕事に誇りと情熱を持って「一すじに」取り組むことができれば、組織は計り知れない力を発揮します。そのためには、経営層が自らの言葉で繰り返し理念を語り、その言葉と行動を一貫させることが求められます。母が唱えた「念ずれば花ひらく」が真民先生の心の支えとなったように、社員一人ひとりの心に響き、拠り所となるような普遍的な価値観を組織全体で共有することが、持続的な成長の鍵となるのではないでしょうか。

終わりなき旅路をゆく——出逢いと挑戦の軌跡 川島文夫さん(PEEK-A-BOO代表) 三國清三さん(ソシエテミクニ代表)p62

 今回は、美容の世界と料理の世界、それぞれの道を極めてきた二人の巨匠、美容師の川島文夫氏と料理人の三國清三氏の対談から、仕事や人生における普遍的な流儀を紐解いていきたいと思います。三十五年以上にわたり親交を深めてきたお二人の言葉には、プロフェッショナルとして、そして一人の人間として成長し続けるためのヒントが詰まっています。

 お二人の出会いは、ある広告撮影がきっかけでした。当時、美容室に馴染みのなかった三國氏が、知人を通じて川島氏にヘアカットを依頼したことから、その関係は始まりました。川島氏のサロンを初めて訪れた三國氏に、川島氏は「二週間に一度来るなら担当する」と告げます。その理由は、「いつ誰と会っても髪の長さが一緒になる。それが格好いいんだ」というものでした。
 その言葉に感銘を受けた三國氏は、以来三十五年以上、二週間に一度のペースで通い続けているそうです。一方の川島氏も、三國氏の料理に衝撃を受け、特にデザートのチョコレートに込められた「最後まで一切手を抜かない」という料理人としての哲学に深く感銘を受けました。互いの仕事に対する真摯な姿勢と究極を求める心意気に共鳴し、二人の交流は深く、長く続いていくことになります。

 喜寿を迎えてもなお、川島氏は週に四日サロンに立ち、一日十五人から二十人のお客様を担当し続けています。サロンワークこそが自身の原点であると語るその姿は、生涯現役を貫く覚悟の表れです。彼は、スタッフが楽しく働ける環境が、お客様の笑顔に繋がると考えています。技術は見様見真似で身につくが、仕事への「ハート」は教えなければ伝わらない。だからこそ、スタッフ一人ひとりと向き合うことを大切にしています。
 また、三國氏のレストランでスタッフが着ていたエプロンを見て「格好いい」と感じ、すぐに自身のサロンでも取り入れるなど、常に素直に学ぶ姿勢を持ち続けています。その根底には、「すべての人を平等に綺麗にしたい」という、分け隔てのない純粋な想いがあります。

 一方、七十一歳になった三國氏は、三十八年間オーナーシェフを務めた自身の店を閉店し、この九月にカウンター八席のみの新たな料理店「三國」を開くという大きな挑戦に踏み出します。そのコンセプトは「スポンタネ」、フランス語で「ありのまま」を意味する即興料理です。メニューはなく、その日に仕入れた最高の食材を前にお客様と対話しながら料理を決めていく。それは、自分自身の原点に立ち返り、ただひたすらに食材とお客様に向き合いたいという強い決意の表れです。「完成したものは壊さなければ次の展開はない」と語る三國氏。現状に安住することなく、常に最高を飛び越えた先にある「究極」を目指し続ける探求心こそが、彼を突き動かす原動力なのです。

 お二人の対談で特に印象的なのは、若き日の「出逢い」がその後の人生を決定づけている点です。三國氏は、中学卒業後に料理人を志し、コネなしで札幌グランドホテルに直談判してキャリアをスタートさせました。そこで彼が自ら進んで始めたのが、誰もが嫌がる洗い場の仕事でした。宴会後の大量の皿や鍋を毎日黙々と洗い続けた結果、そのひたむきな姿勢が認められ、異例の速さで正社員に登用されます。その後、日本一の料理人である帝国ホテルの村上信夫氏に会うため東京へ。そこでも洗い場のパートから始まり、人生で初めての挫折を味わいますが、「ホテルの洗い場を全部やらせてほしい」と宣言し、さらに仕事に打ち込みます。その姿を見ていた村上氏に推薦され、スイスの日本大使館料理長への道が拓けました。さらに、スイスでは“厨房のモーツァルト”と称されるフレディ・ジラルデ氏にアポイントなしで押しかけ、ここでも洗い場から信頼を勝ち取り、師弟関係を結びます。人の嫌がる雑用を率先して行うことが、常に新たな道を切り拓くきっかけとなったのです。

 この「人が嫌がることこそ、道を拓く」という哲学は、川島氏にも共通しています。高校を中退し、美容師の道へ進んだ川島氏は、海外への強い憧れからカナダへ渡ります。しかし、安定した生活にどこか物足りなさを感じていた時、ヴィダル・サスーンの革新的な技術に衝撃を受け、全てのキャリアを捨ててロンドンへ渡ることを決意します。世界中から才能が集まるヴィダル・サスーンで、不器用だった彼が認められるために心懸けたのも、やはり「人が嫌がること」でした。他のスタッフが帰った後、全員分の道具をピカピカに磨き、誰もがやりたがらない新規客の仕事も喜んで引き受けました。昼食もとらずに無我夢中で働き、努力を重ねた結果、わずか四年で東洋人初となるアーティスティック・ディレクターに就任。そして、世界の美容史に残る「BOX BOB」を生み出すに至ります。お二人とも、輝かしいキャリアの陰には、地道で泥臭い努力の積み重ねと、それを厭わない真摯な姿勢があったのです。

 独立後も、その姿勢は揺るぎません。三國氏は、専門家から「客が来るはずない」と言われた住宅街の奥まった洋館を直感で選び、「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業します。開業当初は苦戦したものの、環境のせいにせず、ひたすら料理の腕を磨き続けました。その哲学は、漁師だった父の「大波が来たら逃げるな。真っ正面からぶつかっていけ」という教えに根差しています。川島氏もまた、まだ発展途上だった表参道に「PEEK-A-BOO」を開店。当初は客足が伸び悩みましたが、スタッフの育成に心血を注ぎ、技術職と経営職の役割分担を明確にすることで、組織を大きな成功へと導きました。

 対談の最後で、お二人は人間性の重要性を語ります。伸びる人材は、要領の良さよりも、カメのようにコツコツと努力を続ける誠実さを持っていると口を揃えます。「いい美容師である前に、いい人間でなければならない」と語る川島氏。そして三國氏は、「嘘をつかない」「約束を守る」といった基本を愚直に徹底することが、よき出逢いを引き寄せると言います。一度リスペクトした人とは生涯付き合っていきたい、だからこそ生涯現役なのだと。その言葉は、技術や才能だけではない、人としてのあり方が、豊かな仕事と人生を築く上で最も重要であることを教えてくれます。限界を自分で決めず、生涯をかけて道を究めようとする二人の巨匠の姿は、私たちに「働くこと」の本当の意味を問いかけているようです。

【人事視点】巨匠たちの流儀を、いかに組織の力に変えるか
 
今回の川島、三國両氏の対談は、企業の人事戦略や人材育成を考える上で、非常に多くの示唆を与えてくれます。特に注目すべきは、「雑用の価値の再定義」と「師弟関係の本質」と感じました。

 まず、お二人に共通しているのは、キャリアの黎明期において「人が嫌がる雑用」を率先して引き受け、そこから信頼とチャンスを掴んできた点です。現代の企業では、効率化や早期戦力化が重視されるあまり、新入社員や若手社員に地道な下積みの重要性を伝える機会が減っているかもしれません。しかし、彼らの経験は、一見すると本質的でない業務の中にこそ、組織の力学を学び、周囲の信頼を勝ち取り、そして何より仕事に対する誠実な姿勢を涵養する機会が眠っていることを教えてくれます。人事として、単なる作業としてではなく、成長機会として「雑用」を意味づけし、そのプロセスを評価する仕組みや文化を醸成することが、長期的に見て個人の、そして組織の土台を強くするのではないでしょうか。

 次に、お二人にとって人生の転機となった「師」との出会いです。村上信夫氏やヴィダル・サスーン氏といった偉大な師から、技術だけでなく、仕事への哲学や生き様そのものを吸収し、自らを磨き上げてきました。
 これは、現代の企業におけるメンター制度のあり方を考えさせます。形式的な面談や目標管理だけでなく、若手社員が心から「この人のようになりたい」と憧れ、背中を追いかけられるような、人間的な繋がりを育む環境が不可欠です。それは、トップダウンで与えられるものではなく、リーダーや先輩社員自らが、川島氏や三國氏のように、常に挑戦し、学び、そして何より人間性を磨き続ける姿勢を示すことで、自然と醸成されていくものでしょう。

 最後に、70歳を過ぎてもなお挑戦を続けるお二人の姿は、企業のリーダーシップの理想像を示唆しています。リーダー自らが現状に甘んじることなく学び、変化し続ける背中は、何よりも雄弁に従業員のエンゲージメントを高め、組織全体に挑戦する文化を根付かせます。人事としては、短期的な成果だけでなく、「カメ」のように粘り強く努力を続ける人材が正当に評価され、成長できるような人事制度を構築すること、そしてリーダー層が常に自己変革を続けられるような学びの機会を提供することが、持続的な組織成長の鍵となるのでは、と強く感じたところです。



いいなと思ったら応援しよう!